預言者ホセアの行動をどう捉えますか?

このQ&Aのポイント
  • 預言者ホセアの行動について問います。ホセアは裏切りに遭っても、その相手を受け入れました。ホセアの行動をどう解釈するのか?
  • ホセア書において、主はホセアに対して淫行の女をめとるように命じました。ホセアはこの命令に従い、女の子を産みました。
  • ホセアの行動は、神からのヒラメキに従って裏切りを受け容れるというメッセージを示しています。また、ホセアの行動を通じて、神の憐れみと救いが語られています。
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預言者ホセアの行動をどう捉えますか?

 旧約聖書における預言者ホセアの行動について 問います。  次に言う《淫行》は 人に対する裏切りと取ります。裏切りに遭っても その相手をホセアは 受け容れました。戻って来た妻を迎え入れました。  これをどう扱うか? ホセアの行動をどう解釈するのか?   ▲ (ホセア書) ~~~~~~  1:2 主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。     「行け、淫行の女をめとり 淫行による子らを受け入れよ。     この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」  1:3 彼は行って、ディブライムの娘ゴメルをめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだ。  1:4 主は彼に言われた。     「その子をイズレエルと名付けよ。     間もなく、わたしはイエフの王家に イズレエルにおける流血     の罰を下し イスラエルの家におけるその支配を絶つ。  1:5 その日が来ると イズレエルの平野で     わたしはイスラエルの弓を折る。」  1:6 彼女は再び身ごもり、女の子を産んだ。主は彼に言われた。     「その子を ロ・ルハマ(憐れまれぬ者)と名付けよ。     わたしは、もはやイスラエルの家を憐れまず     彼らを決して赦さないからだ。  1:7 だが、ユダの家には憐れみをかけ 彼らの神なる主として、     わたしは彼らを救う。     弓、剣、戦い、馬、騎兵によって救うのではない。」  1:8 彼女はロ・ルハマを乳離れさせると、また身ごもって、男の子を産んだ。  1:9 主は言われた。     「その子を ロ・アンミ(わが民でない者)と名付けよ。     あなたたちはわたしの民ではなく     わたしはあなたたちの神ではないからだ。」  ・・・・  2:7 その母は淫行にふけり 彼らを身ごもった者は恥ずべきことを行った。   彼女は言う。     「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物     をくれるのは彼らだ。」     ・・・・  3:1 主は再び、わたしに言われた。     「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。     イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子     を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」  3:2 そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った。  3:3 わたしは彼女に言った。     「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもと     で過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」  ・・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 主題は いくつかあると思われます。  (あ) 神によって与えられたヒラメキをどう受け取るのか?  (い) ヒラメキ直観によって わが心がやわらぎを見出したそのあと 淫行すなわち人に対する裏切り行為をも ゆるされたと見ることが出来るか?  (う) ヒラメキ直観に従うことは 裏切り行為をゆるせなくても その当の人については 受け容れることが出来るということか?  (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?  (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?  (か) そのほか じつはこういう主題が語られているのだというお考えがあれば どうぞそのように。

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noname#143207
noname#143207
回答No.9

 こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > 逆に言うと 「当時のかれらにしてみれば 律法形式よりほかの守るべきとうとい思惟および行動の形式を知らなかった。(アブラハムは当時では、例外的)」
 おそらく これが基本であると思いました。
> ☆ キリスト・イエスの登場したあとでは、――あたらしい時代としての世界(主従から親子のような関係)――に入って来ている。  やはり このように捉えられると質問者も思います。
  上述におきまして、ご賛同いただきまして、光栄に存じます。 > ★ 自由意志
 ☆ は どうでしょう もともとあったわけですし アダムとエワのときから行使し始めて来ているとも言えるわけですが 律法が与えられたということは 或る種の仕方で 例のモーセに対する《神による手の覆いとその手を取りのけたあと神の背面を見ること》(出エジプト記33:21-23)にかかわっていたと見られましょうか。
 つまり 律法という命令ないし戒律が あたかも目を覆ったかたちで人びとをして行動せしめる。そのようにして この律法の時代には 人びとにとってそれぞれの自由意志がやはり覆いをかけられていた。といったかたちが考えられましょうか。
  はい。仰られますように、アダム誕生のときにも、自由意志が存在したと考えております。そして、その意志により、神の怒りをかってしまったと察せられます。  そしてその後、人はアブラハムのときになってやっと祝福を受けることとなりました。ですが、当時およびその後の人々の行いの中には、主を信じず、別の偶像崇拝もされるようになってしまいました。残念ながら、民・人類という大きな段階では、”律法”が大きな影響を与えていたと解してございます。つまり、まだ「自由意志が覆いをかけられていた」と考えております。 
> そこであらためて イエスよりあとの時代とその世界における現代版《ホセアとゴメル》について考えるならば だいたいとして次のような流れが推し測られるでしょうか。
 つまりは 《契約違反》もしくは《裏切り行為》が――むしろその違反者ゴメルの心において――癒やされたかどうかを問題にすることが出来て それを問うこと(ホセアにしてみれば きちんと知ること)がヒラメキに従うかどうかの判断より先に来るのではないか?。
 そうしたあとは――もしさらに ふたりに交通がつづいているのならば(*)―― ふたりでしっかりとあらためて話し合っていけばよい。  ご議論をさらに深化させていただきまして、厚くお礼申し上げます。  契約違反(債務不履行)がなされた以上は、契約を裏切られた者の判断が優先されるものと考えております。そして、もちろん、(時には仲介者を介して)お互いの話し合いの場が設けられ、今後のことを”話し合いをする”ということ自体は、認められるべきことかと考えております。
 > 自分がおこなった裏切り行為についてゴメルが むしろ自分が自分自身をゆるせなかった。ゆるせない(その《わたし》でよいと思えない)まま ホセアに自分を受け容れられることに むしろ自尊心としてのごとき誇りゆえに 抵抗が残った。とも読めるかと思いました。  もしかしますと、神がそのゴメルの心情を察して、ホセアに、妻を受け入れるよう、命じたのかもしれません(あくまで、愚見でございます)。 
> ホセアは ヒラメキにおいて
 ★ 神をとおして、ゴメルを見ることができた
 ☆ そのあと いま捉えようとしたようなゴメルの心の中の動きを まづは見守るということになろうかと考えました。
  契機は神の意志だったかもしれません。ですが、その後につきましては、二人の関係になろうかと思っております。 
> ご回答内容に接して 一気にここまで考えて来ました。
  愚見を補ってくださり、また、さらなる解説を賜りまして厚くお礼申し上げます。 
> 目を転じて考えてみれば:
 原子力発電所の設置によって 電力会社も現地の住民もあるいは政権党としての自民党のお偉方もそれぞれ十分にうるおったとすれば そしてそのとき想定しうる災害について確率のうすいことは想定しないでよいと見なしたところに そうした種類のゴメル風裏切りがあったとすれば まづは――この場合ホセアが誰であるかよく分かりませんが―― その過去の行為と考え方について反省・分析することから始めるのが いちばんよいのではないか。こうも考えられます。果たして どうでしょう。  仰られますように、かような人達がうるおった、ことは事実と思われます。もちろん、現地の人達もそうでした。(参考1)。いくら国家権力を用いたとしましても、現地住民が納得しない限りでは、建設が不可能だからでございます(現地住民を非難している訳では全くございません。ただ彼らも納得の上での建設であった、ということでございます)。  まず、原発推進において、 どこで誤り等が見られたのかを過去を参照しながら、冷静に読み解いていく必要があろうと考えております。単純に利権の問題のみだったのか、もし利権絡みならば、どのようにして巨大化していったのか等含めまして、反省・分析をしていくのが望ましいと考えております。ですが、今ネット上で過去の反対派・推進派の議論を見ようにも、見つかけにくい、という事情がございました(参考2)。 参考1:「原発:再稼働要請へ「安心は無視か」周辺住民、怒りあらわ 歓迎の声も」 (毎日新聞) http://b.hatena.ne.jp/entry/mainichi.jp/select/wadai/news/20110619ddm041010123000c.html  (ここでは、「交付金を支給されてきた立地自治体からは歓迎の声も上がる。」との文章があったのですが、今では、この記事自体が新聞社により削除されておりました) 参考2:豊田有恒著「日本の原発技術が世界を変える」(祥伝社)  この著書の震災前のレビューを見たのですが、再レビューがなされているように見受けられました。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  前回は 一気に書き進みました。案外 われながら いい線を行っていたでしょうか。それにくらべて 原発をめぐる議論は 的をどうもはづしたようですね。たとえにゴメルの裏切りを持ってくるのは ほとんど 合っていなかったようです。それを包んでお応えいただいたようですが。  ★ 契機は神の意志だったかもしれません。ですが、その後につきましては、二人の関係になろうかと思っております。  ☆ この命題が 答えの基本であり 大前提に これから 成るのではないかと考えます。  《〔神にかかわる〕ひらめき》あるいは《神との関係》は やはり主観の内におさまるものであって 人と人とのあいだでは むしろもはや出て来ないかたちになろうかと考えます。  心を尽くし知恵を尽くし知識を尽くして神を愛せとそしてなんぢの隣人を愛せのふたつのいましめは けっきょく大前提として同じひとつのものであって それとの類推においてもわたしの《神との関係》は わたしの《人との関係》と同じことに帰着するものと思われます。  あるいは この《神を愛せ。隣人を愛せ》という大前提は 言ってみればもうほかにはないそれのみとしての命令でもあると思われますが しかも神の力のもとで考え振る舞うというのでなければ じゅうぶんに自然にふつうにおこなえるものではないと考えられます。  ★  もしかしますと、神がそのゴメルの心情を察して、ホセアに、妻を受け入れるよう、命じたのかもしれません(あくまで、愚見でございます)。  ☆ このように考えられる場合というのも おそらくその命じた神の声というのも 《妻を受け容れなさい》という指示としてホセアに届いたというよりは すでにホセアの心をそれとして やわらがしめていたその境地の変化を物語っているのかも分かりません。  そのような条件のもとにあっては あとは 自分の心と知恵と知識とにもとづき自分の考えで――自由意志のもとに―― 行動するよりほかにないと思われます。  よって   ★ 契機は神の意志だったかもしれません。ですが、その後につきましては、二人の関係になろうかと思っております。  ☆ これが 一般に思惟と行為についての出発点になるものと考えました。  原発論につきましては  ★ いくら国家権力を用いたとしましても、現地住民が納得しない限りでは、建設が不可能だからでございます(現地住民を非難している訳では全くございません。ただ彼らも納得の上での建設であった、ということでございます)。  ☆ この事情は 大きく出発点にあったと思われます。このような出発点をさらにほかの要素をもしっかりと考え合わせて捉えて行くことが大事だと思われるとき 考えられることは ふたつでしょうか?  いまある原発の安全性をどこまでもどこまでも高めること。そして 現地住民の信頼も納得も得られないならば あらたな設置もあるいは稼働もひかえるようにすること。  それにしても エネルギ問題は にわかにあらたなかたちで大きな課題になったようです。(とお茶を濁します)。  ★ 参考1:「原発:再稼働要請へ「安心は無視か」周辺住民、怒りあらわ 歓迎の声も」 (毎日新聞)  ☆ 確かに記事が削除されています。  ★ 参考2:豊田有恒著「日本の原発技術が世界を変える」(祥伝社)  ☆ 著者にしてみれば 災難に遭ったようにも感じるかも知れませんが 人知と人力も見直さねばならないことは 確かなようです。高速増殖炉は出来ないといった見方もあると知りました。(ナトリウムの制御は出来ないのだとか)。  政局は ややおだやかになって来ましたか?

