国際結婚や国際恋愛における違和感と他者化の問題

このQ&Aのポイント
  • 国際結婚や国際恋愛の増加により、日本社会では「違和感」と「他者化」の問題が浮上しています。
  • 国際結婚をすると、異文化や異なる言語を持つ相手との生活が始まります。これにより、結婚相手の家族や友人との間には、言葉や行動の違いによる「ギャップ」が生まれることがあります。
  • また、国際結婚や国際恋愛をテーマにした文学作品や映像作品が増えていますが、実際の現場での「ギャップ」は相互理解のきっかけになることが少なく、むしろ「他者化」の要素となることが多いのが現状です。
回答を見る
  • ベストアンサー

親や親族が「ガイジン」・・・

国際恋愛や国際結婚が「ふつうのこと」になりつつある現代日本社会ですが,皆さんは国際結婚をした人々や,国際恋愛をしている人々にたいして,何らかの「違和感」を感じることはありますか? 参考までに: わたしは台湾系日本人で,当然のことですが,親族のなかには台湾の人々がいます。 仮に,いわゆる純日本人とされる女性の誰かが,わたしと結婚することになりました。 結婚式当日,いわゆる純日本人である,わたしの結婚相手の友人や親族は,「わけのわからない言葉(たとえば,多くの日本人にとってはなじみのあまりない台湾語,など)」をぺちゃくちゃ話す,わたしの台湾の親戚に出会うことになるでしょう。髪型のセットが少々異なるとか,女性のメークが異なるなど,文化やら習慣などの,いろいろな「ギャップ」を,いわゆる純日本人とされる人々は,目の当たりにしてしまうことでしょう。 「新郎の親戚の人たちって,怪しい人たちなのかな?」 そのように思ってしまう人々も,少なくないでしょう。話している言葉が違うだけで,化粧が違うだけで,多くの人間が「過剰な他者化」をするからです。 これに関連して,現代の日本社会においては,国際結婚や国際恋愛を「テーマ」にした文学作品,映像作品,さらには,マンガなどが,多くの人々の支持を得るようにはなったものの,「実際の現場」で目の当たりにされる「ギャップ」が,「相互理解のための“きっかけ”」につながらずに,多くのケースでは,そういった要素が「過剰な他者化」につながることから,わたし自身は日本社会のなかで生活をすることのみならず,誰かと「交際」をすることにかんしては,「強いリスク」というものが存在していると,受けとめています。

noname#181693
noname#181693

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.2

私は国際結婚をした側ですが 親戚などからは特に何も言われませんが 仕事で周りにいた人たちには、やっぱり、変わってる人だと思ってた。 と何人かに言われました。 私の結婚相手は、日本語を話せないので私が通訳です。 親戚・親は変な人だとは思わず、ちゃんと相手がどういう行動をするかを見て この人はしっかりした人だ、と判断してくれます。 あなたは、日本語も話せるし台湾系といってもれっきとした日本人…ですよね。 堂々としていればいいのでは? で、今私は結婚した相手の国にいて、ガイジンです。 私は私、相手は相手で周囲の人で「お互いの国でいい人いなかったの?」 と言われることもありますが、聞き流しています。 相手の身内には、無意識のうちに人種差別と勘違いされる発言をする人もいます。 結婚相手と歩いている時に、外国人反対派の人がチラシを渡してきたことも。 国際恋愛・結婚が普通になってきたとはいえ どこの家族でも普通にある、というまでにはなっていません。 だから、いざそうなったらどうしたらいいんだろう?と戸惑う人たちもいて当然と思いませんか?

