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<マイノリティの利権>という「言説」

booterの回答

  • booter
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回答No.5

こんにちは。 過去のQA「日本社会の一員であるための「条件」」で回答したものです。 もしかしたら、と思って回答させて戴きます。 私が上記のQAでは次のように回答しました。 「本当の日本人として生きたければ、日本人としてのアイデンティティを持たなければならないのです。外部からの理解をするのではなく、内部での体現をしなければ日本人として生きるのは難しいです。 そしてそれには決してうれしいことや楽しいことばかりではありません。日本でもつらさや悲しさがあるのです。これらは美しい悲劇などではなく、精神的に汚く、穢れた部分も共有するということです。これは中韓の人たちが外部から日本を批判している内容を指しているのではありません。日本人が日本人の内部に対して持つ穢れた精神を批判するものです。例えばいじめ問題だとか、雇用問題だとか、景気、ねたみ、ひがみ、皮肉、内政の問題・・・こうした面において、日本人に同化するという行為については「こんな苦労を外国の人がわざわざしなくてもいい」と思う人はかなりいる、と私は推測します。」 この発言がある種のきっかけになって、日本人が台湾系の人に対し妬みやひがみをしている、というのは誤解です。もしそうした誤解をなさられているならお詫び致します。 ちょっと直截的に言わなければならないようですので、はっきり言います。 ハーフだから憧れる・・・というのも、日本人からすればちょっとはあるのかもしれませんが、いやいや日本人は日本人で自らのことをある種誇りに思ってますよ。文化的な美徳に「謙遜」というものが社会的に通底しているので、それが表に表れにくい構造になっているのです。そしてWW2の敗戦経過からその自らの能力を自認する構造が長く失われてしまった。このことから、日本人は自らの優勢を表現しないし、自認もしない。それが震災時対応の各国からの賞賛・非難とそれに対する日本人の対応(賞賛→いやなんでこれが誉められるのか分からない、非難→各国に迷惑かけてしまった)に繋がるのです。 しかし日本人には独特の弱度の民族的感覚が失われない程度に社会の記憶として通底しているのです。その感覚の多寡をもってして、諸外国における強度の民族的感覚に憧れているというのであれば、それは誤りです。 話しを戻しますと、日本人にとって外国人とはある種の特権ですが、ある種の特権ではありません。ここを少し詳しく説明します。 外国から来られた方はある種の自分の家に来たお客さんなので、それなりに良い待遇を受けます。だけれども、じゃあ一緒に住みましょう、となると、その家の家事を分担しなければなりません。しかし、一緒に住んでいるのにあいつは家事もろくにやらないで、それなりに食っている。不公平じゃないか! という人たちがいます。いわゆる特権を持っているマイノリティの人たちのことです。 ここが日本人における不公平感であり、 achievecharity さんのおっしゃる<マイノリティの利権>になります。 もう少し具体的に言うと、外国人における生活保護のことですね。 我々が「過労死」しながら収めている税金を、それこそ働かないで受け取っている人がいるという現状が腹立たしいのです。まるで奴隷と王族ではありませんか。 無論、そうした上での<マイノリティの利権>があるので、日本人と肩を並べて、一緒にきちんと働いている諸外国人にそうした腹立たしさなんか絶対に覚えません。かつ、外国から来られた○○系日本人と純粋な日本人のどちらが上かなんて下品なことは表に出さないのです。大抵の日本人は「○○系なんですか、日本国籍を取得されている、おおすごいですね」、と相手を立てて終わりますが、それは日本人が日本人自身を卑下しているわけではなく、礼儀として言っていることです。 <マイノリティの利権>の言葉は私は初めて聞きましたが、何となく言いたいことは分かります。しかし、achievecharityさんの現状の認識と、日本人に通底する認識に差異があるように思われてならないのです。 achievecharityさんは日本人以外の諸外国人にその民族性から優位性が付与され、相対的に利権がつくという認識をされているようですが、それは礼儀として日本人が相手を立てるために言っているものです。