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noname#143207
noname#143207
回答No.11

 こんばんは、ご返答賜りまして、どうもありがとうございました。ひどっち でございます。 > 原発関連からです。 ぜんぶ引いておきます。へたをすると えらいことになりそうです。 (原発賠償条約、加盟を検討 海外から巨額請求の恐れ) ~~~   ――2011年5月29日――  「日本では事故が起きない「安全神話」を前提とする」という文言がございましたが、加盟拒否の裏には、以下のプロセスがあったかと思われます。 1. 絶対に事故が起きないという錯誤。 2. 加盟するということは、事故が起こるという想定の上での決断となる。もし加盟してしまうと、原発反対論者を説得することが困難となってしまうための防御策。  もし、2の方であったとしますと、推進派と反対派の話合いは全く成立していなかったと思われます。   > ★ 「豊かな社会をつくり、維持していくためにはエネルギーは必要である」との記述がございますが、現実はやはり、豊かな社会を日本人は求めていたかと思われます。)  ☆ この《ゆたかな社会》についての再考・再構想・再建設となるのでしょうか。  はい、再考されるときがくるかもしれません。科学の進歩は、ひとに利便性を提供しうるかもしれませんが、必ずしも幸福感・満足感を与えるものではない、ということがわかってくるものと思っております。ですが、再考の機会を得ることなしに、(思考停止したまま)人生を終えていく人もいようかと推察しております。 > ★ なお、特例公債法案(子ども手当てが争点)、再生エネルギー法案(適当に骨抜きされたものが通過?)の2法案が残されておりますが、おそらく目処がつくものと予想しております。  ☆ すんなりと あたらしい段階に移って行きましょうか。  可決された法案の中身にもよるかもしれませんが、相変わらずそのまま、のように思っております。 > 今回は 復唱とまとめでした。  詳細にまとめていただきまして、どうもありがとうございました。 > もしホセア論が 一段落をむかえたとお考えでしたら 【Q:おなじみ・悪は存在しない。・・・】のほうでしたら 社会についての問い求めがゆっくりと出来るかと思います。
 まだ開けております。  了解致しました。  原発近隣住民に関しましては、「ニュースの深層」という番組にて(上杉隆氏と田原総一郎氏の対談)、「現地の人たちはほとんど怒っていない」という発言を耳にしたため、自分で調べてみたものでした。もちろん、住民の人たちの中にも問題視するひともおられたようでございますが(福島から東京にいくまでに約30%もの電力が失われてしまうのに、どうしてこんな所に建設するのか等でございます)、職の安定、過疎化の防止、これらを優先したようでございます。  それでは、次のご質問にてよろしくお願い申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 衆議院議員四年間の任期をまっとうして 参院選とダブル選挙だとか。拉致被害者の帰還の話ですとか お化けが踊り出しましたか。  ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~   原発賠償条約  2. 加盟するということは、事故が起こるという想定の上での決断となる。もし加盟してしまうと、原発反対論者を説得することが困難となってしまうための防御策。  もし、2の方であったとしますと、推進派と反対派の話合いは全く成立していなかったと思われます。  ~~~~~~~  ☆ なるほど。いろんな可能性を考慮していろんな場合に対処しておくのは よいはず。保険のためだと考えればよいはずというのに でしょうか。《話し合いの不成立》が いちばん なさけないように――自戒とともに――思います。  ★ 〔原発の〕現地の人たち・・・職の安定、過疎化の防止、これらを優先したようでございます。  ☆ そして  ★ ~~~~~   ☆ 《ゆたかな社会》についての再考・再構想・再建設となるのでしょうか。  はい、再考されるときがくるかもしれません。  ~~~~~~~  ☆ 単純ですが 一つひとつこなして行かねばなりません。ただし  ★ ですが、再考の機会を得ることなしに、(思考停止したまま)人生を終えていく人もいようかと推察しております。  ☆ ですか。きびしい情況です。  そうですね。ホセアは ひとまづ閉じましょうか。ありがとうございました。みなさんにも感謝申し上げます。考えにくい主題だったかと思います。でも ひととおりの回答を得たように思います。ありがとうございました。

