• 締切済み

電磁力(権力)が 重力(意志)を凌駕するか? 

hokekyou333の回答

回答No.8

私のNo6の回答に対して、そちらのお礼文に 》回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。  互いに主題を共有し論点を出し合って 互いの見解を突き合わせつつ 問い求めて行くという姿勢にはないと見ました。  これまでにお答えしたことによって すべて応答しえていると考えます。 《 と書いてありましたが、 そちらが書かれていますところの ≫《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。≪ のところと、 ≫このブッダターを言っておけば いちいち十界互具だとか一念三千だとかとまで言う必要はないと考えます。 実践していることが 肝心ですから。また 十界論を知らずにでも 実践はし得ますから。≪ のところと、 じつはあと一つ ≫★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。 しかし心は明らかにその方向に向かう。  ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。≪ に対応して その3点に対して、わたしなりに、ここはまず、十界互具のところからその深さを、さらに考えてみてほしいという気持ちになり、それだけでもとても書き切れない内容を少しでも詰め込んで書こうとしたことにより、長くなってしまった回答のつもりです。 そこを 》回答ではなく 自説を延々とならべる曲芸であると見なします。《 と書かれてしまうと、 自説でないものを回答するなんて、そんな回答は困難ですし、 どうしても長くなってしまったところをそのように言われても、どうしたらいいかわからなくなってしまいます。 このNo5の方の私の回答が、実は、長くなってしまったのでとても書ききれない、中途半端に何か書けるような内容でもないというところから「パス」させていただいた、 ≫一発です。≪ をめぐるそちらのお礼文の部分が、No6の回答の引き金となった部分であることからも、 むしろ本当は、パスなどしたくない箇所でもあったわけですので、 ここは、書き方を変えまして、 出来るだけ簡潔性にも注意を払いつつ(その努力はしますので、なかなかそうはいかなくても、そのへんどうかご理解ご了承いただきたいです) その ↓ ≫★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。 しかし心は明らかにその方向に向かう。  ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。≪ ↓↓↓ の部分への回答をこちらに書いてみます。 (1) 「自然法爾」「ハカラヒなき自然」「義無きを以って義とす」というのは、浄土宗の教えでしょうか? わたしの考えではなのですが、この思想は《「何も考えなくても、仏に身を任せた気持ちになれば、自然に人間的に生きられる」 自ら世の中をよくしようとあがかなくても、その「安心立命」に立てばそれだけで、例え計画を立てるにせよ、自然に一番最良の計画もできあがる》といった 私達の心が仏と出会えば、後は任せるだけでよくなるというふうに、自分の考えを進化させる努力を放棄せよという教えに聞こえてしまうのです。 まず、今回の再回答では、 そのへんの質問者様のお考えをお聞きしておきたいです。 (2) そちらの言われている 》一発で癒されます《 の内容なのですが、 仮に(仮にという点を強調しておきます)そちらのお考えが基本的に 「仏にお任せしていれば、そして南無阿弥陀仏、あるいは南無「神の霊」と念じ、あとは何も考えなくても、自然に脳が働くままにまかせているだけで、正しく行動する道がおのずと開かれ、一発で人間として安心立命が得られる」 といったお考えであられるならば、  ≫☆ いえ。一発です。≫からの文は、 ≫ ★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。≪ という私の書いたことと対応されて反論されているわけですから、 その「安心立命」さへ得られれば、一発で「直ちにすべての悪が許せるようになる」と考ていると考えられるのですが、 ほんとうにそのようにお考えなのでしょうか? 「もし」上に書いたことに相違なければ、では、その証明はできますでしょうか? 私の場合の実例を書いてみます。 私は、ヤクザからも見放されたような「札付きの悪人」と呼ばれている人たちと、何人も友達になったことがあるのですが(当時は30歳代の頃なのですが)これは、一応に向こうから私と友達になりくなったのです。 それはおそらく私がただ単に色目ガメネをかけないで、ただ当たり前に同じ人間として接する心を、無意識の底から自然に持っていたからだと思います。 これって偉いとかご立派だとかいうことではないですよ。 そんな邪心を少しでも持ってたら、彼らはどんなに孤独であっても、そこに「「「友達になれるやつが、いた!」」」という気持ちにはなれないでしょう。 相手の私という人間は、悪についての話題にも共感してくれないし、同じ仲間の印としての朱にも交わってくれない、ふつうなら煙たい人間の一人のはずでしょ。 でも、そのいわゆる「極悪人」の人たちが、一応に私と一緒にいたがり、自分に前科も何もかも話したがり、一緒に歩きたがり、いっしょに山に川に出かけたくなり、私が何もしないのにお礼したがったりするのです。 