• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:(芸術などの)「良い」って?)

(芸術などの)「良い」って?

mas-georgeの回答

回答No.1

自分の耳に心地「良い」んだと思います。

ryonos3
質問者

お礼

回答ありがとうございます。一つの参考になりました。 それとここで質問文を訂正致します。 「この曲、良くないけど好きなんだ」 ↓ 「この曲、あんま良くないけどなんか好きなんだ」 こっちならよく聴くので。

関連するQ&A

  • 芸術と平和について

    芸術と平和について 失礼します☆ 大学の研究で、芸術と平和というタイトルでレポートを書きたいのですが タイトルに合う本が見当たりません。 芸術が平和に与える影響は大きいと思います。 ちょっとした写真が人々の心に影響を与えたり、 音楽は心を動かしたり・・・ 芸術が与える影響、芸術で世界にいい影響、平和をなそうとしている ことについて書かれた本をご存知の方、いらっしゃいましたら、 教えて頂けないでしょうか? また、自分が探している本を見つける方法などありましたら、教えて下さい。  泣

  • 芸術は他人に教わってはいけないのですか?

    「音楽はゲイジュツなんだから人に聞くのは間違い。自力で解決できないなら本当にセンスがないということでしょうから、きれいさっぱりあきらめましょう。」と言われたのですが、芸術は他人に教わってはいけないのでしょうか? なぜセンスのない人は曲を作ってはいけないのですか?教えてください。 また、センスってなんなんですか? センスがあって芸術やってる人って例えば誰がいますか? 正直、意味がわからなかったので質問しました。

  • 芸術の重さ

    私自身が、ハッキリとした結論を持てていないことなのです。 最近、ある作家の作品(小説)を巡り、作者と、そのモデルにされたという女性の間で起きた裁判のことを思い出す機会があり、改めて少し考え込んでしまいました。 「人一人の命は地球より重い」とかいうコトバがあります。 これをまねた言いかたをしてみると 「人一人の心は芸術より軽い」 と言えるんだろうか??と。(ヘンな言いかたなのでしょうけど) 私自身、もとが、書く側に身を置いている(いた)者でもあるので、けっこう長年、おりにふれて考えていたことなのですが(多分、筆が進まない原因の一つになってると思います) 芸術作品の重さって?その価値って??芸術は天下無敵??? そのあたりについての御考えや示唆を与えてくださいますでしょうか。 恥ずかしながら読解力ないので、なるべく平易なコトバがありがたいです。よろしくお願い申し上げます。