noname#143207
noname#143207
回答No.10

 こんばんは、ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。ひどっち、でございます。 > 前回は 一気に書き進みました。案外 われながら いい線を行っていたでしょうか。それにくらべて 原発をめぐる議論は 的をどうもはづしたようですね。たとえにゴメルの裏切りを持ってくるのは ほとんど 合っていなかったようです。それを包んでお応えいただいたようですが。  ご質問者様の意見に賛同致したく存じます。ゴメルの件につきましては(原発関連につきましては、後述致しております)、もしかしますと、再渇させていただくことになるかもしれません。 > 心を尽くし知恵を尽くし知識を尽くして神を愛せとそしてなんぢの隣人を愛せのふたつのいましめは けっきょく大前提として同じひとつのものであって それとの類推においてもわたしの《神との関係》は わたしの《人との関係》と同じことに帰着するものと思われます。  はい、仰られますように、《神との関係》は《人との関係》と同じものに帰したと解してございます。 > ★ もしかしますと、神がそのゴメルの心情を察して、ホセアに、妻を受け入れるよう、命じたのかもしれません(あくまで、愚見でございます)。 ☆ このように考えられる場合というのも おそらくその命じた神の声というのも 《妻を受け容れなさい》という指示としてホセアに届いたというよりは すでにホセアの心をそれとして やわらがしめていたその境地の変化を物語っているのかも分かりません。  その可能性はあろうかと考えております。すでに何かしらの心積もりのようなものがホセアの心中にできていたのかもしれません。 > そのような条件のもとにあっては あとは 自分の心と知恵と知識とにもとづき自分の考えで――自由意志のもとに―― 行動するよりほかにないと思われます。  よって   ★ 契機は神の意志だったかもしれません。ですが、その後につきましては、二人の関係になろうかと思っております。  ☆ これが 一般に思惟と行為についての出発点になるものと考えました。  ご賛同いただきまして、光栄に存じます。 > 原発論につきましては  ☆ この事情は 大きく出発点にあったと思われます。このような出発点をさらにほかの要素をもしっかりと考え合わせて捉えて行くことが大事だと思われるとき 考えられることは ふたつでしょうか? 1. いまある原発の安全性をどこまでもどこまでも高めること。そして  2. 現地住民の信頼も納得も得られないならば あらたな設置もあるいは稼働もひかえるようにすること。   1. いまある原発の安全性をどこまでもどこまでも高めること。  元来、(チェルノブイリのときには対岸の家事火事でございましたが)何かしらの物理的要因等により、その危険性の存在はある程度は分かっていたはずかと思っております(参考1)。従いまして、今回の事故にはやるせない気持ちでおります。 参考1:http://chikyuza.net/n/archives/5876  (震災前の議論でございます。なお、当ブログの筆者が「その不安以上に繰り返しなされる杤山氏の次のような技術とかけ離れた発言には強い違和感をもった。<中略>「豊かな社会をつくり、維持していくためにはエネルギーは必要である」との記述がございますが、現実はやはり、豊かな社会を日本人は求めていたかと思われます。) 2. 現地住民の信頼も納得も得られないならば あらたな設置もあるいは稼働もひかえるようにすること。  これは、仰る通りかと考えております。もしこれが許されてしまいますと、国家に絶対的な権限を与えてしまうことになってしまいます(警察国家がやってきてしまいます)。 > ★ 参考1:「原発:再稼働要請へ「安心は無視か」周辺住民、怒りあらわ 歓迎の声も」 (毎日新聞)  ☆ 確かに記事が削除されています。  先日までは、見ることができたのですが・・・  局の方針が変わったのかもしれません。政府と東電叩きをメインに持っていきたかったのかもしれません。 > ★ 参考2:豊田有恒著「日本の原発技術が世界を変える」(祥伝社)  ☆ 著者にしてみれば 災難に遭ったようにも感じるかも知れませんが 人知と人力も見直さねばならないことは 確かなようです。高速増殖炉は出来ないといった見方もあると知りました。(ナトリウムの制御は出来ないのだとか)。  意見を等しく致します。改めて、「人知と人力も見直さねばならない」と考えております(これは、理系人間の義務とも考えております)。  申し訳ございません。少し話しがそれてしまいますことをお許しください。  昨今の東電叩きでございますが、原則、損害を被った人たちが訴えるべきことかと思っております。また、東電に根強く徘徊している“利権”なるものもございますが、これはまた別の問題として処理すべきかと考えております。  先程、調べてみたのですが、日本は原発事故に対する条約(パリ条約、ウィーン条約)には未加盟のようなのです(参考2)。つまり、何かしらの放射能汚染の被害が海外にまで及ぼした場合(さらにはその国の裁判所で、違憲とみなされた場合)、東電が損害賠償しなくてはならない、ことになってしまいます。もちろん、支払い不能になりますと、差押えをされてしまいます。これは絶対避けたいとの思いが愚生にはございます。従いまして、隣国からの干渉を防ぐためにも、東電に対しては、建前上でも、可能な限り天災による無過失を日本側でも主張していかなくてはいけないものと考えております(無念!と思われる方々も多いとは存じますが)。もちろん、賠償金等は、もちろん東電も支払い義務がございますが、国家が主な債務者となるのが最善かと考えております。  繰り返すようではございますが、利権に対しましては、別途きっちりとメスを入れるべきかと考えております。 参考2 http://www.asahi.com/politics/update/0528/TKY201105280573.html  http://www.news30over.com/archives/3373095.html (ブログでは、茶化してはおりますが、ロシアや中国等に”東電の差押え”を本気で要求されてしまいますと、大変なことになろうかと予想されます) > 政局は ややおだやかになって来ましたか?  今までもそうでございましたが、難なく可決された場合は面白みに欠けるため、あまり報道はされないようでございます。  なお、本日、2次補正予算が可決されたようでございます(ここまでは、想定通りだったかと思われます)。なお、特例公債法案(子ども手当てが争点)、再生エネルギー法案(適当に骨抜きされたものが通過?)の2法案が残されておりますが、おそらく目処がつくものと予想しております。 <2次補正予算>参院本会議で可決、成立 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110725-00000049-mai-pol  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 ホセアとゴメルにかんする見方考え方について賛同いただき ありがとうございます。うれしかったです。  こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。  原発関連からです。  ぜんぶ引いておきます。へたをすると えらいことになりそうです。  ▼ (原発賠償条約、加盟を検討 海外から巨額請求の恐れ) ~~~   ――2011年5月29日――  東京電力福島第一原子力発電所の事故で、日本が海外から巨額の賠償を負わされる恐れがあることがわかった。  国境を越えた被害の損害賠償訴訟を事故発生国で行うことを定めた国際条約に加盟しておらず、外国人から提訴されれば日本国内で裁判ができないためだ。  菅政権は危機感を強め、条約加盟の本格検討に着手した。  原発事故の損害賠償訴訟を発生国で行うことを定める条約は、国際原子力機関(IAEA)が採択した 「原子力損害の補完的補償に関する条約」(CSC)など三つある。  日本は米国からCSC加盟を要請されて検討してきたが、日本では事故が起きない「安全神話」を前提とする一方、近隣国の事故で日本に被害が及ぶ場合を想定し、国内の被害者が他国で裁判を行わなければならなくなる制約を恐れて加盟を見送ってきた。  このため、福島第一原発の事故で海に流れた汚染水が他国の漁業に被害を与えたり、津波で流された大量のがれきに放射性物質が付着した状態で他国に流れついたりして被害者から提訴されれば、原告の国で裁判が行われる。  賠償金の算定基準もその国の基準が採用され、賠償額が膨らむ可能性がある。  ★ ~~~~~~~~~~  従いまして、隣国からの干渉を防ぐためにも、東電に対しては、建前上でも、可能な限り天災による無過失を日本側でも主張していかなくてはいけないものと考えております(無念!と思われる方々も多いとは存じますが)。  もちろん、賠償金等は、もちろん東電も支払い義務がございますが、国家が主な債務者となるのが最善かと考えております。  繰り返すようではございますが、利権に対しましては、別途きっちりとメスを入れるべきかと考えております。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいはまた  ★ 「豊かな社会をつくり、維持していくためにはエネルギーは必要である」との記述がございますが、現実はやはり、豊かな社会を日本人は求めていたかと思われます。)  ☆ この《ゆたかな社会》についての再考・再構想・再建設となるのでしょうか。  そうして  ★ なお、特例公債法案(子ども手当てが争点)、再生エネルギー法案(適当に骨抜きされたものが通過?)の2法案が残されておりますが、おそらく目処がつくものと予想しております。  ☆ すんなりと あたらしい段階に移って行きましょうか。  今回は 復唱とまとめでした。  もしホセア論が 一段落をむかえたとお考えでしたら 【Q:おなじみ・悪は存在しない。・・・】のほうでしたら 社会についての問い求めがゆっくりと出来るかと思います。  まだ開けております。

