預言者ホセアの行動の捉え方

このQ&Aのポイント
  • 旧約聖書の預言者ホセアの行動について問います。ホセアは神の命令に従い、淫行の女を受け入れました。これは人への裏切りを受け容れるという意味です。ホセアの行動の解釈について考えます。
  • 川端康成の「お信地蔵」には哲学の主題があるかという質問と関連づけて、ホセアの行動を考えます。一つの人間としての裏切り行為という観点から質問者は疑問を持ちます。ホセア書にはこの命題についての考えが示されているかもしれません。
  • 過去の質問でホセアについて尋ねたことがあります。その時の結論は以下の通りでした。ホセアが神の命令をそのまま行動するのではなく、元妻ゴメルと話し合い、互いの意思と合意に基づいて行動するのが良いという意見があります。また、もし裏切り行為を許すという神の命令に従うのであれば、それは旧約聖書の時代における社会秩序と考えることもできます。自由な見解を求めています。
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《行け、淫行の女を・・・受け容れよ》(ホセア書)

 預言者ホセアの行動をどう捉えますか?  旧約聖書における預言者ホセアの行動について 問います。  ホセアは 神から次のように言われ そのとおりに行動しました。  ▲(ホセア書1:2) 《行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。》  この《淫行》は 人に対する裏切りと取ります。裏切りに遭っても その相手をホセアは 受け容れたわけです。戻って来た妻ゴメルを迎え入れました。  これをどう扱うか? ホセアの行動をどう解釈するのか?   というのも 先に【Q:川端康成の《お信地蔵》には 哲学の主題はありますか】で――この《お信》は 後家になってからですが―― ひとりの男からすれば・そしてもし人格の全体としてのマジワリであったとすれば 《裏切り》を確かにおこなったと考えられるからです。つまり これをその質問でのやり取りの中で 質問者はとがめました。哲学から見れば おのれの存在に泥を塗るようなへそ曲がりの実存行為であり それはありえない行為であると。  あたかもそのような結論としての考えに 少しは再考をうながす命題が このホセア書にはあるかも知れないと考えたからです。  このホセア書についての質問は いちど問うています。  【Q:預言者ホセアの行動をどう捉えますか?】 です。  そこでの結論は こうでした。    ( a ) ホセアが その神の告げた命題をそのまま鵜呑みに     してロボットのごとく行動するのではなく そうではなく し     かもその趣旨にしたがおうというとき      その元妻のゴメルとあらためて話し合いを持ち 互いの     意志とその合意にもとづき 行動するのがよい。    ( b ) また もしこの裏切り行為をもゆるすという神の与えた     命題に従うことは 認められ受け容れられるものだとすれば     それは どうもモーセの律法規範による社会秩序を或る意味     で第一とするという社会情況つまりは 聖書からすれば 旧     約の時代においてなのである。      という見方も出来るのではないか。  でした。自由なご見解をあらためて求めたいと考えます。        *  資料です。   ▲ (ホセア書) ~~~~~~  1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。     「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。     この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」  1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。  1:4 主は彼に言われた。     「その子をイズレエルと名付けよ。     間もなく、わたしはイエフの王家に イズレエルにおける流血     の罰を下し イスラエルの家におけるその支配を絶つ。  1:5 その日が来ると イズレエルの平野で     わたしはイスラエルの弓を折る。」  1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。     「その子を ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。     わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず     彼らを決して赦さないからだ。  1:7 だが、ユダの家には憐れみをかけ 彼らの神なる主として、     わたしは彼らを救う。     弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」  1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。  1:9 主は言われた。     「その子を ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。     あなたたちはわたしの民ではなく     わたしはあなたたちの神ではないからだ。」  ・・・・  2:7 その母は淫行にふけり 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。   彼女は言う。     「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物     をくれるのは彼らだ。」     ・・・・  3:1 主は再び、わたしに言われた。     「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。     イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子     を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」  3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。  3:3 わたしは彼女に言った。     「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもと     で過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 以下は 前身の質問での趣旨説明です。  主題は いくつかあると思われます。  (あ) 神によって与えられたヒラメキをどう受け取るのか? つまり神の命題にしたがうというのは 人間におけるヒラメキの問題だと捉えている格好です。  (い) ヒラメキ直観によって わが心がやわらぎを見出したそのあと 淫行すなわち人に対する裏切り行為をもそれが ゆるされたと見ることが出来るか?  (う) ヒラメキ直観に従うことは 裏切り《行為》をゆるせなくても それとは別にその当の《人間》については 受け容れることが出来るということか?  (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?  (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?  (か) そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

