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あなたはなんで生きてるの?

もしくは 「なんで死なないの?」について 面白い回答を探しています 読んだら思考が広がるような書籍の紹介や 問いに対する問いのようなものなどでも構いません 自分の想像力と思考力の限界を感じています 視点を増やしたいのです お気軽に切実なご意見 よろしくお願い致します

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noname#181697
noname#181697
回答No.5

死というのは、極めてリアルな話です。それは誰の身にも必ず訪れるものであり、ゆっくりと、あるいは突然、何もかも奪い去ってしまいます。死を意識(実感)した時、大抵の人は、何もかもバカバカしくなって自分に正直に生き始めるか、真に価値あるものや、永遠なるもの、失われる事の無いものを求め始めます。 ただ、中には気持ちが折れてしまったり、もはや決して救われぬという絶望的な状況に居る事を理解して、自殺する人も居る訳です。私個人としては、こういう形での自殺は、救いようの無い苦しみから自分を救う為の、最後の権利だと思っています。 死は本能的な恐怖です。人生が楽しかったり、まだまだ可能性や希望が残っているうちは、誰も死のうとは思いません。つまり「なんで死なないの?」かというと、まだ可能性や希望があるからだ、という事になる訳です。逆を言うと、人は心底絶望すれば、自ら死を望む様になるという事でもあるのですがね。 あなたが時空?に足跡を遺す事に価値があると思えるうちは、自ら死を望んだりはしないでしょう。つまり、あなたの命を繋いでいるのは、ある種の価値観だという事になる訳です。 しかし、焼き尽くす様な生の実感や充実感を味わった訳でもなく、あらゆる可能性や希望について模索した結果、絶望に至った訳でもないというのは、何ともつまらない事だとは思いませんか? 個である事を存分に活かしている訳でもなく、全力で「ひとつ」に還ろうとしている訳でもない。永遠を求める訳でもなく、今この瞬間の中に居る訳でもなく、ただ価値観だけで現世に繋がっている。でも、これって、生きてるって言えますか? 現実感覚や生きている実感が乏しければ、死への洞察も中途半端になるに決まってます。死について考える前に、如何にして生きるべきかを、しっかりと考えてみましょう。 ちなみに、私が死のうとしないのは、まだ人生に絶望しきっていないからです。正確に言うと、希望や絶望とかに振り回されなくて済む様になったからです。つまり「願望」というもの、それ自体を必要としなくなったという事です。 私が生きているのは、私に残された時間はまだ多く?やろうと思えば色々な事が出来るからです。その可能性を自ら捨て去る様な、無責任な真似をしたくはありません。

mofumofu8686
質問者

お礼

siryuanさんご回答ありがとうございます。 とても面白く読ませていただきました。 自殺は権利だ、というのも面白かったです。 特に >しかし、焼き尽くす様な生の実感や充実感を味わった訳でもなく、あらゆる可能性や希望について模索した結果、絶望に至った訳でもないというのは、何ともつまらない事だとは思いませんか? ただ価値観だけで現世に繋がっている。でも、これって、生きてるって言えますか? の部分は、私も常に考えていることです。 わたしは究極の絶望を知りたいですし、その上で生きたいと思っていますが、絶望にも限りがありません。 愛する人が死んでも、自分が病気になっても、「絶望しきった!」と思えることは無く、絶望には底がないようなので、それも絶望です。 なので、 >死について考える前に、如何にして生きるべきかを、しっかりと考えてみましょう。 は、たぶん他の人の回答でしたら「はいはい・・」と思ったでしょうけど、 >現実感覚や生きている実感が乏しければ、死への洞察も中途半端になるに決まってます。 という文脈でしたので、なるほど、と思いました。 生に思考をシフトすることで絶望も知れるかもしれませんね。 「望」が生死に関わるのだとわかりました。また、「望」に振り回されない生き方も面白いです。 siryuanさんの死なない理由は、好奇心、可能性、責任、などにあるようですね。 また、わたしもこの先の人生において、(もしくは私が生きることによって生じる可能性について) 責任がある、というような感じは、ぼんやりですがしていて、それが「時空?に足跡を遺す事に価値がある」という言葉に繋がるのかもしれませんが、 価値がある、とは思っていなくて、責任を放棄する、ということが怖いので生きています。 それにしても、あらゆる可能性に対して、「私に」本当に責任はあるのでしょうか。 疑問です。「私でなくても代わりは居る」でしょうし、 だけど私でもできることなら、やって行こうと思います。 「誰でもできることだけど、偶然私がやる」というのも良いものですね。 がんばります。 面白いご回答ありがとうございました。

その他の回答 (22)

回答No.24

生き物だから生きる。単純です。 人間も生き物なのです!生物なのです! そう、生きるということが生き物にとっての宿命であり役目なのです。 (19歳男無職)

回答No.23

よりおいしいものをより長く食べていたいから。

mofumofu8686
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます 食べ物に関するご回答をくれた方が、2人もいらっしゃって面白いです わたしは、好きな人に生きてもらえるように、おいしい料理でも研究することにしよう、と思えました 大きな収穫です