noname#143207
noname#143207
回答No.8

 こんばんは、ひどっちでございます。  まず、以下のご表現に関しましては、おそらく皆様が認めるところかと存じます。 ANO.6および7のお礼らん からでございます。  ○ ホセアはただただ神の声に従うというかたちで書かれており またそのような表現において まづは捉えるべきである。  ○ そのふたりの関係が 神とイスラエルの民との関係に比される とのこと。 > (え) ホセアなる男がヒラメキ直観に心から従うならば 相手つまりこの場合《淫行の妻ゴメル》の心においてもやわらぎが得られていると言えるのか? ゴメルは ホセアをただのロボットだと見なさないか?  神との契約によりホセアはそうしただけであった、ということを知り得ていたならば、ロボットだとみなすと考えられます。さらには、自分に対する愛情はない、とそう受け取る可能性も高いと察せられます。  ですが、おそらく、ゴメルにとりましてはそのような事情は知らなかったと考えられます。また奴隷の身であったところを、ホセアによって、”銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテク”で買い戻されたこともあり、ホセアに対して感謝はしていると考えられます(下記をご参照くださいませ)。 新共同訳 02:09彼女は愛人の後を追っても追いつけず尋ね求めても見いだせない。そのとき、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった」と。 03:02そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女[ゴメル]を買い取った。 > (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?  おそらくできなかったと考えております。神をとおして、ゴメルを見ることができた、その一点だけかと推察しております。 > キリスト・イエスの登場したあとから見れば どんな風景として見られるか? 変わりなく見えるのか。変わって見えるのか。  キリスト・イエスの登場したあと:もはや、主従の契約関係ではなく、親子のような“愛”に変化した、と考えております。またここでは、自由[意志]なるものが存します。  つきましては、ホセア、ゴメルの両人の自由意志の尊重が認められることになります。そして、神に対する債務不履行(契約違反)も原則存在しないものと考えられます。  極論を申しますと、神を否定しようが、別段問題はないものと察せられます。もちろん、これは人には裁く資格はなく、神のみがそれを行使することが可能となります。また、神のそのご判断については、人は知る由もございません(勝手に裁いてはいけないものかと考えられます)。  そこで、ホセアについて申しますと、今度は人同士の契約関係に基づくものになろうかと考えられます。妻ゴメルにより一方的な契約違反がなされたならば、許す必要はないものと考えられます。ヒラメキがあった場合でも、ホセアの自由なる意志より決断する、これだけかと考えております。  とりとめのない内容となってしまいましたが、何かご参考となるところがございましたならば、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 うわぁ すごい。と思わず口に出しそうになりました。言葉で表わしがたかったところを かなり先へとすすめていただいたと思いました。  ひどっちさん ご回答をありがとうございます。  ★ 神との契約によりホセアはそうしただけであった、ということを知り得ていたならば、ロボットだとみなすと考えられます。  ☆ 《契約により》つまりあるいは《律法を守るというかたちにおいて》だと思われるのですが このかたちの中においてホセアの思いも行動もあったのだとすれば 現代人なら かれをロボットだと思いなすのではないか。わたくしもこう感じていたのだと思います。  ただし しかも この当時における情況にあっては ゴメルや第三者は ホセアの思いや行動が《〔少々わるく言えば石の板に書いたところの〕律法の命令をただただ守るという形式》に従っただけであったということを  ★ 知り得ていたならば ロボットだと見なすと考えられます。  ☆ なのですね。  逆に言うと 当時のかれらにしてみれば 律法形式よりほかの守るべきとうとい思惟および行動の形式を知らなかった。(わづかにモーセの以前にアブラハムがいたということを知っており その信仰についても言い伝えられていたでしょうが 一たんその信仰形式も モーセの律法形式に かたちの上では 取って代わったものと考えられます)。  おそらく これが基本であると思いました。  言ってみれば イエスのあとでは ふたたびアブラハムの信仰形式に戻ったとも言えるかと思われますから――つまり律法は 罪のあることをおしえるだけといった状態になったと考えられますから―― もし律法形式によってこの現代のホセアがふるまっていたのなら ゴメルは  ★ 自分に対する愛情はない、とそう受け取る可能性も高いと察せられます。  ☆ となろうかと思っていましたし このように言葉にあらわしていただいたあとでは さらに強くその方向において考え続けていくのがよいと思った次第です。  かくして:  ★ ~~~~~~~  キリスト・イエスの登場したあと:もはや、主従の契約関係ではなく、親子のような“愛”に変化した、と考えております。またここでは、自由[意志]なるものが存します。  つきましては、ホセア、ゴメルの両人の自由意志の尊重が認められることになります。そして、神に対する債務不履行(契約違反)も原則存在しないものと考えられます。  ~~~~~~~~~  ☆ という世界――あたらしい時代としての世界――に入って来ている。やはり このように捉えられると質問者も思います。  ★ 自由意志  ☆ は どうでしょう もともとあったわけですし アダムとエワのときから行使し始めて来ているとも言えるわけですが 律法が与えられたということは 或る種の仕方で 例のモーセに対する《神による手の覆いとその手を取りのけたあと神の背面を見ること》(出エジプト記33:21-23)にかかわっていたと見られましょうか。  つまり 律法という命令ないし戒律が あたかも目を覆ったかたちで人びとをして行動せしめる。そのようにして この律法の時代には 人びとにとってそれぞれの自由意志がやはり覆いをかけられていた。といったかたちが考えられましょうか。  そこであらためて イエスよりあとの時代とその世界における現代版《ホセアとゴメル》について考えるならば だいたいとして次のような流れが推し測られるでしょうか。  ★ ~~~~  〔* まづ人間の思考ないし判断一般についての前提として〕: 極論を申しますと、神を否定しようが、別段問題はないものと察せられます。もちろん、これは人には裁く資格はなく、神のみがそれを行使することが可能となります。また、神のそのご判断については、人は知る由もございません(勝手に裁いてはいけないものかと考えられます)。  そこで〔* 具体的な事例に即しては〕: ホセアについて申しますと、今度は人同士の契約関係に基づくものになろうかと考えられます。  (あ) 妻ゴメルにより一方的な契約違反がなされたならば、許す必要はないものと考えられます。  (い) ヒラメキがあった場合でも、ホセアの自由なる意志より決断する、これだけかと考えております。  ~~~~~~~  ☆ (い)のヒラメキが――ということはその主観において 神からの(つまりは わが心の奥底の)声が受けとめられたところのヒラメキが――あった場合においても それに従うかどうかは ホセア自身の意志によって決めればよい。(あ)のなかった場合であればなおさら 《ホセアの自由なる意志により決断する》ことになろう。  つまりは 《契約違反》もしくは《裏切り行為》が――むしろその違反者ゴメルの心において――癒やされたかどうかを問題にすることが出来て それを問うこと(ホセアにしてみれば きちんと知ること)がヒラメキに従うかどうかの判断より先に来るのではないか? (あるいは 同時並行的でしょうか)。  そうしたあとは――もしさらに ふたりに交通がつづいているのならば(*)―― ふたりでしっかりとあらためて話し合っていけばよい。つまり 結論は決まっていないし 互いに自由に決めるのであると。わづかに さすがホセアのほうがその決断の自由度は 上だとみられましょうか。ゴメルは もし心を入れ替えたとすれば そのいくらか劣勢の自由度において・その劣勢をくつがえすほどに ホセアに自由に話を持ちかけていけばよい。   * ★ ~~~~  新共同訳  02:09彼女は愛人の後を追っても追いつけず尋ね求めても見いだせない。そのとき、彼女は言う。「初めの夫のもとに帰ろう。あのときは、今よりも幸せだった」と。  ~~~~~~~~~  ☆ この心つもりの延長にいるのならば。  ★ ~~~~~   > (お) ヒラメキによって心のやわらぎを覚えたとは言え ホセアは ほんとうに裏切りの人間を心から受け容れることが出来たのか?  おそらくできなかったと考えております。神をとおして、ゴメルを見ることができた、その一点だけかと推察しております。  ~~~~~~~  ☆ ここについて 質問者が口を挟めばですが これをゴメルの側から見ることも出来るかと思います。  自分がおこなった裏切り行為についてゴメルが むしろ自分が自分自身をゆるせなかった。ゆるせない(その《わたし》でよいと思えない)まま ホセアに自分を受け容れられることに むしろ自尊心としてのごとき誇りゆえに 抵抗が残った。とも読めるかと思いました。  ホセアは ヒラメキにおいて  ★ 神をとおして、ゴメルを見ることができた  ☆ そのあと いま捉えようとしたようなゴメルの心の中の動きを まづは見守るということになろうかと考えました。  ご回答内容に接して 一気にここまで考えて来ました。  目を転じて考えてみれば:  原子力発電所の設置によって 電力会社も現地の住民もあるいは政権党としての自民党のお偉方もそれぞれ十分にうるおったとすれば そしてそのとき想定しうる災害について確率のうすいことは想定しないでよいと見なしたところに そうした種類のゴメル風裏切りがあったとすれば まづは――この場合ホセアが誰であるかよく分かりませんが―― その過去の行為と考え方について反省・分析することから始めるのが いちばんよいのではないか。こうも考えられます。果たして どうでしょう。