こんばんはです。 また、よりによって、 何かと問題と疑問、謎の多い《ホセア書》を何で選ばれたのですか(笑)。 なので、 この質問に掲載されている《ホセア書》の本文をどのように解釈したらいいのか、困っております。 疑い深く、ヒネくれもののわたしなどは、 この妻を、当時のイスラエルや、神と離婚状態にあった当時のユダヤ人のことを書いているのか、 とすぐに思ってしまいます。 ホセア書を、  予言または当時の歴史が記されているテキストとするか、 あるいは、  今日にも通じる普遍的な示唆に富むテキスト とするかによって、 評価がわかれるのでしょう。 そして、 《ホセア書》に対する、わたしの基本的なスタンスは、前者であります。 でも、これでは歴史の回答にはなりますけれども、哲学にならないので、 路線変更をして、哲学、宗教的な観点から考えてみます。 ───────── 8:4「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。 8:5モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。 8:7彼らが問い続けるので、イエスは身を起して彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。 8:8そしてまた身をかがめて、地面に物を書きつづけられた。 8:9これを聞くと、彼らは年寄から始めて、ひとりびとり出て行き、ついに、イエスだけになり、女は中にいたまま残された。 8:10そこでイエスは身を起して女に言われた、「女よ、みんなはどこにいるか。あなたを罰する者はなかったのか」。 8:11女は言った、「主よ、だれもございません」。イエスは言われた、「わたしもあなたを罰しない。お帰りなさい。今後はもう罪を犯さないように」。  ヨハネによる福音書 ───────── で一件落着かと思うのですが、 神さま、《ロ・ハンミ》だ、《ロ・ハンマ》とか、余計なことを言っています。 なので、 眠り猫は、「はぁ~?」となってしまいます。 この合理的な解釈として、  人間は罪を犯す生き物なのよ。  だから、己れの罪に対して寛容であるように、他の人の罪に対しても寛容でありなさい。  そして、自らも罪を少しでも犯さないようにしなさい、 と読み取るべきなのか、 でも、 「う~ん」となってしまいます。 神さまにも人間の罪に対して寛容になっていただかないと。 あるいは、 神さまにも 人間のなす行動から、一切、手を引いてもらわないと。 なのですが、 問題は、3章の「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」という言葉。 申命記の22・24には「汝らその二人を邑(まち)の門に曳きいだしこれを殺すべし」とあります。 神さまのお言葉だとしても、さすがにこれはどうかと思いますが、 ここで使われている《姦淫》は、夫がいるのに他の男の人と××の意味ですよね。 であるとするならば、 この姦淫する女、そして、「わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、買い取った」女は、 《ディブライムの娘ゴメル》 とは別人ということになりやしませんか? 一章と第三章の記述には食い違いがあるのですよ。辻褄があっていない。 ホセアが、不倫をした奥さん、つまり、ゴメルを娼館にでも売り飛ばした。でも、神さまの言葉を受けて、買い戻した、 というのならば話は別ですが・・・ ホセアは、怒っちゃって、不倫をした奥さんをどこかに売り飛ばしちゃったのでしょうか(笑)。 一章の《ゴメル》と三章の《姦淫する女》を別人とする説がありますよね。 であるとするならば、 「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。」という神さまのお言葉は、 神さまが 他の男を夫にもつ浮気妻との不倫のおすすめ、あるいは、略奪愛をすすめていることになってしまいます。 また、夫をホセア、この女をゴメルとして、 「夫に愛されていながら姦淫する」を 神さまのありがたい予言だとしても、 矛盾が生じます。 「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」 というホセアの言葉と齟齬が生じます。 ホセアは、神さまの言葉を信じていない、となってしまう。予言を信じていないということになってしまいます。 神への不信がある。 あるいは、 神の言葉はきかないけれど、俺の言葉ならば、この女には効果がある・・・、みたいな。 であるならば、涜神・・・ もちろん、辻褄が合うように説明しようと思えば、説明できますよ。 たとえば、 ホセアのこの言葉は、実は、将来不倫をするであろう妻にではなく、自分に対して向けられた言葉であり、その決意表明なのだとか、 妻になるゴメルに 「お前は、かならず不倫するけれど、できるだけ、浮気をしないようにしなさい」 と注意、アドバイスを与えたのだとか。 でも、やっぱり、わたしの頭の中には釈然としないものが多く残ります。 なので、 この一連の記述にある《妻》はイスラエルや、その民とするのが一番、矛盾が少ないと考えています。 神さまは、バアルがどうたらこうたら言っていますし、 「イスラエルよ汝淫行をなすともユダにつみを犯さするなかれ・・・」 ですしね。 あるいは、 この姦淫や淫行を偶像崇拝としてとらえるか。 でなければ、 《ホセア書》の話は辻褄があわない、 ということになるのではないでしょうか。 わたし、《ホセア書》苦手です。 猫の貧弱な頭では、この中に何が書いてあるのか、さっぱりわかりません。