回答No.22

更なる幸福を実現させるためです。 人間は得る幸福感の上限がその時によって違うようです。 その幸福感をさらに高めるためには、ある程度の苦しみや努力などが必要です。 その成長なくして、誰かから素晴らしい幸福感をもらうとすると、体の機能がおかしくなるそうです。 苦しみや恐れを乗り越え、至福を体験することが、私の生きる意味です。 インドなどの聖者の本によってその知識は与えられました。

mofumofu8686
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 誰かから幸福をもらおうとするとおかしくなる、 という言葉を体に刻んで、謙虚に邁進したいと思いました。 苦しみや恐れをかわすことと乗り越えることはどう違うのでしょうね インドの文化や思想や詩はおもしろいですね 私も好きです ありがとうございました

noname#210533
noname#210533
回答No.21

生きる意味なり解釈なりを考えるのに限界を感じているので 新説を拝聴したいんです、と書かないと あなたの意図とは 全く違うとらえ方をされちゃうんじゃないかな。 とりあえずは攻殻機動隊の世界観あたりからはまってみたら よろしいではないでしょうか。 判ったような判らないような用語を並べて迷うより、映像と ストーリーまでが一体になった作品の世界観の方が あなたの頭の中を発展させるに役立ちそうだよ。 生死の危険に晒されたこともなく、変わり映えのしない 安寧に浸かっていると、引っ込み思案型の若い人、或いは 頭でっかちのジショウテツガクシャたちは頑なな自己世界を 造りがちですが、そもそも生死を考えるのに言葉を使ってる 段階ですでに限界があるのでは? 数学でも。物理学や生物学でも。 音楽でも。絵画や現代美術でも。 歌でも、ドライビングでもセックスでも。 およそ人がのめりこんで誰かと、或いは群として 営む意識の世界では、言語以外のすべてのことが 生死を考えるのに十二分に用いることが出来る。 そうして造られたものが作品だし、人の行動そのもの、 命の営みですからね。 女性を口説くのも生死に通じる 命の営みです。 言語を捨てて、(或いは他言語で考えても同じ説が 変貌して面白いし)音や色を式を、或いは肌の手触りや 自分の体をなぞる相手の唇の動きからも、相手の感情や 意思や、更には癖を通して過去のその人の歩みを想像 させられることもあるでしょうし。 生死について限界を感じるというのは、自分の快楽と不快感に ついて、もう考えることがなくなった、ということと同義ですから。 他人をどれだけ他人の目線で他人の思考で他人の感覚で 共感出来るか、を追い求めていますか? 感動するアニメかなんかに涙を流しているとき、あなたは 自分として泣いてる?キャラクターに感情移入してる自分として? それとも、そのキャラクターになって泣いてる? 自分をやめて他人になる。圧縮して簡単に言ってますが。 それが何となくある共感レベルに達したら、次は集団です。 各々が「自分」をやってるんだけど、お互いに強く影響しあって (例えば空気を読んで合わせるとか、ウケずに滑って凹むとか) その群の姿、勿論、融合した一つの人格という訳じゃないけれど まあ、群体としての意識集合は形成してるでしょう? バラバラでそれぞれが個体の「私」なんだけど、それぞれの 「私」の境界はあいまい。 だって空気読みながら自分の 意思も確固たる立脚が出来ないし、感覚だって他人が言う ことでクルクル変わっちゃう。 まるっきりの単独でほっとかれると 意識が壊れて自死したり。 元々、単独ではいられないものでしょう?意識って。 そもそもが形成過程だけでなく、原初の、つまり生まれたての ころから親の遺伝子と様々な外部要因で形を成しているだけ。 生まれたての赤ん坊が自らの意思で生み出したオリジナルな 「私」なんてないでしょう? 全部よそから来たものばかりです。 だから、生死、という個体の生成と消滅についての考察を 小さな閉じた意識空間の中でどう考えたって、必ず元の場所に 戻ってきてしまう。堂々巡りしか出来ない。 だって閉じた空間内でのベクトルなんだもの。どうやったって 元の場所に戻るよ。 ボールの内側を考えてみれば一目瞭然。 だから、元々輪郭が明確でない、つまり部分的に融合と離散を 繰り返している群、更には連続体として考えていった方が 理に叶った思想体系を築けると思いますよ。 そして、脳内の意識が呼吸している膨大な情報は、その大半が 脳という巨大な眼球を通して投影された外界の、特徴的な 事物他者の投影像、しかも輪郭がおぼろな霧のような意識の 網膜に映ったひと連なりの残像、が「認識」ですから。 だから、大半が言語ではない、という要旨です。 大きな連続体の、或る短い時間の中で一つ所に 一定期間存在している、輪郭が明確ではないのに個として 特定が出来るもの、たとえば「波」です。 どんどん水の粒子は運動して入れ替わるのに、その「波」は 陸地に近づくにつれ段々高くなり、高くなるのに従って、今まで 水面の凹凸でしかなかったものが、明確に個々の「波」として 見分けがつくようになり、やがて砕け散って消滅します。 それを無限に繰り返しているけれど、今しがた目前で砕け散った 一つの「波」は数億年前、全く別の海岸線で何億回も、何京回も その都度、非常に似た形をとりながらも、常に他の波とは同一では ない、個性・・・要するに単なる差、ですが・・・の点滅を繰り返して いるのです。 生命、或いは意識というものもこれにとても近似した構造を 持っているように思います。 あなたが見ている、私が見ている、同一のリンゴの赤は、それぞれ 全く別の、置換不可能な「この赤い感覚」というもの。 でも、それは表現を通じて相手の意識の中でリプロダクトされ、 相手が知覚する、私が言う赤い感覚、という入れ子のような仕組みで 取り込まれていきます。 そのようにしてあやふやな輪郭の近傍では互いにイメージが行き来し、 まるで電子を行き来させる共有結合の原子のように、二人の原子は (或いは複数の原子達は)分子を、結晶構造を造ります。 それらの視点で考えてみれば、生死を超えた視点(あくまで理屈ですが) もっと微視的にも巨視的にも、自在にカタチを捉えられるようになると 思います。 思考の拡張ですね。 たった一言で言えば、木を見て森を見ず、に要約されるかも知れません。 絶対領域内の閉鎖系から、全方位の時空に無限に解放された開放系に、 思考を解き放つ。 いずれにせよ「自分は」という、「絶対的な個」という戒めを解き放ち、 自分は広い海の、ある一瞬に自分の形を成している一つの波頭に過ぎず、 他愛なく崩れ去り、無限の流転のさなかに無数に自分に似ている、様々な 度合いで、部分が、全体が似ている・・・自分だってオリジナルじゃないから、 つまるところ、全てがコピー、全てが複製、同時に、全てがアレンジされた オリジナル、唯一無二とも言える・・・「絶対存在」として「私」を捉えることが 無為な徒労としか思えない・・・というところまで突っ込んで考えてみれば、 「他人が理解できる」とか リア充になった、とか 面白い変化も期待できるでしょう。 私は私であり、私は私でしかない。私は誰かであり、ここにしか存在せず、 あまねく宇宙に無限に存在している。 だから、私は存在していない。 言葉にすると、もう矛盾だらけの無茶苦茶になりますが、海の波や 降り注ぐ雨のしずくを考えれば、何一つ矛盾しない当たり前のことでも あります。 つい、長広舌をフルっちまいましたが、最後まで読んで下さって どうもありがとう。

