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電磁力(権力)が 重力(意志)を凌駕するか? 

kurinalの回答

  • kurinal
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回答No.4

>「このいとしき・うるわしきわが重力は どこへ向かっているのか? 何を欲しているのか? 資本の論理に屈服しているとき 何を思っているのだろうか?」 何を欲するも何も、重力だからね。 >「どこへ向かっているのか?」・・・「重力」だからね? >「屈服しているとき」・・・重力を屈服、ということだから、なにか?アインシュタイン以上の、ということなんでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます くりなるさん。ご回答をありがとうございます。  ☆☆(趣旨説明欄) 0. まづこの問いにかんするかぎり 自然科学の用語はすべて たとえでのお話ですとおことわりします。  ☆ というように 《たとえ》として捉えてください。  電磁作用のほうが 重力よりもつよい。ということのタトエとして捉えてください。どうでしょう。  そのときこの重力を ひとの意志だとして当てはめるなら その意志は 何を思っているのだろうか。こういう問いです。

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    心理学のある学者が提唱している「思考型」と「感情型」という人間の性格について 「思考型」→物事を客観的に一歩引いて見る。行動の基準は他人の感情ではなく論理を重視して動き、分析好き。そのため、ビジネスや政治、司法など客観的な判断が必要とされる分野で力を発揮する。男性に多い。 「情緒型」→感受性、感情移入に優れる。行動の決定は自分や他人の感情を考慮して行われる。相手を害さないように「愛想のよいイイ人」である。 人を喜ばせたいため社会福祉的な仕事、教育関係、に多くみられる。女性に多い。 というもの。 ここからは私の意見。 「世界の主要な力ある地位に就くのは大抵思考型である」 この世は思考型(の男)中心に回っている。 たとえば世界を自分中心に回そうと思ったら権力の中枢にいることが必須である。 権力の座に上り詰めるにはまず受験で勝たねばならない。 ところでこの受験というものは論理的思考や分析力を測るものであるがこれは思考型が有利である。なぜ受験勉強では情緒型のウリである、感情を読み取る力や感受性、感情移入などの能力は測定されない? それはこの制度、もっと言うなら社会の構造を形作っている者自身が思考型だからだろう。 思考型が得意とする論理能力が図られ、情緒型が得意とする感情能力が重視されないというこの受験制度を作った者自身が思考型なのだ。 思考型は情緒型のように人との心的交流・調和を大切にはせず勝ち負けを重視し競争好きである。そのため、世の中の競争を勝ち抜いていく。 また、他の人間の苦しみに頓着せず目的を達成しようとする。 たとえばこの世を動かす政治家なんか思考型集団そのもの。確かにあれは他の人の感情を考慮するような優しい情緒型の人間では務まらない。 アメリカの世界屈指の財閥であるロスチャイルドなどは策謀により政治家を買収し武器を輸出し巨万の利益を得ている。 また、タイタニック号は実は保険金を手に入れ経営難を乗り切るためJPモルガンという金融業界の財閥に沈められたという。 これでどれだけ思考型が自己の利益・目的のためならば人の痛みや苦しみに頓着しないかが分かるだろう。そう、思考型は行動の基準を感情におかないのだ。 また思考型は感情が未分化なため感情を読み取れない。そのため殺人犯は思考型つまり男が多い。いい例が女子高生コンクリート詰め事件、栃木リンチ事件。感情機能が分化していなければ、こんな残虐行為も平気でやる。 現に犯人はこう言っている。 「別に熱い(←熱湯を被害者に浴びせた)のは自分じゃないんで構わないと思った」 この発言から犯人は人の痛みを想像できないのだと分かる。これは感情が未分化だということ。そしてそれは思考型の特徴である。「犯罪者で異常だからだろ」「全部の思考型(男)がそうではない」という反論があるかもしれない。だがこれはすべての思考型の傾向であり、底流では同質のものだ。たとえばこの事件に対するスレッドを見ていると、男性による書き込みは感情を無視したものが多い。「ふるじゅん(女子高生コンクリート詰め事件の被害者の名)の墓でオナニーしようぜ」というのさえあった。男にこの手の書き込みは多い。よって思考型の感情機能の未分化さは犯罪者に限ったことではなく大方の男性、つまり思考型の基本的な傾向であるといえる。 一方情緒型は殺人には走りにくい。女の殺人鬼より男の殺人鬼の方が多いことは明白だろう。それは女は大半が情緒型だからだ。 情緒型はどうしても犠牲者へ感情移入してしまうため、思考型ほど過激な競争、攻勢には出られない。不快な対象には殺人といった外に向かって攻撃をするのではなく自分へと向かい「抑うつ」という形をとり、ただ自分ひとりで暗く落ち込み競争からはずれていくだけである。情緒型が世界の主要なポストに就けず、サポート的立場に終始しているのもこのへんにあると思う。情緒型が大半を占める女性が踏み台にされてきた歴史がそれを証明している。 結論。この世は思考型にとって生きやすく、情緒型は思考型に利用されるか食われるだけの世界である。世界の政治・経済の権力は、ほとんどすべて思考型に握られている。否、思考型は、競争心、客観性、論理性、分析力が優れているので(これは知能の高い場合だが)どんな分野でも情緒型より成功しやすいのだ。まさにこの世は思考型のためにあるようなもの。 男が支配し女が支配されてきた。男に思考型が多く女に情緒型が多いからだ。 女は脇役であり、補助的存在でしかないという現実。これは生物学的なものでありどうしようもないことだ。情緒型女である私としては男ばかりが中心になるこの世の構造が恨めしい。男は殺人など好き放題やらかし、財閥や政治権力、などを握り、自身の利益のためにタイタニック号を沈める。 皆さんはどう考えますか。