bragelonne
質問者

お礼

 ねむりねこにゃさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~  この合理的な解釈として、   人間は罪を犯す生き物なのよ。   だから、己れの罪に対して寛容であるように、他の人の罪に対しても寛容でありなさい。   そして、自らも罪を少しでも犯さないようにしなさい、  と読み取るべきなのか、  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては アウグスティヌスが 次のように言っていることを思い出します。    われらは人の欠陥を憎み その存在を愛すべきであって    欠陥を愛し 存在を憎むべきではない。   つまり 何のことはない。罪を憎んで人を憎まず。ではないかと思います。  【Q:《なんぢらの中 罪なき者まづ石を擲て》は・・・】  この質問を ちょうど五月にいたしました。  ◇ 一件落着かと思うのですが  ☆ として提示されているヨハネ福音の中の一節です。  ただし きびしい見方をもイエスはしているようですね。  ▲ (マタイ5:27-30) ~~~~~~~~~~~   § 姦淫してはならない  27:「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。  28: しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。  29: もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。  30: もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 存在と行為とを分けたアウグスティヌスの指針が生きるかどうかですが。  ◇ ~~~~~~~~~~~~~~  この姦淫する女、そして、「わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、買い取った」女は、  《ディブライムの娘ゴメル》  とは別人ということになりやしませんか?  一章と第三章の記述には食い違いがあるのですよ。辻褄があっていない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あぁ そういうふうには思いつきませんでした。  言いかえると 何らかのさいわいによって このゴメル自身が 姦淫をしても 石打ちの刑をまぬかれた。命拾いをしたと読んでいました。  ちょっと読み直してみないとならないかも知れません。    《たとえ》説はありえますよね。  ◇ この妻を、当時のイスラエルや、神と離婚状態にあった当時のユダヤ人のことを書いているのか、 / とすぐに思ってしまいます。  ◇ この一連の記述にある《妻》はイスラエルや、その民とするのが一番、矛盾が少ないと考えています。  ☆ しかも たぶん じっさいに男と女の話でもある。というふうにも考えたい気持ちは残ります。  《神から離れて言わば離婚状態にあった当時のユダヤ人》に対して 神は 無条件に・一方的に・自分のほうから あらためて愛しめぐみをあたえようとした。つまり神は ほとんどつねにそのえらんだ民からは裏切られていたのに なお愛し続け荒野を四十年 彷徨わせつつも 〔その民を〕守った。  そのように 姦淫の妻を 夫たる男よ めとり 受け容れよと言っているのでしょうか。  これも あまりにも単純に過ぎるように思われます。  男と女とが立ち場を代えたら どうなるかも かんたんには分からないと言わねばならないようですし。  あるいは いまふと思ったことは 神が言おうとしていることは このホセアとその妻ゴメルという場合にだけ当てはめて 実行しなさいということかも分かりません。一般化する必要はないのだと。  あまりよくお応えしていないと思いつつですが。