mofumofu8686
質問者

お礼

丁寧なご回答ありがとうございます。 >生きる意味なり解釈なりを考えるのに限界を感じているので 新説を拝聴したいんです このように書けばいいのですね。国語の勉強になります。ありがとうございます。 攻殻機動隊は、漫画を読みました。私には難しかったです・・文字が多くて・・ アニメに挑戦してみよう、と思いました。 エヴァンゲリオンは好きです。 言語には確かに・・そうですね、限界があります。 でも、rasenkaidanさん(いい名前ですね)のおっしゃってること、 イメージが湧いてきます ありがとうございました

noname#221368
noname#221368
回答No.20

 脳天気すぎる#8です。・・・ちょっと気になったもので(^^;)。 >理由が必要というより、責任の問題なのです。 >自殺しない、ということは生きているのを選んでいる、ということになるので、 >責任は生じると思うのです。私は頭が固いです。  某宗教では、人間はもともと原罪を負っているとか言いますけどね。でも人は、生まれたいと思って生まれた訳じゃない。両親の気紛れによって生まれて来た。そして生かされた。そして気づいたら、生きたいと思っていた。  そんな存在に向かって、原罪だの生きる責任だの言うのは、あんまりじゃないのか?。「ふざけるな!」と言いたくなる。  快楽のままに、気紛れによって妻に子供まで生ませてしまった自分としては、そう思う。人は偶然に産み落とされる。その生には意味も価値もないかわりに、その生の責任を果たすべき相手も存在しない。  あなたが責任を取るべき相手なんか、いないんですよ。いるとすればそれは、あなた自身のみだ。あなたは、思いのままに生きて良いはずだ。

mofumofu8686
質問者

お礼

再びの、ご回答ありがとうございます。 生きる責任をとるべき相手は、確かに行き着くところは、自分自身なのだ、とわたしも思います。 生きる意味も価値も見いだせないのに、責任だけが重くあるような、そんな思いにとらわれていました。 でも、意味、価値、責任、言葉は違いますが、似たようなものですね。 生きるということが、奇跡みたいだってことや、 やっぱり沢山の犠牲の上に私の生が成り立っているという重さを感じながら、それに押しつぶされず、生きたいと思います。 その重さを、他の人に光としてばらまければいいな、と思っています。 思いのままに生きます。 ありがとうございました。元気が出ます。

  • sssv
  • ベストアンサー率14% (7/49)
回答No.19

画家の「石田徹也」をご存知でしょうか?「石田徹也」は「30代」で亡くなりました。よろしかったら「石田徹也遺作集」(3150円)を「Amazon」で検索してみて下さい。

mofumofu8686
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 画家の石田徹也さん、存じております。 「視覚」という、感覚や、感性を使って、「生きること」を考え直すのも良いと思いました。 どうもありがとうございました。