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「仕事で周りにいた人たちには、やっぱり、変わってる人だと思ってた。と何人かに言われました。」という指摘については,そういうことを「平気で」言ってしまう日本人がいることは,わたしにとっては大きな失望であると同時に,とても遺憾なものです。なぜならば,国際結婚をした人々が「変わり者」であるのならば,国際結婚をした親から生まれたわたしにたいして,「変わり者の子ども」という<まなざし>につながるからです。いまだに,わたしは,いわゆる「ワケあり」なのかな?,と思うときがあります。 「私の結婚相手は、日本語を話せないので私が通訳です。」という指摘については,親が国際結婚をしたという立場から,両親が双方の言葉が使えないことに,わたしは「いらだち」を感じるときがあります。たとえば,わたしの日本の親は台湾人と結婚したにもかかわらず,いまだに北京語(普通語,華語)が話せません。そういった,日本の親の姿をみるたびに,「アンフェアな結婚」をしたのだと,そのように思うときがあります。何のために「結婚」したのでしょうか? お互いが愛していたから,というわけではないのかもしれません。言葉は悪いのですが,「ジャパンマネー」で「嫁を手中に収めた」ということだったのでしょう。回答者さんの場合は,そういうことではないと思います。ただ,みずからの親が,そういった「事情」があるので,いまもどこか,心の奥底には,奥歯に物が詰まったような気持ちです。 「結婚相手と歩いている時に、外国人反対派の人がチラシを渡してきたことも。」このような指摘は,おそらくは,日本国内であったことでしょうか? ほんとうに,なげかわしいことです。

その他の回答 (4)

回答No.5

2度目ですが、周囲の人が変わってる、と思う程度とあなたが受け取る程度は違うと思います。私も相手がどういう真意で言っているかは分かりませんが、「自分は考えたこともない考え方をする」という意味で変わった、と言っている場合もあるでしょう。全てがネガティブな変わってる、ではないですよ。 両親がお互いの国の言葉を話せない、ですけれど そういう国際カップルは無数にいます。お互いの国の言葉が話せなくても 共通の言語があれば構わないはずです。 私たちは相手の国の言葉が共通語で、相手は日本語は話せません。 周囲のカップルは、共通語が英語やその他、という人もいます。 「「ジャパンマネー」で 「嫁を手中に収めた」ということだったのでしょう。」という人もいるでしょうね。 それは、ご両親の関係を見れば分かると思いますよ。 カネにものを言わせ好きにやり放題、言い放題なのか。 それとも、お互いに思いやりを持っているか。 《「結婚相手と歩いている時に、外国人反対派の人がチラシを渡してきたことも。」こ のような指摘は,おそらくは,日本国内であったことでしょうか? ほんとうに,な げかわしいことです。》 →フランスです。外国人反対派、けっこういますよ。結婚相手も嘆かわしいといっていました。 日本だけではないですね。 また、自由の国とは言われているものの、フランス人と国際結婚した人の中では 相手の家族に差別されるとか、結婚前は仲よくしてくれたのに結婚したら冷たくなった、 という人もいました。つきあうのはいいけど、結婚するなら「白人」がよかった、というのが その家族の言い分だそうです。 国際結婚が日本より多い国でも、そういう有様です。 日本はまだまだこれからではないでしょうか? 私があなたの文章を読んでいて思うのは、まず他人の評価を気にしすぎないで 人を好きになればいいのに、ということです(的外れならごめんなさい)。 ご家族親族内のことは、それぞれの家庭で事情は様々ですから、どうとも言えないけど あなたは、そういう状況の中で生まれ育ち、そこからはどうしても逃げられない…ですよね。 もちろんあなたの仰るようにリスクはあるのでしょうけれども それと同時に、他の人にはない可能性もあるわけです。 二つの国の文化や言語が、生まれながらに身近であること。 二つの国のいいところ、悪いところが客観的に見えること。 国際結婚によって生まれた子どもであることによる、悩みや葛藤を持って 生きている人はたくさんいると思います。そういう人と思いを共有し 恨んだり愚痴ばかり言うのではなく、もっと前向きに考えられると楽になるのかな…って思います。 私の親は両方日本人、相手の家系は複雑で フランスのほかにいろんな国の血、アジアの血も混じっています。 相手の血縁の中には親に虐待されたり、戦争中幼い頃母親の国から連れ戻され その後一度も母親に遭っていないとか、色んな話を聞きます。 結婚相手の父親も見た目アジア人の血が濃く、小さい頃にはそれで いじめられたこともあるようです。ですが、とても他人に優しく寛容で 人は皆それぞれ違う、その違いを認めてあげる、という人でした。 私はこれから親になりますが、自分の子どもに あなたのような思いをさせないよう、できることを考えていきます。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「他人の評価を気にしすぎないで人を好きになればいいのに」 この指摘については,わたし自身としては,他人のまなざしは気にはしていないものの,いわゆる「排外的なメンタリティ」が「問題視」されているいまの日本社会の「異常事態」を受けて,いろいろと考えをめぐらすようになりました。 「他人のまなざしを気にしないで活きること。」 これは,大切なことであると思います。 そして,ひとりの「外国につがなりをもつ人間」という立場から,どういった「経緯」があって両親が出会ったのか,ということについては,「はっきりとさせる」必要があるとおもいます。 たとえば,台湾系であるわたしにとっては,日本の親と台湾の親の関係というものが,「語学留学で欧米圏にやってきた日本人女性と,現地の欧米人男性」の<関係>によく似たものであると,受けとめています。ほかにも,「台湾スナックのママをひっかけた」などという<イメージ>もあって,わたしがアメリカでみてきたような(5年間ほどの滞米経験がありました),<愛のある関係>とは「程遠いもの」であることに,「いらだち」を感じたことも多々ありました。