それは表面的に挨拶として交わされるだけの場合もあれば、お互いに頑張りましょうという互いの独自性を認めるという社会的な本質として必要な精神を示している場合もあります。つまり諸外国人と日本というものはあくまで対等なのであって、日本人が「あなたはこういう人で、こういうことが得意なんですね。そして私はこういう人間であって、こういうことが得意です。」という対等の挨拶の後半部分を、礼儀上言っていないだけなのです。 繰り返しになりますが、<マイノリティの利権>には外国人であること、独自の民族性を有することは入りません。 それでは<マイノリティの利権>には何が入るかと言うと、飽くまで日本に住む人たちは対等であるのであって、働いた分だけの収入を貰えるという建前で、みな社会生活を送っている。みな疲労困憊で、欝になって倒れたり、あるいは過労死や自殺をするなど、ギリギリの中で生活を送っています。ただ、一部の生活保護などを受けている人はそうではありません。無論母子家庭などは除外しますが、諸外国人で就労できるのにも関わらず生活保護を貰っている人たちはいます。ひどい例になると就労していて生活保護を貰っている人もいるのです。死なずに、倒れずに、苦労をせずに。そうした中での不公平感がachievecharityさんのおっしゃる<マイノリティの利権>に入るのです。 それとachievecharityさんは新聞社の言説などに上手いこと騙されているんじゃありませんか? 台湾人で生活保護貰っている人なんていないから日本人の殆どが台湾系の人たちに利権があるだなんて全く思っていませんよ。新聞社の人たちが問題をぼかして言っていますが、言いたいのは台湾系の人たちを指しているのではありません・・・。 >日本社会においては,<マイノリティの利権>という「言説」がありますが, >マジョリティである「いわゆる純日本人」にとって,このような「言説」を >「高らかに主張」することによって,どのような「メリット」が考えられるのでしょうか? 上に挙げたように、不公平感の解消です。 繰り返しになりますが、<マイノリティの利権>の主張は社会的保証の不公平感であって、民族性や民族的価値とは何ら関連しません。そしてそこに台湾系の人間は全く入りません。 社会的保証の不公平というのは、諸外国からの○○系日本人というくくりだけでなく、通常の日本人が働けるのに働かず、そして生活保護を受けるというのは、日本社会のモラルにものすごく反しているので、例え日本人であれども、ものすごく批判されます。 そしてそのモラルに反していると考えられる例に、帰化をしない在日外国人の人たちが手当てを貰っている例が多いと考えられているので、その量的批判が在日外国人に向けられるのです(何度も繰り返しますが、ここに台湾系の人は入りません)。 その不満感が排斥意識に繋がり、いわゆるヘイトスピーチに繋がっています。 ヘイトスピーチは日本人以外の諸外国人に向けられている、これは止めよ、という美麗字句で固められますが、それは上っ面のことだけです。根本原因は社会的保障の不公平であり、台湾系の人たちはそれに巻き込まれてしまっただけにすぎません。 ですのでachievecharityさんにはヘイトスピーチや<マイノリティの利権>は全く関係ありませんので、日本社会に同化したいのであればもっと別のアプローチをすべきでしょう。 答えは簡単で、日本人と同じ食事をし、日本人と同じ仕事をし、日本人と同じ苦楽を味わって、同じ感覚を共有することです。 完全に同化した方の例で言えば、プロ野球で王貞治さんがいらっしゃいますね。この人は完全に日本社会になじんでいたので、過去にスポーツ記者から「次の選挙でどこに投票しますか? 」なんて質問されていました(その時の王さんは日本国籍が無いので投票できなかった)。王さんを人種がどうだから、民族がどうだから嫌っている人とか区別している日本人がいれば会ってみたいもんですが、王さんは台湾のアイデンティティを持ちながら日本に同化している人の一人でしょう。これも日本人と苦楽を共にして感覚が日本人と同化した為です。前回の回答では「少し無理がある」と言いましたが、可能には可能です。 私の以前の回答によっていろいろと勘違いをさせてしまった可能性もあるので、追加の質問があれば回答致します。 ヘイトスピーチについてはまた別個の質問が切られているようなので、こちらで回答しますね。