noname#180507
noname#180507
回答No.18

こんばんは。 誤解もあったようなので、補足します。 >「生への執着」 》その裏返しで自殺を選ぶ、という考え方は初めてしました。 》とても参考になりました。 》もしそうだとしたら自殺した友人たちがかわいそうでなりませんが・・。 》でも、確かに「生への執着」から自殺を選んだ友人も居たのだろうな、 》と目から鱗です。 》「本当の(理想的な)自分として生きる」ことができなくなったから、 》死を選んだのかもしれませんね。 「生への執着」が強い人は、自殺は選ばないと思います。 神経性うつ病は、神経症的気質からうつ病をまねくので、精神病性うつ病とは違います。神経性うつ病でも、うつの症状が重くなると、自殺する場合もあるようです。 パニック症状の溺れるような苦しさからのがれるには、私の場合、薬で意識をなくすしかなかったですね。死よりも、溺れる苦しさから逃れたいと感じました。森田療法を学ぼうと専門医に相談しましたが、うつの症状が強い時は、控えたほうがいいと言われました。 統合失調症は、幻覚や幻聴で苦しんだり、衝動的に飛び降りて骨折したり、最悪、死んでしまう場合もあります。幻覚幻聴や妄想を抑える薬は効きやすいので、病識がある人は、内服をきちんとしますね。 叔母は、うつ病で、外泊時に身辺整理をしてから自殺しました。周囲に迷惑をかけたくないと言ってたらしいです。病気から、認識が歪んでいたのだと思います。 ご友人や身内の方も、自殺の原因となる病気や動機、背景はそれぞれでしょう。 でも、人は、死を受け入れるための解釈を必要とするのかもしれません。 》観念的世界から離れ、外側に目を向けること、私にも必要かもしれません。 》参考になりました。 》究極の絶望を求めていますが、それを自ら求めることは絶望から遠ざかること 》だということは承知しています。 》外側に目を向けているうちにやってくる絶望を受け止めたいと思いました。 なぜ絶望を求めるのか。 絶望に依存または突き抜けたい、平凡な感情で捉えたくない、etcあるのでしょうが・・愛する人が死んでも絶望しきれない自分は、茫然とした感覚麻痺のなかにまだいるのかもしれません。ショックが大きい時は、涙も出ない状態だったりするもの。 感覚麻痺がとれて、感情が戻ってきた時、気づくものがあるかもしれませんね。 我に囚われない(考えない)時間も大切だと思います。

mofumofu8686
質問者

お礼

補足のご回答、ありがとうございます。 誤解があったようで、私に理解力がなく申し訳ありません。 >「生への執着」が強い人は、自殺は選ばないと思います。 そうですか。私はfrwicatさんのご回答が「何をもって生と定義するか」という問いを投げかけてくれたようで楽しかったのです。 「完璧ではなくても最低限、自分が自分の価値を認められる生き方をしている(アイデンティティと自己肯定感が皆無ではない)」=生 「自分の理想としない最低最悪の生き方をしている」=死(体が生きていても、心が死んでいる) なのかな・・と思いました。 「自殺」には「自分の理想としない最低の生き方をしていること」を終わらせるという意味があり、「死ぬことくらいは自分で選ぶ、という行為によって、アイデンティティを守ろうと(=生きようと)した決断」なのかな、と思って・・考え過ぎですし、そうではない人も沢山いるとは承知しています。 鬱病にも「神経性」「精神病性」があるのですね、初めて知りました。勉強します。 >パニック症状の溺れるような苦しさからのがれるには、私の場合、薬で意識をなくすしかなかったですね。死よりも、溺れる苦しさから逃れたいと感じました。 私も眠剤を処方以上に飲んでいた過去があり、少しお気持ちわかります。苦しさから逃れたいという欲望は、想定外の大きな力を持つものですね。 実際には病気ゆえに、なにもかも、わからなくなって死んでしまう人が多いのだろうな、とも思います。 絶望を求めるのは、それが生きる責任だと思うからです。「絶望に依存したい」とは思いませんが、結果的に 依存してしまっているのかもしれませんね・・絶望することで、人々に贖罪している気分にでもなっているのかもしれません。 また、希望を持つことができるようになるためには、絶望を持つことが必要なのだと感じてしまうのです。 絶望を知らずに持つ希望は、希望でなくただの慢心なのではないか、と考えてしまいます。 愛する人が死んでも、私も絶望しきれていません。 きっと本能的に、心や感覚を麻痺させて、自分を守ろうとしているのですね。 そんな自分にも絶望していますが、絶望には底がなく、そのことこそが絶望なのかもしれません。 我にとらわれない時間、確かに大切ですね。 私の今思っていることは、祈りや願いがあるということ=不幸があるということであり、 不幸があるから祈っているだけではなく、祈っているかぎり不幸が消えないのだとしたら、 私たちは根本的に絶望的な存在なのだということです。しかしそれをふまえた上で、 実際に身近にいる愛する人たちにお茶を淹れたり言葉をかけたりすることが大切だし、そのような実践的なことが 自分を救い、他者を救えることの「一部」なのかな、と思います。わかりませんが・・。

