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暴力とは感情のよりは理性の産物だ
- 暴力とは相手の意志を無視することだとされています。人間だけが暴力を振るっていると考えられます。
- 暴力は一面的な自由意志の表れであり、理性により生まれるものです。
- 暴力は感情のままに動く動物の物理的な力とは異なり、人間のいやな関係から生じます。
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B様、こんばんは。 >「人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。」 いやいや。 「「暴力をふるう」が、理性による産物」で、(それは)人間だけ」とは、 >「なぜなら 本能として感情のままに動く動物の物理的なチカラは 暴力とは言わない。」 まあ、なんてますか。 「倍返し」とは、「「目には目を」というくらいでは(次からは?)済ましませんよ?」という、 一種の、まあ、「禁じられた「自力救済」」です。 ・・・ところで、やはり「「自力救済」は禁じられている(→理性の産物)」わけで、 ・・・そうした「法の網」をかいくぐって、「自力救済」を実現してしまう!?というところに、 一種の、まあ、「してやったり!」を覚える事は、あるのかもしれません。 >「「暴力をふるう」が、理性による産物」で、(それは)人間だけ」」 では、「水戸黄門」という勧善懲悪的なドラマにおける、 登場人物(たち)のチカラ(と、その淵源)関係について、ご説明ください。
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- kurinal
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B様、こんばんは。 >「そしてわたしに言わせれば 相手の言っていることを無視するなら それは暴力である。ということを思っています。」 >「自由意志の振る舞いであるとともに――理性による産物である。」 ・・・
お礼
ええ。意志をないがしろにすることは すでに意味のないコミュニケーションということになります。コミュニケーションを成り立たなくさせます。それを 意味のないチカラによって成らせようとするからには 暴力であると考えます。 ご回答をありがとうございました。
- kurinal
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B様、こんばんは。 >「9. かくて 暴力とは 理性が画策する《相手の意志の無視》であり そこから始まる。 10. これは 人間のみがおこなう。感性のよりは理性の産物である。」 《相手の意志の無視》は、、、 「意図的な無視」なら理性の画策するところ、かもしれないですが、 「それほど高度でもない無視」であれば、人間でなくても(常に)しているところ、と思いました。 >「自由意志の振る舞いである」 ・・・だから、世の中には、「精神鑑定を必要とするケース」があるのでしょう、とか。
お礼
おそらく そういうことでしょう。おっしゃっていることのようだと考えます。 そしてわたしに言わせれば 相手の言っていることを無視するなら それは暴力である。ということを思っています。 くりなるさん ご回答をありがとうございます。こんばんはでした。
- NemurinekoNya
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こんにちはです。 日本語だと暴力の本来の意味が分かりにくいので、violenceの語源などを調べて見たところ、 ONLINE ETHYMOLOGY DICTIONARYでは、 ───────── violence late 13c., "physical force used to inflict injury or damage," from Anglo-French and Old French violence, from Latin violentia "vehemence, impetuosity," from violentus "vehement, forcible," probably related to violare (see violation). Weakened sense of "improper treatment" is attested from 1590s. violation early 15c., from Latin violationem (nominative violatio) "an injury, irreverence," from past participle stem of violare "to violate, treat with violence, outrage, dishonor," perhaps related to vis "violence, strength." vaiolate (v.) early 15c., "to break" (an oath, etc.), from Latin violatus (see violation). Sense of "ravish" is first recorded mid-15c. Related: Violated; violating. http://www.etymonline.com/index.php?allowed_in_frame=0&search=violence&searchmode=none ───────── など、日本語の暴力では感じ取れない意味、ニュアンスなどがあることが分かりました。 