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  • kurinal
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回答No.5

こんばんは。 >「そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。」 三国志の曹操も、「悪疫」の流行に頭を悩ませた、とか。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  《あたまを悩ませること》としての例示ですね。  ホセアの場合としては 個人として 個人である元妻ゴメルの操行のわるさについて頭を悩ませたようです。  そして広く問題がはびこる場合もあるようです。  神は イスラエルの民が 決して神というものをモーセの伝えるがごとくには・またアブラハムの示したごとくには信ぜず ほかのバールとかいう異邦人の神などに頼ってうつつを抜かしているのを見て 悩みを濃くしていたようだということのようです。  《悪疫》のひろがるさま これにたとえられますかね。

  • kurinal
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回答No.3

>「いえいえ。七日目には やすみましたよ。サバト。  今の土曜日ですが 休日としては 日曜日です。《主の日》と呼ばれているようにです。」 ・・・「やすむ」って、何?

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ▲(創世記1章~2章) ~~~~~~~~~~  1章 1節 : 初めに、神は天地を創造された。     2節: 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3: 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。  4: 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、  5: 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。  ・・・  8: 神は大空を天と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第二の日である。  ・・・・  31: 神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。  2章 2節: 第七の日に、神は御自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。  3: この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された。   http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98(%E5%8F%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3)#.E7.AC.AC1.E7.AB.A0  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • kurinal
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回答No.2

>「むしろ問題は 上にかかげたように律法の条文に矛盾するようなことが どうして神の側から言われたかになります。」 「神は、世界を創った。 それから、男(人間???)を作った。 そして、女を作った。 ・・・以来、神も男も休んでいない」 (某、巨大サイトより)

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  いえいえ。七日目には やすみましたよ。サバト。  今の土曜日ですが 休日としては 日曜日です。《主の日》と呼ばれているようにです。

  • kurinal
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回答No.1

おはようございます。 豹変する、についてですか? ま、この場合、「他の男の子どもを連れて戻ってきた」ということですか? 「覆水、盆に返らず」ってのが、真理なんですかね

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  いえ まづ問題の第一は こうです。  ▲ (出エジプト記20:14。マタイ福音書5:27-30を参照) 姦淫してはならない。  ▲ (レビ記 / 20章 10節) 人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者は姦淫した男も女も共に必ず死刑に処せられる。  ☆ こうであるのに その《姦淫の女を受け容れよ》と言われ これに従ったと言います ホセアは。ホセアとは 旧約時代の預言者です。  すなわち  ★ ま、この場合、「他の男の子どもを連れて戻ってきた」  ☆ と言いますか そのようにしてくれと言ったわけです ホセアのほうから。  ★ 「覆水、盆に返らず」ってのが、真理なんですかね  ☆ これは いろいろだと思います。  むしろ問題は 上にかかげたように律法の条文に矛盾するようなことが どうして神の側から言われたかになります。  そして ちなみに《お信地蔵》のお信は すでに夫が死んだあとの行動でした。そこのところを いま一度振り返っておこうというねらいです。    わたしは 原理主義者ではありませんが 原則は原則だという考え方をしています。そうして ひとつの結論としては 趣旨説明欄における( a )および( b )を考えています。これを検討し さらにこまかく主題を掘り下げていければよいと思います。 