どれだけ、どれだけ孤独だったのか ということと、ほんとうは全く同じ人間として「友」がほしかったのだということ、のその中に いよいよ「どんな人間にしろ、同じ人間は同じ人間なんだ」という感と感動を深めた体験でした。 ただ単に、自分をほんとうに偉いと思っていない人間だっただけで!! でもそれだけでは、彼らの抱えているあらゆる問題を一つも解決できたわけではないわけです。 そちらの言われる通り、それだけでその全員が改心したわけでもないのです。 当時のわたしの至らなさがそこにありました。 更生教育の力がもっともっともっと必要だったということです。 しかし、その更生教育には、前提として、そいつら前科者の脳が「そこに友だちがいる」と発見してくれるような無心に人間的に生きる人物であることが、その技術うんぬん以前に必須だと思います。 まだ「ホケキョウ」の「ホ」の字も知らなかった頃のことですけどね。 この実例をもとに、再質問します。 当時のあの程度の人間性の私ですら、極悪人が 向こうからそこに「友」を見つけてくれたのですから、 仏や神の霊に、すべてをお任せする心境になれば一発で、そこに「友以上」「恋人以上」の気持ちで慕ってくれるようになるのでしょうか。 まだ、そちらの言われる「神の霊」という言葉を理解しているとは思えないので「仏」にしぼりますが、まるで仏のように本当に一発でなれるということなのでしょうか? (3) 今回の回答では、最後に、最初の質問に再び戻させていただきます。 私自身は、「南無妙法蓮華経」とほんとうに謙虚に唱ることができれば、もちろん組織、教団とはかかわりなく、仏とつながることは出来ると思っているわけです。(このことこそ、詳しく書きたくなってしまうのですけどね) でも、その必然である仏国土の実現は、その信心にまかせて何も考えないでも実現できるのではなくて、その実現は私達信徒の努力にその責任があるとも思っているのです。 といった私の自説(自分の考え)を書いては どうして回答にはならず「曲芸」(この例えもわかりずらいですが)になってしまうのでしょうか? それとも、 くどくどした説明は、そちらに入らないという意味合いを語られたのでしょうか? もしそうならば、 ここには見解の相違という名の齟齬が発生してしまったのだろうと思うのですが、…。 以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 ご投稿をありがとうございます。  (1) 《即身成仏 / 即得往生》という思想について これらをしりぞける説明を明らかにしなければやり取りは そちらの一方的な演説になります。  (2) ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~  一発で「直ちにすべての悪が許せるようになる」と考えていると考えられるのですが、  ほんとうにそのようにお考えなのでしょうか?  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ (あ) 《悪》は その行為を人間が赦す・赦さないというその対象にはならないと考えています。    (い) 存在については 誰についても受け留め その行為については わるいところがあればこれを批判する。こういう全体としての姿勢でのぞむものと思っています。  (う) その本人が ブッダターの――信仰の庭における――起動を得れば 過去の悪の行為からもいま現在の悪の心理的なウゴキからも自由になれる。――これが 即身成仏です。  (え) 悪の行為をこうむった被害者は 赦す・赦さないの次元においてではなく 悪の行為者がみづからの心において われに還り悪の心から自由な自然本性の状態になったなら その姿を見て 〔被害者は〕みづからの心にもそのブッダターのハタラキの起こるのを覚えて 自然にその加害者を自分と同じふつうの人間として受け留めまじわることが出来ます。  (お) これらのことは ブッダターなる神の霊が想定であるかぎりで 想定上のお話です。哲学としては そのまま《想定》の問題として受け留めることになると考えます。  ★ 仏や神の霊に、すべてをお任せする心境になれば一発で、そこに「友以上」「恋人以上」の気持ちで慕ってくれるようになるのでしょうか。  ☆ 《ハカラヒ無きを 自然といふ》です。《すべてをお任せする》というのは ハカラヒです。  (3) ★ 私自身は、「南無妙法蓮華経」とほんとうに謙虚に唱ることができれば、もちろん組織、教団とはかかわりなく、仏とつながることは出来ると思っているわけです。  ☆ 主観の内におけることとしては すべて自由です。  問題は その主観内容の共同化です。ほかの人とその内容を共有できるかです。  《即身成仏》が 信仰の・つまり主観内面における動きないし感覚の問題であるところを 哲学としては(つまり 主観の共同化をめざすかたちとしては) その主観内容を《想定じょうの問題》であるとして提出しています。そういった工夫がないと 勝手に言っていてくれ(と言いますか 同じことをくどくどと投稿して来ないでくれたまえ)という恰好になります。   あっちの水は 苦いぞ    こっちの水は うまいぞ   ほ ほ ほたる来い  といつまでも同じことを言いつづけることになるからです。つまり 反対派も そのように《ほたる来い》の同じうたをうたっているという結果になります。