  • bekky1
  • ベストアンサー率31% (2252/7258)
回答No.4

【何らかの「違和感」を感じることはありますか?】 そりゃ、見かけが違えは’違う’と思うし、違いとして、認知はしますよ。 ただ、アナタのは、違和感ですよね? 同じだと思うから、’違和感’なのです。 もし、台湾の人たちでなく、金髪ばっかりとか、髪の赤い、あるいは、色の黒い、などなど、 一目見て違いをわかるなら、逆に、そこから以降、親戚なんだからとか、 人間皆兄弟・・・的なものを日本人の習性して探します。 平和的な人々ならね、同質感をさがす。 ただ、見かけまったく、ご近所さんと違いないのに、しゃべる言葉も、同じようなのに、 なんだかなにしゃべっているかわからない。 私は韓国語に対してこういう違和感を覚えます。 声のトーンが同じ、そして、なんとなく、方言的な違いしか感じないのに、何もわからないから、 しゃべる本人もほとんど日本人だと思えるので、??????と。 韓国の人だと自分の中で決定できるまでは、違和感の連続です。 アナタの危惧は、あまりに似ているから、逆に差異としてチクチク感じるように 違和感なのです。 最初から、まったく違う・・・と認識させるなら、問題はない。 実際、そうなのだし。 他の回答者も言われるとおり、’同じ、差異がない’ではなく、 違う・・・からはじめる。 他の文化と融合するのです、日本人同士だって、家庭内文化は相当に違います。 同じだと思うから摩擦は起きる。 ヨメ姑問題もそうです。 どうして、なんでも、同じでないとだめなんでしょうか? 気がつくと、家の近所には、○○人と思しき人が沢山歩いてる。 言葉でわかる。 ただ、普通にすれ違うだけなら、そういう風貌、容姿の日本人として大して違和感はない。 いわゆる日本人が外人と思うような金髪碧眼の人も、食べるものの影響なのか、着ているのがユニクロだからなのか 妙に、しっくりジャパナイズされていて、いわゆる脂が抜けてる感じで、改めて、ああ金髪ねとか 観察しなおさなくちゃわからないほど’普通の景色’になってる。 完璧な同化を目指さないことです。 ヨメはいつまでもやっぱりヨメであり、婿は婿ですから。 家庭内文化はそういうもので、それに多少の大小があるだけ。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

  • kanakyu-
  • ベストアンサー率30% (1916/6194)
回答No.3

カナダに6年ほどすんでます。こちらは逆に、ものすごい国際化してます。 日本では大変だろうと思いますが、ちょっとアドバイスしたいです。 あなたが交際相手の女性に、国際的な面をあまりみせずに付き合いだした場合は、 後になってから国際的な面を見せると、ついてこれないと感じる人もいると思います。 最初からある程度出していけば、むしろ国際的な所に魅力を感じてくれる人と 付き合いやすくなるのではないかと思います。 日本にも、国際的なことが好きな人と、苦手な人がいると思いますから。 日本にいると同一化していきやすいと思いますが、それとはべつに、 ご自分のルーツに誇りを持っている人をステキだと思ってくれる人が、よいと思います。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。