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     《ひらめき》とは そこで何が起こるコトか?  1. 霊感・インスピレーションに限ったヒラメキについて 問います。   1‐1. 直感であり 直観です。イメージのようなものを得ることだと見ますが 後者は どちらかと言えば 概念をともなってすでに思考にもつながっているのかも分かりません。   1‐2. イメージだけの直感にしても しかるべき良い内容のものは やがて概念をやはりともなってそこから直観へと自己を渡しすでに世界観となるような広がりを得ることになるかも分かりません。   1‐3. おそらくこのときひとは おのれの《もっともわたくしなる庭》にあって おのが《固有の時》の中にあそんでいるのではないか?――孤独であって孤独ではない。孤独関係という世界が開けた。  2. これは――いま突飛なことへ思いが飛躍したままを言うのですが―― 量子相互作用なるユラギが 決してそれを認識しうることは出来ないところで起きているゆえなのか?  (この問いは あそびです)。  3. さてその昔 アブラハムなる男は 《父祖の土地を去って行け》というヒラメキを得て そのとおりに――どこへ向かうのかも分からずに――出かけたと言います。七十五歳にもなって。     3‐1. それは この地上における人間の生は 謂わば――精神の遍歴とも見られるような――巡礼の旅であるということが示されたのだと捉えられています。定住の生活においても そうだという意味だそうです。  4. そこで このとき起こったことは 次だと思われる。     4‐1. ヒラメキは おのれに分からないところからやって来る。夜中に盗人が襲うかのごとく。   4‐2. そのヒラメキを受け取りその中身を読み取って その指し示すところに従うのは 人間としてのおのれの成す意志行為である。   4‐3. すなわちこの《ヒラメキを受け容れた》というのは――それを《非思考において信じた》と言ってもよいと思われるのだけれど―― 最後の段階には 人間の意志行為が伴なわれており これはじつはすでに経験思考にもとづく経験行為である。   4‐4. ヒラメキを得て そこに《〈伝統〉を去り行く》という言葉による表現を得るなら すでに思考をおこなっており その思考の結果 取るか捨てるかの意志決定がおこなわれている。   4‐5. この意志決定において《行く》か《行かない》か いづれをえらぶかは 人間の自由意志による自由な――あるいはおのれの心の恣にする自由な――行為である。と言えるか?  5. あらためて 問いはこうです。   5‐1. ヒラメキを得てその指し示すコトを 受け容れるか拒むか これは 人間の側の意志行為だと考えられるが 果たして そのどちらをえらぶかは 人間の自由意志のよくするところだと言えるか?   5‐2. 言いかえると 《行く》をえらぶ場合も《行かない》と決める場合も すべて《わたし》の自由裁量に任せられているか?   5‐3. 言いかえると ヒラメキの指し示す行為を人間がどう受け容れるかは むしろヒラメキの側においてすでに決まっている。という見方も出て来るのではないか?   5‐4. あるいはその決まっていることは 人によってそれぞれである。だろうか?   5‐5. いえいえ まだまだ舌足らずです。《わたし》が《行く》をえらぼうと思ったとしたら それは ただただわたしの自由意志による選択行為だとのみ言えるものか?   5‐6. ヒラメキが帯びるところの・人に選択をうながすチカラのほうが 人間の自由意志による決定力よりも強い。のではないか?  6. あらためて 問いはこうです。わたしの自由意志は ヒラメキのちからに勝てない。のではないか?   6‐1.  あるいはつまり もともとわが自由意志なる心の声であるがゆえに ヒラメキが起きる。のだろうか?   6-2. 直感と直観とを分けたところで イメージ・ヒラメキと思考・ヒラメキとを捉えましたが これをさらに オソレ(畏れ)・ヒラメキとコギト・ヒラメキというふうに言いかえると 分かりやすいかも知れません。コギト・ヒラメキには 自由度が残されている。オソレ・ヒラメキにはひとはあらがうスベはない。か?  暑い中に思索をお願いするわけですが 思うぞんぶん飛躍をもたのしみつつご回答をお寄せください。