漢字から受ける”暴れる、力”のイメージ振り回されてしまう危険性があるようです。 violenceという言葉には、どうやら、正義や人権などといったものが日本語の《暴力》というコトバ以上に含まれているようです。 ☆☆☆☆☆☆ ☆こいついっちょうやったろかと思ったり 借りがあるから倍返しだと考えてチカラを振るうわけではないだろうからである。 ◇カラスは、自分にひどいことをした人間にストーカーのごとく執拗に付き纏い、何かにつけ嫌がらせをするということを聞いたことがあるので、 『カラスならば、これくらいのことはやるかもしれない』と思い、カラスの生態に詳しい人の書いたHPなどを見てみたのですが、どうやらこれは、人の側の思い過ごしのようです。むしろ、人の側のそのカラスに対する《やましさ》を起源にしているようです。 ただ、電線などに止まっているカラスがたまたまその下を通りかかった人にフンをすることは、ありうるとのことです。これは、人間に意地悪をしてやろうとしてするのではなく、カラスは人間を恐れるので、緊張する。そして、万が一の事態に備え、いつでも飛び立てるように、身を軽くするために、フンをするのであろう。それが運悪く人に当たる。。。 賢いカラスでさえしないのですから、ヒト以外の動物は、こういうことはしないのでしょうね。 ☆ つまり 人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。 ◇おそらく、そうなのでしょう。 ☆のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。 ◇でしょう。 ただ、これが人間の《理性》と深く関係しているのかは、わたしには分かりません。 これについては少し考えてみたのですが、 人間は、他の〔哺乳〕動物が多くもっている、《降参》・《参った》の明確なポーズをもっていないんですよね~。 猫や犬なら、お腹をみせる。すると、それまで激しい喧嘩をしていたにも関わらず、それ以上、その猫や犬に対して攻撃を加えない。 でも、人間にはこれがない。進化の過程のどこかで、これを捨てた。高度に発達した感情、理性や知性というものに、その役割を譲り渡したんでしょう。あるいは、その進化の過程で、人は人に対して、いつでも《狼》になれるようにこれを捨てた。人は人に対してどこまでも残忍になれる。人間にとって、最大の天敵は人間ですから。攻撃中止のリミッターとなる《降参》・《参った》のポーズがあったら、不都合なんだろう。。。 こんなふうなことを、動物との対比から、考えてみました。 たぶん、理性や表層的な感情などとは別に、もっと本源的な《暴力》《残虐さ》を好む志向性、衝動といったものが人間にあるのかもしれませんね。 もっとも、こうしたものは、深層意識レベルで起こる欲求不満を解消するためのはけ口として、噴出した可能性は十分に考えられます。いわゆる葛藤解決システムの《代償》や《代償行為》としてです。 であるとするならば、《スーパーエゴ・超自我》が深く関係しているのかもしれませんね。このスーパーエゴは、理性と不可分な関係にあるので、 《理性》が深く関係しているということになるのでしょうか。 ☆☆☆☆☆☆ いつも綺麗事を並べたてるわたくしですが、K国やC国の人がちょっと酷い目にあうと、溜飲が下がる思いをすることがあるのですよ。こんな偏狭なナショナリズム的感情に支配されてはいけないと思いつつ、それを望んでいる部分が心の奥底にある。こんなものは打破しなければならない、そんなことを思ってはいけない、と理性は主張するのですけれどね~。
お礼
ねむりねこさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ violenceという言葉には、どうやら、正義や人権などといったものが日本語の《暴力》というコトバ以上に含まれているようです。 ☆ これは おそらく長らく使って使い慣れたあとに 社会の人間関係としてのつまり倫理の意味合いが出て来たということではないでしょうか。つまり初めは もし vis が語源であるなら 単なる《力》を意味したはずです。 ・vis ( pl. vires )=力、権力、勢力 2.活動力、実行力、勇気 3.〔敵意〕武力、攻撃 4.暴力、暴行、強制、圧迫 5.影響、効力、効果 6.内容;本質、本性;〔語の〕意味 7.多量、充満 (田中秀央) あるいは virtus (勇気や道義など)≒ virtue (徳・美徳・善良など)の元の語は ただの《男》を表わす vir なる語であったという事例とも似ています。 vis の複数形の vires は《腕力・兵力など》を表わすそうですが そしてこの語から violare ( to violate )/ violentia ( violence ) が派生したことは確かなようですから 本来の語義として《倫理》にかんする意味合いがあったのではないと思われます。 