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《金の仔牛》に罪はない!?

 この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?

みんなの回答

回答No.3

ライダーキックの楽しさを判ってもらえないようだね。 その点はこれ以上挑発しないよ。 金の装飾具は、社会基盤が整備されていない過去において、現代の銀行預金などに類する財産だった。 牛は農耕にしろ牧畜にしろ、新たな財産を生み出す生産財で、現代の自動車のようなものだった。 貯金を取り崩して自動車を買って、それが神の恩寵であると喜んだ。 モーセとやらはそれは神と無縁であると憤りを感じたと言う事だね。 そしてそれは人間の行いへの憤りであり、自動車と同様の牛への憤りと解釈するなら、神への八つ当たりだと言う話だね。 どうだい?

bragelonne
質問者

お礼

 ☆☆(趣旨説明欄) 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して 

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回答No.2

N1だよ。 そう言えばこの様な物言いはあなたを不快にさせていたようだね。 その点に配慮が足りなかったことは認めるよ。

bragelonne
質問者

お礼

 不快にさせることと 人間性を離れることとは別だ。

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回答No.1

するってーとアレだ。 私の言う。 「君達は滅びる」 これも赦されない事かい? 私は大多数の物が自らの信仰を知らないからこそ、それは滅びると言っているが、そんな考えも信仰において優位な立場にあると言う認識から判断している。 しかしだ、共同体の解体を主張するあなたも、同じように彼らを「家畜人」「屍」と、見なしていないかい。 それとも彼らの言葉を親身にくみ取ろうとしているならば、釈迦の慈悲のごときその思惑を説明してみたらどうかい。

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    出4章で、神がモーセに民の解放をしに行けと任命されておきながら、子供が割礼をしてないから殺そうとしたのですか?なぜ異邦人の奥さんは気付いたのでしょうか?解放を命じた時に「割礼しとけ」と命じておけば普通に従ったのではないのでしょうか?皆さんはここの箇所はどう解釈しますか? 「4:22あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。 4:23わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。 4:24さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。 4:25その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。 4:26そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。」

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。