  • 《神を見た》は 共有できるものではない。

     たたき台をしるします。  (1) ひとは 何かの拍子に体験したことをめぐって 《神を見た》と言い表わすことがある。  (2) 《神》は じつは 非経験であり非思考――として人間が想定するところ――の場である。そういう《存在》としても 一般にひとは捉えている。  (《無い神》としてさえ それは《非思考の場》である限り 想定上の《存在》である)。  (3) つまりは この経験世界における《存在》なる言葉を 非経験の領域についても 概念として単純に延長させている。つまりは その存在を《見た》というのも 人間の経験行為を単純に拡大させて――想定じょう――表わしている。  (4) ことばとそれによる思考を超えたところのナゾを 存在と見なし捉えて それとのわれわれ人間との関係についてまで いわば想像力を及ぼそうとしている。  このナゾは 一般にどの言語でも《かみ》と呼んでいる。  しかもこの神を見たとか神の声を聞いたとかというふうに ひとは神体験を持ったと言いその表現にまで及ぶことがある。  (5) とは言うものの われわれ人間にも 超自然的な超経験的ないわゆる神秘体験というのも 起こるかに受けとめられている部分がある。  あるいは 単純な事例としては ひとはヒラメキを得ることがある。  これらは 実際の経験行為にからんで意味をもたらすことのある《神体験》だと見られる場合がある。  いかに神秘的だとは言え 神体験を全否定することは たぶんしりぞけられるであろう。    (6) けっきょく《神を見た》という命題は 《見た》という記号を介して表現され伝達されているに過ぎないのに 実際にも《見た・見ていない》というような経験行為のこととして受け取られてしまうマチガイを起こしやすい。  これは あくまで非経験(つまり 見ることも知ることも出来ない)の神を取り上げているのであるからには そのような見た・見ないという経験行為をうんぬんしても用を成さないと基本的には考えられることである。それなのに マチガイが起こる。  (7) 焦点は このような記号もしくはここでは《ことば》をつうじて それでは どれだけ《非記号》の世界が捉えうるかにある。  (8) 《神を見た》は その第一次的な知覚体験としては その体験者本人にとっても それの事実性は分からないはずであって ましてその体験の人びとによる共有は 無理であろうと考えられる。ほんとうに神であるかどうか これは 本人にも分からないと言わなければならない。ましてや ほかの人とのその体験の共有などということは 目指すものではないし 出来っこない。  と同時に 記号による仮りの表現――あるいは《想定》――の限りで 人びとにはその事実性にうたがいのかかる事柄であっても それぞれの主観にとっての《真実》という場が特殊にあるかに思われる。  (9) 人間にとって その世界における《現実》とは いわゆる科学的な《事実》――それも人間による認識を俟っての事実でしかないが――とおのおのの主観にとっての〔たとえ空想的なものごとであってもその虚構をも容れるところの〕《真実》とのふたつの領域から成る。と考えられまいか?  (10) 《主観真実》とは あやまちうる人間の認識および判断の力を前提とするかぎりで けっきょく――事実誤認のほかにも――《想像の世界ないし虚構》を容れている。虚構というかたちにおいてもその想像世界には《真実》と見なしうる場合があると認めることになる。  しかも主観真実は 大きく《事実》と並びそれとの総合としての《現実》に属すると認めることを意味する。  (11) これもそれも あれも何も この《現実=事実認識+主観真実》なる方程式は 神の問題としてはその現実性が おそらく《ひらめき(直感および直観 言いかえると インスピレーション)》の問題に帰着するのであろうと思われる。また そのヒラメキの信憑性にかかっているのであろう。  (12) もっとも簡単な信憑性の判定基準は けっきょく《直観ヒラメキ》として《イメージ直感》を解釈し言葉で表現した内容が 経験合理性から見て耐えうるものかどうかにある。  (13) 《神を見た。神と顔と顔を合わせて話をした》という第一次の知覚経験が信憑性を持つか否かは おそらくその検証が出来ない。  ただしその《神を見た》ことの間接的な解釈や説明ならそれは 人びとの思考しうる世界に降りて来ることになる。ゆえに ことばとしての記号を通じて 意外と人びとは互いに意志疎通をおこないうる。  (14) たとえば 《ひとは 神の背面(うしろすがた)を見るであろう》という命題は 案外受け容れられるのではないだろうか。  ――これは けっきょく《ひとは 神のことにかかわると思われるようなヒラメキ体験を持つことがある》と言っていることにほぼひとしい。つまり 自同律でしかないかも知れない。けれど その真実が真実であるかぎり 事実との総合において 現実をかたちづくるのではないかと見られる余地がある。  (15) ちなみに《空観としてのさとり》という場合も そのサトリという第一次の言わば非思考の状態を掲げるにとどまらず そこから得るヒラメキをめぐってその解釈と説明を添えるなら コミュニケーションの大通りに現われ出て人びとの世界とその現実をゆたかにしうるものと捉えられる。  (16) なお 共有しうるということは その共有したものごとをそのまま正しいとか妥当だとかと認めてしまったわけではない。――共有し得ないならば 話し合いの主題には成れないということだ。  (17) 《神を見た》なる命題は 一般の話し合いの主題には成らない。このことを 共有しておけば そのような知覚情報とは別の《ことばとしての記号の世界》でなら 哲学の問い求めは話がうんと進むものと思われる。    (18) よってひとは 《神を見た》とか《これこれが神である》といった第一次の知覚情報をもって 神の話をするなかれという交通規則を得ることができる。のではないか?  言いかえると 単純に言って 《神は人間の精神である》とか断定したり あるいはぎゃくに 《神は 人間の想像の産物でしかない》と言って否定したりするだけで説明のない神学は 論外の問題外であると。

