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自我という概念は あり得ない

 自我という概念は じっさいに現実においてそれとしてまとまった実態としては あり得ない。ですよね?  あっても わがままだとか我執だとかの心理的に強固な気持ちだったり 或る種の条件反射のごとく動き出す精神の意志としてのようなハタラキだったりするのみであって けっきょくたとえば《自我が形成される》といったような意味合いの実態はない。  超自我とエス(リビドー)とを取り持つというような自我は けっきょくワタシでありその理性ないし意志だと考えられます。  自我は 死語もしくは幻想ではないでしょうか?

みんなの回答

回答No.8
回答No.7

こんばんは。 中国語の《自》の意味を調べてみたのですが、 ───────── 自 1 付属形態素:みずから、自分で 2 副詞:おのずから、当然、もちろん 自  前置詞:…より、…から http://cjjc.weblio.jp/content/%E8%87%AA ───────── といった意味のようです。 英語ですと、 自発的な、spontaneous とか、 起点を表す、from といった意味になるらしいですね。 《自我》の《自》をこの意味で考えると、 あながち、悪い言葉ではないのかもしれません。 明治時代の人は、 現代人と違って、 漢字そのもののもつ原意をよく知っていたようなので、 こちらの意味でつけたのかもしれませんね。 とするならば、 仏教語の《自性》というのは、まさしく、適訳なんだ。 《性から》現象が生まれる、 《性》が自己展開して現象が生まれる、 ということを、《自性》という《術語》であらわしているのか。 すげえな、仏典の翻訳者というのは。 と感心しております。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ○ 自  ☆ は 鼻のことではないのですか? つまり鼻で 自己を表わした。  ○ 自我  ☆ という用語は 意外とすわりがよいようではあります。でも 自己や自分つまりわたしや己れという語を差し置いて遣おうとする言われも気遣いもないのと違いますか?  《わたし》とは 別の意味が生じているからです。我執とか我がつよいというときの我のことだとか あるいは何だか社会的な橋頭堡というような意味までもあるのではないですか?  これは 使い勝手がわるいはずです。文学用語としてなら まだ入り込む余地があるのかも知れません。

  • caciow
  • ベストアンサー率15% (17/107)
回答No.6

あなたがあり得ないと思うならないのでしょう。信じたいものを信じれば良いと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 かちおうさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  同意なさったという意味ですね。

回答No.5

続けて。。。 ウィキペディアの自我の記述を見ると、 「Das Ich」が自我のようです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%88%91 やっぱ、そうだよな。 でなければ、 自我は「Es」にならない。 でも、この「Es」は、何だか分からない、正体不明の意味の「Es」の意味を重ね持っているのでしょうね。 「Es」は潜在意識のことをですから。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  精神分析の用語にかんしては こうです。  ○ エスと超自我と自我 これらはすべてをひっくるめて 《わたし》である。  と。エスの衝動を わたしが受け留め それをもし抑制するとしたなら 仮りに超自我がそのハタラキをおこなったという言い方が出来たとしても それをおこなっているのは わたしです。  いや エスと超自我とのあいだを取り持っているのは 自我であると仮りに言えたとしても その自我は わたしのことです。強いて言えば わたしのそれとしての作用をおこなう部分です。いちいち自我と言う必要はさらさらない。こう見ます。  エスは 英語では イットですね。これは 《それ〔が〕》と訳されやすいのですが 《あれ》とすると分かりやすいと言われています。  つまり 正体の知れない何かのチカラが自分に加わったときなどに あれぇーっと言いますが このように得たいの知れない衝動についても《あれ》と言っているのでしょう。  つまりそれが あとで自分の衝動だとわかれば 《わたし》の一部だと認識します。   リビドーとか渇愛とか 特定の言葉で 言ってもよいでしょうが それらもやはり わたしの一部です。わたしのものです。