noname#231223
noname#231223
回答No.1

結婚式の段階まで違和感を感じない? いくら温厚篤実が売りの日本人でも、そんな暢気な人がどれだけ居るでしょうか。 国際結婚で相手が外国人やハーフだということを知らずに披露宴に来るひとも、そうそういないでしょう。 違和感=嫌悪感ではありません。 ただ、お身内がこちらのわからないコトバで楽しげに盛り上がっていれば、疎外感は感じるかもしれませんね。 (日本語がわからないお身内の方がいらっしゃれば、そちらでも「日本語でばかり」と思われるかもしれませんが) 当人と近い身内が、それなりに寛容であれば「リスク」などと騒ぐ必要はないのでは? たとえ「純日本人」同士でも、文化や習慣がまったく同じで何も問題がないなんてことは、そうそうありません。 「面倒」や「苦労」はあるかもしれませんが。 あと、過剰な他者化は、なにも日本人の専売特許ではないことを申し添えます。

noname#181693
質問者

お礼

コメントありがとうございます。 「あと、過剰な他者化は、なにも日本人の専売特許ではないことを申し添えます。」 日本人の「擁護」ということですね。

関連するQ&A

  • 「ビジネス」抜きの「出会い」は可能か

    現代日本社会においては,他者―とくに,恋愛や結婚など,「親密な人間関係」によってつながるパートナー―と出会うことが難しい社会とされています。 「仕事が忙しい」,あるいは,「生活のリズムが異なる」など,さまざまな「理由」があって,他者と出会う「チャンス」をつかむことに悩んでいる人々が多くいます。 そのようななか,なかば「慈善活動」の一環ということで,他者との「出会い」をサポートする人々が注目されました。「経済的な利益」は見込めませんが,「社会貢献」という点においては,とても興味深い活動をしていると,わたしは思います。 そのような人々の活躍の一方で,「出会い」が,「ビジネス」と化していることも指摘されています。「出会い」を求めている人々にとっては,「ビジネス」と化した「出会い」という存在にたいしては,「仕方がない」という気持ちが「心の内」にはあると,わたしは思います。 「高額な参加費」を支払い,「意味のない儀式と化したゲーム」や「ワンパターン化した質疑応答」をくりかえすことに,「出会い」とはこんなものなのか…,「出会い」の「意味」とはどのようなものなのか…などと,激しく自問自答した人々は多くいると思います。 「ビジネス」と化した現代日本社会における「出会い」。このような社会事情のなかにおいては,パートナーを求めている人々にとっては,「非常に不都合な時代」なのかもしれません。 「ビジネス」抜きの「出会い」は,いまの日本社会に存在しますか?

  • 国境を理由に愛は阻まれるものなのか?

    恋愛や婚活の話題が出るたびに思うことですが、「日本人同士の結婚」にこだわる必要があるのでしょうか? このような話題では「日本人同士の結婚」が、つねに前提とされます。 私自身は親が国際結婚をしたことを理由に、国際結婚には抵抗感を感じません。ひとりでも多くの人々が国際結婚をしてくれれば良いのかな、と思うこともあります。そのほうが、日本社会の将来にとって、今後の社会的戦略という意味において良いと思います。生まれたときから、さまざまな文化に触れ、その素晴らしさを知り、楽しんできました。単一民族や同調性にすがる日本人が圧倒的に多いこと(周囲に流される)、外国出身の人々に大小さまざまな抵抗感あるいは嫌悪感をもつ日本人が非常に多いこと(外国出身者が板前になること)も知っていますし、そういった心の貧弱な日本人によって嫌がらせを受けた過去があったものの、私なりの人生を楽しむようにしています。