この 腕力=vires と 男= vir とのつながりは よく分かりませんでした。 ◇ 賢いカラスでさえしないのですから、ヒト以外の動物は、こういうことはしないのでしょうね。 ☆ このお話は 援護をもらえたようです。(動物には 何かを企むような暴力はない これは 今回の思いつきのようなものですから)。 つまり次のようにお聞きして ひとつ確認し得て いくらかは持ちこたえる仮説力がついたかも知れません。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ つまり 人間だけが いちいち相手とのいやな関係を思ったりしてそのゆえに危害をくわえようとする。 ◇ おそらく、そうなのでしょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ のだと もしするなら 人間だけが 《暴力》をふるうのだ。 ◇でしょう。 ただ、これが人間の《理性》と深く関係しているのかは、わたしには分かりません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ なるほど。こんどは《理性》関連のほうですね 問題は。 ここで 短絡してみましょう。 動物には 理性がとぼしい。 おのれの一生をとおしての思惟や行動を捉えて反省する理性はない。 自分の人生をも超えて類としての生物存在にとっての歴史というものを考えることも そこから自分たちの行動を考え出して来ることも ない。 こういう事情を考慮するなら もし暴力が 動物にはなく人間にのみあるのだとすれば 暴力の原因は理性にある。――こう短絡されて来ます。 (感性もむろん その理性による野望や陰謀に要素として加担しているでしょうけれど)。 ◇ たぶん、理性や表層的な感情などとは別に、もっと本源的な《暴力》《残虐さ》を好む志向性、衝動といったものが人間にあるのかもしれませんね。 ☆ この見方は どうでしょう。まさに《理性(感性をふくむ)以外》の要因を問うているのですから 問いそのものなわけです。 わたしは クセとして精神分析が嫌いですから その点ふだんの傾きがいっそう片向きがちになるとは思いますが やはり《タナトス=死の衝動》は いただけません。これは むしろ自死にかかわるような欲動だか何だかなのでしょうが これが・この力の矛先が 他人に向けられるといった場合もあるというのかも知れません。 あるいは ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もっとも、こうしたものは、深層意識レベルで起こる欲求不満を解消するためのはけ口として、噴出した可能性は十分に考えられます。いわゆる葛藤解決システムの《代償》や《代償行為》としてです。 であるとするならば、《《スーパーエゴ・超自我》が深く関係しているのかもしれませんね。このスーパーエゴは、理性と不可分な関係にあるので、 《理性》が深く関係しているということになるのでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは どうでしょう。結論は 質問趣旨にとって応援となるのですが どうも精神分析は 苦手です。 《超自我》というのは 《エス=イド=リビドー》の衝動をおさえる役目だったのでは? わたしはそもそも《深層心理》というのがきらいです。深層にあろうが浅い層から出たものであろうが その現象が起こるのであれば けっきょくワタシは 意識していますし そのウゴキを行動にまで移そうというのはやはり意志によるはずです。つまりは 深層・浅層の問題ではなく 一般に意志行為の問題となると考えられます。 浅い層の心理は 制御しやすく 深層のそれは 意志も手に負えないというふうに決まっていましょうか。 もしそうであって 人間にはこのような他人を深く傷つけることによって別の欲求不満を解消するという仕組みがあるとするなら ではそれが 出て来る人と出て来ない人との違いは どう説明されるのか? そして何はともあれ このようなときにも感性は そういう《代償行為》としての傷害行為について それはダメだと 言わず語らずに 理性に対して意志に対してうったえているものと思われます。むろん理性も そのことは知っています。 でもその《深層意識》は 当の理性と結託して けっきょく相手の意志を無視するという暴力行為にまでおよぶ。のでしょうか。 (けっきょく 当否は保留というかたちです)。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ いつも綺麗事を並べたてるわたくしですが、K 国や C 国の人がちょっと酷い目にあうと、溜飲が下がる思いをすることがあるのですよ。こんな偏狭なナショナリズム的感情に支配されてはいけないと思いつつ、それを望んでいる部分が心の奥底にある。こんなものは打破しなければならない、そんなことを思ってはいけない、と理性は主張するのですけれどね~。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ わたしもその口ですが ひとつ大幅に手前勝手な自己肯定策をも持っています。 《溜飲》をそこに滞らせたのは 相手の人たちである。その人たちが ひどい目に遭って 反省をするならと思うと 溜飲が下がる。これは ごくふつうの心理的生理的かつ倫理的な自然現象ではないかというものです。 つまりまだ ナショナリズム問題以前だとは思うのです。わが国の 自分をふくめた人びとを見ていても そういう事例は当てはまりますから。