回答No.4

こんばんは。 「Das Ich」って《本質》なんでしょうか。。。 「Das Ich」の《Ich》が普通名詞、もしくは、抽象名詞のようなものであるとするならば、 これは、個別性を離れた、普遍性や、普遍的な意味を持っていなければなりませんよね~。 ───────── 本質 本質(ほんしつ、希: ουσια (ousia), 羅: substantia / essentia)とは、あるものがそのものであると云いうるために最低限持たなければいけない性質をいう。もしくはそうした性質からなる理念的な実体をいう場合もある。 概要 或る存在を必然的にその存在として規定する内実がその本質である。伝統的には、「それは何であるか」という問いに対する答え(「何性」)として与えられるもの。 それに対して、ものに付け加わったり失われたりして、そのものが、そのものであることには関わらない(必然性のない)付帯的な性質を、偶有(性)という。 一般的には広義の使われ方として、「見せかけ」や「表面上の事柄」に対する概念としての「正体」や「真髄」など「ものの奥底にある表面的でない、中心的な、本当の「性質」の意味で使われる。 対義語は現象。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E8%B3%AA ───────── そうではなく、 「Das Ich」は、「Da-sein・だ~ざいん:現存在」??? ネコ的には、 「Das Ich」ではなく、 「Ich」が実存的な存在であるように思えるのですが・・・。 どっちなんでゲショ・・・。 ドイツ観念論とその系譜に強い方、 おバカなネコに教えてケロ!! 英語的な感覚ですと、 「Das Ich」は、抽象ですよね~。 具象の「Ich」を捨象して残った何かが、「Das Ich」でなければならない、 ように思うのですが・・・。 それが《わたくし性》と呼ぶべきものになる・・・。 誰か、 教えてケロ!!

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~  「Das Ich」の《Ich》が普通名詞、もしくは、抽象名詞のようなものであるとするならば、  これは、個別性を離れた、普遍性や、普遍的な意味を持っていなければなりませんよね~。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いや そんな大変なことは何もないと思います。  強いて言えば 《わたくしなるもの》であって けっきょく自称の言葉ではなく 自称するその主体のこと・その存在のことを《わたし》として表わしているだけだと思います。  わたしの《自我》が わたしと自称するわけではなく そうではなく やはりわたしがそのまま わたしはとかわたしがとかと自称する。よって 自我という言葉をどこかに・何かに当てはめる余地はないと考えられます。  あるいは 《わたし性》とか《わたしであること》といった意味をも持つように思います。このときそう言えば《自我》が用いられるかも分かりません。つまり その場合の《自我》とは 逆に言って 《わたしであるそのこと》を言っているに過ぎない。となります。わざわざ言いかえているということになると思われます。  《自己自身》ということであって 何か文学的な意味合いはないはずです。  つまり 自己ないしおのれ と言えば済みます。  あなたや かれは あなたであること・かれであることとは必ずしも言わず そうではなく やはり《あなたの ワタシ》とか《かれの ワタシ》というふうに《自己自身》のことを言うはずです。  このとき《あなたの自我・かれの自我》という言い方そのものはあり得ますが おそらく意味が変わってしまっていると思います。  社会の中で自己を強く持ってその誇りをとうとび ときには我執を発揮するというような《自己自身》 これを《自我》と言うばあいがあるかと思います。  つまりそうなると 《 das Ich 》とは別の意味合いを帯びるものと思われます。  《実存・現存在》とは べつの概念だと見ます。  

回答No.3

こんにちは。 わたしは、自我という言葉の大本である「Das Ich」の感覚がわかりません。 不定冠詞ではなく、定冠詞「Das」をつける感覚が理解できません。 これは、「わたし」の一般化、客観化、客体化なのでしょうか? 「Ich」をただの単語と見れば、確かに一つなのでわからないこともないのですが、そんなことで「Das」がついているわけではないでしょうから。 でも、 実際にあるのは、不定冠詞「ein」で語られる一人一人異なる「Ich」。 だけど、 それを客体化したから「Das」になるのだ、というのはわからんでもないのですが、 この「Das Ich」は死んだ「Ich」でしょう。 没個性なのですから。 そしてですね、 こうした論法は、 日本語のように一人称代名詞の個数が多い言語には当てはまらない。 「わ」 「あ」 「わたし」 「わたくし」 「おら」 「おいら」 「自分」 ……。 しかも、日本語の用法として、 一人称代名詞が二人称の意味で用いられることがある!! 「《わ》は、どう思う?」 一人称代名詞が、二人称の意味で使われるのは、多分に蔑みの意味が入っているのですけれども・・・。 この時の《わ》が、ひょっとしたら、「Das Ich」の感覚や意味に近いのかもしれませんが・・・。 で、 話は飛んじゃいますが、 《自我》は訳語として適切なのではないですか? 我=アートマン、仮設のアートマン、煩悩の根源としての《わたし》などなど、 奥深いものがあるように感じられます。 この時の《我》は、「わたし」の意味ではなく、 フロイトのいう「Es」や「Id」の意味ですよ。 ですから、 《我(が)》でもいい、という気もするのですが。。。 《我》と《わ》は、egoとIchと同じ関係、外来語の一人称を用いて特別な意味を持たせている、というのは同じなので。 でも、 仏教的《我》と区別するために、《自我》としたんじゃないですか。