回答No.7

ぶらじゅろんぬさん、こんばんわ。 生まれつきのイスラエル人でもなく、 教会で教わったこともない宙ぶらりんです。 例によって空気読んでませんが、 何となくわたしはこう思う、と、 何となく書いてみます。 ☆ たぶん初めからホセアは 嘆息とともにではなく、 歓びとともに ゴメルを娶ったんぢゃないかな。 不完全なゴメルが ホセアに対して不誠実であっても、 不完全なゴメルを愛することを やめられなかったのぢゃないかな。 いえ、何となくそう思うだけですが。 何となく、ですが、それは、 神(?)がイスラエルを愛することを やめられなかったのと何故か似ていて。 ダビデ・ソロモンの後からかな、 イスラエルは姦淫しっぱなしで、 神(?)は嘆いたり呻いたりしつつ、 けどやっぱり常時、 イスラエルに目を留めており。 ☆ ホセアはゴメルが他人の子を産み、 それからまた他人の子を産み、 他の男と出て行ったとき、 ふと、ホセアは 「神よ、あなたも このような思いだったのか! イスラエルがそむいたときに!」と、 泣き喚いたんぢゃないかな。 ☆ ゴメル(イスラエル)は言う 「愛人たちについて行こう パンと水、羊毛と麻 オリーブ油と飲み物を くれるのは彼らだ」 ゴメル(イスラエル)は知らないのだ それらを豊かに得させたのは 誰なのか! ☆(神?) ああイスラエルよ お前を見捨てることが どうしてできようか! ☆(ホセア) ああゴメルよ お前を見捨てることが どうしてできようか! ☆☆ 不完全な人間を受け容れる! と約束したのだし、 無関心にはなれないのだから! だれの言葉か忘れちまいましたが、 たしか多くの預言者が 繰り返し言っていたような。 「立ち帰れ、立ち帰れ、 お前たちの悪しき道から。 イスラエルの家よ、 どうしてお前たちは 死んでよいだろうか!」 何となく、思ったまんま書きました。 例によってたぶん書きっぱなしです。 お邪魔しました。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 立ち帰れ、立ち帰れ、  ☆ たしかに この表現だったと思います わたしが勝手に《〈わたし〉のよみがえり》などと表現したところの中身は。  にゅうとらるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  たぶん 基本は 上の命題〔と言いますか 方程式と言いますか 中核としてあるもの〕がそれだとわたしも思います。  という見方で世界を見渡してみますと われわれ日本人にはこの《立ち帰る》ところが むしろ無いのかも知れません。あっても はっきりさせない。せいぜいが 《もののあはれ》といったあいまいな原点であろうかと思います。  その上で  ○ ホセアとゴメルの関係  を捉えること。そして また  ○ そのふたりの関係が 神とイスラエルの民との関係に比される  とのこと。その中身もるる説明されております。無理なく見通されていると思います。  ここでわたし自身が宿題としているところを述べて よろしかったら――時間をかけて自由に――考えていただくこととしたいと思います。(この質問の中でなくても 自由にこれからのやり取りにおいてでよいと思います)。  つまり簡単なんです。キリスト・イエスの登場したあとから見れば どんな風景として見られるか? 変わりなく見えるのか。変わって見えるのか。  (そのための趣旨説明は ここまでの しんしなちさんとのやり取りをもって代えますので お手数ですが 参照くださるようお願いいたします)。  あとは これまでのやり取りの中から ひとつ引き継ごうと思えば:  ○ ~~~~~~~  ゴメルは ホセアの愛をしつこいと思うことはないか?   ホセアよ あんたは 神の奴隷でありロボットではないか?   自分の心は どこにあるのか?    勝手にわたしの心をモルモットのように扱うなかれ!  というふうに反論しないか?  ~~~~~~~  ☆ またそのことが イエスのあとの歴史においては(つまりそこでの人びとにとっては)どのように見られるか? 考えてまいりたいと思います。どうぞよろしく。