- hekiyu
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これは暴力という言葉の意義をどう定めるか の問題ではないですか。 質問者さんは、暴力は何かしらの意思に基づいた 有形力の行使ととらえているようですね。 しかし、自然の暴力という使い方もするでしょう。 自然には意思がないでしょうから、この場合は 質問者さんの定義とは相容れない訳です。 あるいは、暴力という言葉に倫理的な意味を込めて 使っているので、そういう考え方になるのでは ないですか。 倫理的な意味を込めれば、それは人間以外の動物や 自然には当てはまりません。 つまり、言葉に振り回されているだけだ、と 理解しました。
お礼
へきゆさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 そうですね。 ☆☆(趣旨説明欄) 暴力とは 相手の意志を無視することだ ☆ と言っているごとく 定義しています。 言いかえると 一たん対話に入ってから 相手がさらに問うているところを もはやないがしろにして何も答えないとすれば これも暴力であると認定します。 そういう意味において次の《有形力の行使》にあたると考えます。 ★ 質問者さんは、暴力は何かしらの意思に基づいた / 有形力の行使ととらえているようですね。 ☆ 無言という有形 および 答責性の無視という有形の行動です。(無視というかたちが 現われています)。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし、自然の暴力という使い方もするでしょう。 自然には意思がないでしょうから、この場合は 質問者さんの定義とは相容れない訳です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そのとおりです。もしくは 文学的な言葉のあやだと捉えるわけです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ あるいは、暴力という言葉に倫理的な意味を込めて 使っているので、そういう考え方になるのでは ないですか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは もし《倫理》が主義主張のようなものとしてその人の信念において真っ先に来るものという意味であるなら それは違います。 暴力は 倫理的な世界としての人間関係において起こる。こうは捉えています。 ★ 倫理的な意味を込めれば、それは人間以外の動物や / 自然には当てはまりません。 ☆ そうしますと 《自然の暴力》については どのような具体例において人間のおこなう暴力とおおむね同じ内容であるか これを示していただくのが 手っ取り早いと考えます。質問者は 決して同じではないと考えています。つまり意志の有無による違いがあるからです。 《動物のおこなう暴力》 これについては おそらく人間についてもいわゆる《カアッとなって衝動的におこなってしまう暴力》が あたかも《動物的な暴力》だと見るからには(この点は 回答No.1および2を参照願えればさいわいです) 《倫理》の問題を抜きにしても・含むにしても 似た事例であるとは考えます。 ただし《似ている》というのは 《同じではない》ということでもあります。動物は おそらく獲物を狙うというときに 物理的に相手を凌駕するチカラを振るってやっつけてやるといった考えは持たないでしょう。 あるいは 獲物を得ようとするのであって チカラを行使して相手をいためつけてやろうと思っているわけでもない。 また そのときにも 相手を無視するというよりは 相手たる動物を自分の食物とするという狙いがあるのみである。 こういう違いや事情があると捉えるからには ★ つまり、言葉に振り回されているだけだ、と / 理解しました。 ☆ というご見解は飲めません。少々浅はかな見方ではないかと受け取りましたが どうでしょう。
- Y Y(@yy8yy8az)
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暴力、とは「行為の事」ではないでしょうか。 質問の趣旨は暴力の原因が、情的なものであるか理的なものであるかを問うているので、それですと情的な因もあれば理的な因もあると云えます。 理的には、経済的な損得が因となることが多いのではないでしょうか。 また、情と理との違いには時間差、なんてのもあるように思います。
お礼
