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電磁力(権力)が 重力(意志)を凌駕するか? 

hokekyou333の回答

回答No.5

なにも、「権力」を「電磁力」、「意志」を「重力」に例えなくても、そのまま書けば意味が通じる文を、なぜ、例えを入れて問われているのでしょう? たぶん、電磁力で重力のある物体を浮かして隙間をつくり、権力の敷いたレールの上を逆らい難く少しの動力で効率的に一方の方向に走らせる力を「権力」に例えているといったことなのでしょうけれど、かえってこの人ほんとうに本気なのか^^と思ってしまいます。 ですが、これはおそらく、そういう文体での表現のくせと考えられるものとも思います。(たしかご自分でも、その辺のところだと思うのですが「くせ」と書かれていましたよね) 内容自体は深いことを問いかけようとしているようにも思えるからです。 例えの部分はほとんど無視させていただく形で回答させていただきます。(そのへんは あまり気にしないで書かせていただくということです。 資本の論理は、確かにその悪い面を浮かび上がらせるならば、弱肉強食のその面はさらに投機によって加速させられていて、そのパワーが政治に悪徳のレールを敷いてしまう、という面がありますよね。 ですが、可能性としては、例えば 仏国を実現出来た暁には、資本主義社会自体のままでも、投機自体が賭けや駆け引きを越えて仏の国を応援する形で働きますので、質がまるで違ってくるはずです。 すると、 資本の論理の本質自体を「=権力」とは、必ずしも言えない面があると思えます。 ですが、ここも そちらの質問の中での「資本の論理」という言葉を「=悪徳権力のレール」として解釈してみましょう。 過去にては大勢ほとんど変わっていないわけですからね。 私の場合その質問に対して浮かび上がる想いは、《暴対法との闘い》ということが、「経済の二重構造化」以前に切実な課題として考えられてきます。 この具体例を掲げさせていただいたのは、 もし、そのような具体例を考えてのことでないと、権力といっても意志といっても、あまりにも雲の上からさまざまな色と変化自在な二種類の雲の動向を回答せよと言うように、文字通り雲をつかむのような質問にも感じられてしまうからでもあるのです 仏法の方からの「罪と罰」の概念は、壮大なスケールのいわゆる3世に渡る因果論、輪廻転生を前提とした、しかも那由多劫も昔からの因果論という例えになっていて、さながら因果論の一大叙事詩の様相を持っているその中にて語られているものです。 そのへんが少し一神教の教えでの「罪と罰」の概念とは異なってくるとおもいます。 少しというのは、おそらく本質は同じなのですが、罰を因果の流の中にとらえんとする気迫のあたりが仏法のほうがレベルが高いと思われるのです。 十界互具論の境涯論はそれ自体奥が深いですよ。 十界がそれぞれ十界を互具しているという組み合わせで「百界」となっているわけですが、その意味合いが奥深いのです。 その境涯の因縁を解くには「妙法蓮華経」の五字を正しく法華経という叙事詩から拾い出さなければならない、という形にもなっていて、その全体の整合性も巨大なスケールです。 罰論自体、寓話の中のおはなしでありつつ、それは、たんなる「仏のお叱り」という物語を越えているわけです。 この寓話、この例えは、決して仏は、厳しい慈父であるとか、だから許すべきでない事には厳しいとか、そんな仏を馬鹿にすれば最大の罰が当たるのは当然とかの、子供のイメージの世界のような卑近で幼稚なイメージでとらえられる世界ではなくて、 仏自体は、完全に「人の深い因果」を悪の流の底にいたるまで理解されていて、まずどんな悪人にも、そのレッテルをいっさいはるはずがないと理解され解釈されるべきことと考えます。 これ、ほんとは当たり前のことですけどね。 