  • 国家をとるべきか、キンシップをとるべきか

    ・日本人にとって、国家に「すがる」ことの意義とは、どのようなものでしょうか? ・日本人にとって、国家に「すがる」ことと、みずからのキンシップを「重要視」することを天秤にかけたとき、日本人はどちらを選択しますか? ひとりの台湾系日本人という立場をとおして、わたしは、現代社会を生きる、さまざまな日本人と台湾人(さらには、いわゆる中華圏とされる地域に住む人々や、それに「つながり」をもつ人々も含める)をみてきました。 彼ら彼女らのひとつの「大きな違い」は、国家というものに「すがる」のか、あるいは、キンシップを「重要視」するか、ということです。ほかにも、さまざまな違いはあると思います。 近代の明治維新以降、日本人は国家に「すがる」ことを選択しました。それは、良くも悪くも、現代の日本社会を形成しました。しかしながら、そういった、国家に「すがる」姿勢に、批判的な態度をとる日本人は、少なくないと思います。国家に「すがる」ことの弊害に気がついたからでしょう。さらには、国家が「主導」して形成された<キンシップ>にたいする批判も、少なからずあると思います。 日本人も、これからの日本人の「あり方」のひとつとして、現代社会を生きる台湾人や中華圏の人々ように、キンシップを「重要視」すべきではないかと思うときがあります。

  • 「内向き」という「言説」からうかがえるもの

    ここ数年,日本社会においては「内向き」という言葉が,経済界などを中心に論じられるようになりました。「内向き」という言葉には,どのような「意味」,そして,「社会的な背景」があるのでしょうか? たとえば,外国にたいする関心の薄さを「内向き」であると定義する人々がいます。また,他者にたいする関心の薄さを,「内向き」であると理解する人々もいます。ほかにも,向上心の低さなどを「内向き」であると認識する人々もいます。さまざまな「意味」と「使われ方」があることから,「内向き」とは,定義しにくい概念であることがわかります。 この言葉の「意味」や「使われ方」を深く掘りさげると,「内向き」とは社会的な現象ではなく,社会事情を論じるための「言説」のひとつであることがわかります。そして,この言葉の「対象」として挙がるのは,その多くが若者とよばれる,10代~30代の人々です。このことから,「内向き」とは,いわゆる「若者批判」のひとつであることが理解できます。 皆さんが考える「内向き」とは,どのようなもの/ことを指すのでしょうか? そして,「内向き」という言説をとおして,どのような「現代日本社会のすがた」が描かれるでしょうか?

  • 中国語の親族の呼称について

    中国語の親族の呼称について 彼が台湾と日本人のハーフで、来月に台湾へ彼の親戚に挨拶に行くことになりました。(母方) そこで、前もって中国語での親族呼称を知っておきたいと思いました。彼にも聞いたのですが忘れてしまったらしく・・・ 文法書などで見ると祖母や祖父までは記載されているのですが、彼からみて叔父、叔母、従兄弟が明記されていませんでした。 中国語でわかる方がいましたら詳しく教えて頂けたら幸いです。 もし台湾語でもそういった呼称があれば教えて下さい、よろしくお願いします。

  • 現実的思考なのか? それとも,夢を追いたいのか?

    現在の日本社会では,数多くの人々が,恋愛と結婚が,事実上,同義のものと認識しています。恋愛と結婚では,社会的な文脈は異なりますが,現在の日本社会においては,多くの人々が,恋愛も結婚も,同じような前提のうえに成り立つものと,認識しています。恋愛の末に,結婚が存在するという,社会的事情が影響していることは,明らかなことです。 恋愛の対象としたい存在の条件として,(相手の人物が)容姿端麗であることが,たびたび挙げられます。そのような価値観は,まるで,白馬の王子様,綺麗なドレスを身につけたお姫様を彷彿とさせるものです。そのようなものは,夢を追っているようなものでもあります。絵に描いたような,美しすぎる女性,あるいは,イケメンすぎる男性が,恋愛という観点においては,もてはやされます。そして,そのような条件は,結婚においても,同様とされます。 一方,結婚という観点においては,ある程度の経済力があること,(相手の人物の)家族や親族に問題がないこと,一定の社会的地位,さらには,経済的地位を得ていること,などが,極めて重要な条件として語られます。そして,数多くの人々は,それらを,現実的思考のあらわれであると主張します。 しかしながら,恋愛と結婚が同義のものとされる,現在の日本社会では,夢を追うこと,あるいは,現実的思考,どちらが重要なのでしょうか? イケメンや美人と結婚したいし,さらには,そんな人が,お金持ちであったり,あるいは,高学歴者であってほしいという,「ないものねだり」の思考が,現在の日本社会にはみられます。 あなたにとって,恋愛とは,どのようなものなのでしょうか? 夢を追うためのものなのでしょうか? それとも,現実的なものの考えを実践するための,ひとつのあり方なのでしょうか?