  • vinetout2
  • ベストアンサー率25% (5/20)
回答No.17

あまりにも先の回答が短かったので補足させてください。 私は生きていく中、大好きなひとに出会ったり、初任給で親にプレゼントしたり、子供を産んだり、仕事を評価してもらったり、好きな歌手のライブに行ったりする中で、私が生まれてきた意味、生きている意味、最終的には死んでいく意味まで見つけていきたいと思っています。 だから今は「なんとなく」で生きていけるんです。むしろ若い今のうちから生きる理由を決めて視野を狭めたくない。 生きていくのに責任なんていらないと思います。 私は自分の周囲の人々にも、そんなに悩みこんで生きづらそうな顔をしないで、人生を楽しんでほしいと思っています。

mofumofu8686
質問者

お礼

再び、ご回答ありがとうございます。 >だから今は「なんとなく」で生きていけるんです。むしろ若い今のうちから生きる理由を決めて視野を狭めたくない。 確かに、若いうちから生きる理由を決めすぎると、視野を狭めてしまうことになると思います。 生きていくのに責任は要らないでしょうか。 私たちの生は、沢山の死や苦しみを土台に成り立っています。(食べ物もそうですし、貧しい国で同じ人類が苦しんでいるからこそ、この裕福な日本の暮らしがあります。) 私はどうしても、責任を感じてしまうのです。 裕福な日本でさえ3万人の自殺者がいるのに、私だけ「なんとなく」生きて、人生を楽しんでいるばかりで良いのでしょうか・・? もちろん、私たちの生は、愛や楽しみも土台にしています。(生まれるということは、愛の結果のことが多いですから) だから生きるべきだし、「生きているだけでいい」という人たちの考えもわかるのです。 だとしても、生きるということが「死や苦しみ」を土台にしているという事実もまた、消えません。 >そんなに悩みこんで生きづらそうな顔をしないで、人生を楽しんでほしいと思っています。 どんな境遇であれ、人生を楽しむこと、それは大事なことですし、 それも、私たちに望まれていることの「一部」だとは私も思います。 vinetout2さんのおっしゃるとおり、生きながら意味を見つけていく、ということは正しいと思います。 ありがとうございました。

回答No.16

あなたは真面目な良い人間です。(ほめてはいません) >「皆様どう自分を納得させて生きているんだろう」と思った次第です。「もしかして、とんでもない理由や目的から生きていることを選んでいる人も居るかもしれない・・!」という淡い期待を抱きながら・・。 それなら、この私は、ご期待に添えるかも。「とんでもない理由や目的から生きていることを選んでいる人も居るかもしれない・・!」、ええとこの文章を修正しますと、 「とんでもない理由や目的へ向けた指向性を持ちつつ【自己の幸福感の最大化を目指す事】と【いかに自分は(他者に)社会貢献できるか?考えながら生活する事】が、完全に一致する(矛盾しない)という認識を不断のモノとして、生きている人も居るかもしれない・・!」 になります。で、わたくし、オタマ君の現状ですが、 ・とんでもない理由や目的:4千年前の貨幣制度の発明と、人類の進むべき方向の錯誤によって、現代は社会進化における「ヒト型進化(自律的社会性)」から「アリ型進化(他律的社会性)」への移行期と捉える事が可能である。それを、違和感として、小学生の頃より私は感じていたが、当時、遺伝子研究の学芸員だったお兄様から、上記の言語化&イメージ化で、違和感の謎が解けました。そこで、私は、1代で、4000年をヒックリ返す意気込みを持っています。そのお兄様は「1代では無理。2世代かかる」と私に指摘しましたが、なんと、私はエスパー的な人間で、自由意志で幻覚を生み出せるし、超能力実験も、最近は100%の正答率で、自分が恐ろしいです。でもね、これは全て私の脳障害による異常能力なので、大して驚く必要もないでしょう。知恵の輪も、一瞬で解けますし。。。つまり、途中計算抜きで、自閉症圏の人物が、特定の曜日をテレビで当てたりするのと同じ様な能力なんです。 私の得意技は「不可能を可能にする」です。 (ただ、幸福感が最大化するかは不明) だから「とんでもない理由や目的」とは、1代で、アクロバティックに、社会進化の方向性を本来の姿へ80%位まで元に戻す事!なのです。(すごい??^^) >そして、自分の考えをもっと確立させたかったのです。 「自分の考え」なんて面倒ですよ、積み木遊びのごとくやるんですか? それより「正しい思想は1つしかない」という事実に気付き、それを探求すれば、おもしろおかしく、多量に学べます。その思想は当然ながら物理法則と矛盾してはいけません。つまり正しい唯一の思想は任意性を持ちません。あなたが、地球の重力によって、地面にへばりついているのは、他者も同じでしょ?(->任意性が無い) >時空が無いと、無なのでしょうか。私には「無」が、わからないのです・・。体験したこともないですし・・。それが私の勉強不足ですので、無について勉強しようと思えました。 う~む、あなたの知りたい無とは「絶対無?」か「存在しない事?」なのか・・・。基本は「時間と空間」は同一であり、変換可能である、てこと。今という瞬間に宇宙137億年が折り畳まれています。面白い事実はね、「存在(ある!)」とは「そこに何も無い、と認識できない事」意味します。要するに「【無い】ことが判らない-->あなたが今見てるパソコンなど-->存在全て」ということ。