一念3千(「百界」×十如是でそれを百回千如として、一念の中に一瞬一瞬おさめての、想いの世界、あるいは人間としての祈りの世界といった意味合いのものだと思ってます)の法門は、すべて、仏のその心あるいは想いの深さ大きさのたとえ話だと思う。 法華経には、常不軽菩薩という仏しか出ていないようなものです。どんな仏かというとそれは、、どんなに悪態をつかれようと、ひどいことをされようとどんな人間をも仏の可能性を宿した尊い命として礼拝しつづけた菩薩が仏ということになります。 それが「妙法蓮華経」の奥理なのですよ、どうして悪人に対して仏法上の罰なんてありえましょうか? 反省させて、未来の幸せへの道を歩ませることは必須と言っても、すこしも非難する心や上から目線の心は そこには存在していないということです。 私達凡夫がなかなかそんな心になれないのは解ってます^^。 でも、本来人間どうしは、友と友という存在どうしなのであり、その過去の「あやまち」に関してはすべて許し、その未来に関してはその「あやまち人」の地獄をではなく天国を魂の底から願い祈り、実際に正しい教育を行って更生させ、心身共に幸せになれる道を切り開く、そいういう努力は精一杯はということですが、しあうのがその道だと思う。 精一杯は、そのように闘いつづけてみるということです。 暴対法は、確かに「悪の因果の急流に生きるような荒くれ者」と関わる因果それ自体を押さえこんでしまおうという社会的権威、権力によって作られた法律ではあるわけです。 社会の存続のためには、過去の《「あやまち」を償って出直す形》を必須とした法律の世界です。 その意味では絶対的な権限と、正しさという概念に守られた法の世界といえそうです。 そちらの言われる(a)ですよね。 しかし、暴対法は、日本のヤクザ集団のように、そのような荒くれ者たちに規律をもたらす組織、ときには人間的に更生させんとする組織にたいしても、その流れへの恐怖から、その人たちのまともな生活を奪ってしまっています。 まさに》血も涙もないような《「社会法の論理」によってです。 更生施設は予測される歪の対策としても、少しは増えたのかというと相変わらずおざなりな形上の施設がほんの少しそんざいしつづけているだけ。 国家、マスコミ、大衆が恐怖にころりと負け、悪の流を、もはや教育する価値も無し、お手上げとサジを投げ、人間の良心の闘いを放棄してしまった姿のはてにこの暴対法は、その因果の流のまま、こうして生まれきたってしまったわけです。 そんな暴対法の闘いにおいて(これはもちろん一例ではあるのですが) 我々宗教者、あるいは宗教哲学者たち、またヤクザの中の人間教育を志向されている方々の無念さを、諦めるべきではないのに「経済的にも政治的にももはやどうしようにもない」ともがく そのへんの心情と対応策を問われているのが、そちらの質問の内容ととらえました。 ↓ 》では 人間とは何なのか? 社会とは何なんだ? どういう成り立ちをしているのか? どこへ向かうのか?《 ↓ 私達文明人の自我の殻の固さから考えても、仏法の人類史観「元本の無明」の深さから考えても、社会法だけではとうてい、この資本の理論、罰則を冷たく罰してしまうその正当化の論理を克服するのは、おそらくどこまで考えてもどこまで語ろうとも無理があると思います。 しかし、私達一人一人の命には仏の可能性が宿っている、そういう尊い命が人間なのである。、 その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。 ならば、仏法を哲学でしっかりと把握して、それによる賢人政治を、社会法による民主主義を越えた形で実現させることが出来れば、悪のレールに「その意志」は いつか必ず勝てると信じてます^^。 資本主義も、その形上はほとんど変えずにも、変質が起こり、その時はままにてその質が仏国土になるでしょう。 おそらく、人類はそこに向かって今歩き出している。 (かどうかはともかく)私は今 そこにむかって命をかけて歩き始めている^^。 以上です。