関連するQ&A

  • ひとの意志は モノに還元されるか?

     ここでは 自然科学の知識を勝手にイメージとして捉え その情報にもとづき勝手に――それでも――人間と社会とにかんして考えようとするものです。        *  まづ次が そのイメージをひろげた仮説です。        社会主体としての人間の・殊に《わたし》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。もちろんまったくの空想です。   1.重力 :《 〈わたし〉 の社会的な力》   2.電磁相互作用 :《 〈わたし〉 の超現実》=《 幻想 〔としての意識〕》   3.強い相互作用 :《根源的な 〈わたし〉 》   4.弱い相互作用 :《とにかく〈わたし〉というもの》  これらの人間の力つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。  いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。  第二の《〈わたし〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。  男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。  幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらには何か確かに作用が起こったときそれは 自分に都合のよいように別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。  このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の力の《とにかく〈わたし〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。  これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈わたし〉》をとおして まづ接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈わたし〉》を意識し始め それぞれが《わたしの超現実》という場を夢見始めるに到る。  《根源的》というのは ここでは かの相手とのかかわりにおいてとにかくこのワタシという存在を意識し自覚し始めるといった事態を言っている。  《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの自己紹介の程度までではある)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場あるいは付き合いの形が 成立する。  第三の《根源的な〈わたし〉》というのは さらに進めば自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己確認の作用である。  これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。  以上これらの三つが 大きくは同じ場でむしろ同じ力の三態として はたらいている。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪をふくむ)とよぶのにも 不都合はない。  最後に 第一の《〈わたし〉の社会的な――時には公共的な――力》が重力であり 表現として万有引力(?)である。  主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。  男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(つまり家族としてのふつうの社会生活)にかかわった力の問題にあたっている。  婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。  婚姻に限らず 一般に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって 或る主題の科学的な知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。  けれども 個人の二角関係のうちの 男女の対(ツイ)関係における婚姻という結びつきは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。         *  1. 意志よりほかの・自然本性としてそなわる精神の能力――すなわち 記憶および知解――は あんがい生物物理学的なモノに還元されるのかも知れない。ひとの身(およびそこにおける意識)とそして自然および社会としての環界とは むしろ相互に通底しているかも知れない。  2. けれど 意志は 四つのチカラの内 ほかの三つの相互作用とは 或る意味で異質であることとかかわっているかのように 特殊である。と考えられる。  3. それは もし社会のいわゆるクウキやシガラミなどといった人間関係によってことごとく影響を受け ほとんどその内容に〔おのれの意志が〕従ったとしても そうだとしても この人間の意志というのは そのようにいやいや従ったのだいうことを知っているという特徴を持つ。からである。  4. このような自由意志の特徴というのは 一般に基本として 《ゆづる》という行為である。あるいは 関係として捉えて 《ゆづりあい》という社会行為である。  5. かんたんながら 以上を踏まえて言ってこう問います。      ○ ひとの意志は モノに還元されるか?  なお仮説としてかかげた見方は 次の質問でもあつかいました。そこでのやり取りを参照していただけるかと思います。   【Q:《アース力》は 慈悲なるチカラだ。】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa7834459.html

  • 重力波と電磁波は同じものか?