mofumofu8686
質問者

お礼

再び、ご回答ありがとうございます。 期待していた、おもしろい独特な回答が聞けて、大変満足しています。 (文章の訂正もありがとうございます。そのように書けばわかりやすいのだということが理解でき、勉強になりました。) >1代で、4000年をヒックリ返す意気込み >「とんでもない理由や目的」とは、1代で、アクロバティックに、社会進化の方向性を本来の姿へ80%位まで元に戻す事! 正直かなりすごいと思います。そんなふうに生きている方もいらっしゃるのですね。 たかだか人生80年くらいしか生きられないと知っていながらも、そこまでの大きな生きる目的を自らに課すことは、 なかなかできることではありません。それができること自体、かなりの天賦の才能をお持ちなのだと思います。 >「正しい思想は1つしかない」という事実に気付き、それを探求すれば、おもしろおかしく、多量に学べます。 なるほど。考えたこともありませんでした。 私のような優柔不断な者は、その「正しい思想」が何なのか、決める(わかる?)までに沢山の時間を費やしてしまいそうですが・・。 しかし、とりあえず何か直感的に正しいと思えるものを、「正しい思想」だと仮定して、一点集中で学ぶ方が、 くよくよと「自分の考え」を確立させようと悩むよりも、楽しいのかもしれませんね。 上記のご回答を頭の隅に置いて、勉強したいと思います。 「無」のお話、難しいですね・・。 私の知りたい「無」は、「絶対無」だと思います。(用語に詳しくなくて申し訳ないです) 「存在する」に対する「存在しない」ということは、結局は「存在する」ということなのです、「存在しない」の前に 「存在」があり、それを「ない」と言っているに過ぎないので(言葉が下手でごめんなさい) >基本は「時間と空間」は同一であり、変換可能である、 このお言葉の何が「無」と繋がるのかわからないのですが(基本だというのに・・!) >今という瞬間に宇宙137億年が折り畳まれています これは個人的に、よく感じることです。直感的にですが・・。 「ない」が「ない」ことが、今目の前に「ある」ということなのだと言う考え、とても面白いです。 「ない」が「ない」ことは「絶対無」では無いのですね。それでは、 「ない」が「ある」ことが「絶対無」なのでしょうか。 「ある」が「ない」ことが「存在しない」ということなのですね。 このカテゴリーには、面白い思考をしている方々が多くて楽しいです。 ありがとうございました。

noname#180507
noname#180507
回答No.15

mofumofu8686さん、こんばんは。 子供の頃、夜空を眺めいて、夜空の向こうの向こう側はどこまで続いているのだろうと、漠然とした不安が、ふいに襲ったことがありました。 十代の頃、宇宙のなかでの存在を考えるようになり、存在に終わりはなく(魂ではありません)、無になりきれないことへの虚無感がありました。そんなことばかり、一日中考えていた訳ではありませんが・・。(No11さんの「絶対無」ってあるのかな) 生死の狭間をみつめたのは、大きくは二回ありましたが、mofumofu8686さんとは違うように感じます。空虚感や絶望感というよりも、衝動でした。 十代の頃、詳しくは書きませんが、宗教と人間的なものとの間に葛藤がありました。 三十代に、神経性うつ病で通院したことがあり、一時的ですが、パニック様症状が現れたことがありました。 近所で信号待ちしている時、自分が何処にいるのか、真っすぐ進めばよいのか、右折すればよいのかわからなくなり・・主治医からは、混乱または錯乱だったのだろうとのことでした。あるきっかけで、自宅マンションのベランダから衝動的に飛び降りるのではないかという恐怖が襲い、変な話ですが、身体を紐で縛りベッドに結びつけたり、大海原で溺れる感覚に襲われることもありました。(今振り返ると、妙な行動なのですが・・) 主治医は、パニック発作の症状という説明で、頓服薬を処方してくれましたが、私には、あまり効果はありませんでした。多少、精神疾患の知識はあったので、統合失調症の初期症状ではないかと疑ったりしましたが、あの時の恐怖は、たぶん「生への執着」の裏返しだったのだろうと着地させています。 十代の頃まで遡り、自己分析しようとしたこともありましたが、症状が悪化する場合もあると聞き、やめました。苦しみや絶望を、あえて求めたいとは思いません。 「なぜ生きているのか、死なないのか」を、今は問い続けることはありません。 (十代の終わりに、観念的世界から離れ、外側に目を向けるようになりました) 究極の絶望と、その向こう側を求めているのかもしれませんが、ニヒリズムは、絶望を求めるのとは違うと思います。必然であったことを、どれだけ深く受けとめるかにかかっているという気もします。

mofumofu8686
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます >無になりきれないことへの虚無感 が、私もあります。虚無感というより、切迫した恐怖感なのですが。 精神的な病気をされていたとのこと、お大事になさってください。 私も家族に統合失調症の者と自殺者が多く、血筋故か、私も衝動的に死にそうになることがあります。 それを抑える為に、考えているという面もあります。考えると衝動が抑えられるのです。 >「生への執着」 その裏返しで自殺を選ぶ、という考え方は初めてしました。とても参考になりました。 もしそうだとしたら自殺した友人たちがかわいそうでなりませんが・・。 でも、確かに「生への執着」から自殺を選んだ友人も居たのだろうな、と目から鱗です。 「本当の(理想的な)自分として生きる」ことができなくなったから、死を選んだのかもしれませんね。 >観念的世界から離れ、外側に目を向ける こと、私にも必要かもしれません。参考になりました。 究極の絶望を求めていますが、それを自ら求めることは絶望から遠ざかることだということは承知しています。 外側に目を向けているうちにやってくる絶望を受け止めたいと思いました。 ありがとうございました!

