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暴力とは相手の意志を無視すること
NemurinekoNyaの回答
こんばんはです。 ☆ つまり ( a )《相手の意志を無視すること》だ。 ◇そういうことになるのでしょうね。 あるいは、さらに進んで、 《相手に意志が存在することを否定する》 や 《相手に感情が存在することさえ否定する》 まで至っているケースが多々あるように思います。 ようするに、《人格の存在否定》!! イジメなどのニュースを見たり聞いたりしますと、 そんな風に思えてなりません。 ☆( g ) ひとは 狼でもウサギでもなく ひととして他人に対して言わば中立な心の状態というものはないというのだろうか? ◇ひとは、狼にもウサギにもなれますが、他のひとや生き物に《思いやれる》存在でもあると思うのですよ。ウサギさん状態に否応なく追い込まれることは、相手次第の部分がありますけれども、 自分が狼にならないように、気をつけることはできます。 中立が、相手に対する好悪の感情や偏見を極力排除して、冷静に、客観的に、理性的に振る舞う、という意味ならば、本人の努力次第だと思います。 ☆☆( h ) そして( e )は ねたみを言うのだろうか? 三角の関係は そんなにあやふやで落ち着きのない状態なのだろうか? ◇妬みのことはいっていない、と思います。 これは、A、B、Cという三者が存在すると、AにとってA⇔B、A⇔Cの関係のいずれかに比重が置かれたり、軽重がつけられる。そのことを相対化といっているような気がします。 ただ、この時、BとCの間に、Aを巡って確執が起こることはあるのでしょうね。そして、Aが重要視する関係、これを仮にA⇔Bの関係だとしますと、このことに気づいたCはBに対して妬みが発生したりすることはあるのでしょう。あるいは、Aが重視するBが、A以上にCを大切に思っていたりしても、発生します。 しかし、この《妬み・ルサンチマン》に基づく関係は、極めて強固です。あやふやでも落ち着きのないものでもないんじゃないですか。 この負の関係を是正するのは、極めて難しいと思います。 ☆☆ ( i ) 嫉妬やあるいはどこかの国の人びとのようにルサンチマンを持つにしても それらはまだ相手を――相手の意志を・相手の存在を――無視していないのだと思われる。ならば話し合いの余地はあるのではないだろうか。 ◇打算と損得、利害の一致に基づくことに対しては、話し合いの余地はあるのでしょう。 でなければ、どこかの国の人々は、こちら側の主張に耳を貸そうとしませんから。 相手に対して好き嫌いの感情を持つのはしょうがないとしても、耳垢の掃除くらいはしてもらいたいものです。 ☆☆( j ) 話し合い・対話あるいはつまり質疑応答において 相手の意志――問うている内容――を無視する場合があるやに思われます。暴力ではないでしょうか? そうだとしたら そのとき どうしようもありませんか? ◇相手の誤解を解こう、自分の考えや感情を相手にすこしでも正確に理解してもらうように、努力はすべきなのでしょうが、 こればっかりは自分の努力だけではどうしようもないところがあると思います。 《売り言葉に買い言葉》状態に陥ることがないように、気をつける、努力する、 実際問題として、これ以上のことはなかなかできないと思います。
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ねむりねこにゃあさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ◇ 中立が、相手に対する好悪の感情や偏見を極力排除して、冷静に、客観的に、理性的に振る舞う、という意味ならば、本人の努力次第だと思います。 ☆ 《中立》という言葉は語弊があったかも知れません。 《努力》を必要とするというのは たとえば穏健な思想を持つ人が 具体的なものごとや政策に対して言わば中庸の立ち場を取りそれを保つといった意味合いになりましょうか。 そうではなかったです 《中立》と言ったときには。 つまり 特にプラスともマイナスとも感じない状態で ふつうに あぁ 人がいるなぁといった心のありさま こんな意味合いで言っていました。 ◇ ひとは、狼にもウサギにもなれますが、他のひとや生き物に《思いやれる》存在でもあると思うのですよ。 ☆ この捉え方が むしろ《中立》の心の状態だと考えます。あるいは 器としての心と言ってもよいかと思います。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、この《妬み・ルサンチマン》に基づく関係は、極めて強固です。あやふやでも落ち着きのないものでもないんじゃないですか。 この負の関係を是正するのは、極めて難しいと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 三者の関係が あまり安定したものではなく やがてねたみを伴なうような三角関係になったとき その状態は 《極めて強固》だということですね。その《負の関係》をプラスに転回するのは 至難のわざということでしょうか。 お隣のふたつの国のことでしょうか。 それについて ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 打算と損得、利害の一致に基づくことに対しては、話し合いの余地はあるのでしょう。 でなければ、どこかの国の人々は、こちら側の主張に耳を貸そうとしませんから。 相手に対して好き嫌いの感情を持つのはしょうがないとしても、耳垢の掃除くらいはしてもらいたいものです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なる処方箋と言いますか 展望と言いますかが 持たれるというわけですか。 《恨》は いちど持つと五百年つづくとか言いましたね。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・ こればっかりは自分の努力だけではどうしようもないところがあると思います。 《売り言葉に買い言葉》状態に陥ることがないように、気をつける、努力する、 実際問題として、これ以上のことはなかなかできないと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしは いっそのこと けんかをしたほうがよさそうだと思うようになっています。 あるいはつまり こちらの言い分を受け留めることをしないのは《暴力ではないか》と言って呼びかけます。 反面教師にしかならないかも知れませんが 橋下氏の発言の場合にも それゆえに相手の反応が ホンネをさらに顕わにして 出て来るようになりました。 かつてこちら側に 相手に対する暴力行為があったと思われます。(自国民に対するものであったのですが)。 けれども それをこれから五百年うらみつづけ 土下座して言いなりになる奴隷と化すまではとがめつづけるというのは おなじような暴力ではないだろうか。 というように考えを持ちました。