bragelonne
質問者

お礼

 こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ◇ 〔* Ich (イッヒ)に〕 定冠詞「Das」をつける感覚が理解できません。  ☆ わたしも分かるわけではなく それでも思うことは 代名詞のイッヒを 普通名詞にしている。のではないのでしょうか?  反面の資料を挙げるだけですが:  ◇ 日本語のように一人称代名詞の個数が多い言語  ☆ つまり それほど異種が多いとも思えません。  1. わ(我・吾)   ・わ‐れ(我・吾): ‐レは 自然生成相=親愛〔相〕称。        (自然生成相は ‐ルとして 動詞をつくる)。   ・わ‐つ‐あく‐し > わたくし:ツ=属格(の)        アク=推測で 南島語のワレ        シ=方向相〔ヒ(日)‐ムカ(向か)‐シ⇒ひんがし=東〕          →強め相〔だれ‐シ‐も / 果て‐シ‐ない〕          →そのもの相〔それ‐が‐シ 〕   ・あ / あーれ(吾):ワとの子音交替による異種形   ・わたくし > (一音節脱落)わたし      > (発音しやすいように音韻変化)わちし・わっし・わし・      > わたい・わたぁぇ・わて・わい・あたい・あちし  2. おの(己)∽ あな(あな‐がち)   ・おの‐れ > おれ   ・おのれ‐ら:‐ラも 親愛称       > おれら > おいら > おら  3. そのほか漢字語など。  ☆ ワレ(自称)とオノレ(再帰称)とは 意味が違います。  ◇ 一人称代名詞が二人称の意味で用いられることがある!!   ☆ やはり反面の資料ですが:  かしこまった対称(第二人称)に 三人称複数形を持ってくる(独語 sie > Sie )ことなどがあります。《あなた》と同じ用例ですが。   ◇ 一人称代名詞が、二人称の意味で使われるのは、多分に蔑みの意味が入っているのですけれども・・・。  ☆ そのように言い慣わして来たということでしょうが その起源は おそらく自他未分化〔ないし分化しつつなおも一体感を持ったそ〕の気持ちからだと思われます。言葉に罪はない。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~   《自我》は訳語として適切なのではないですか?  我=アートマン、仮設のアートマン、煩悩の根源としての《わたし》などなど、  ~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ アートマンは 経験事象にあてては 《おのれ・自己》でしょうし 非経験の場にあてはめては 《霊我》でしょう。神の霊として《ブッダター》と同じわけであり これを《仏我》とは言わないように 《我》はむしろ避けて用いる策もあるように考えます。  《わたし》は 意志行為のプラス・マイナスまたは良い悪いのすべての内容を 思い・たくらむその動力源なのでしょう。   いちいち《自我》という必要はないように思います。  ◇ この時の《我》は、「わたし」の意味ではなく、 / フロイトのいう「Es」や「Id」の意味ですよ。  ☆ ですから 無明や煩悩を起こす動力源としても《わたし》は・その意志は はたらきます。  ◇ 仏教的《我》と区別するために、《自我》としたんじゃないですか。  ☆ 《仏教的〈我〉》とは 何ですか?  ひとつには ふつうの自称(一人称)のワタシでしょうし 尋常ではない非思考の庭なるブッダターとしては 神の霊のことではないですか? そのほかに何もないと思うのですが。  