bragelonne
質問者

補足

 ヘブル語およびギリシャ語の《愛》を表わす語についてです。  ヘブル語を調べてみると 三つ四つあるのですが どうも《アハブ》という語が主に使われていて これがおよそ《愛》一般を広く表わすようなのです。しかもこのアハブなる語に 旧約聖書ではギリシャ語は多くの場合《アガペー》で対応しているようなのです。  となると どうなるのか。ギリシャ語におけるアガペーとフィリアとの比較対照が ヘブル語における《愛》の語と照らし合わせることによっては あまりはっきりした意味合いは明確にならないのではないか。  こういう〔中間報告としての〕結論を得ました。  次のような語法ないし用例です。つまり ヘブル語《アハブ》は ギリシャ語の《ストルゲー / エロス / フィリア / アガペー》のたぶん全部を意味し得ると思われます。  ○ ヘブル語の《アハブ・アハバー》の意味と用例 ~~~~~~~~~~~~~  http://www.blueletterbible.org/lang/lexicon/lexicon.cfm?Strongs=H160&t=KJV  (1) love   a) human love for human object(人の人に対する愛)   1) of man toward man(男と男のあいだでも人としての愛;友情)   2) of man toward himself(自己の魂への愛)   3) between man and woman(人しての男と女の愛)   4) sexual desire(性愛)  (2) God's love to His people(神の民への神の愛)       *  文例:  a-1) 男どうしの友情についても 人間愛として使う:   ○ (サムエル記下 1:25-26) ~~~   ・・・ヨナタンはイスラエルの高い丘で刺し殺された。   あなたを思ってわたしは悲しむ   兄弟ヨナタンよ、まことの喜び   女の愛にまさる驚くべきあなたの   〔男であり人であるわたしダヰ゛ドへの〕   愛(【ヘブル】アハバト-カ;【ギリシャ】アガペーシス)を。   ~~~~~~~~~~~~~~   ○ (サムエル記上 20:17) ヨナタンは、ダビデを自分自身のように愛していたので、更にその愛のゆえに(ベ・アハバー・トー;ホティ エ‐アガペーセン アウトン)彼に誓わせて  a-2) おのれの魂への愛:   ○ (サムエル記上 20:17) ヨナタンは、ダビデを自分自身のように(=おのれの魂を愛するごとく:アハバト ネフショー;プシュケーン アガポーントス)愛していたので、更にその愛のゆえに彼に誓わせて  a-3) 両性のあいだの人間愛:   ○  (創世記29:20) ヤコブはラケル・・を愛していた(アハバー・ター;アガパーン)ので   ○ (サムエル記下1:26) 兄弟ヨナタンよ、・・・女の愛(アハバト;アガペーシン)にまさる驚くべきあなたの愛を。  a-4) 性愛   ○ (雅歌2:7) ~~~~~   エルサレムの娘たちよ、わたしは、   かもしかと野の雌じかをさして、   あなたがたに誓い、お願いする、   愛(アハバー;アガペー)のおのずから起きるときまでは、   ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。   ~~~~~~~~~~~~~  a-5) 親子などの家族愛( a-1 に含まれるのでしょうか)   ○ (創世記22:2) あなた(=アブラハム)の愛する(アハブタ;アガペーサス)独り子イサク  (2) 神の人への愛   ○ (列王記上10:9) 主はとこしえにイスラエルを愛し(アハバト;アガパーン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ★★ ~~~~~~~~~~~~  たとえば、  ◇ソロモンに感嘆しながら「滅びの影に女あり」とソロモンに助言して  さっさとおうちに帰って行ったシェバの女王の愛はなんなんだろ。  ◇ダビデとヨナタンの愛はなんなんだろ。  ◇ナオミとルツの愛はなんなんだろ。  ◇エステルと王とモルデカイとユダヤ人の愛はなんなんだろ。  ◇パウロのたくさんの手紙は?  ___________  一方、  ◇イサクをささげようとしたアブラハムに、神は羊を用意した。  ずうっとアブラハムを「友」と言って、共にいたから。  ◇ヨブが失った畜類を、神は倍にして返した、  ずうっとヨブを目に留めていて、ヨブの忍耐に敬意を払った。  ___________  ◇(うろ覚えですが)  「もはやわたしはあなた方を奴隷とは呼びません、友と呼びます、  あなた方はわたしを知るようになったからです。」  と言ったイエスの愛はなんなんだろ。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 問い求めは 振り出しに戻ったような恰好ですが ほぼあらゆる《愛》に ギリシャ語のアガペーは用いようと思えば用い得るということのように受け取りました。  つまりは 日本語でも《愛》という言葉は 仏教用語として渇愛・つまりむしろ無明や煩悩の意味で用いられていたのが 広く語義をあらたにつくったようなわけですから そういう要素も考えられるのかも知れません。  取り敢えずですが。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.6

つまり聖書的にいえば罪にまみれており、そこからの救いはどこにもないという状況ですので、天からの一本の救いの紐が降りてきたのをつかんだ者としてゴメルをまた自分を眺めております。  ☆ という見方は もう古い。こう捉えざるを得ません。  というのが わたくしの見解ですが いかがでしょう? 真理は時代を越えて真理であるということが真理たる所以と思いますのが、イエスキリストによる罪の赦しが、古い契約によるのか新しい契約によるのか聖書学者の見解に委ねたいと思います。そんなわけでbragelonneさんのご質問に直接おこたえできません。 ただ明確に述べることがあるとすればキリスト以後の時代、多くの人々が聖書を通して、人生とは何か、生きるとはどうゆうことなのかという問いに明確な答えを与えられ、日々を幸いの内に過ごしたのだと述べることができると思います。なぜなら、そのような体験を回答者はしてきたからに他なりません。それが古いか新しいかは問題ではございませんでした。 プロテスタントの教会では牧師という人がおりまして、聖書の問題ということよりも、生きる理由とか働く理由とか、なぜ人は死んで行かなければならないのか、などなどのご質問にお答えするために存在しておりますので、時には書を読むのをやめてお尋ねいただければ有効な答えが見いだせると思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。そして根気よく問い求めにおつき合いいただきたいへんありがとうございました。  そうですね。おっしゃった内容をわたしの言葉で翻訳すれば こうなります。  ○ ホセアとゴメルの考えや行動を そのホセアの時代にあっては――つまり旧約の・モーセからのちの律法の時代にあっては―― イエスのあたらしい契約を受けたという時代としてまったくそのあたらしいかたちにおいては 捉えることは出来ない。  ○ ゆえに ホセアは そしてゴメルも ただただ神の声に従うというかたちで書かれており またそのような表現において まづは捉えるべきである。  ☆ といったかたちです。  そのようにわたくしも まづは受け取りました。  そのあと願わくはですが しんしなちさん あるいは牧師の方にお尋ねしたいと思うのは エレミヤ書31:31以降のくだりとそれを取り扱ったヘブル書のくだりについて 見解をお示しいただければということであります。  あいまいであるという印象を持ったものですから ひとこと申し添えました。  でもこの質問の直接の趣旨ではないとも思われますので ここまでです。  かさねてお礼を申し上げます。ありがとうございました。  まとめなどがありましたら おぎなっておいてくださるとよいと思います。読んでくださっている方々へのおぎないになるかと考えます。そのために いま少し開いています。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.5