bragelonne
質問者

お礼

 ほけきょう333さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  自然科学の知識をタトエとして用いる。このことは ほとんどずるいハカラヒによって成り立っています。  おっしゃるように心的現象を扱うなら それとして理論形成すればよい。  自然科学を活用するのなら それとしてやはり理論形成しておかねばいけない。  なのに タトエとして用いようとする。  それは 自然科学の示す世界観――事実と言うべきでしょうか――を 一たん離れているにもかかわらず どうにかして心的現象の方面に活用したい。そんなことをしたら もう自然科学の事実ではなくなるのに その事実をなお――重力なら重力のあり方として――利用してみたい。  こんな感じだと思います。  ★ 内容自体は深いことを問いかけようとしているようにも思えるからです。  ☆ ええ。手前味噌になりますが そのように目指します。  つまり もっとざっくばらんに言えば 心の問題にかんして捉えたいし深く考えてみたい。そしてそのためには むしろデタラメなものごとを出して来て その世界に一たん自己をまた心を置いて じっさいの心の動きについて――ほんとうのところを――探ってみたい。これです。  自然科学の知識は けっきょく虚構として受け留めてみようと言っています。そのように自分の前に置かれた虚構の世界にわが身を置き心もそこで活動するという場をこしらえてみる。  そうすると あんがい現実の世界とのつながりがあると感じる。あるいは 現実の世界のことが むしろ見えて来る。    そういった思考実験であるかも知れません。      *  ★ 仏法の方からの「罪と罰」の概念は、壮大なスケールのいわゆる3世に渡る因果論、輪廻転生を前提とした・・・  ☆ 別途設けられたご質問にもかかわりますが 《因果応報説をからめた輪廻転生論》は わたしにはお呼びではありません。無視します。  なぜなら 同じ DNA を持った人は自分のほかにはいないからです。生まれ変わりは 絶対に認められません。そのように過去世から現世にわたる悪因悪果・善因善果の議論は 成り立ち得ません。  たとえば かの拉致被害者たちは どんな前世の悪因によって その被害に遭ったのでしょう?  あるいは もし因果応報としての輪廻転生を認めるなら けっきょくそのつどの今における行為はすべて自業自得として成り立っているというのが その理論的な帰結です。  なるほどそれは そうかも知れません。けれども そんなことは言う必要がさらさらありません。すべてのその都度の行為が そうなのですから。  というよりも そのつどの行為の一つひとつが 悪因悪果としてもそして同時に善因善果としてもまた無記因無記果としても成り立っていることでしょう。こんなことを言っても 意味がありません。一度に全部の要素があつまっていると言っているのですから。       *  ★ 仏自体は、完全に「人の深い因果」を悪の流の底にいたるまで理解されていて、まずどんな悪人にも、そのレッテルをいっさいはるはずがないと理解され解釈されるべきことと考えます。  ☆ これは そういう物語です。言いかえると 冒頭で触れたような《タトエを用いた心的現象論》です。  自然科学の成果としての世界観を持ち出すか 神学のような話を引き合いに出すかの違いです。  ひと言で言えば ブディズムは もうふるい。でしょう。  ブッダター(仏性)は 神の霊である。これで おしまいです。  ブラフマニズムにおける梵我一如の焼き直しです。ブラフマン(梵)もアートマン(我)も 霊です。  ゴータマにあっては 無梵無我一如 です。有神論と無神論とが互いに同等であるように 無梵という無神は 梵という神と 同等です。  後世においては どうもこの無梵無我一如は しっくり来ないということで けっきょく 元の梵我一如に戻りました。ただし 名前は変えています。すなわち 仏仏一如です。  二つ目の仏は ブッダター(仏性)=タターガタ・ガルバ(如来蔵)のことです。  一つ目の仏は たとえば アミターバ・ブッダ(阿弥陀仏)であったり マハーワイロ―チャナ・タターガタ(大日如来)であったりします。  どちらの仏も 神の霊のことです。ブラフマンやアートマンと 名前が違うだけで 神の霊として同じものです。  このブッダターを言っておけば いちいち十界互具だとか一念三千だとかとまで言う必要はないと考えます。実践していることが 肝心ですから。また 十界論を知らずにでも 実践はし得ますから。      *  ★ でも、本来人間どうしは、友と友という存在どうしなのであり、その過去の「あやまち」に関してはすべて許し、その未来に関してはその「あやまち人」の地獄をではなく天国を魂の底から願い祈り、実際に正しい教育を行って更生させ、心身共に幸せになれる道を切り開く、そいういう努力は精一杯はということですが、しあうのがその道だと思う。  ☆ たとえばの話ですが たとえばこのような説法のひとくだりは 何のために言い出されているのか?  こう問うたとき それは 資本の論理が貫かれている政治経済の体制に対して 批判の目を向けないためではないかと言われたら どう答えますか?    批判の目は向けるのだけれど わるいことをやっている人がいても けっきょく常不軽菩薩の精神とおこないとによって あたたかく接して行きましょうと言っているとしたら どうなるでしょうか。  心をあらためるでしょうか。――どうなるか 分かりませんが。  ★ しかし、私達一人一人の命には仏の可能性が宿っている、そういう尊い命が人間なのである。、  ☆ これは 一発です。即身成仏。即得往生。  ★ その仏とつながったら直ちにすべての悪が許せるようになるというわけではないだろう。しかし心は明らかにその方向に向かう。  ☆ いえ。一発です。自然法爾です。ハカラヒなきを自然という。義無きを以って義とす。一発で癒されます。        *  ★ 私の場合その質問に対して浮かび上がる想いは、《暴対法との闘い》ということが、「経済の二重構造化」以前に切実な課題として考えられてきます。  ★ 〔暴対法は〕社会の存続のためには、過去の《「あやまち」を償って出直す形》を必須とした法律の世界です。  ☆ この課題についてのひとつの問い求めとして 次を問いました。  【Q:部落民・在日朝鮮韓国人・暴力団についてのもんだい】  http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5995036.html  たとえばもし賭博や見かじめ料などが社会にとって必要なことであれば いまの暴力団員を公務員として雇えという案が出ています。       *  ★  資本主義も、その形上はほとんど変えずにも、変質が起こり、その時はままにてその質が仏国土になるでしょう。  ☆ 舎衛の三億で行きましょう。ブッダターがともかくはたらく者が 三分の一。それに浮動層としてでも共感する者が 三分の一。反感を持つ者が あとの三分の一。