回答No.2

自我の根源は、無=無限の潜在としての認識可能性 の時系列化としての自我仮設(時間的流れ(経験)= 時間軸)と時空仮説(空間的広がり(予測)=空間軸) の相補分化(階層現象表面的定性化による非光速性 =超光速(過去)と光速下(未来)の派生)に由来する。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  質問です。  (1)  ★ 無=無限の潜在としての認識可能性の時系列化  ☆ 《時系列化》されうるものであれば そのものは とうぜん《経験事象》ですよね。    《そのもの》というのは 《認識可能性》のことですか?  その認識可能性は  ★ 無=無限の潜在として  ☆ あると言う。    では  ★ 無=無限 の潜在  ☆ とは何を言うのか?  つまりここで問うべきは  (1-a ) この無=無限は 経験事象としてのそれのことなのか?  です。と同時に  (1-b ) 無が どうして 無限 とひとしいのか?  です。なぜなら 無限は 無ではありません。  (2)  ★ 自我仮設(時間的流れ(経験)=時間軸)と 時空仮説(空間的広がり(予測)=空間軸) の相補分化  ☆ 端的に反問します。  (2-a ) 時間と空間とは わざわざ《相互補完の関係》にあると言う必要はなく 一体であるのではないか?  (2-b ) その時空間とそして人間一人ひとりの《わたし》とは 世界の成り立ちとして互いに通底しているはずではないか?     (2-c ) つまり 自然環界とも社会なる人間関係かつ行為関係なる世界とも ひとりの人間つまりわたしは 一体であるはずではないか?  (2-d ) つまり 《一体である》という規定が乱暴だとすれば それでも《分化》しているのではなく それらの三者すなわち《わたしと 自然と 社会と》は 互いにいちいち相互補完される必要などはなく それぞれそのところをすでに初めに得ているのではないだろうか?  (2-e ) 特に人間つまり《わたし》は すでに《一体なる時空間》と互いに通底しており――つまりその存在のあり方に基礎的基本的な違和は何らなく―― ひとりの存在が すでに社会的に独立していると考えられると同時に社会的に関係しあっている。のではないか?  (2-f ) つまり たとえばひとは《孤独》である。泣こうが笑おうが根本的に孤独である。つまり その意味で独立している。と同時に やはり根本的に 互いに関係性を絶対的に持つ。なぜなら 《孤独》とは 互いの《孤独関係》であるから。  (2-g ) これらの事由により 《自我仮設と時空仮説との相補分化》という命題は 飲み込めません。相補する以前に 互いに違和はない。存在関係としてなじみあっている。(違和をもたらすのは 人間の自由なまた勝手な意志行為の結果である)。  (3)  ★ (階層現象表面的定性化による非光速性=超光速(過去)と光速下(未来)の派生)  ☆   (3-a ) このことすなわち《過去および未来》は そのように《非光速性=超光速 と 光速下 の派生》として成るとしても そうだとしても あくまで時空間に《独立存在であると同時に関係存在である》かたちで生きるワタシにおいて発生するのであって 《階層現象》の表面であるかどうかにかからわず 現象しているのではないか?  (3-b ) 階層現象を さかのぼって分析する必要はないのではないか?  (3-c ) 言いかえると 階層現象をさかのぼって世界を認識することによって人間という現象が分かるのではなく・ましてや成るのではなく そうではなく 人間という現象そのものについて捉えた認識(およびすでに生きているということ)から出発して 時間や空間 あるいは 過去と未来が 抽出されて来る。のではないか?  (4)  ここに 《自我》という概念を用いて認識しなければならないことは 何もない。のではないか?  《わたし・自己・自分・おのれ》で済む。

回答No.1

今晩は bragelonne に名指しで誹謗中傷された ukiyotonnbo です これは 当たり前の話しでしょ。 おまえのかあちゃんのデベソ というときの おまえなんて幻想なんだから四の五の言うおまえがおかしい。

bragelonne
質問者

お礼

 えっ? えええっ?  まづは ご回答をありがとうございます。  逆切れで往生していますが 回答といいますと どうなりましょうか。  《おまえ》が 幻想なのですか?  わけ分からんなぁ。もういちど説明できますか?

bragelonne
質問者

補足

 お礼欄をおぎないます。  ★ これは 当たり前の話しでしょ。  ☆ つまり 趣旨説明欄のたたき台に賛成ということでしょうか?  それなら ありがとうございます。