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    いつもお世話になります。 よくビジネス系の書籍や講演で「自分を客観視しましょう!」と 言われるものの、具体的にどのようにすれば良いものでしょう? 個人的には、メール等を書き終えたときに、相手はどう思うのかな? と考えるようには心がけておりますが、この勝手な想像は あくまで自分の考えに基づいたものであり、その意味では 客観的ではないと思います。もちろん、この質問にしても 然りですが・・・。 完全に自分を客観視することはできないとは思っておりますが、 できるだけ客観的に自分を見れるような視点を持つ方法があれば、 アドバイス頂けると幸いです。 稚拙な質問でお恥ずかしいですが、ご意見を頂けませんでしょうか?

  • 知的複眼思考法についてのレポートの作成について

    大学の課題で、知的複眼思考法(苅谷剛彦著)の第一章を読み、要約と自分の考えを述べなさいというレポート提出が出されました。 一章では、複眼思考(ありきたりな常識にとらわれずに複数の面からものごとを捉え、考える思考法)を鍛えるために、批判的読書法(文章をそのまま受け取るのではなく、批判的によむことで複眼思考を伸ばすことができる)が紹介されています。 こういった方法の説明について述べられている文章の場合、問いを見つけ出すのが苦手でつまっています。 一回書こうとしたのは、筆者が述べる批判的読書は時間を要する、つまり精読に近いものであるとの見解を述べ、速読で批判的読書は行えるか。という問いをたて、自分自身は行えるという立場から意見をのべる。といった文章を書いていました。 速読に関する本や資料をあつめ、その中から引用などをふまえて意見をのべていたのですが、途中でこれはレポートにふさわしいのかと疑問をもちました。 私は高校を卒業したばかりで4月から大学生になります。 一応レポートの書き方などの本も読んだのですが、うまく書けず…。 上記に書いてあるような問いでは、ずれているでしょうか。また、だめだという場合、どこがどういうふうにダメなのか、アドバイスをお願いします。

  • 東京裁判の書籍

    東京裁判の書籍をさがしております。 東京裁判が第三者の視点で書かれてる書籍。 敗戦国日本側の視点でもなく戦勝国連合国側の視点でもなく中立的な物と東京裁判をなぜ日本が受け入れたのかの2点の書籍探してます。 出来ればあまり難しくないものを探しております。 宜しくお願い致します。 あともう一点小学生4年生くらいから難しい漢字、文法を使ってない簡単な東京裁判の書籍も探しております。 お願い致します。

  • 素人でも読みやすい法律関係の書籍探しています!!

    大学を出て、十数年。 一念発起して、母校の大学の通信課程でで法律を学ぼうと考えているのですが、その大学で小論文のような試験(自宅で記入して郵送するものです)があり・・・ 「自分の学びたい学問領域に関わる書籍を選び、概要を簡単にまとめた上で、自身の視点から論評しなさい」 という問題でした。 まだそんなに法律に詳しくなく(当然ですが)、どのような法律関係の書籍を選んでいいのか分からず、困っています。 どなたか素人にも分かりやすく読める法律(法曹関係)の書籍をご存知ではありませんか? よろしくお願い致します。 ※申し訳ございませんが、誹謗中傷はご遠慮下さい。またご紹介していただく書籍は漫画以外でお願い致します。

  • いろんな視点からの意見、聞きたいです。

    私の彼女は夜働いています。俗に言う『キャバ嬢』です。彼女の仕事柄、私はなにかと悩んでいます。 特に私はネガティブ思考になりがちで、走り出したら止まらなくなり嫌な妄想にばっかりふけってしまいます。彼女のことを信じていない訳じゃないんですけど、鵜呑みに出来ない自分もいます。 過去、女性に裏切られたトラウマも影響してますし、 この状態をどうやり過ごせばよいでしょうか? 私の友達は『自分がかわんなきゃ駄目でしょ』っと言ってくれるのですが、そう簡単に変われる物ではないし・・・。 同じ境遇にたっている方、もしくは女性の方の視点からの意見をお聞きしたいです。よろしくお願い致します。

  • 日本庶民史

    日本の歴史を自習していて、ふと、物足らなさを感じてきました。というのは、読んでいる書籍が「歴史というのは、支配する者によって造られる」という視点・観点から記述されているような気がしてきました。手元にある書籍もおなじです。……「お前に知識がないから、読み取れないのだ」といわれればそれまでですが、……ふと、「庶民にだって歴史はある」という、もやもやとした気持ちが湧いてきました。「棺桶に片足を突っ込んだおいぼれが、今更」という気持ちもないわけでもないのですが、ふと、庶民にだって、たとえば「衣・食・住」といった視点からの生活の歴史があるだろうし、「支配に対する抵抗と挫折」というような視点からの歴史もあるのではないかという「日本庶民史」のようなものに興味が湧いてきました。 「庶民の歴史」といったって、かなり幅広く、つかみどころのない奥が深すぎる課題だと思いますが、質問の趣旨は上記のことを、どのような視点からでも構いません……例えば、「庶民の食べ物の歴史」のような……が、概略理解させてくれるような書籍(できれば、現在市販されている)を紹介していただければありがたいという趣旨です。 あるいは、ネットでも「こんなのがあるよ」というのを教えていただければ、これから「なんでも庶民史」を学ぶための足掛かりとして、なおありがたいです。 「紹介していただきたい」という趣旨ですのでBAは選ばないで締め切ります。それでも良ければ紹介していただけるとありがたいです。