  • 信じているとは 心が閉じられていないことである。

     《信じる》は わが心に《非思考の庭》が成ることだと理解していますが これは どういうことか?  できるだけ経験的なことがらによって表現された説明を持ちたい。  次のように考えますが どうでしょうかという問いです。  非思考である・すなわちじつは――じつに――思いや考えなど意志によるハカラヒはないのですが しかもあたかも《志向性》にたとえられるかも知れません。  どこからかやって来るヒラメキのようなものですから ハカラヒはないのですが こころの志向性のようなものだ。  心の伸び? 心の明け?  けれども伸びと言っても 心がじっさいに伸びるものではない。明けと言っても 心に何か窓のようなものがあってその窓を開くというわけでもない。なぜなら 窓の内と外といった捉え方そのものが たぶん――ヒラメキ問題については――そぐわない。内外に関係なく直感および直観がおとづれるのであるゆえ。  そうだとすると たぶん 非思考の庭が成るという信仰〔とその動態〕というのは ひとことで言って 《心が閉じられていないこと》だ。こういうことではないか?  たぶんこの《信じる》にあっては その対象は ひとつであるはずだ。  全体としてのひとつであるはずだ。  どんな名前を持って来ようと それは《かみ》である。《無い神》を持って来ようと 同じくである。  人間にとって《信じている》とは 神が 無い神をも含めて 無差別である。対象は よって 非対象である。無神論なる信仰をもふくめて 人はその神の名を自由にえらべばよい。  これが 信教・良心の自由の中身である。  