noname#181693
質問者

補足

コメントありがとうございます。 わたし自身は,「日本のアイデンティティ」を分かちあっていますので,日本人の「きれいな部分」,そして,「キタナイ部分」,いわゆる「ハレ」的なもの,そして,「ケ」的なもの,すべてを受けいれています。「日本のアイデンティティ」,つまり,「日本の血」を受けついでいるのですから,そのようなものと向きあうことは「当然のこと」であると,わたしは受けとめています。それが,「辛いこと」,「嫌なこと」であるときは,あります。しかしながら,そういった「嫌な経験」があったからといって,わたし自身が「反日主義者」になったり,「ニッポンジン・バスター」になることは,絶対にありえません。 「ハーフだから憧れる」という指摘については,いまだに,日本社会においては,いわゆる「アジア系のミックスの日本人」にたいする「偏見」が存在します。ほかの方へのコメントになりますが,わたしは,このようなコメントを書きました。 「現代の日本社会においては,ヨーロッパ系のミックスの日本人にたいしては,「良い意味」で,彼ら,彼女らのプリゼンスが受けいれられることでしょう。その一方で,台湾系,フィリピン系,朝鮮半島系,中国大陸系などについては,いまだに,「イグノランス」と「偏見」が存在しています。たとえば,フィリピン系や台湾系にたいしては,「スナック等の風俗営業」というイメージがいまだに根強く残っているほか,中国大陸系や朝鮮半島系にたいしては,「ネガティヴな意味においての,日本人男性の国際結婚」というイメージがあります。 同じ世代の子供たちにとっては,そのような,社会的,歴史的な背景を理解するまでには時間がかかることでしょう。しかしながら,「アイツの親って,どっか,変だよな?」などという,ある種の「不信感のようなもの」を,周囲の,いわゆる純日本人の子供たちはいだくものです。それが「最悪のケース」となったのが,群馬県桐生市でのケースでしょう。親がフィリピン出身であるがために,フィリピン系日本人の子供が「ゴリラ」扱いされるという「悲劇」は,ほかの外国につながる子供たちにも,そのような「経験」が多かれ少なかれ,その違いはあれども,存在すると,わたしは思いますし,確信しています。」 では,次のポイントにいきます。 「我々が「過労死」しながら収めている税金を、それこそ働かないで受け取っている人がいるという現状が腹立たしいのです。まるで奴隷と王族ではありませんか。」 このような主張にたいしては,たいがいの日本人が,一部の外国につながりをもつ人々,特定の民族集団にたいする「スケープゴート」として「利用」しています。 さらには,あなたが主張したい「問題」については,いわゆる同和地区とつながりのある人々も関係していませんか? 同和地区につながりのある人々は,外国出身者や,外国につながりをもつ人々ではありません。日本人,それも,いわゆる純日本人,のはずです。かつては,まったく人種の異なる人々であるとされたのですが。 あなたが主張するところの「奴隷と王族」というたとえのなかで,「王族」にはいるだろう人々は,いわゆる純日本人のほうが多いでしょう。なぜならば,日本社会には,外国出身者,外国につながりをもつ人々は,あまりいないからです。確かに,外国につながりをもつ人々が,あなたの主張するところの「王族」として,のうのうと暮らしている,ということも考えられるでしょう。しかしながら,それよりも,さらに多い数の,いわゆる純日本人が,あなたの主張するところの「王族」になっているのですから,「奴隷と王族」というたとえを使って,外国につながる人々,外国出身者を「たたく」ことは,「きわめてアンフェア」であると,わたしは考えます。 いわゆる,ヘイトスピーチの問題において,わたしが「危惧」していることは,ヘイトスピーチの「ターゲット」とは,非常に流動的なものであり,それは,斜めに置いたステンレス製のバットに,墨汁をたらりと垂らすようなものです。たらした墨汁は,バッドの表面の,さまざまなところに流れます。それは,「操作できないもの」であり,それは,まさに,いまの日本社会における,外国出身者や外国につながりをもつ人々にたいする「スケープゴート」の「正体」であると,わたしは考えます。 たとえば,日本と台湾のあいだにも,領有権の問題があります。この問題においては,両国の政府が穏便な対応をしたので,大きな問題になることは考えられないのですが,万が一にも,お互いの関係が険悪なムードになったとき,まっさきに「スケープゴート」になるのは,わたし自身をふくめた,台湾からやってきた人々と,台湾につながりをもつ人々です。 さらには,日本社会においては,台湾系日本人の国会議員による「悪行」があることから,わたし自身は,台湾系であっても,日本社会における「イメージ」は,必ずしも,良いものではないと受けとめています。 もうひとつ,指摘すべき点もあります。日本人,いわゆる純日本人のなかには,やたらと台湾を「ヨイショ」したがる人々がいますが,その「理由」はというと,台湾以外の東アジアの国々が,「信用ならん!」ということなので,「台湾ならばトモダチになれるだろう…」などという,ある種の「上から目線」の「事情」があるからです。 日本人にとって,台湾,台湾人,台湾につながりのある人々は,「利用できる存在」なのでしょうか? あなたは,中華民国籍の著名な野球選手を「例」にしていますが,そういったことも,「ほかのアジア諸国が信用ならんので,台湾ならば…」という,ある種の「淡い期待」があるからでしょうか? 台湾は「利用する存在」,「カモのような存在」ではありません! 「上から目線の日台友好」には,わたしは強く反対しています。

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