    重力波と電磁波は同じものか? 現在、放送大学の通信講座で相対論を学んでいます。 過去の質問で QNo.1283788 光どうしは互いの重力で引き合うか QNo.2747423 光どうしは互いの重力で引き合うか(続き) というタイトルで質問しましたが、その考えを発展させて重力場について考えてみました。 重力波は一般相対論によって初めてその存在が示され空間の曲がり具合が伝播することによって 説明されています。 しかし空間は曲がらずに光が重力によって曲がると考えることでマックスウェル方程式を延長した 形で重力波が存在するという結果が出ました。 それを以下に示します。 Wをポインティングベクトル(光の運動量密度)とします。 W =E×H/c^2 (1) マックスウェル方程式より dH/dt =(-1/μ)rotE =(-1/μ)(∇×E) (2) dE/dt =(1/ε)rotH =(1/ε)(∇×H) (3) cを光速 として (1/ε)(1/μ)=c^2 (4) (1)(2)(3)(4)およびベクトル公式から (d^2/dt^2)W = 2(∇×E)×(∇×H) - E×(∇×(∇×H)) + H×(∇×(∇×E)) (5) ∇・E=0 , ∇・H=0 として(1)(5)およびベクトル公式から ∇^2(W) = (1/c^2){ 2(∇×E)×(∇×H) - E×(∇×(∇×H)) + H×(∇×(∇×E) } = (1/c^2)(d^2/dt^2)W (6) ρを光の相対論的質量の密度  Gを重力加速度(重力場の強さ) gを重力定数とします。 ρ = (1/c)|W| (7-1) ガウスの法則から divG = 4πgρ (7-2) 光の運動量密度の発散によって光の相対論的質量の密度は減少するので divW = -(d/dt)ρ (8) (7-2)(8)より (d/dt)divW = -(d^2/dt^2)ρ = -(d^2/dt^2)(1/(4πg))divG (9) (d/dt)W = -(1/(4πg))(d^2/dt^2)G (10) W = -(1/(4πg))(d/dt)G (11) これにより重力場の強さGの変化速度はポインティングベクトルに比例することが判しました。 (6)(11)より (d^2/dt^2)W = (c^2)∇^2(W) (12) = -(1/(4πg))(c^2)∇^2((d/dt)G) (d/dt)W = -(1/(4πg))(c^2)∇^2(G) (13) (13)に重力下で光が曲がる観測結果を追加し (d/dt)W = -(1/(4πg))(c^2)∇^2(G) + 2|W|G/c (14) (10)(14)(7-1)より (d^2/dt^2)G = -(4πg)(d/dt)W = (c^2)∇^2(G) -(4πg)2ρG  (15) これをGだけの式にすると(15)(7-2)より (d^2/dt^2)G = (c^2)∇^2(G) -2(divG)G (16) となって1項は伝播成分、2項は重力による曲がり成分となります。 電場や磁場と同様に重力場も真空が保持する状態のひとつであり空間を重力波として伝播します。 このとき同時に電磁波も同じ場所を同じ方向に伝播するので重力波と電磁波は同じものと言えるのでは ないでしょうか。 たぶん一般相対論の重力波と(16)式は互いに座標変換することが可能なのではないかと考えています。 一般相対論では重力波と電磁波が同一か否かについて論じていません。 重力波と電磁波が同じものであると主張したからといって、それが一般相対論と矛盾するとは言えないのでは ないでしょうか。

  • 重力波は電磁波のように曲げたり止めたりできますか

    科学者は光を曲げたりほぼ止めたりする事に成功していますが、重力波を曲げたり止めたりする事も原理的に可能でしょうか。

  • 《ゆづりあひ》は 《力への意志》を凌駕するか?

