• ベストアンサー

仏教

  戒名すれば極楽に行けるなどと説いております。 御本尊(ただの紙くず)を崇めなどと説いております。 昔から形にこだわる者は皆愚かであると言われておるのに。 思想がない、哲学がない、哀れ。 違うか。  

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7194/21844)
回答No.3

そもそも論になりますが、そもそも欲望を捨てれば 幸せになれる、なんてのが間違っているのです。 欲望など捨てられる訳がありません。 欲望が無くなったら不幸は無くなるかも知れませんが 喜びも無くなります。 そもそも人間、欲望が無くなったら餓死します。 そんな無理難題を教えようとするから、あちこちでゆがみが 出てくるのです。 悟りを開け。 無理です。 じゃあ、ご本尊を拝めば極楽に行けるぞ。 そういうことで手を打て。 はい判りました。 で、ご本尊は? 何か目に見えるモノがないとやりにくいんですが。 これじゃ。 ただの紙じゃないですか? お金だってただの紙じゃろうが。 しかしお金があれば大概の欲望は叶えられるぞ。 お金は紙であって紙ではないのじゃ。 お金を拝むのと、ご本尊を拝むのとどちらが 尊いと思うか。 お金です。 偉い! それこそ悟りじゃ。 かくて仏教は葬式産業株式会社に昇華したのです。

その他の回答 (3)

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.4

こんばんは。 >「戒名すれば極楽に行けるなどと説いております。 御本尊(ただの紙くず)を崇めなどと説いております。 昔から形にこだわる者は皆愚かであると言われておるのに。 思想がない、哲学がない、哀れ。 違うか。」 信教の自由ですね。

  • nToTn
  • ベストアンサー率28% (28/99)
回答No.2

おっしゃる通り。 お釈迦様は偶像崇拝を禁止していました。 仏像が拝まれるようになったのは、入滅の500年後以降です。 お釈迦様は、「権威を盲信せず、自分の頭で考えなさい」、と盛んにおっしゃっています。 他力に頼るのは、まさに、お釈迦様がそうしてはいけないと戒めた事です。 盲信に陥ると、こんなに明白な事実にも気付く事ができなくなるのでしょうね。

noname#180442
noname#180442
回答No.1

 哀れな者かもしれないが、申し上げます。「形」は、一種の今風に言うと記号です。仏教には、唯識論などの考えがあります。戒名すると極楽に行けるとか、ご本尊を拝めというのは、どの経典に書いてあるのでしょうか。ちなみに、私は無宗教です。

関連するQ&A

  •   形にこだわるとはどういう事か。 形にこだわるとどういう結末になるか。 偶像崇拝 → 拝金 → 戒名料、御本尊料、お題目料と袈裟代 およそこんな流れになるんでないの。 形とは形式、つまりセレモニーのこと。 思想がない、哲学がない、哀れ仏教。 違うか。  

  • 仏教は既に終わったのか

      生命の問題について、今社会が問うている生命倫理の問題について何らの答えを示すこともできず、 福島で原発が爆発しても何らの教えを示すこともできず、 ただただ葬式の度に出てきてはお経を読むだけの仏教に何らの思想も理念も哲学もなく、 もはや仏教の未来は完全に失われたと考えるのはわし1人であろーか、 あ~、哀れ仏教、 あ~、  

  • 御本尊

    紙くず。 昔から形にこだわる者は皆愚かであると言われておる。 違うか。  

  • コピペ文化の原点は偶像崇拝にあり

      仏教ではお坊さんたちを含め仏像だの、ご本尊だのを拝んでいますね。 仏像であれ、ご本尊であれ、偶像とはみなコピペしたものです。 理念がない、思想がない、哲学がない。 コピペ文化の原点は偶像崇拝にあるのではありませんか。  

  • 仏教について

    おはようございます。 この哲学サイトは仏教徒が多いので、仏教に世界観について、わかりやすく回答をいただければ幸いです。 昔、奈良に住んでいたことがあり、薬師寺で般若心経の写経をしたら、 かたよらないこころ こだわらないこころ とらわれないこころ ひろくひろくもっとひろく これが般若信教、空のこころなり と葉書が来ました。 いい言葉ですね。 以前投稿しましたが、日本の誇る哲学者、西田幾多郎を理解しようとしてましたが、仏教思想の基礎がないので途中で挫折しました。 でも 西田幾多郎の思想 小坂国継著 は後ろに注釈がたくさんあり勉強になりました。 知識がないのでお礼が書けなければすみません。パソコンの具合も良くなくうまく立ち上がらないこともありそろそろ買い換えないといけません。 仏教を理解するためには、韓国にある、名前は忘れましたが、有名なお寺の、膨大な版木をすべて理解しないと悟りに至らないのでしょうか?

