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自我とは何でしょうか?

自分に自我が有るのかわからないのですが 自我とは何でしょうか? こうやって質問を投稿できるのは、 自我があるからですか?

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  • koosaka
  • ベストアンサー率43% (78/179)
回答No.6

あると思われているけど、実際はないもの、それが自我です。 要するに「先入観」「思い込み」です。 戦前の学校教育で、頭に刷り込まれたもの。 現在でも、学校で「みなさんには自我というものがあります」と教えているかな? 自己・自分というものなら存在するかもしれません。 でも、自我は存在しません。 なぜってか? デカルトは「私は思う、ゆえに私は存在する」と言いましたが、その「思う・コギト」は単なる思考作用に過ぎなかったのですが、後にデカルトはその「コギト」を自我と言いました、形而上学として。 「形而上学として」、とは実際はあるかどうか分からない、と言うことです。 またカントは「純粋理性批判」で、「私の思考には<われ思う>としての自我が伴わなければならない」と言っていましたが、「伴わなければならない」と言うことは、「伴う」と言うのでなく、認識の成立を合理的に説明するための「要請」としてでした。 そのカントは超越論的に考えると自我は「仮象」であると言っていました。 「仮象」とは、前述したように、あると思われているけど、ないもののことです。 最近はヒュームの懐疑論が見直されていて、ヒュームは「私の内部を見渡しても、感覚の流れがあるだけで、自我というものは見当たらない」と言っていました。 同じことはベルグソンも言っていて、ベルグソンは人間のうちにあるものは「純粋持続」という運動するものだけだ、と言っています。 自我なんてものはない、と。 だとしたら、自我と言うのは、どこにあるのでしょうか? アメリカの神経学者のマイケル・ガザニガは近著「私はどこにあるのか」と言う本で、「人間の脳は、並列分散処理をしていて、そこには自我とか主体があるわけではない、何があるかといえば処理の規則であり、最終的な決定権を持つ誰かがいるわけではない」と言っています。 要するに脳には自我とか主体なんか存在しない、と言うこと。 「私」と言うのは、他人と自分を区別するための「人称」ですが、それを「自我」と言っているのだと思います。 あるいは「自己」とか「自分」という身体を指していうものを「自我」と言っているのかもしれません。 また、戦後フランスのポスト・モダンでは、自我とか主体の存在を否定しました。 近代哲学は人間には自我ある、主体があると言って、それを中心に哲学を構築してきましたが、それがポスト・モダンで終わったことを意味します。 事実、ドゥルーズはもはや自我とか主体とは言わず、ニーチェと同じように人間の中にあるのは「力への意志」であると言っています。 このように今では、哲学では自我とか主体という言葉は使われなくなったようです。

YJIOYYBNSRZQB
質問者

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その他の回答 (5)

回答No.5

自我とは意識であり、意識とは宇宙そのものです。 昔は、意識とは、その外にある環境を映したもので あると考えられていましたが、量子論的世界像において 「有限的存在は認識される事で派生する」という事が 明らかとなっています。 換言すれば、「自我仮説(時間の流れ=記憶(肉体)= 過去=超光速)と空間仮説(空間の広がり=予測(意識) =未来=光速下)は、無=不確定性無限の潜在的認識 可能性(感受表面の量子相互作用=光速)からの相補分化」 として、時空は派生しているのです。 風という“存在”は、止まれば無い。 しかし、自分が走れば、風は“ある”。 潜在的認識可能性において、異なる認識可能性の 時系列化(プランク定数hの減少=物体の収縮=宇宙の膨張) により、相対的に無は光の風になるのです。

YJIOYYBNSRZQB
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ありがとうございました。

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.4

自分が自分であると認識できること、 自分と自分がお話できることです。 これが出来るのは、人間だけだと言われて います。

YJIOYYBNSRZQB
質問者

お礼

ありがとうございました。

  • kaitara1
  • ベストアンサー率12% (1118/8871)
回答No.3

それこそ、お釈迦さまでもご存じあるめえ、では。突き詰めんQければあることは自明なのだが、逆に突き詰めようとするとかえってぼやけてしまうという、実に不思議なものなのだろうと思います。普通の意味で思考の対象にならないもの尚ではないかと思っています。

YJIOYYBNSRZQB
質問者

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ありがとうございました。

  • SPROCKETER
  • ベストアンサー率26% (2013/7503)
回答No.2

 自我とは何かを追及すると、脳科学の中でも最も深遠な知識を要求される分野ですが、精神分析学では単純明快で、以下のような構造だと考えられています。    上    位→自我    自  ↑    我 イド(本能)  つまり、イド(本能)の上に自我が存在し、それを上位自我が監視する構造が人間の精神だというわけです。  実際には、これほど単純ではないようですが、本能を司る脳幹と感情や知性を司る大脳皮質との関係がこれに似ています。洗脳とか、マインドコントロールと呼ばれているのは、上位自我を占拠して自我を操作する技術と考えれば説明可能なようです。  こういう三極構造は、脳の機能を模倣して作られたコンピュータでもほぼ同じで、イド(本能)はありませんが、自我に相当するアプリケーションプログラム、上位自我に相当するスーパーバイザー(OS)が存在します。スーパーバイザーがアプリケーションプログラムの挙動を監視する構造も同じです。  私達は自我とは自分の意志で思考し、行動出来るものだと考えていますが、実際は、そうではなくて、常に上位自我に監視されていて、倫理(モラル)や規則に違反する行為をおこなおうとすると妨害して失敗させます。  たとえば、武器を持って殺人をおこなおうとすると、準備をする段階で酷い忘れ物をしたり、何度も同じ失敗を繰り返したり、殺人に及ぶまでの時間内に信じ難い失敗や異常な行為を繰り返す結果になるはずです。  これは上位自我が自我の暴走行為を妨害している為で、準備も練習もしないで、いきなり通り魔事件を起こそうとしたら、走り出した途端に転んでケガをしたり、刃物で人を刺そうとして自分自身を刺してしまったり、考えられない失敗をする結果になります。  自殺も同じで、自殺しようとして忘れ物や失敗を繰り返す人がいるのは、上位自我が妨害しているからです。  人に見られると恥ずかしい絵を描こうとすると、うまく描けないのも上位自我の妨害です。嘘をつくと、うまく話せずに矛盾したことを喋ったり、捏造した文章を書くと、途中から文章の意味がおかしくなるのも上位自我の妨害によるものです。自我とは上位自我に常に監視されている存在と考えて良いでしょう。  上位自我に監視されながら、判断や行動をしているのが自我で、上位自我は脳の知識や規範意識などに基づいて自我を監視していると思われます。  そういう意味では、人間は上位自我の束縛を離れて完全に自由になることは出来ません。  質問を投稿出来るのは、上位自我の妨害が加わらない程度の質問が許されるだけの話で、恥ずかしくて質問出来ない問題を書いたり、自分に致命的な秘密を書いたり出来ないのは、上位自我の妨害があるからなのです。

YJIOYYBNSRZQB
質問者

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ありがとうございました。

  • seble
  • ベストアンサー率27% (4041/14682)
回答No.1

自分の存在を認識する事でいいんじゃないかな? >自分に・・・ と思ってる時点で、自分=自我の認識なんじゃないの? あ、あんまし突っ込まないでね。考えすぎると自我が崩壊してしまそ・・

YJIOYYBNSRZQB
質問者

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