  • 被災者とわれらにとって 芸術とは何か

     エワという女が 光も曲がることに気づいたとか。わが心にちょっと逆らってみようかと思ったとか。  その前には 自分の感じや思いをそのまま表わしていたかも。夫のアダムに逆らう場合にも わが思いをそのまま表出していたから 言ってみればまだまっすぐであった。    言いかえると 言葉は わが心・わが思いをそのまま表わすとは限らない。もっと早くいえば ひとはウソをつくことができる。そういう意味でも 表現は自由なのだ。このことを やがてエワだけではなくアダムも知ったし そういう振る舞いにそれぞれ自由に及ぶこととなった。  ひとは 言語による表現をもって意思疎通を図る。その必要が現われたとも言い得る。その言葉の海を航くとき 大きなウソ・イツワリという嵐に遭い 難破することも生じ得る。  こうなると 自由あるいは自由意志を擁護したい向きは たとえば《欺かれるなら われ有り》という《哲学》を生む。――世界を知り 世界を変えることをも考える行為である。――《あやまつなら われ有り》と堂々と宣言する。あやまちに気づいたなら われに還る。そこには 生まれつきそなわった自由意志とその自由がある。したがって 表現の自由は そこに同時に 表現した内容についての答責性を帯びることになった。  このとき もし哲学をもう一歩伸ばすなら――超哲学ないし超経験思考として――この自由を 仏性とも神の霊とも言った。これは 非思考として《信仰》と呼ばれる。  この個人の信仰を いわゆる観想・瞑想において それは思考に非ずであるにもかかわらず 人間の言葉で思考の次元に置きかえて言い表わすことが起こる。    神の霊の宿ると言われる身と心において その自由に従っているなら   ば――つまりは へそを曲げウソをつくのではあるが これをあやまちと   して気づくときその自由に留まるならば―― ひとは ひとを殺すことも   なければ むさぼることも裏切ることもなかろう。  といった命題を得る。  この命題を どう思ったか 格言として受けとめ規範化しようとする。《殺すなかれ・むさぼるなかれ・姦淫するなかれ》という戒律としてまた道徳として 神の霊に代えて崇拝するやからが現われる。つまりそのときこれを神のおきて(法)として 説き始めたのが 《宗教》である。  一般に 集団をつくりその集団の振る舞いにかんする規則をもこしらえ この規範道徳と組織運営上の規則という物指しで人間の自由を捌(さば)こうと言うのだ。やがてこれが権威とさらに権力を持つようになると――つまり それにあざむかれて従うわれら阿呆な人間がいるということだ(欺かれるなら われ有り)―― 人間が人間を勝手に裁くというあやまちを繰り広げるようになる。宗教は 個人の信仰の自殺行為である。  《科学》は哲学をさらに詳しく問い求めたものである。それでも哲学と分けるのは たとえば人間の社会について・そして中でも殊に経済活動については 或る種の仕方でその活動領域として分立しうると考えられるからである。利害関係をどのように――個別的にも総体としても――捉えるかによって 見方が分かれ得るからだと考えられる。哲学は 社会科学となる。  あるいは 誰れの思考や行為であるかにはかかわらず ひとしく認識しうるモノ・コトの世界がそれとしてあるとなれば この世界をやはり分立させそれに対しては 自然科学という領域を 設定している。  果てさて 《芸術》は これらの定義や分野の設定などなどをすべて取り払ってまったく自由に表現の自由を追求する人間の自己表出および自己表現なる行為である。ゆえに手段は 言葉に限らない。哲学に通じる人間の真実――あるいは 稀には科学の問い求める経験的な世界の真実――がそこに描かれていると人が感じ得るなら よいものだと言われる。  ということは われわれおのおのの日常生活における一挙手一投足が 芸術行為であると考えられようか。果たして いかに?   つまりは この生活日常がわれらが芸術行為であり この芸術が 互いに差し伸べる支援の手であるのか。そこにわれらがきづなはあるであろうか。

  • 芸術的感性の有無

    芸術的感性のある人とない人とは、どういうところから違ってきてしまうのでしょうか? そう感じるのは、こういう感じです。 家族や友人と音楽映像(テレビ映画CDなんでもいいです)その他色々鑑賞する機会があると、私は「あ、これ演出すばらしい、粋だ、この音楽いい、編曲すばらしいetc.」色々感じまくっているわけです。その他、美術館のある絵の前に30分釘付けになったり、ある文学作品の一描写や、狙い、試みなどが非常に感動的にあるいは衝撃的にあるいは限りない叫びのようなものを感じることがあるが、周りの人にそういう感性がある人がいない。 もちろん、その人なりの関心事や感じる感性の方向性は違うわけですが、「芸術」という点に絞るとすると、私はアーティスティックであるようです。 そういう人とそうでない人の差はどういうことなのでしょうか?

  • 音楽は、どうであればどうであるほど芸術的なのか?

    もう20年ほど音楽に没頭している者です。 THE BEATLES、YES、QUEEN、MEAT LOAF、DREAM THEATER、菅野よう子、冨田勲、たま、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパン、チャイコフスキー、マーラー、ラヴェル、ショスタコーヴィチ、、 様々な音楽を聴きました。 音楽と向き合う時しょっちゅう思う事があります。それは、 音楽は、どうであればどうであるほど芸術的と言えるのでしょうか?という事です。 ただ単に美しい曲を書ければ芸術的だというのは違う気がします。 なぜなら美しいメロディーの作り方はもう確立されていると思うからです。 既存の概念を覆せば覆すほど芸術的なのでしょうか?それも違う気がします。 既存の概念を覆す事に重点を置いてる(と個人的に思う)現代音楽にはナンセンスな作品がほとんどだと思うのです。 皆さんはどう思われますか?