     《ゆづりあひ》は 《力への意志》を凌駕するか?  (α) 《ゆづる》は 《受け身のチカラ》である。  (α‐1)  ユヅリアヒは 人間力である。  これを検証したい。というのが この問いです。  神崎繁によると ヨーロッパでは――ヨーロッパでも―― チカラを能動・受動のふたつの側面に分けて捉えたと言います。  ○ 神崎繁:アリストテレスの子供たち――ヘーゲル・マルクス・ハイデガー―― in 神崎繁・熊野純彦・鈴木泉編著:『西洋哲学史 III 《ポスト・モダン》のまえに』 2012  によります。  次のように 《ちから》の内容・分析が捉えられています。かんたんに引いておきます。  (β) プラトン『ソフィスト』:《働きかける力( dynamis tou poiein もしくは dynamis energetike, potentia activa )》と   《働きかけられる力( dynamis tou paschein もしくは dynamis pathetike, potentia passiva )》  ・このうち後者を承けての系譜:  (γ) アリストテレス『形而上学』第九巻:《働きを受ける力( dynamis tou pathein )》     ( pathein = paschein )  ・ただちに時間を飛びますが   (δ) コナトゥス という概念をめぐる主題の取り方もあるようです。  (ε) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》      =邦訳:《担いの実り豊かさ》  ・ちなみにこのとき 神につなげる見方も出されているとか。  (ζ) レヰナス:《絶対的な受動性》をさらに想定しつつ:      《受容性( réceptivité )ならざる純粋な受動性( passivité )》      《いかなる受動性よりも受動的な受動性》    このとき  (α‐2) ユヅルは どういう人間の持つチカラでありその発揮であるか?  を解明したい。  そのための事例をふたつ提出します。  (α‐3) ▲(ヰキぺ:葦原中国平定(あしはらのなかつくにへいてい)) ~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A6%E5%8E%9F%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%B9%B3%E5%AE%9A  天照大御神ら高天原にいた神々(天津神)は、「葦原中国を統治するべきなのは、天津神、とりわけ天照大御神の子孫だ」とした。  そのため、何人かの神を出雲に使わした。  大國主神の子である事代主神(ことしろぬし)・建御名方神(たけみなかた)が天津神に降ると、大国主神も自身の宮殿建設と引き換えに国を譲る。  ~~~~~~~~~~~  ☆ オホクニヌシは スサノヲの子孫です。そのイヅモの国を アマテラスの国にゆづりました。  このユヅルちからは    (δ) ハイデガー:《矯(た)めを持つさま( Ertragsamkeit )》        =邦訳:《担いの実り豊かさ》  というチカラではないのか?            *  (α‐4) ○ オホケ・ヲケ兄弟のかたき討ちの物語 ~~~~~   昔昔の話ですが。   その昔 やまとの国では 市長(もしくは国王)の身辺でも 勢力争い・権力闘争が繰り広げられていました。  次代の首長候補の市辺忍歯(イチノへノオシハ)のミコは 対抗勢力の雄略ワカタケルによって 暗殺されました。その野原にともにいたオシハの双子の息子たちは 命からがら逃げて 権力を握った雄略ワカタケルから隠れて 身を長らえることにしました。  ところが オシハの筋の飯豊青(イヒトヨノアヲ=女性)は これら兄弟を 播磨の地で探し出したと言います。迎え入れられ ともに 続いて 首長の務めに就いたのですが そのとき 父の敵(かたき)を取らなければいけないという話が出ました。  雄略ワカタケルは もう死んでいました。  弟のほう(顕宗ヲケ)でしたかが 強硬派で そのみづからに首長の位を譲っていた兄(仁賢オホケ)に命じて ワカタケルの陵墓を壊せと指示しました。  兄の仁賢オホケは 行って その陵墓の端っこを少し破壊して 戻ると その旨を 伝えました。弟も これを了承しました。  という話です。  後日談も添えます。  暗殺された野原の近くに 或る老婆(置き目の媼(おうな))が住んでいて じつは 暗殺の現場と その後 イチノヘノオシハが埋められるところを 見ていて その場所を覚えていたそうです。  じっさい 果たせるかな 掘り出してみると 歯が出て来て 出っ歯(押し歯)だったので 実証することが出来たとさ。  ▲(ヰキぺ:顕宗(ヲケ)天皇)  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%AE%97%E5%A4%A9%E7%9A%87  ~~~~~~~~~~~~~~  必ずしも定義づけも理論化もしていないのですが:   (α‐1‐1)  ユヅリアヒは 人間力ではないか?  自由なご見解をお寄せください。

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道も仏教も 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?   