 今回は ただ次のひとつのことについてなおお尋ねしたい。これのみです。    ○ 思惟や行動は 自分ひとりのこととしてほぼ完結する場合と そう     ではなく 明らかに相手がいる場合とがあります。      後者の場合には 相手がどう考えどう心を決めているかが 自分     の心の問題とは別に とうぜんのごとく 大事である。  ★★(回答No.3) ホセアにとってはそれは (あ)自分の誇りや自分の人生設計を捨てて、(い)自分の望まない結婚をすることであったのかもしれません。  ☆ つまり(あ)は 自分ひとりの行動で済みます。(い)は 自分の思わくだけでは済みません。相手のあることです。 再度のご返答ありがとうございます。また問題を絞っていただいた内容の要約は以下のようになるのではないかと思います。 私どもが考えることや行動には自分の内で完結するものと、第三者の対応により自分の対応を変えざるを得ないものと2種類あるのではないか。その上で高いところから手を差し伸べてやるとでも言う神のような姿勢にに対して、自分がゴメルだったらどうだろうか、腹が立つのではないかという趣旨と思います。いかがでしょうか。 もしそうであるならば神様はまさにそのようなお方であるという面があると思います。ゴメルとしての自分は何ら肯定できる要素がなく、なにか人々に認められるようなものがない。つまり聖書的にいえば罪にまみれており、そこからの救いはどこにもないという状況ですので、天からの一本の救いの紐が降りてきたのをつかんだ者としてゴメルをまた自分を眺めております。 しかしここでの回答者の誤りは仮にゴメルとホセアの関係が自分と神との関係を表していると軽々にかんがえてしまっているということにあるかもしれません。従いまして、この点に関してご質問者さんが私はこう考えるとか、あるいはないがしろにできないのはゴメルの感情であるということである、ということであれば、それはそれである一つの読み方と思います。 聖書の目的は神が私どもに私はあなたがたの神である、それをまず認めよとのべております。心を尽くして訪ね求めるならばわたしに出会うと述べております。もし神に出会っておられるならば、回答者の意見に無礼ながらも意味があるとご理解いただけるのではないかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 今回は 見解をひとしくするところと 異なっているところとを持ちました。  しんしなちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ★ 私どもが考えることや行動には自分の内で完結するものと、第三者の対応により自分の対応を変えざるを得ないものと2種類あるのではないか。  ☆ この二種類の区分について 賛同しただきありがとうございます。  この同じ前提で 次の点が 見方が分かれるところだと知りました。  ことは広く聖書ないし信仰にかかわります。それを今回知りました。述べてみます。  ★( a ) 聖書の目的は神が私どもに私はあなたがたの神である、それをまず認めよとのべております。  ☆ このお考えに反対の見方を提出します。エレミヤ書に言う《あたらしい契約》についてです。それは ヘブル書に取り上げられています。  ▼ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」       (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。   ~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち  ▼(エレミヤ書31:34)  『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  ☆ のでしたら ( a )のお考えは――イエスのあとの世界においては―― 無用だと受け取ります。  〔ただし そのような旧約からの新生としてのキリスト・イエスの名を伝えることは 《宣教というおろかな手段》によって起こったのですし 良心の自由あるいは表現の自由において 自由であったと見ます〕。  もう一点です:  ▼(同上) ~~~~~~   わたしは、彼らの不義を赦し、   もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」  ~~~~~~~~~~~~  ☆ でしたら ゴメルもホセアもともに互いにひとしく自由な人間です。罪を犯さないということではなく ――現在からその当時を捉えるというかたちで言えば しんしなちさんがいつもキリスト者についておっしゃっているように――罪に問われなくなっているはずです。  ★ つまり聖書的にいえば罪にまみれており、そこからの救いはどこにもないという状況ですので、天からの一本の救いの紐が降りてきたのをつかんだ者としてゴメルをまた自分を眺めております。  ☆ という見方は もう古い。こう捉えざるを得ません。  というのが わたくしの見解ですが いかがでしょう?  ですから ホセアは いかに神の声としてのヒラメキであろうとも ゴメルの自由意志をおのれのそれと同じように――しかもそのことは 神を愛することにひとしいと言うべきかたちで――大事にしなければならない。と考えていたのでした。

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.4

つまり 前回わたしは次のように問うています。   ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~   5. われわれ人間は 多少とも努力をしたという事実があれば それでよいというようなことではないですよね?――そんなんぢゃ 相手つまりこの場合ゴメルにしたところで 何をふざけているのか? 現実を何だと思っているのか? わたしをただ あんたの神の愛のまねびの実験台にするだけのおあそびはやめて欲しい。と言いませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これをあらためて 問いたいと考えます。放っといてくれというところを 無理にホセアはゴメルに向かって行動していませんか?  ホセア書本文にゴメルの言い返しやいちゃもんが書かれてないとしても 《犠牲》論ないし《愛》論としては とうぜんのごとく問われなくてはいけない問題点だと考えます。  ここに集中したいと考えますが いかがでしょう? ホセアやゴメルの心情に付いては、再度聖書に当たり、検討を加える必要がありますので、控えさせていただきます。また同時に聖書を学問的には追求しておりませんので、答えるための有資格者でないようにも感じています。 ただ言えることは神様は私どもに対して死生に関することで伝えたいことがあるということが言えると思います。日本では愛とか恋とかが前提でなく見合いで結婚される方も沢山おりますので、恋愛感情など全くない結婚もあると思います。実は回答者もそのような結婚をしました。現代ではどうでも良いことが過大に取り上げられ、重要なことはほとんど顧みられることがないという風潮があるようです。 死生にかんしてとは、神様と私どもの間の関係は命をやり取りする関係と言い換えたほうが良いかもしれません。「イエスが十字架でその命を捨てたことにより」全てが始まっていることからもお分かりいただけるのではないかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 しんしなちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  今回は ただ次のひとつのことについてなおお尋ねしたい。これのみです。    ○ 思惟や行動は 自分ひとりのこととしてほぼ完結する場合と そう     ではなく 明らかに相手がいる場合とがあります。      後者の場合には 相手がどう考えどう心を決めているかが 自分     の心の問題とは別に とうぜんのごとく 大事である。  ★★(回答No.3) ホセアにとってはそれは (あ)自分の誇りや自分の人生設計を捨てて、(い)自分の望まない結婚をすることであったのかもしれません。  ☆ つまり(あ)は 自分ひとりの行動で済みます。(い)は 自分の思わくだけでは済みません。相手のあることです。  ですから今回焦点を当てられているところの  ★ 死生にかんしてとは、神様と私どもの間の関係は命をやり取りする関係と言い換えたほうが良いかもしれません。  ☆ という見方を提出なさるとき この《わたしと神との間の命のやり取り関係》が(あ)の自己完結性として成り立つとすれば それに対してゴメルという元妻を相手とするのは(い)の場合です。そこに《命のやり取りをするような関係》を当てはめるのは 話が別になります。一方的に自分の思わくのみでことが済むとは思えません。  そのゴメルは ホセアに対して  ☆☆ ・・・わたしをただ あんたの神の愛のまねびの実験台にするだけのおあそびはやめて欲しい。と言いませんか?  ☆ の意味は たとえばよほど人間としての誇りをもって自由を ただ与えられたものとして持つのではなく めぐみとしてきよらかなおそれを抱きつつ享受して行く自由な人間でなければ けっきょく互いの人間としてのつり合いが取れないと言って 尻込みをします。尻込みをするだけではなく あんたはこの卑しいわたしに対する優越感に浸るために それを愛と称して わたしを迎え入れたのではないか? とでも イヌのように喰ってかかるでしょう。  それでなくても 《相手のいる話》では 自分の《命をやり取りするような決意》のもとにもコトがうまく運ぶとは限りません。経営とは そういうものではないのでしょうか?  それと  ▼ (ホセア書6:6) ~~~~   わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく   神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。  ~~~~~~~~  ☆ この命題は いまの《命をやり取りする関係》という見方にも有効であると考えます。  さていかがでしょう?  (と振るのは 回答者さんを追い詰めることになりましょうか?)  * どうも問題は いくぶん変わって来ましたでしょうか。つまり    ○ 《ヒラメキ――神のお告げとしての――》に人は どう対処するのがよいか?  というようにです。つまり相手のある話の場合には この対処の仕方が 自分ひとりだけの思わくや行動では済むものも済まない。では どうするのか? というようにです。  もしそうだとしますと この主題はいろんなふうにあらゆる場合に当てはまるようにも考えられます。  ★ 「イエスが十字架でその命を捨てたことにより」全てが始まっていることからもお分かりいただけるのではないかと思います。  ☆ というこの《お分かりいただけた》ことが 実際にはどのように受け取られ実行されることになるのか? ――どうもこういう問いであったように思われて来ました。  つまり聖書という聖書の文句について 実際にはどういう意味とその――出来ることであれば――実践や応用が考えられるのか? これを問うことになるかと思います。  いやはや どうなのでしょう?