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     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道も仏教も 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?   

  • 日本語が論理表現にふさわしくないわけがない。

     日本語は 論理表現にふさわしくないか?  ( α ) もし日本語が論理表現にふさわしくないというのであれば その根拠をしめして欲しい。  ( β ) 考えられることは おそらく言語じたいの問題ではなく    (β-1) 論理的に述べない主体の問題である。あるいは   (β-2) 論理的に述べようとしても 人間関係における社会的な力関係からかえって はばかられるという社会力学の問題である。  といった要因があるのか。  ( γ ) 言いかえるとそれは 論理〔つまりいわゆる主格(S)や述格(V)や対格(O)など格どうしの連絡関係〕を省略しても差し支えない文の成り立ちを保っているからであろう。  それは 主題を次から次へポンポンと提示して言い進めるかたち〔――《 A-ハ B-ガ C-ナリ( C-スル)。》なる文型――〕を取っている。ただしそのかたちの中にも 英文などのS-V-O.の論理連絡は むろん 表わされるように成っている。  ゆえに 根拠にはならないと思われるが どうか?  ( δ )=( β-3 ) その上でさらに考えられるとすれば 言語外の要因から自由になっても 主体じしんが あたかも曖昧の美学を信奉してのごとく あいまいに表現しようとする。言ってみれば神道関連にしても仏教にしても 人びとの漠然とした思想(生活態度)ないし言語慣習がそういう傾向を持つ。ゆえか?  すなわち 言語じたいに責任はないけれども 主体じしん( β-1)と社会環境( β-2 )が歴史的に言語の表現形式をあいまいなかたちにすでに固定してしまった。つまりそういう定めなのか?  ☆ どうお考えになりますか?  上のような考えに沿ってにしろ独自のお考えによるにしろ どうすればよいか? ご見解はありますか?

  • 資本主義と社会主義について

    教えていただきたいです。 詳しく研究などしているわけではなく、私自身知識や理解度が深いわけではないので、子どもにもわかるような、わかりやすく簡単な説明で結構ですので、教えていただきたいです…。 - - - - - - - - - - - - - - - - 資本主義と社会主義の違いについて調べました。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111131491 資本主義 本物の殿様(国家権力)に邪魔されることなく暴力や身分に邪魔される事無くお金の力と才覚によって誰でも自由気ままにお金儲けが出来る事に重点を置いた経済政策。問題点は金の力による横暴な守銭奴が発生しやすい事。 社会主義 ある日突然近所の金持ちの高級車は便利そうだから近所みんなで平等にそれを使うべきとし、その方が全員裕福になれるとした一見論理的だが実際は多数の貧乏人の横暴がまかり通った経済政策。問題点はその後誰も高級車を買おうと努力しなくなる事。 大変わかりやすい説明なのですが、 社会主義国の ソ連 ができたとき、資本主義の国はその社会主義の影響を恐れました。 (ex 1918年シベリア出兵はソビエト政権打倒のために資本主義国がおこなった) ここで疑問なのが、なぜ資本主義国は社会主義国の影響を恐れるのですか? 資本主義と社会主義では政治・経済の方法がまるで逆のやりかただというのは聞いたことがありますが… 資本主義の国に社会主義の影響がでてくるとどうなってしまうのですか? 今の北朝鮮は社会主義ですよね? 個人的な意見ですが、私は全くうらやましく思いませんし、社会主義は「皆等しいが、皆貧しい」というイメージがあります。 社会主義のメリットはなんですか? あとは、世界恐慌の時に社会主義国のソ連は一人勝ちだったということを聞きましたが、なぜ社会主義国のソ連は世界恐慌の影響をうけなかったのですか? すごく小さいことですが、勉強していて少し気になったので… よろしくお願いします。