  • 「長期売春契約」という人間関係

    先日、現代の江戸落語に大きな影響をおよぼした著名な落語家がこの世を去りました。若手時代より、多くの人々の関心のまなざしを集めた彼は、現代社会に生きる人々に落語の魅力を伝えるべく、落語の枠を越えた芸能活動で、多くの人々の支持を得ました。 いわゆる、ブラックジョークのひとつではありますが、彼は生前、結婚を「長期売春契約」という言葉で評しました。この言葉は、彼独自の、社会を風刺したジョークであると同時に、彼独自の「ユーモア」でもあると思います。 この言葉にかんして、あなたは結婚、さらには恋愛の人間関係を、パートナー間における「売春契約」であると受けとめますか。

  • 「排除型社会」の,とても悲惨な「行く末」…

    「異質な他者」を社会から排除することは,日本社会にとっては,「メリット」があるのでしょうか? 日本社会全体を,あたかも「魔女狩りのような空間」にすることは,日本社会にとっては,どのような「メリット」があるのでしょうか? ・外国出身者 ・外国につながりをもつ人々 ・アイヌ ・アイヌにつながりをもつ人々 ・障碍者 ・同和地区出身者 ・同和地区につながりをもつ人々 ・薬害の被害者 ・ハンセン病患者 ・エイズ患者 ・ホームレス ・生活保護受給者 ・おたく ・ニート,ひきこもり ・いわゆる「ゆとり世代」 ・冤罪被害者 ・ムラ社会的体質 参考までに: 現代日本社会の特徴のひとつに,「異質な他者の排除」が挙げられます。日本社会のなかで生活をしている,多くの人々にとっては,このようなことは,「不都合な事実」であるかもしれません。しかしながら,社会のさまざまな面において,「異質な他者の排除」が公然と行われるようになったことは,日本社会にとっては,負の影響をもたらすのみであると,わたしはおもいます。 ひとりの外国につながる日本人として,このような,「魔女狩りのような空間」となりつつある,いまの日本社会には,「強い危機感」をもっています。なぜならば,わたし自身は,日本国籍を持っているものの,日本社会の一員ではあるものの,外国との「つながり」があることを「理由」に,日本社会から「排除」されるかもしれないという,「危機感」をもっています。 「異質な他者」を「包摂」してしまうくらいの,「強い社会」をつくることこそ,これからの日本社会において重要なことであると,わたしはおもいます。