つづいてです。 12. 趣旨説明にも書きましたが ☆☆ 本能として感情のままに動く動物の物理的なチカラは 暴力とは言わない。 と考えられます。いかに獰猛であってもです。そしてこのような動物のチカラの発揮は どちらかと言えば 感性に沿った行動であろうと思われます。つまり 感性にしたがう場合には それがいかに獰猛でその結果が残酷なものであったとしても 《暴力》とは言わないのではないでしょうか。 13. ★ 情的な因もあれば理的な因もあると云えます。 ☆ というときその《情的な因》は 人間にあってはすでに一たん理性に取り上げられており 理性の仕切るところとなっているはずです。ということではないでしょうか? 14. もし《情的な因》のみによって行動した場合があるとすれば どうか? 怨恨による暴力をともなった犯行といった場合。――いえ そのように《暴力》を振るおうと思ったのは理性および意志です。いかにその前の段階で感性が つよい衝撃を受けたとしてもです。 15. 《カアッとなって》犯行におよぶというのは 《暴力》では必ずしもなく おそらく心神喪失の状態から体を動かしたというような事例ではないか。(暴力に入れられていますが)。感性は おろかですが 純情なのではないでしょうか。 16 ★ また、情と理との違いには時間差、なんてのもあるように思います。 ☆ この《理へと移行するための時間差》がない場合が 《カアッとなっての行動》ではないか。 そして 時間差があると 《カアッとなった状態》を脱しているからには 理性による暴力行為が画策されている。のではないか? 17. ★ 理的には、経済的な損得が因となることが多いのではないでしょうか。 ☆ おそらく 経済的な生活上のことがらが 基礎にあるかと思われます。ただし経済外の政治的な事由がないとは限らない。政治的なことがらとは 一般にひとに対する支配欲の問題だと考えます。《思うように行動したいがため社会力学じょうのチカラをつけること およびその発揮》です。 18. 男女のあいだの暴力行為やイジメとしてのそれも この政治的な事由によるのではないか。いつしか支配欲に自分が支配されてそれをすでに自己正当化しており(たとえば いまの世の中では これくらいのズルイことをしなければ生きて行けないのだという理由づけ) あとはその理性の考えつくことを理性のおもむくままに実行する。(感情がおのれの好きなことを思いつくという要素もともなわれているはずだけれど)。 19. 経済的な要因がからむ場合も 暴力行為におよぶというのは 支配欲としての政治的な要因に収斂するようにさえ考えられます。支配欲という感情も 政治という理性のはたらく場の中に取り込まれて行っているはずです。 糺してください。
- Y Y(@yy8yy8az)
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理性による暴力と、感情による暴力、とがあると思います。 知的世界に於いては理性に依り、情的世界に於いては感情に依る。
お礼
yy8yy8az さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 知的世界に於いては理性に依り、情的世界に於いては感情に依る。 ☆ 1. 人間の生まれつき身に備わった自然本性は 身と心とから成ります。 2. 身(身体)は 五感の知覚にかかわり その感情は 心(精神)における悟性をつうじて認識され その概念として記憶されます。概念は 理性によって整理され さらにはあたらしい知覚内容の概念化されたものとの秩序だったあたらしい整理へと送られます。 3. 《知的世界に於いては理性に依り》という事態は そうだと受け取られますが 《情的世界に於いては感情に依る》というのは 必ずしも自明ではないと考えられます。 4. たとえば何らかの事由で怒ったとします。この《怒り》ということ自体については 感情だけの問題ですが その怒りを――まづ怒りとして認識したあと―― その概念をわが身と心との中にどのように整理しておさめておくか(あるいは捨ててしまうか)という話に成り これは理性〔および意志〕のはたらく問題となります。 5. つまり ひとの思惟と行動とは――知覚したあと思考を俟たないでただちに条件反射のごとくおこなう反応をのぞけば―― 感性もすでに理性によって捉えられており すべての認識がワタシの思考および判断として一体となって おこなわれます。 ★ 理性による暴力と、感情による暴力、とがあると思います。 ☆ 6. というのは 要素要因に分析した場合のことだと思います。じっさいには 感性をも理性につつみこんだかたちでおこなう暴力というひとつの行為がある。こうだと見ます。 7. ただし 忘れてならないことがあります。理性がただいまの怒りとその事情を交通整理して わが思惟と行動としての結論を――意志とともに――くだしたとき じつは感性は その判断について独自にものを言います。 8. 感性は――えらいもので―― 理性が その話し相手に対して よくもおれの考えのマチガイを指摘してくれたなと言ってその自尊心を傷つけられたという事由で 怒りからけんかを吹っかけようと結論づけたとき 〔感性は〕 いや 待てよと再考をうながすことさえあります。 9. 感性が言うには おまえ(マチガイを侵した自分)だって 他人のマチガイを指摘しているではないか。いまのマチガイは 重要な問題についてのマチガイである。おまえ(=自分)が軽はずみで勘違いをしていたに過ぎない。待て 待て。ここは静まれ。・・・というようなことではないでしょうか。 10. プライドを傷つけられたというのは 感情ですが これもつねに理性が出て来て仕切り直す格好になります。