  • 命題の問題でわからないところがあります。

    ただいま公務員試験の数的処理をやっているのですが、 何度解説を見てもなぜそうなるのかわからない問題があります。 なぜこの答えにあんるのか教えていただきたいです。 <問題> 次のことがわかっているとき論理的に確実にいえるものはどれか? 1.法律学と政治学がともに得意なものは、数的処理は得意でない 2.数的処理か政治学のうち 少なくとも一方が得意でないものは経済学は得意である。 1.数的処理が得意でないものは、法律学と政治学はともに得意である。 2.数的処理が得意なものは、法律学は得意でない 3.政治学が得意なものは経済学も得意である。 4.経済学が得意でないものは、政治学も得意でない。 5.経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。 <答え> 5. <私の疑問点> これは命題の問題なので、 素直に図示してみました。 1.法律学かつ政治学→数的処理(上にバー) 2.数的処理または政治学(上にバー)→経済学 これら2つの待遇をとって、 1.数的処理→法律または政治学(上にバー) 2.経済学(上にバー)→数的処理かつ政治学 となります。 ここまでは私の力でもわかるのですが、 選択肢1~5の検討で肢1.3.4は明らかに×だとわかるのですが、 肢2.5で悩みます。 2の数的処理が得意なものは、法律学は得意でないというのは 対偶の数的処理→法律または政治学(上にバー)ということから、 数的処理が得意でも法律が得意でないか政治学が得意でないか どちらも考えられるので× これはわかるんです。 ただ5の経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。がなぜ 正解になるのかわかりません。 私の考えでは経済学(上にバー)→数的処理かつ政治学ということから 経済学が得意でないものは数的処理と政治学が得意といえます。 また数的処理→法律または政治学(上にバー)ということから、 数的処理が得意なものは、法律または政治学のどちらか一方が 得意でないといえます。 この場合まとめますと、 経済学が得意でないものは結局いきつくのは 法律または政治学のどちらか一方が得意でないということなので、 選択肢のように経済学が得意でないものは、法律学も得意でない。 とは必ずしもいえないのではないかなと思います。 理由はどちらか一方であるから 必ずしも法律学も得意ではないには結びつかないと思います。 もしこれが通るのであれば肢3もOKになるのではないかと思います。 長々と申し訳ないのですが、 決定的な解決法があればよろしくお願いいたしますm(_ _)m

  • 思考型中心のこの世界の構造を呪う。男性が権力を握るのは当然?