  • 仏教の基本について教えて下さい。

    これまで私は、仏教とは、仏(ほとけ)=おシャカ様(釈迦如来)=ゴータマ・シッタータといいう、「三位一体説」の一神教だと思ってきました。 ところが、うちの宗派(真宗大谷派)の本尊は釈迦如来じゃなくて阿弥陀如来だと聞いて、よく分からなくなってきました。 しかし、うちの菩提寺のお坊さんは、葬祭の時の説教でお釈迦様がどうのこうのって話をしますが、阿弥陀様がどうしたとかって話は聞きません。 他にも釈迦には、生まれてすぐ立ち上がって唯我独尊と言ったとか、極楽から蜘蛛の糸をたらして悪人を救済しようとしたとか、逸話がいろいろありますが、阿弥陀の逸話は聞いたことがありません。 如来になる前の釈迦がシッタータであったように、如来になる前の阿弥陀はどんな人だったのでしょう? そもそも、如来って「悟りを開いた仏」のことだと聞いたことがありますが、このほかにも大日如来、薬師如来などいろんな如来があるようです。 また修行中の仏が菩薩で、こちらも弥勒菩薩や地蔵菩薩など何人もいるようです。 つまり、シッタータを初め様々な「仏」がいて、修行してある者は如来になり、ある者は未だ菩薩だということでしょうか? そうなると、結局仏教って多神教なのでしょうか? あるいは如来や菩薩という称号、それを併せた仏という称号も、キリスト教の聖者(セイント)にあたり、どれも人間である、つまり仏教は無神哲学ということになるのでしょうか?

  • 龍樹は大乗仏教をどう正当化したのですか?

    龍樹は大乗仏教を体系づけたと聞きます。 当時、大乗仏教は上座部仏教から攻撃されていて、龍樹がそれに対する理論武装をしたのですよね。 そこで龍樹はどう反論したのか知りたくなって、彼の思想を調べて見ると、空の哲学を作ったと。 そして私はまだ読んでいないのですが、空の哲学は非常に理論的で難解であると。 これでは多くの者が受け入れられる教えを目指す大乗仏教から遠ざかっているように見えるのですが、違うのでしょうか? 空の哲学は大乗仏教の理論的根拠となっているのですか? 私のここまでの理解が間違っているのかもしれません。 教えていただければ幸いです。

  • なぜ仏教は力を失ってしまったのか

      問う人: なぜ仏教は力を失ってしまった。 「人の道」: それは仏教が本来の理念と哲学を失い、安々とビッグバン理論の上に居座り、一神教世界の仲間入りをしたからである。 これでもー仏教は仏教でなくなった。 これで仏教は理念と哲学を完全に失い、ただ南無妙法蓮華経とかお経を唱えるだけの安物になってしもーた。 問う人: 仏教が力を取戻すことはできるのか。 「人の道」: いや、こーなってしまった以上、仏教が力を取戻すこと出来まい。 仏教は安々とビッグバン理論の上に居座り、宇宙の偉大さを忘れ、創造主を求めるよーなった。 もはや仏教は仏教ではなくなった。 仏教はミーハーになってしもーた。 問う人: あ~、哀れ仏教。 皆はどー思う。  

  • 最近の仏教は、みんな極楽に行ける感じですか?

    日本の大乗仏教では、もう地獄とかはなく、みんな極楽に行ける。 悪人でも、俗人でも、悟りを開けてなくても、ほぼもれなく行ける感じですか? じゃー、もう、生まれ変わりとかもなく、カルマとかも関係ないんですか? 極楽で、女の人見てエロい気持ちになったり、退屈だからゲームとかないのお釈迦さまとか、いじめとかあるんですかね? 極楽って、最低限悟りを開いた者が行ける世界で、悟りは自らが開かんとあかん(他者から与えられたるものではない)ものではないの? もう現世と変わらんレベルで、もれなく極楽に行ける感じですか? 大乗仏教の大きな乗り物って、もはや、観光ツアーのバス的な解釈になってます? マシで? それって、世も末、末法もいいところなのでは?

  • 極楽往生するには一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよい

      「善人であれ悪人であれひとたび南無阿弥陀仏と唱えれば皆等しく極楽浄土へ往ける」 親鸞聖人はこのよーに説いております。 極楽往生するには一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのであるから、極楽往生するのに戒名するしないは何の意味もありません。 あるいは極楽往生するのに無縁仏になろーがなるまいが何の影響もありません。 往生とは坊主の力を借りて往生させてもらうことではありません。 ただ一度だけ南無阿弥陀仏と唱えればよいのです。 皆もこれについては何の疑いも有りますまい。