• 締切済み

なぜ、釈迦はブッダと呼ばれるのでしょうか?

hokekyou333の回答

回答No.15

今紙数を全部使って書いたばかりの回答が「不具合の発生」ということで全部消えてしまいました^^。疲れていますので笑いごとじゃないですが、ここはめげていられないところです。再度書かせていただきます。 仏教を信じる者の一人からの回答だからです。 じつは、生業の設備業は大変忙しく、昨晩も突貫工事、けだし、だからこそ、今日は普段よりも早く帰宅でき(一時間ほどですが)やっと、こちらの回答を書き始めることが出来たという形なのです。(以前から書きたい気持ちでいっぱいだったのです) この回答の情熱はご理解ください。 宜しくお願いいたします。 》仏教関係の教義や真理は、調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません.《 とありますが、そのへんは、仏教思想の歴史を考えれば当然のこととも言えます。 以下のあたりは、すでにネットサーフィンにて知っておられるかもしれませんが、まずこのへんを再度考察されてみてください。 ブッダの死後、100年後から記述が始まり、それからさらに数百年後までの間の仏教思想を「「原始仏教」」として、その後その原始仏教の解釈の世界に異議を唱える「「大乗仏教」」が「ブッダの根本思想はかくなるもの」と思想展開を始めた という大きな「「2つの流れ」」があり、 「原始仏教」≪大乗仏教からは「小乗仏教」と皮肉られている》は、スリランカに伝わり、それがミャンマー、カンボジアなどのインドネシア半島へと伝わって行った形になっていて、 一方の「大乗仏教」の方は、中国西方のガンダーラ地方、さらには昔は桃源郷で今は戦争の嵐に巻き込まれてしまったバーミヤンのあたりにまで伝えられ、そこからシルクロードを一気に韓国、そして日本へと伝わってきたのが、いわゆる「仏教伝来」の歴史の形となっている というのが仏教思想の大雑把な歴史の世界の全体像なのですが、 このうちの「原始仏教」の方が、最初に記述された思想ですので、もともとのブッダの言動をより正確に記述されているとも考えられるわけですが、、記述の面でも必ずしもそうとは言えず、こちらの記述の世界は、厳格ではありつつも、どんどん書き換えられてもいった記述世界だったことが、今では(明治以後の文献学などの発達による歴史認識の深まりから)解ってきているとされています。 一方、500年も経ってから、今までの記録や口述をまとめなおして、「ブッダはこのように弟子に語られた」という形式の、その場に居合わした者の記述の形に創作した思想史?が後の「大乗仏教」だといっても、こちらの方はその原始仏教」の漢訳にしても、それらのもともとの創作思想の世界にしても、そのまま現代まで伝わっているということも、解ってきていて、 要は、どちらも、ブッダご自身の言動そのものとは言えない記述世界となってしまっているわけです。 そうすると、では 「本当は、ブッダとは、どのような人だったのか」ということも「本当のブッダの思想はなんだったのか」ということも、 その全貌を見渡せる現代にいたっても、その中身の《解釈の深み》を追いかけてみるしかほかに、その推論すら成り立たないことが解ってきてしまっているということになるかと思うのです。 簡単には言えないところでもあるのですが、 こうして、ただ調べるだけでは、 》調べれば調べただけ広がってしまい、良い帰結を得ることができません.《 となってしまうのは、当たり前の世界でもあったわけです。 そこで、私の方からの回答としては、まず、両方の流の仏教思想にもなっている「縁起の思想」がどうなっているのか、あるいはそのへん分別智と「無分別智」をかざして、双方が論戦し合い争っていたりするのですが、そのへんはどうなっているのか、 また「煩悩」や[煩悩を滅する道」はどのように説かれていたりするのか、煩悩を滅する方法論としての「八正道」は、その後大乗仏教ではどんなふうな思想展開へと進んで行ったのか、 また双方にとっても根本的思索の流れを生んだ「慈悲」の思想は、どういう帰結になっているというのか そのすべてが、最初から《解釈の深み》を追いかけようとして生まれ、そしてふくらみ、展開されていったわけですから、その堕落も発展もすべて、 仏教の歴史の全貌が明らかになっている今こそ、さらなる《解釈の深み》を追いかけんとする情熱と気迫とで、昔の人の叡智をすらこえようとしてみるしか、もはや、 》ブッダについて明確に知ること《 も出来ず、求める「良い帰結」は得られないということになるかと思うのです。 上記の説自体、簡単には言えないところでもあるわけですが、 概略、そのような帰結を仮定した上で、まず、双方の流れの根本思想の理解のために、わたしなりに考えた「自我論」を展開させておいていただこうと思います。 