    心理学のある学者が提唱している「思考型」と「感情型」という人間の性格について 「思考型」→物事を客観的に一歩引いて見る。行動の基準は他人の感情ではなく論理を重視して動き、分析好き。そのため、ビジネスや政治、司法など客観的な判断が必要とされる分野で力を発揮する。男性に多い。 「情緒型」→感受性、感情移入に優れる。行動の決定は自分や他人の感情を考慮して行われる。相手を害さないように「愛想のよいイイ人」である。 人を喜ばせたいため社会福祉的な仕事、教育関係、に多くみられる。女性に多い。 というもの。 ここからは私の意見。 「世界の主要な力ある地位に就くのは大抵思考型である」 この世は思考型(の男)中心に回っている。 たとえば世界を自分中心に回そうと思ったら権力の中枢にいることが必須である。 権力の座に上り詰めるにはまず受験で勝たねばならない。 ところでこの受験というものは論理的思考や分析力を測るものであるがこれは思考型が有利である。なぜ受験勉強では情緒型のウリである、感情を読み取る力や感受性、感情移入などの能力は測定されない? それはこの制度、もっと言うなら社会の構造を形作っている者自身が思考型だからだろう。 思考型が得意とする論理能力が図られ、情緒型が得意とする感情能力が重視されないというこの受験制度を作った者自身が思考型なのだ。 思考型は情緒型のように人との心的交流・調和を大切にはせず勝ち負けを重視し競争好きである。そのため、世の中の競争を勝ち抜いていく。 また、他の人間の苦しみに頓着せず目的を達成しようとする。 たとえばこの世を動かす政治家なんか思考型集団そのもの。確かにあれは他の人の感情を考慮するような優しい情緒型の人間では務まらない。 アメリカの世界屈指の財閥であるロスチャイルドなどは策謀により政治家を買収し武器を輸出し巨万の利益を得ている。 また、タイタニック号は実は保険金を手に入れ経営難を乗り切るためJPモルガンという金融業界の財閥に沈められたという。 これでどれだけ思考型が自己の利益・目的のためならば人の痛みや苦しみに頓着しないかが分かるだろう。そう、思考型は行動の基準を感情におかないのだ。 また思考型は感情が未分化なため感情を読み取れない。そのため殺人犯は思考型つまり男が多い。いい例が女子高生コンクリート詰め事件、栃木リンチ事件。感情機能が分化していなければ、こんな残虐行為も平気でやる。 現に犯人はこう言っている。 「別に熱い(←熱湯を被害者に浴びせた)のは自分じゃないんで構わないと思った」 この発言から犯人は人の痛みを想像できないのだと分かる。これは感情が未分化だということ。そしてそれは思考型の特徴である。「犯罪者で異常だからだろ」「全部の思考型(男)がそうではない」という反論があるかもしれない。だがこれはすべての思考型の傾向であり、底流では同質のものだ。たとえばこの事件に対するスレッドを見ていると、男性による書き込みは感情を無視したものが多い。「ふるじゅん(女子高生コンクリート詰め事件の被害者の名)の墓でオナニーしようぜ」というのさえあった。男にこの手の書き込みは多い。よって思考型の感情機能の未分化さは犯罪者に限ったことではなく大方の男性、つまり思考型の基本的な傾向であるといえる。 一方情緒型は殺人には走りにくい。女の殺人鬼より男の殺人鬼の方が多いことは明白だろう。それは女は大半が情緒型だからだ。 情緒型はどうしても犠牲者へ感情移入してしまうため、思考型ほど過激な競争、攻勢には出られない。不快な対象には殺人といった外に向かって攻撃をするのではなく自分へと向かい「抑うつ」という形をとり、ただ自分ひとりで暗く落ち込み競争からはずれていくだけである。情緒型が世界の主要なポストに就けず、サポート的立場に終始しているのもこのへんにあると思う。情緒型が大半を占める女性が踏み台にされてきた歴史がそれを証明している。 結論。この世は思考型にとって生きやすく、情緒型は思考型に利用されるか食われるだけの世界である。世界の政治・経済の権力は、ほとんどすべて思考型に握られている。否、思考型は、競争心、客観性、論理性、分析力が優れているので(これは知能の高い場合だが)どんな分野でも情緒型より成功しやすいのだ。まさにこの世は思考型のためにあるようなもの。 男が支配し女が支配されてきた。男に思考型が多く女に情緒型が多いからだ。 女は脇役であり、補助的存在でしかないという現実。これは生物学的なものでありどうしようもないことだ。情緒型女である私としては男ばかりが中心になるこの世の構造が恨めしい。男は殺人など好き放題やらかし、財閥や政治権力、などを握り、自身の利益のためにタイタニック号を沈める。 皆さんはどう考えますか。