  • ほんとうの異文化理解・国際理解・多様性の包摂

    ある日本人で,在日コリアンの人々のことをよく知る,大学の先生とお話をしたときのことです。 日本人のなかには,「在日コリアンと仲良くなろうぜ」と言いつつも,やることといえば,「一緒に焼肉食って,マッコリ飲んで,KPOPをカラオケで熱唱するだけ!」ということを,その先生はわたしに教えてくださったのですが,わたしは,このような「やり方」に,「疑問」を持っています。そういう日本人は,麻布にある韓人資料館などに足を運ぶべきだと,わたしは考えます。わたしはそこに一度,行く機会を得て,そのときに,資料館の方に,なぜ,「韓人」という<言葉>を使ったかという「事情」を知る機会を得たのですが,「非常に良い勉強」になりました。 仲良くなりたい,つまり,「他者の理解」をするわけですから,「飲み食い」だけで,ほんとうに実践できるのでしょうか? まさか,「飲み食い」や,「カラオケでどんちゃん騒ぎ」を<演出>することで,<国際理解>を「アピール」することができるのだと,そのような「勘違い」をしている人々が,日本社会にはいるのでしょうか? そのように考えたところ,数日後にわたしはオーストラリア人で日本史研究者のテッサ・モーリス‐スズキの著書を読む機会を得ました。彼女は「上っ面だけの多文化化」という考え方を用いて,現代の日本社会を「厳しく批判」していますが,彼女の指摘するところの「上っ面だけの多文化化」とは,わたしが前に挙げた,「飲み食い」と,「カラオケでどんちゃん騒ぎ」という<演出>そのものであると,わたしは考えました。 わたし自身は台湾系日本人ですが,このような「事情」は,なにも在日コリアン事情のみならず,在日台湾人事情においても,あてはまると考えました。なぜならば,日台交流をうたった「オフ会」ならぬ,「飲み食い」と,「カラオケでどんちゃん騒ぎ」という<演出>が,行われているからです。何回か,わたしはそのような場に足を運ぶ機会を得ましたが,一緒に語学を学ぶことを実践する人々がいる一方で,「飲み食い」と,「どんちゃん騒ぎ」目的で参加しようとしている人々がいるほか,主催者に「事情」を聞いたところ,「ナンパ目的」の人々も,過去にはいたとのこと。これは,ほんとうの意味での「国際理解」なのでしょうか? 真剣に語学を勉強したいという日本人,台湾人と語りたいという日本人がいる一方で,「不健康な目的」で台湾人と<交流>しようとする日本人のプリゼンスは,台湾系日本人であるわたし自身にとっては,非常に「悲しいこと」です。

  • 「受け身」の男性にたいするイメージ

    恋愛において,「受け身」の男性とは,一般的には「つまらない」存在なのでしょうか? わたし自身は,「ちょっとした事情」があって,恋愛にかんしては「受け身」になりがち…,になっています。 参考までに: わたし自身のことですが,恋愛観にかんしては,「相手の方が,わたしに関心をもっているのであれば,彼女を受けいれたい」というものです。それなりの「事情」があって,このよう恋愛観をもつようになりました。 ある日のこと,わたし(台湾系日本人)はある人物(いわゆる純日本人)から,「彼女には日本人がいいのか,それとも,台湾人がいいのか?」と問われました。質問をした当の本人にとっては,わたしが「どんな日本人なのか」,あるいは「どのようにして日本社会を理解しているのか」が知りたかったのでしょう。あるいは,ほんの,ちょっぴりの,まるで興味本位のほうなレベルの質問だったのかもしれません。 これに関連して,いわゆる純日本人の人々のなかには,いわゆるミックスの日本人であるわたしが,いわゆる純日本人と親密な交際関係(恋愛関係)にあることによって,さらなる日本社会への「適応」と解釈する人々がいることでしょう。 わたしにとってこのような質問は,「非常に難しい質問」でした。なぜならば,わたし自身にとっては日本人も台湾人も「尊い存在」であり,「欠けがえのない存在」だからです。「どちらかを選べ」と問われたら,答えられるはずがないのです。(そもそも,「どちらかを選べ」という質問自体,さまざまな「問題」をはらんでいます。) 「日本人(そして,自分自身の日本のアイデンティティ)を選んだら,台湾人(そして,自分自身の台湾のアイデンティティ)はどうなってしまうのだろうか?」 「台湾人(そして,自分自身の台湾のアイデンティティ)を選んだら,日本人(そして,自分自身の日本のアイデンティティ)はどうなってしまうのだろうか?」 いろいろと考えをめぐらして,数分後,わたしは「わからない」という答えをだしました。そして,「わたしのことが好きになった女性を,わたしは好きになる」と,つけ加えました。 当然のことですが,「国籍」,「国家」,さらには「民族的出自」が「“絶対的”な恋愛の要素」になるわけではありません。「恋愛に国境なし」という考え方をもっている人々がいる一方で,恋愛においても「国家のイメージ」,「政治のイメージ」を「過剰に考慮」する人々がいます。本来であれば,こういったものの考え方は,恋愛という個人レベルの人間関係においては,良いものではありませんし,有益でもないですし,有意義なものの考え方ではありません。 しかしながら,個人の恋愛観にかんする疑問を超越した<質問>は,わたし自身の恋愛観に大きな影響をもたらしました。 大げさかもしれませんが,「誰を好きになるのか」という価値観が,ぼやけてしまったのです。