そうでないと、「縁起」の思想をさらに深めたと言われている「空」の思想などは、まさに雲をつかむような「空」理空論となってしまいかねないのです。 抽象的な言葉は、そのまま、雲の上からの大きな視野と力強さを持っている時も無きにしも非ず、具体的な生活の上に落とし込もうとしてみると、かなりぼやけた大雑把な言葉ともなってしまっているところがあり、こここそ、私達の生活体験の中から血と汗と苦悩の奥底をくぐっての《解釈の深み》の探求を経ずしては、解りえないところがあるわけです。 私の方からの「自我論」は、一通り日本語を理解された中学生なら誰でもわかる説明の仕方で、出来る限り解りやすくかつ具体的に、深淵なるその「こころの世界」をひも解いていってみたいと思います。 (なお、私の方からの回答は、何度かに分けないと、紙数の都合でとても書き切れません。今回はまず、その「自我論」の基礎のあたりまでです。 どうかそのへん、この情熱に免じて、ご理解ご了承お願いいたします。よろしくお願いします) 私は、私の考えた「自我論」を《「◎書いてチョン チョン」方式の自我論》と呼んでいます^^。 シンプル・イズ・ベストのそのベストを一応目指したものと考えてください(笑)。 まず、「卵の殻」に例えて、「自我の殻」の論理を展開するために、外側の殻の円と内側の黄身の質の円とを描いた「◎」なのだと憶えてみてください。 「自我」とは、自分の内側の論理展開と感性の世界であり、「社会」ということを思索するにしても「人への愛」ということを思索するにしても、あるいは感じるにしても、あくまでそれによって自分の安泰を考える範囲にとどまってしまうこころの世界だと思っておいてください。 すると、これは、論理脳での理解や、そこからの意志の世界だけでは、その自我の殻は、とうてい打ち破れない固さを持っていると仮定することが出来るのです。 ここが一番難しいところかと思いますが^^、 人とのことを考える思索にしても、本当にそれだけでは「「自分自身が「人のことを考えている」立派な人格の人間だ」」と思われたいから、というのが本心となってしまい、論理脳とその意志だけでは、その思索枠からは抜け出せないことを意味しています。 ここでは略しますが、このことは別な観点からも言えてしまうことであり、なかなか、人のこころに本音と建て前という分裂や偽善を生んでしまいかねない、難しいこころの原理となってしまっているところです。 まさに自我の殻は、さほどに固いのだと憶えておいてください。 このへんを仏教では「元本の無明」と呼ぶ時もあります。 根源的な心の闇、というふうな意味合いでです。 また「塵じゃ惑」といい、海の砂粒よりもなお多き惑いの世界といった表現も使われています。 また「◎」の この二つの円の図は、 中心に行くほどに、感性の学びが深まってゆく意味合いの図としても描いているのですが、内側の円の黄身は、 それが、単純に「満足や充足」の質に変化する境界線を意味しています。 内側に向かって自我の殻からは「欲望」の矢印線もエネルギーをおびて^^出ているわけですが、その矢印を「チョン」と仮に解りやすく中心まで描いておくのが「◎チョン^^」というわけですが、 それが黄身の内側の質にいたると、「欲望」自体、質的変化が起こり始めます。 今その辺の論議は置いておきますが、その矢印のエネルギーが黄身の中に入り込んでくると、 けだし、その黄身からは、もうひとつの「チョン」なるエネルギーが今度は外側に向かって放射され、 なんとなんと、あれほど固かった自我の殻は、その矢印によって^^、いとも簡単に突き抜けられてしまう「慈力線^^」とでもよぶべきエネルギーを生み出し始めるのです。 相身互いの上下意識の無い当たり前の人間性としての人への愛情の世界、もう嘘が混じりようのないその心のエネルギーの世界が少し筒、内側に行くにしたがって強いエネルギーとなり放射されることになるということなのです。 解りますでしょうか、当然、この黄身の中心、円全体の中心がブッダの真実、つまり「目覚めた」人のこころの状態となるわけです。 おっと、今回の紙数は終わりが近づいてきてしまいました^^。 ここまでが「自我論」の基礎ですが、どうでしょう、ここまででいったんとぎって、あとはご自分で考えられてみてください。 例えば「煩悩」や「渇愛」という状態は、「白身^^」であるわけです。 2回目を書く予定でしたが、再質問があれば再回答する形に一応させていただきますね。 以上、仏旅の旅路、頑張ってください^^。

noname#212854
質問者

お礼

 回答ありがとうございます。  17番目の回答も、合わせ読んでから、返事いたしますので、少し時間をください。 よろしくお願いします。

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