  • 加藤諦三の考え

    お世話になります。 最近、いろいろ悩んでおります。なぜ生きるか、なぜ働くか、人と人との関わり方、などなど。で、これまでに、加藤先生の書籍を何冊か読んでおり、その都度、なるほど、その通りだ、自分がこのように悩んでいるのは、加藤先生の指摘の通りだと、関心しておりました。 しかし、何冊か読んでも、結局は、問題の指摘でしかなく、じゃあ、いったいどうすればいいのか、と言うところがほとんど触れられていないような気がします。もちろん、「こうすればいい。」と言ってもらうことは、読者個人個人の思考を放棄させ、それぞれが考える力を養うことが重要であるのに、それを邪魔することになるとも思います。 勝手な想像ですが、だからこそ、加藤先生は、あまりこうすればいいとかって言ってないと思うのですが。 ここで矛盾した質問かもしれませんが、加藤先生の考え方に共感しつつ、かつ、このように生きた方がいい、というような、人生の指針が触れてある書籍を紹介してもらえないでしょうか? できれば、加藤先生の本が望ましいのですが。 長くなりましたが、よろしくお願いします。

  • 引き寄せの法則のやり方について

    引き寄せの法則なんてありはしないよ馬鹿じゃないの、というような類いに入るご意見を持つ方は、わざわざその旨を伝えて回答として済ますことは、どうか互いのためを思ってご遠慮下さい。 長文失礼します。今、引き寄せの法則について色々と調べております。 僕自身、過去、この引き寄せの法則を知らなくても、しかし引き寄せていることができていたふしがありますので、存在を肯定、受け入れております。 しかし、いざ自分からやってみようとすると、どうやれば善いのか分かりません。 というのも、ザ・シークレットに付属している動画を見たり、他のサイトでのまとめを見てみたりすると、どう願って善いのか、そもそも願うのでは叶うことはないだとかと、食い違っている部分があります故。 人間は磁石。思ったことを引き寄せる。真剣に望まないことを考えると、そうなる。そういう強い気持ちで何かに集中するとそれがより早く現実になる。ならば望むことだけを強く集中すること。自分は愛されても善い人間と思うこと。前向きな考えは、否定的な考えよりも何百倍の力もある。 と書かれていますが、一方で一度願って後は何回も疑わず願わないでおくこと。疑い始めるとブレるというものや、願うだけじゃ叶わない、願うことこそ間違い、既に叶ってる状態じゃなければならないというものや、例えば宝くじに当たりたいという願いの場合、それに対して事細かく子細考えておくことや、いやそうじゃなく、自分が裕福になった状態の願いを考えておくこと。そこに至るまでの流れは考えないというものもありました。 それは願うことじゃなく、既に叶ってることを考えること? それは願いを思い馳せるのではなく? 願ってはいけないのなら、どう思考すれば? 事細かく考えればいいの? 思考を固定してはいけないの? とか、色々と安定しません。 話が長くなってすいません、つまるところ、じゃあ僕はどう願えば(もしくは思考すれば)よいのでしょう? 例えば、素敵な彼女と一緒に、新車で何処かドライブに行きたい(これは例えですので、僕の願いではありません^^;)という願いが在る場合、僕はどう願えばよいのでしょう? 「素敵な彼女と出会えてから、新車を意気揚々と、自慢げに、快適に乗りこせるようになった」と、そこに至るまでの行程は考えず、ただその起こりえるだろう、否、起こるのだという現実を既に叶った状態として心底信じて想像して「なりきれば(ごっこ遊びしてればよいとも書いてありました)」いいですか? 何度も願いを反芻することは疑うということになるのですか? 僕は願いを想像してワクワクするので、ずっと考えていたいです。というか、サイトにはずっと考えること、そしてワクワクと期待することともよいと書いてあったのですが、これは繰り返しやっていいことですよね? それともただ単に「素敵な彼女欲しい、新車が欲しい」と強く願っていればいいのですか? 願いはそれを引き寄せるのですよね? 思ったことを引き寄せるなら、願うだけで叶うはずですよね? でもそれは違うんだなぁと書いてありました。何がどう違うのでしょう。 確かその願いに対して自ら努力することも引き寄せの力を上げるものだとも書いてありましたが、そうなのですか? それに対して僕は肯定しますが、しかし努力せずとも叶うことは叶うとも書いてありました。どちらなのですか? 『よく「願うだけでそれが手に入る」と思われがちですが、神様か誰かが頭の中を読んでそれをプレゼントしてくれるわけではありません。あなたの思い描いた気持ちに同じ波長を持ったモノが引き寄せられてくるのです。』と書いてあったサイトがあります。この書き方ややこしくないですか? 願うだけでそれが引き寄せられるなら、それは手に入るも同然のことですよね? 『たとえば100万円を手に入れている自分を想像しても100万円が手に入るとは限りません。なぜなら引き寄せの法則ではあなたの言葉ではなく感情に引き寄せられてくるからです。』矛盾してせんか? 想像すればその思考に引き寄せられるのですよね? 先ほどの願いの例の場合なら、僕はどういうふうに願い、生きていればよいのでしょう。ご回答願います。 あと、引き寄せの法則で願いが実現したという方の体験談も、よければお聞かせ下さい。