  • 《信じる》を哲学として定義せよ

     たたき台です。  ○ 《信じる》とは  ~~~~~~~      一般に《神》(*1)と呼ばれる《非経験の場 X 》(*2)を対象(*3)としつつ    神の名(*4)をシルシ(*5)として 心に受け容れる(*6)ことである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~     *1 神:    次に出てくる項目の《非経験の場 X 》が 経験的に認識され得るような《有る・無い》を超えているゆえ 神については それが《有る(有神論)》と仮りに言っても 《無い(無神論)》とやはり仮りに言っても 同じことである。   *1-1 また神は 世界の中で見れば いろんな名がつけられている。これらも 次の《非経験の場 X 》の定義から言って どの名であれ 《全体としてひとつ》なる神のことを言っていることになる。   *1-2 たとえば 次のごとく:    類   型:   神・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人    __________________________   ・ ブラフマニズム:ブラフマン・・・・・・・・・・・・・アートマン               (梵我一如)   ・ ゴータマ・ブディズム:無(ア‐ブラフマン)・・・無(アン‐アートマン)               (無無一如)   ・ マハーヤーナ・ブディズム:ブッダ・・・・・・・・ブッダター(仏性)               (仏仏一如)   ・ ヘブライイズム:ヤハヱー・・・・・・・・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・ プラトン(?):プシュケー・コスムー・・・・・・・人(神の霊のやどる)               (霊霊一如)   ・・・・・・・・・   *2       非経験の場 X : 前項(1-2)の《神》の項目のそれぞれが 非経験の場の具体的な事例である。   *2-1 《経験世界における因果関係から自由である場》 これを言う。したがって《有・無》からも自由である。   *2-2 人間にとってその能力によっては それが何であるか・またあるか無いかが 分かるか分からないかが分からないもの これが 非経験の場のことである。そういう想定になるものである。   *2-3 この神は 得たいの知れない・雲をつかむようなナゾであるゆえ 《霊》とも呼ぶ。   *2-4 《アートマン》は 神の霊がやどったその場のチカラを称して言っている。《霊我》と言われる。   *2-5 《ブッダター(仏性)》も 神の霊のことである。呼び名が違うだけである。   *2-6 この《非経験の場 X 》の意味において《イデア》と言っても それはかまわない。神の名は ただのシルシである。ただし・また従って イデアに概念内容や意味はない。(として扱うということになる)。   *3    対象: 何が何だか分からないナゾの霊であるゆえ これが信じるの対象であるということは 《非対象》ということである。   *3-1 それゆえまた この非対象を どんなシルシとしての名で呼んでも 基本としての違いはない。   *4    神の名: 前項の(1-2)などを参照。   *5   シルシ: (2-6)などを参照。   *6    心に受け容れる: たとえばアミターバ・ブッダなる神のシルシとしての名を介して 非経験の場 X を心に受け容れるとは どういうことか?   *6-1 雲をつかむがごとく心に受け留め 何の思考も疑問(=つまり思考)もなく 受け容れる。これは あたかも賭け事において賭けるようなものでもある。相手(対象)は 何もないものであるゆえ・つまり非対象であっても 心でその領収証を発行しておく。これで 《信じる》の完了である。   *6-2 《信じる》が完了すると わが心に《非思考の庭》が成る。非経験の場 X を受け容れたというそのかたちである。   *6-3 この非思考の庭で わが信仰はみづからの動態過程をたどる。具体的なかたちとしては わづかにヒラメキが生まれるといったことがある。ほとんどそれのみである。   *6-4 信仰は おのれが日々あらたにされるごとくして 動態となってあゆむ。みづからの思考がもしあやまったなら これを捉えてワレをもとのワレに立ち帰るように仕向ける。   *6-5 それは 実際には むしろ感性においてその信号がおくられるようにして 作業がなされる。非思考の庭は むしろ感性とつながっているか。(直感と直観つまりヒラメキ)。            *   --参考--   ○ 自然本性におけるヒラメキの位置 ~~~~~~~~~   (――または ロゴスの階層――)    (――または 《非思考の庭》と《思考の緑野》とのあいだに何があるか――)    ( ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理 )   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のなぞなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ          インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考〔の緑野〕:経験合理性に         もとづこうとする論理    * ~~~~~~~~~~~    ・ロゴス:ことば    ・スピリトゥス:霊。聖霊    ・クレド( credo = I believe. 我れは信じる)    ・異言(シャリバリ):意味の分からないことば    ・預言:解釈。経験思考で分かるように表現する。     〔もともと 予言= pro-phetia(予‐言)として成ったことば〕    ・ラチオ( ratio ):理性     〔 = reason 。《 re-or =思う・考える・数える》から〕    ~~~~~~~~~~~~~~  ○ (簡略版:ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ・ この質問は 次の質問と互いに姉妹版のごとくです。主題は別建てと成りうるものです。  【Q:フルボッコのご批判をどうぞ。――神とは何か?】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8074286.html

  • ヘブル書に引くエレミア書の《新しい契約》とは?

     詳しい内容をおしえてください。単純に捉えていましたが 注意しなければならない意味があるのかも知れません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。   (ヘブル 書8:7-13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて   子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▼ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    ▲ (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)~~~~~~~~~     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。     ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書・同上) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼(パウロ:コリント後書 3:6) 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると考えられる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと じんるいの全体としてひとつである。無い神も同じひとつの神である。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれることとなって〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神 と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • 原罪は死語だと思いますが なぜ無くならないのか

     原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており それは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう?