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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:ご先祖様の暮らしを知りたいです。)

ご先祖様の暮らしを知りたいです。

川原 文月(@bungetsu)の回答

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回答No.3

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 中々の銘家と推察いたします。 >>2.正徳まで禅定門の位牌が多いです。 「禅定門」「禅定尼」は基本的には、禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)寺院での戒名と考えて良いかと思います。 もし、現在禅宗寺院を菩提寺としていない場合は、先祖の誰かが改宗したものと考えます。 また、武士階級や商人でも藩に関わる仕事をしていた方に「禅定門」「禅定尼」の戒名が付けられることが多く見受けられます。 従って、昔、城があった・・・と言うことですので、武士・・・それも徴兵された百姓などのように「にわか武士」ではなく、城主に仕える身分だったのかもしれません。 ただ、蔵があった・・・と言うことから考えると、城への出入りを許された商人のような気もします。こちらの方が強いかな? >>4.場所は栃木県です。 >>5.実は上記の位牌以外に一つだけ古そうなのがあり、そこには貞和四年とある。 栃木県には足利氏の荘園が幾つも存在し、貞和四年(1348)と言うことは、足利尊氏が征夷大将軍を務めていた時代ですから、栃木県は足利氏の影響力が非常に強かった時代です。 その頃、あなたのご先祖さまは足利氏に直接、または、その家臣たちに取り立てられて、次第に大商人となり、活躍していた可能性が考えられます。 >>7.古い掟では、正月飾りをしてはならぬ、節分や節句、祝い事、祭りごとなど目立つことはしてはならぬ。とあったそうです。 とにかく目立つことはしてはいけないと。 これには2つの考え方ができます。 1.大商人であったから、他人にみせびらかすような派手な行為を慎むと同時に「節約を旨とすべし」のような家訓があった。 2.何かの失態があって、他人(ひと)さまに顔向けができない。そこで、全ての行事は内々に内輪だけで執り行うようになった。 >>8.昔は蔵があったが、火事で燃えてしまった。蔵には長持ちがいくつもあったらしい。他の位牌も燃えたとか? 昔は、現代のように「恋愛結婚」などは、特に、大商人や地主、武士などもそうですが、絶対的にありませんでした。 全て、親が、相手の家格や財力などを基に嫁などは決めていましたので、あなたのご先祖さまも大商人で、当然、それに見合った嫁選びをしたことと思います。 従って、長持ちの中には代々のお嫁さんが実家で用意してくれた衣装などが入っていたと考えられます。 また、他の位牌については、なぜ蔵にあったのか疑問ですが、或いは、母屋も焼失してしまったのかも含めて、貞和四年(1348)から、いきなり、寛文三年(1663)まで、約300年間が飛んでしまっていますので、その間の位牌ではないかと考えます。 総合的に判断すると、城へ出入りを許された「大商人」の家系のように思われます。 余談になりますが、 私の実家は本家は古くは、やはり、平安時代にまで遡ることができますが、江戸時代の宝暦年間(1751~)に、佐渡奉行所が財政難になった時、当時、庄屋であった夘兵衛という者が近隣の庄屋四人に声をかけて資金集めをし、佐渡奉行所へ300両(約3,000~4,500万円)を寄付したことから、佐渡奉行より「○○家を名乗るように」と姓を授かりました。 そして、その夘兵衛の四男が分家をし「△△家」」を起こしたのが私の家です。 ただし、あくまでも農家でした。

munekado2011
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 商人ですか。意外な回答でした。ずっと農民だと思っていたので。 戒名: 謎です。お寺は真言宗なので、改宗したのかもしれません。 蔵: 商人説がやや有力かもしれません。 祖母に連絡したところ、祖母の祖父の代(おそらく江戸後期から明治初期)に蔵があり、燃えてしまったようです。 また祖母の母の実家は商人で家に奉公人がいたそうです。子供女学校に行っていたり、祖母の母の父は趣味で鉄砲狩りをしていたそうです。その祖母の母と父(本件の家系)が婚姻したのですから、同じくらいの家柄だったのだと想像できます。

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