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道関連にしても仏教にしても 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?

  • 資本主義と社会主義について

    教えていただきたいです。 詳しく研究などしているわけではなく、私自身知識や理解度が深いわけではないので、子どもにもわかるような、わかりやすく簡単な説明で結構ですので、教えていただきたいです…。 - - - - - - - - - - - - - - - - 資本主義と社会主義の違いについて調べました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111131491 資本主義 本物の殿様(国家権力)に邪魔されることなく暴力や身分に邪魔される事無くお金の力と才覚によって誰でも自由気ままにお金儲けが出来る事に重点を置いた経済政策。問題点は金の力による横暴な守銭奴が発生しやすい事。 社会主義 ある日突然近所の金持ちの高級車は便利そうだから近所みんなで平等にそれを使うべきとし、その方が全員裕福になれるとした一見論理的だが実際は多数の貧乏人の横暴がまかり通った経済政策。問題点はその後誰も高級車を買おうと努力しなくなる事。 大変わかりやすい説明なのですが、 社会主義国の ソ連 ができたとき、資本主義の国はその社会主義の影響を恐れました。 (ex 1918年シベリア出兵はソビエト政権打倒のために資本主義国がおこなった) ここで疑問なのが、なぜ資本主義国は社会主義国の影響を恐れるのですか? 資本主義と社会主義では政治・経済の方法がまるで逆のやりかただというのは聞いたことがありますが… 資本主義の国に社会主義の影響がでてくるとどうなってしまうのですか? 今の北朝鮮は社会主義ですよね? 個人的な意見ですが、私は全くうらやましく思いませんし、社会主義は「皆等しいが、皆貧しい」というイメージがあります。 社会主義のメリットはなんですか? あとは、世界恐慌の時に社会主義国のソ連は一人勝ちだったということを聞きましたが、なぜ社会主義国のソ連は世界恐慌の影響をうけなかったのですか? すごく小さいことですが、勉強していて少し気になったので… よろしくお願いします。

  • 命題の問題でわからないところがあります。

    ただいま公務員試験の数的処理をやっているのですが、 何度解説を見てもなぜそうなるのかわからない問題があります。 なぜこの答えにあんるのか教えていただきたいです。 <問題> 次のことがわかっているとき論理的に確実にいえるものはどれか? 1.法律学と政治学がともに得意なものは、数的処理は得意でない 2.数的処理か政治学のうち 少なくとも一方が得意でないものは経済学は得意である。 1.数的処理が得意でないものは、法律学と政治学はともに得意である。 2.数的処理が得意なものは、法律学は得意でない 3.政治学が得意なものは経済学も得意である。 4.経済学が得意でないものは、政治学も得意でない。 5.経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。 <答え> 5. <私の疑問点> これは命題の問題なので、 素直に図示してみました。 1.法律学かつ政治学→数的処理(上にバー) 2.数的処理または政治学(上にバー)→経済学 これら2つの待遇をとって、 1.数的処理→法律または政治学(上にバー) 2.経済学(上にバー)→数的処理かつ政治学 となります。 ここまでは私の力でもわかるのですが、 選択肢1~5の検討で肢1.3.4は明らかに×だとわかるのですが、 肢2.5で悩みます。 2の数的処理が得意なものは、法律学は得意でないというのは 対偶の数的処理→法律または政治学(上にバー)ということから、 数的処理が得意でも法律が得意でないか政治学が得意でないか どちらも考えられるので× これはわかるんです。 ただ5の経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。がなぜ 正解になるのかわかりません。 私の考えでは経済学(上にバー)→数的処理かつ政治学ということから 経済学が得意でないものは数的処理と政治学が得意といえます。 また数的処理→法律または政治学(上にバー)ということから、 数的処理が得意なものは、法律または政治学のどちらか一方が 得意でないといえます。 この場合まとめますと、 経済学が得意でないものは結局いきつくのは 法律または政治学のどちらか一方が得意でないということなので、 選択肢のように経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。 とは必ずしもいえないのではないかなと思います。 理由はどちらか一方であるから 必ずしも法律学も得意ではないには結びつかないと思います。 もしこれが通るのであれば肢3もOKになるのではないかと思います。 長々と申し訳ないのですが、 決定的な解決法があればよろしくお願いいたしますm(_ _)m

  • 思考型中心のこの世界の構造を呪う。男性が権力を握るのは当然?