  • 《アース力》は 慈悲なるチカラだ。

     モノ(質料)のエネルギー・力・運動と 人間の社会的な力・運動とは ちがうと思われる。  人間の運動・生活が 仮りにすべて物体の自然運動から成っていると見る場合でも 人間はこれらを選択し加工したり排除したりする。一方で物質の自己運動は 人間の手に負えるものだとは考えられないが 他方でこの運動を人間は 人間的なものとして・社会的なものとして 方向づけないわけではない。  このような社会主体としての人間の 殊に《わたし》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。もちろんまったくの空想です。   1.重力 :《 〈わたし〉 の社会的な力》   2.電磁相互作用 :《 〈わたし〉 の超現実》=《 幻想 〔としての意識〕》   3.強い相互作用 :《根源的な 〈わたし〉 》   4.弱い相互作用 :《とにかく〈わたし〉というもの》  これらの人間の力つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。  いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。  第二の《〈わたし〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。  幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらには何か確かに作用が起こったときそれは 自分に都合のよいように別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。  このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の《とにかく〈わたし〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。  これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈わたし〉》をとおして 接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈わたし〉》を意識し始め それぞれが《わたしの超現実》という場を夢見始めるに到る。  《根源的》というのは ここでは かの相手とのかかわりにおいてとにかくこのワタシという存在を意識し自覚し始めるといった事態を言っている。  《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの自己紹介の程度までではある)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場あるいは付き合いの形が 成立する。  第三の《根源的な〈わたし〉》というのは さらに進めば自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己確認の作用である。  これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。  以上これらの三つが 大きくは同じ場でむしろ同じ力の三態として はたらいている。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪)とよぶのにも 不都合はない。  最後に 第一の《〈わたし〉の社会的な――時には公共的な――力》が重力であり 表現として万有引力(?)である。主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。  男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(つまり家族としてのふつうの社会生活)にかかわった力の問題にあたっている。婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。  婚姻に限らず 一般に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって 或る主題の科学的知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。  けれども 個人の二角関係のうちの 男女の対(ツイ)関係における婚姻という結びつきは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。     *  さて このうち 意志の力に注目する。  そうして 事例を男女のツイ関係から ふつうの市民どうしの二角関係に移す。  ツイ関係が 互いに自由で対等であるのと同じように 人と人との二角関係も そうである。わづかにそこには 歴史的な身分関係などのヒズミが作られ社会的なシガラミを引きずっている。  一定の組織や全体としての社会組織の権限関係などから 公式の権限によるにしろそれにまつわる非公式のチカラ関係によるにしろ その人間関係には まなざしを上からそそぐ者とそれを下で受け取る者との上下関係が発生し 何かとまとわりつくようになる。  となると 根源的なワタシはややもするとないがしろにされ ただそこにいる《とにかくワタシというもの》が目にとまるだけのようになり 果てはその《そこにいる》ことの社会的な力学のみによって クウキという名の幻想的な場が築かれる。  このクウキにしたがうにせよ クウキの醸し出される元から実際にガミガミ言われるにせよ そこでの人間関係は ガミガミ役とそのデンパを受けるアース役との二角関係となりがちである。  このアース役の受動的な重力としての意志 これが いわゆる無縁慈悲なるチカラである。  社会を支えている。  自由なご見解を寄せてください。