  • 芸術と平和について☆

    芸術と平和について☆ 失礼致します。法学専攻の大学生です  芸術が平和に与える影響は大きいと思います。 ジョンレノン、オノヨーコをはじめ、様々なアーティストが 活動しています。 現在、芸術が平和に与える影響を考えているのですが、 僕は芸術を今まで分野として研究してきていないので、 芸術家についてあまり知りません 平和に対して、積極的に活動しているアーティスト(音楽家、画家、書道家etc)の方を教えて頂けないでしょうか? それと、東京メトロなどでも、人々の心がいやされるように(大きくいえば、平和のために)、展示物などをはじめ、工夫したり、市町村では自然を増やすことによって、いい町づくりなどをする平和活動(大きくいえばです^^)があります そのように、日本や世界でも、人々の心がいやされるように工夫されていることなどあれば、どんなことでもいいので、教えて下さい また、ビートルズの音楽がアメリカのラジオに流れている時に、昔、その時間だけ犯罪率が減ったそうです。素晴らしい芸術がなせるわざですね このような芸術の力を思わせるエピソードなどもありましたら、教えて下さい☆ 自分でもいろいろ調べましたが、限界があり、この場をお借りし、皆様からの書き込みを参考にさせて頂くことに致しました。 お忙しいとは思いますが、なにとぞよろしくお願いいたします

  • 「美」と「崇高」という芸術の概念にをご教示下さい

    10年ほど前なのですが、坂本龍一氏がつくった「LIFE」という オペラに関し、これは「崇高」ではなく「美」なんだという論評を 見ました。私は坂本氏の音楽はそれなりに聴き続けてきたもの の、哲学用語には疎いので、いわばスルーしたのですが、なんだ か最近またとても気になっています。(その後も何度か「日曜美術館」 などでこの言葉を聞きました)。 ここからが質問なのですが、芸術論、および哲学の中で(おそらくカントで しょうか)「崇高」と「美」という言葉はどういう文脈で使われるのでしょうか。 専門の方にとっては初歩的なことかと思いますので、申し訳ございませんが、 ご教示いただけると幸いです。坂本氏のオペラとは関係ない一般論のご回答 でかまいませんので、ご教示いただきたく、よろしくお願い申し上げます。

  • 芸術好きな人に質問です。

     私は芸術が好きです。  物心つく前から美術館へ行ったり博物館へ行ったりして、(※博物館については美ばかりがあるわけではありませんが、)感性を磨き、美に触れてきました。  音楽も大好きで、場所がどこであれ、いいBGMがかかっていると、つい聞き入ってその場にいついてしまいます。「なんていい音楽なんだろう」「なんてきれいなんだろう」と思うと、ついつい。。  カフェに掛けられている絵画も、高級品ではないけれど、見入ってしまいます。  美しいものに触れたとき、すごく感動しちゃうんです。  その美に浸ってしまいます。  一緒に人がいても、「きれいだねぇ~」なんて会話だけで十分、一緒に眺めていたい、聞いていたい、と思います。    だから、美しいものを聞いた&見た瞬間、人との会話が続かなくなってしまうことが多いのです。。  アンケートなんじゃないの??というコメントもくるかもしれません。。  場違いかもしれませんし、恐縮ですが、ご回答くださったら嬉しいです。  世の中には芸術が好きな人がたくさんいると思います。  私のように、偶然であった美しいものに見たり聞いたりしたときに、その世界に浸ってしまう経験って、皆さんはありますか?  なぜ質問したかというと、私の周囲には、私のように美に浸る人々はめったにいなく、みなおしゃべりに興じていて美に気づかない、見ても&聞いてもなんとも思わない(おしゃべりに興じているほうがいい。)という人々が多いからなのです。  ※私のことを「なんとなく雰囲気がメルヘンだ~」「ほわんとしている」なんていう知人もいます(笑)。    ご回答、お待ちしています。 m(^-^)m    

  • 曲構成と芸術点について

    フィギュアスケートの曲構成(フリーなどの、曲のつなぎ合わせ方)について質問です。クラシック音楽、特にバレエ曲が好きで、白鳥の湖、ジゼルなど全幕をよく見ますが、これらの音楽をフィギュアのフリーに使う時、使う曲の選曲とつなぎ合わせ方のセンスの差が、芸術点に影響しないのか心配です。たとえば、真央選手の「白鳥の湖」ですが、情景~黒鳥のアダージオ~王子のバリエーション~黒鳥のコーダとなってますが、曲のつなげ方が不自然でがっかりです。反対に、金妍児選手のジゼルのつなぎ合わせ方はとても美しく自然な感じでした。曲構成って、芸術点には関係ないのでしょうか?真央選手のファンなので心配です。