    心理学のある学者が提唱している「思考型」と「感情型」という人間の性格について 「思考型」→物事を客観的に一歩引いて見る。行動の基準は他人の感情ではなく論理を重視して動き、分析好き。そのため、ビジネスや政治、司法など客観的な判断が必要とされる分野で力を発揮する。男性に多い。 「情緒型」→感受性、感情移入に優れる。行動の決定は自分や他人の感情を考慮して行われる。相手を害さないように「愛想のよいイイ人」である。 人を喜ばせたいため社会福祉的な仕事、教育関係、に多くみられる。女性に多い。 というもの。 ここからは私の意見。 「世界の主要な力ある地位に就くのは大抵思考型である」 この世は思考型(の男)中心に回っている。 たとえば世界を自分中心に回そうと思ったら権力の中枢にいることが必須である。 権力の座に上り詰めるにはまず受験で勝たねばならない。 ところでこの受験というものは論理的思考や分析力を測るものであるがこれは思考型が有利である。なぜ受験勉強では情緒型のウリである、感情を読み取る力や感受性、感情移入などの能力は測定されない? それはこの制度、もっと言うなら社会の構造を形作っている者自身が思考型だからだろう。 思考型が得意とする論理能力が図られ、情緒型が得意とする感情能力が重視されないというこの受験制度を作った者自身が思考型なのだ。 思考型は情緒型のように人との心的交流・調和を大切にはせず勝ち負けを重視し競争好きである。そのため、世の中の競争を勝ち抜いていく。 また、他の人間の苦しみに頓着せず目的を達成しようとする。 たとえばこの世を動かす政治家なんか思考型集団そのもの。確かにあれは他の人の感情を考慮するような優しい情緒型の人間では務まらない。 アメリカの世界屈指の財閥であるロスチャイルドなどは策謀により政治家を買収し武器を輸出し巨万の利益を得ている。 また、タイタニック号は実は保険金を手に入れ経営難を乗り切るためJPモルガンという金融業界の財閥に沈められたという。 これでどれだけ思考型が自己の利益・目的のためならば人の痛みや苦しみに頓着しないかが分かるだろう。そう、思考型は行動の基準を感情におかないのだ。 また思考型は感情が未分化なため感情を読み取れない。そのため殺人犯は思考型つまり男が多い。いい例が女子高生コンクリート詰め事件、栃木リンチ事件。感情機能が分化していなければ、こんな残虐行為も平気でやる。 現に犯人はこう言っている。 「別に熱い(←熱湯を被害者に浴びせた)のは自分じゃないんで構わないと思った」 この発言から犯人は人の痛みを想像できないのだと分かる。これは感情が未分化だということ。そしてそれは思考型の特徴である。「犯罪者で異常だからだろ」「全部の思考型(男)がそうではない」という反論があるかもしれない。だがこれはすべての思考型の傾向であり、底流では同質のものだ。たとえばこの事件に対するスレッドを見ていると、男性による書き込みは感情を無視したものが多い。「ふるじゅん(女子高生コンクリート詰め事件の被害者の名)の墓でオナニーしようぜ」というのさえあった。男にこの手の書き込みは多い。よって思考型の感情機能の未分化さは犯罪者に限ったことではなく大方の男性、つまり思考型の基本的な傾向であるといえる。 一方情緒型は殺人には走りにくい。女の殺人鬼より男の殺人鬼の方が多いことは明白だろう。それは女は大半が情緒型だからだ。 情緒型はどうしても犠牲者へ感情移入してしまうため、思考型ほど過激な競争、攻勢には出られない。不快な対象には殺人といった外に向かって攻撃をするのではなく自分へと向かい「抑うつ」という形をとり、ただ自分ひとりで暗く落ち込み競争からはずれていくだけである。情緒型が世界の主要なポストに就けず、サポート的立場に終始しているのもこのへんにあると思う。情緒型が大半を占める女性が踏み台にされてきた歴史がそれを証明している。 結論。この世は思考型にとって生きやすく、情緒型は思考型に利用されるか食われるだけの世界である。世界の政治・経済の権力は、ほとんどすべて思考型に握られている。否、思考型は、競争心、客観性、論理性、分析力が優れているので(これは知能の高い場合だが)どんな分野でも情緒型より成功しやすいのだ。まさにこの世は思考型のためにあるようなもの。 男が支配し女が支配されてきた。男に思考型が多く女に情緒型が多いからだ。 女は脇役であり、補助的存在でしかないという現実。これは生物学的なものでありどうしようもないことだ。情緒型女である私としては男ばかりが中心になるこの世の構造が恨めしい。男は殺人など好き放題やらかし、財閥や政治権力、などを握り、自身の利益のためにタイタニック号を沈める。 皆さんはどう考えますか。