  • 《アース力》は 慈悲なるチカラだ。

     モノ(質料)のエネルギー・力・運動と 人間の社会的な力・運動とは ちがうと思われる。  人間の運動・生活が 仮りにすべて物体の自然運動から成っていると見る場合でも 人間はこれらを選択し加工したり排除したりする。一方で物質の自己運動は 人間の手に負えるものだとは考えられないが 他方でこの運動を人間は 人間的なものとして・社会的なものとして 方向づけないわけではない。  このような社会主体としての人間の 殊に《わたし》の力を想定し さらに四つの力を仮想してみる。もちろんまったくの空想です。   1.重力 :《 〈わたし〉 の社会的な力》   2.電磁相互作用 :《 〈わたし〉 の超現実》=《 幻想 〔としての意識〕》   3.強い相互作用 :《根源的な 〈わたし〉 》   4.弱い相互作用 :《とにかく〈わたし〉というもの》  これらの人間の力つまり 自己の基体である物質の運動についての意識としての人間の力は 物質としては広い意味の《光》が媒介するものである。  いまわかりやすいように そして基本的にもそうであるように 男と女に対する関係を例にとって考えるのがよい。  第二の《〈わたし〉の超現実》というのは いわゆる光が 視覚などによって起こす電磁相互作用としての力である。男と女のあいだに 電磁場(電気的・磁力的な作用の場)が形成されるのである。これは 《幻想》的であり 幻想としての現実である。  幻想というのは 相互作用がはたらいても それはまだむしろ場の成立であって 何も起こっていないのに 何か起こったと錯覚したり さらには何か確かに作用が起こったときそれは 自分に都合のよいように別の作用が起こったのだと錯覚するか もしくは 何もまだ起こっていないのだと強引に主張するか そのような場合が 多いからである。  このとき これらは 特に意識しなくとも 第四の《とにかく〈わたし〉というもの》をとおして そしてそれは 光の仲間としてのウィークボソンによって媒介されるところの弱い相互作用となって まづは始められていたものであろう。つまり 後でそのような結果として捉えられるものであろう。(何でもないことのほうが 印象や影響が強かったりする場合がある)。  これら二つないし三つの力を要約すると 男と女とは それぞれ《とにかく〈わたし〉》をとおして 接触し 何らかのかたちで 《根源的な〈わたし〉》を意識し始め それぞれが《わたしの超現実》という場を夢見始めるに到る。  《根源的》というのは ここでは かの相手とのかかわりにおいてとにかくこのワタシという存在を意識し自覚し始めるといった事態を言っている。  《弱い相互作用――自由な電子が飛び廻ってのように――》において互いに接触し 《強い相互作用》を働かせる。(ただしまだ 事の始まりとして 互いの自己紹介の程度までではある)。そして次に《電磁相互作用》がはたらいたなら 相互認識の場あるいは付き合いの形が 成立する。  第三の《根源的な〈わたし〉》というのは さらに進めば自己の同一性にとどまろうとする――言いかえると この場合 相手を選ぼうとする――力であり いわば自己の凝縮というような自己確認の作用である。  これは 《糊の粒子(グルーオン)》とよばれるものによって媒介される強い相互作用に属する。もちろん 人それぞれにであり 単純に人それぞれにである限りにおいて人は 独立主観である。この意味で 根源的なと名づける。  以上これらの三つが 大きくは同じ場でむしろ同じ力の三態として はたらいている。独立主観が 孤立しているわけではなく 他の独立主観と 接触したり相互依存的であって 不都合はない。この力は 三態という範囲において もしくは 正負の向きなどを含めたいろんな関係のあり方として それを愛(つまり 愛情と嫌悪)とよぶのにも 不都合はない。  最後に 第一の《〈わたし〉の社会的な――時には公共的な――力》が重力であり 表現として万有引力(?)である。主体の社会的な意味での重さとは 意志のことであり これを同じく 愛(自治・自己経営)と呼ぶのに不都合はないであろう。  男女の関係としては その夫婦一組としての社会的な職務(つまり家族としてのふつうの社会生活)にかかわった力の問題にあたっている。婚姻は 第二の電磁相互作用の場 これが 婚姻関係〔の場〕として新たに確立したときの力の過程である。それは 重力の作用つまり自由意志によるかと思われる。  婚姻に限らず 一般に人びとの連帯が成立するのは やはり 万有引力に比されるべき人間の意志によるのであって 或る主題の科学的知解や 或る問題の解決へ向けての運動として考えられる。  けれども 個人の二角関係のうちの 男女の対(ツイ)関係における婚姻という結びつきは 四つの力が統一的にはたらいているかも知れない。     *  さて このうち 意志の力に注目する。  そうして 事例を男女のツイ関係から ふつうの市民どうしの二角関係に移す。  ツイ関係が 互いに自由で対等であるのと同じように 人と人との二角関係も そうである。わづかにそこには 歴史的な身分関係などのヒズミが作られ社会的なシガラミを引きずっている。  一定の組織や全体としての社会組織の権限関係などから 公式の権限によるにしろそれにまつわる非公式のチカラ関係によるにしろ その人間関係には まなざしを上からそそぐ者とそれを下で受け取る者との上下関係が発生し 何かとまとわりつくようになる。  となると 根源的なワタシはややもするとないがしろにされ ただそこにいる《とにかくワタシというもの》が目にとまるだけのようになり 果てはその《そこにいる》ことの社会的な力学のみによって クウキという名の幻想的な場が築かれる。  このクウキにしたがうにせよ クウキの醸し出される元から実際にガミガミ言われるにせよ そこでの人間関係は ガミガミ役とそのデンパを受けるアース役との二角関係となりがちである。  このアース役の受動的な重力としての意志 これが いわゆる無縁慈悲なるチカラである。  社会を支えている。  自由なご見解を寄せてください。