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大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良”盆地”が関与し

kamobedanjohの回答

回答No.19

NO.2です。議論が賑やかになっていますね。ご質問は、 「大和政権の成立に、水辺に縁遠い奈良“盆地”という地形が、関与していますか?」 でした。その時代と,懸け離れた後世の時代状況も引き合いに出されていますが,いささか,焦点がずれた意見も見られるかと思います。 自然の地形と環境は日本特有の自然と気候の影響で,百年もすれば著しく変化します。人々の暮らしも,自然環境の変化は勿論,社会環境の進展と共に変貌します。 自然の恵みに預かって暮らしていた縄文の狩猟・採集生活から,稲作を中心とする農業依存の生活への転換が,元百余国と言われた小国分立の状態から,卑弥呼を中心とする倭国へと戦乱の中で統一(小国家連合)され,次第に国家らしい姿を見せ始めたのが弥生時代,戦乱が収まりを見せはじめ,安定した統一国家形成の芽生えが古墳時代とするなら,その間の時代に相応しい検討が望まれます。王族間の肥沃な耕作地の争奪戦を思わせる武具の強力化,土地の自然変化と工作・土木技術の進歩による農業生産力の発展,利用可能な自然環境の変転(自然災害と新しい土地の出現)と物資運搬技術の発達など,総合的な面から時代に沿って検討すべきで,大和王権の成立期を,いきなり戦国末期の状況と比較しても無意味かと思います。現代の東京都と,一面の芦原を切り開き,築島・埋め立てをもって発展させた江戸時代初期とを同一に論じることは出来ません。 鳥取県の麦木・晩田(むき・ばんだ)遺跡群には,縄文期から古墳時代にかけての住居跡,工房,楼閣,のろし台,山陰特有の四隅突出墳墓群,初期石室式古墳群,法隆寺と時期的に重なる上淀廃寺跡など,重層的な人々の営みの後が発掘され,やがて廃棄されていった痕跡が明瞭に残されています。一つの小国家が形成されていた要害の地が廃墟と化すに至るには,自然地形の重大な変化が伴っています。 現在の米子市淀江町に当たる地域が,麦木・晩田遺跡群の重要港湾を成していたことが確認されています。大山の崩土が流出し,美保湾の海流によって砂が堆積した結果,入り江が消えて港の用を果たせなくなった為に,都市的機能が出雲地方へ移転せざるを得なかったというのが,現段階でのこの地方の歴史観です。 島根県荒神谷遺跡に,北九州を特徴付ける数百本の銅剣・銅矛と,関西の象徴である複数の銅鐸が,出雲の神宝の如く埋蔵されていたことの歴史的意味の検討も,未だに終わっては居ません。 前回触れましたように,大和盆地が元湖であったことと,阿蘇など九州での諸火山活動をも考慮してこそ,古代を望見し得るものと考えています。 箸墓古墳の被葬者が果たして卑弥呼と言えるのか,卑弥呼の宗女壱与のものか,はたまた神武の如く東征して,卑弥呼の王統を打ち破ったかも知れない狗奴国男王卑弥弓呼のものか,安易に断定すべきではないと思われます。

park123
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。 <鳥取県の麦木・晩田(むき・ばんだ)遺跡群> のご説明から、No2の説明にありました <奈良盆地は太古湖でした。> が、何を意図されてお書きになったのか、遅ればせながら分りました。 そして、懸け離れた時代と比較することは、あまり良くないことも分かりました。ただし、自然科学では再現するための実験ができますが、実験のできない歴史では、比較もある程度やむを得ないのかな、とも内心思っています。

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