つまり 理性の問題に移行します。 11. しかも マチガイがマチガイであるというふうに そのコトじたいに限ったかたちでものごとを捉えるのは 感性です。(理性は そのときの相手や情況やあるいは言ってみれば世界の全体のことを考慮に入れて 交通整理をし考えて行きます)。つまり マチガイがマチガイであることに忠実であり誠実にそのことの処理をおこなおうとするとは 感性です。 12. マチガイをマチガイだと知ることは じつは 理性のはたらきによります。感性も直感としては 知っているはずです。理性の認識を承けて 確認するはずです。 けれども 理性は そのほかにも自分のプライドなり世間体なりのことをも考慮に入れようとします。感性は おのれのマチガイを放っておかずに 違ったマ(間)の修正をのぞみ そのようなズレのない自然本性なるワレに立ち帰ることを一途に願います。これをないがしろにするのは むしろ理性および意志です。 ・・・・ 次のご回答に継ぎます。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 「「暴力をふるう」が、理性による産物」で、(それは)人間だけ」とは、 ☆ この命題に対する反駁は 《人間における感性による暴力》や《動物における暴力行為》のそれぞれ例示を出せば済みます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ では、「水戸黄門」という勧善懲悪的なドラマにおける、 登場人物(たち)のチカラ(と、その淵源)関係について、ご説明ください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 人間による暴力行為に対する社会的な共同自治(そこにこんどは権力という暴力を行使しての制裁をふくむ)については まだ問い求めの対象としてはいないので あいにくですが 保留します。 最初の主題について探究されてください。
補足
☆☆(お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ では、「水戸黄門」という勧善懲悪的なドラマにおける、 登場人物(たち)のチカラ(と、その淵源)関係について、ご説明ください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 人間による暴力行為に対する社会的な共同自治(そこにこんどは権力という暴力を行使しての制裁をふくむ)については まだ問い求めの対象としてはいないので あいにくですが 保留します。 最初の主題について探究されてください。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この意味は もし《暴力》の定義からのその特性の把握が違って来るならば その対策も違って来るであろうと考えられるからです。 すなわち その特性の把握として: 1. 暴力は 相手の意志を無視するかたちで人間のみが犯すもの。 2. 動物の行動は 意志や思わくに関係なくやはり本能としてのものであって 相手の意志をないがしろにすることとは 微妙に違う。結果的にそうなるが 相手をいためつけてやろうなどと思ったりしておこなうような暴力行為ではなく ただただ相手を獲物として扱うという決まったかたちの行動にしか過ぎない。。 3. だとするとそれは 人間にまま見られる衝動的な《暴力》行為とも 似ているけれど やはり違う。 4. 人間がカアッとなって衝動的にチカラを振るう行為は もし仮りに《感性》の単独犯行であるとしても それは動物が本能的にチカラを行使する行為とも違う。 5. おそらくもし仮りに感性が単独でその《チカラの発動行為》を指揮したとしても それは何らかの直感的な判断によっていると考えられる。こら 他人のものをぬすんではダメだという思いから 後先をかまわず(理性を経由せずに) チカラを振るう。 6. そしてしばしば 感性による直感的判断は 倫理=人間関係の具体的な関わり方が問題としてからむと その場の情況など全体観に立てずに拙速する場合がある。つまりそういう場合には 感性は その当の人間が他人の物をかっさらって行ったというその事態だけを見て判断している。 7. つまり感性は おろかでありうるが 純情である。 8. 感性の純情を受け継ぐことも出来るし そうではなくけっきょくヘソを曲げてずるがしこいことを考えることも出来るのが 理性である。意志は しばしばそのような理性の攻勢にあって よわい姿となって従ってしまうことがある。 9. かくて 暴力とは 理性が画策する《相手の意志の無視》であり そこから始まる。 10. これは 人間のみがおこなう。感性のよりは理性の産物である。 ☆ けっきょく 暴力についての対策は 《ひとのヘソの曲がりを問い質しこれをもとの姿に直すこと》が基本となると考えられます。《われに立ち帰ること》――自己到来・自己還帰・《わたしがわたしである》――が 基本であろうと。 《勧善懲悪》の《勧善》の部分は この《へそ曲がり対策――わたしがわれに還ること――》に相当します。 《懲悪》については その社会のナラワシ等にも沿って・またその《へそ曲がり=悪》の具体的な中身に応じて 種々のかたちに人びとが決めあって行くことになると思われます。