  • 《アース力》は 慈悲なるチカラだ。

     モノ(質料)のエネルギー・力・運動と 人間の社会的な力・運動とは ちがうと思われる。  人間の運動・生活が 仮りにすべて物体の自然運動から成っていると見る場合でも 人間はこれらを選択し加工したり排除したりする。一方で物質の自己運動は 人間の手に負えるものだとは考えられないが 他方でこの運動を人間は 人間的なものとして・社会的なものとして 方向づけないわけではない。  このような社会主体としての人間の 殊に《わたし》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。もちろんまったくの空想です。   1.重力 :《 〈わたし〉 の社会的な力》   2.電磁相互作用 :《 〈わたし〉 の超現実》=《 幻想 〔としての意識〕》   3.強い相互作用 :《根源的な 〈わたし〉 》   4.弱い相互作用 :《とにかく〈わたし〉というもの》  これらの人間の力つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。  いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。  第二の《〈わたし〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。  幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらには何か確かに作用が起こったときそれは 自分に都合のよいように別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。  このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の《とにかく〈わたし〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。  これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈わたし〉》をとおして 接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈わたし〉》を意識し始め それぞれが《わたしの超現実》という場を夢見始めるに到る。  《根源的》というのは ここでは かの相手とのかかわりにおいてとにかくこのワタシという存在を意識し自覚し始めるといった事態を言っている。  《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの自己紹介の程度までではある)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場あるいは付き合いの形が 成立する。  第三の《根源的な〈わたし〉》というのは さらに進めば自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己確認の作用である。  これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。  以上これらの三つが 大きくは同じ場でむしろ同じ力の三態として はたらいている。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪)とよぶのにも 不都合はない。  最後に 第一の《〈わたし〉の社会的な――時には公共的な――力》が重力であり 表現として万有引力(?)である。主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。  男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(つまり家族としてのふつうの社会生活)にかかわった力の問題にあたっている。婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。  婚姻に限らず 一般に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって 或る主題の科学的知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。  けれども 個人の二角関係のうちの 男女の対(ツイ)関係における婚姻という結びつきは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。     *  さて このうち 意志の力に注目する。  そうして 事例を男女のツイ関係から ふつうの市民どうしの二角関係に移す。  ツイ関係が 互いに自由で対等であるのと同じように 人と人との二角関係も そうである。わづかにそこには 歴史的な身分関係などのヒズミが作られ社会的なシガラミを引きずっている。  一定の組織や全体としての社会組織の権限関係などから 公式の権限によるにしろそれにまつわる非公式のチカラ関係によるにしろ その人間関係には まなざしを上からそそぐ者とそれを下で受け取る者との上下関係が発生し 何かとまとわりつくようになる。  となると 根源的なワタシはややもするとないがしろにされ ただそこにいる《とにかくワタシというもの》が目にとまるだけのようになり 果てはその《そこにいる》ことの社会的な力学のみによって クウキという名の幻想的な場が築かれる。  このクウキにしたがうにせよ クウキの醸し出される元から実際にガミガミ言われるにせよ そこでの人間関係は ガミガミ役とそのデンパを受けるアース役との二角関係となりがちである。  このアース役の受動的な重力としての意志 これが いわゆる無縁慈悲なるチカラである。  社会を支えている。  自由なご見解を寄せてください。