  • cincinnati
  • ベストアンサー率46% (606/1293)
回答No.3

(難しいとも感じています。)という当方の意図はクリスチャンといえどもイエスの基準を満たすのは「むずかしい」という意味で述べましたので、ご理解の通りです。神の愛は無限だと思いますが、その理由が「キリストの基準」をおおむね破ってしまうものでさえ神は赦し続けるという意味で述べておりますので、これもご理解の通りと思います。 今回のご質問に関して久しぶりにホセア書を読んでみました、最初にこれはホセヤ書ではなくホセア書であるということで、まず当方の誤りを訂正しておきたいと思います。我が家では妻や子供が聖書を読んでいるそばで私だけは別のことをしているというような信仰ですので、信仰のレベル低いということが回答者の側の問題かもしれません。 本題から外れましたので、戻りますが、前回の回答は中間報告ではございませんが、書きながら何か要点を得ない、回答に一直線に答えていないようなもどかしさを感じておりました。それはおそらくbragelonneさんの心の叫びが聞こえていないという当方の感受性の問題があったと思います。 「神は実にその独り子を....」に関しまして >>じつは この命題ほど読みとりにくいものはないのではないでしょうか? とのご感想を述べておりますので、聖書の中からひとつ成句を選ぶとしたらという質問に対してこの箇所を上げる人が多いと聞きましたので、何かご質問者さんの出発点になるのではないかと思い記載しました。またbragelonneさんの質問が1-5とつながっております。その質問を勝手にまとめさせていただければ、順不同ですが、以下のように要約できると思いました。 1)キリストは人間なのか 2)愛とは何か、行為だけか心もふくむのか 3)一番大事なものとは何か 4)聖書の読み方 このような質問にもっともふさわしい回答者はホセアであるといえますが、神の預言者ということであればお近くのプロテスタント教会の牧師にお尋ね頂ければむしろそれが最善ですが、少しばかり書いてみたいと思います。 キリストはたしかに死に逝く前にゲッセマネで血の涙を流したという記載あります。あまりにも人間的であります。しかしなんの前提も引用もなく申し上げますが、キリストはマリアから生まれた人間でしたが、同時で神でもあったというのがプロテスタントの認識です。いま聖書の箇所が思いつきませんが、いたるところにイエスが神であることを示している箇所が聖書には溢れていると思います。 愛とは何かという時に聖書では「その友のため命を捨てるほど大いなる愛は無いと」述べておりますので、回復不能な死をもって愛を示すというのは愛の究極の姿と思います。もし私どもが自分の命を捨てるほど自分の妻や、近隣の人々を愛することができれば、多くの社会で起きている問題が解決されるのではないかと思います。いずれにしましても愛とは考えているだけでは達成されないものといえます。 一番大事なものを犠牲にするというのは通常神のために犠牲にするという意味にとっています。それは文字通り正しいと思います。しかし神は実は姿を変えて私どもの前に現れております。それが隣人であったり、通りすがりの人であるということが言えると思います。誰彼との判断なく、愛しなさいというのが聖書の言われていることと思います。その時犠牲にする事柄は場合により自分の誇り、自分の希望、計画、自分の人生などではないかと思います。ホセアにとってはそれは自分の誇りや自分の人生設計を捨てて、自分の望まない結婚をすることであったのかもしれません。 聖書を歴史書として読むというのはかなり有りうることと思います。聖書学者などであればホセア書に書かれている時代は南のユダヤ国と北イスラエル国とに別れており、周りには強大な国家があり、北イスラエルにとってはその強国と同盟を結んで平和を勝ち取るのか、神様の命令に従ってユダヤの教えを貫くのかという状況にあったと述べるのだとおもいます。その時人民が選択したのがその強国との同盟であったのではないかと思います。これはゴメスの浮気を象徴しているように思います。しかし結局はホセアの元に帰ることになったということととイスラエルが祖先の教えに戻ったということを象徴しているように思います。(記憶で書いていますので、間違っていたらごめんなさい。) 聖書を物理学の書物として、読む人は少ないと思いますが、経営学の本として読むという方もおります。回答者もそれに近い読み方で、色々なアイデアや啓示を受けています。しかし聖書の読み方としていつも心がけているのは、聖書は自分に何を語りかけているかということを考えて読んでいます。従いまして、 > 《人それぞれである。自由に受け取ればよいのだ》というお答えでしょうか? その通りでよろしいのではないかと回答者は考えます。聖書は一字一句誤りのない神の言葉であるという観点からすると矛盾するように思いますが、これは意味において誤りのないのが聖書であると理解しております。従いまして、最初の理解が本筋から少し離れていても、読み進むうちに理解も進み、聖書本来の意味が理解されると考えておりますので、受け取りました印象通りに理解しておけばよろしのではないかと思います。 言葉が足らないので、不遜出会ったり無礼に感じるところがございましたら、ここでお詫び申し上げます。

bragelonne
質問者

お礼

 ▲ (ホセア書6:1-6) ~~~~~~  6:1 「さあ、我々は主のもとに帰ろう。    主は我々を引き裂かれたが、いやし    我々を打たれたが、傷を包んでくださる。  6:2 二日の後、主は我々を生かし    三日目に、立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。  6:3 我々は主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。    主は曙の光のように必ず現われ 降り注ぐ雨のように    大地を潤す春雨のように 我々を訪れてくださる。」  6:4 エフライムよ わたしはお前をどうしたらよいのか。    ユダよ、お前をどうしたらよいのか。    お前たちの愛は朝の霧 すぐに消えうせる露のようだ。  6:5 それゆえ、わたしは彼らを 預言者たちによって切り倒し    わたしの口の言葉をもって滅ぼす。    わたしの行う裁きは光のように現れる。  6:6 わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく    神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。  ~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば ホセアの言いたいところは こういった内容ですよね。  ――しんしなちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。このような屁理屈の上に屁屁理屈を重ねた問いを繰り返すぶらじゅろんぬくんのために 時間と労とを惜しまずご回答いただき厚くお礼申しあげます。――  ところで――疑問質問については手抜きを金輪際親が怒っても泣いても 地獄へ行こうが何が起ころうがおこなわないわたしですが―― まづここからは ふたつあります。  ★ ~~~~~  その時犠牲にする事柄は場合により自分の誇り、自分の希望、計画、自分の人生などではないかと思います。ホセアにとってはそれは自分の誇りや自分の人生設計を捨てて、自分の望まない結婚をすることであったのかもしれません。  ~~~~~~~  ☆ すなわちこのような《犠牲を払う》ことも  ▲(6:2) ・・・主は我々を生かし・・・立ち上がらせてくださる。我々は御前に生きる。  ☆ というかたちにおいてですよね? つまりわたしたち人間が勝手にその感性や理性によって自分のもくろみを持ってはからうことではないはずです。  しかも――ふたつめのことですが――  ▲(6:6) ~~~~   わたしが喜ぶのは 愛であっていけにえではなく   神を知ることであって 焼き尽くす献げ物ではない。  ~~~~~~~~~~  ☆ とまさにこのホセア書に 犠牲論はありました。あります。いかに  ▼ 愛とは何かという時に聖書では「その友のため命を捨てるほど大いなる愛は無いと」述べておりますので、回復不能な死をもって愛を示すというのは愛の究極の姿と思います。  ☆ という犠牲の勧めのような命題が示されていたとしても この命題(律法としてのような《文字》のみ)に――《神が生かし 立ち上がらせてくれる》場合ではないかたちで――自分の頭脳と計画のもとに実行することが そのまま正解であるとは限らないと考えます。  早い話が もし仮りにひとのために犠牲になったとしたら それが――あなたも触れておられるように――神ゆえにその犠牲の行動を取ったのだとその相手が心に納得の行くかたちにおいてでなければ だめなのだと考えます。  ここで ゴメルは心に納得をしたか? どういう犠牲をホセアは払ったのか?  ★ 自分の誇りや自分の人生設計を捨てて、自分の望まない結婚をすること  ☆ これは どうでしょう? ゴメルとのかかわりを離れても一般的に考えて 犠牲論以前ではないでしょうか?  自分の人生設計を捨てることが どうして犠牲になるのか?――つまりホセアにとっては成るのでしょうが ほかの人間にとっては成らない場合もありましょう。それともホセアは これこれのことを自分は犠牲にしたから 愛を実践したのだし出来たのだと言いたいのでしょうか? そんなものなのでしょうか 愛は?  つまり 前回わたしは次のように問うています。   ☆☆(No.2お礼欄) ~~~~~   5. われわれ人間は 多少とも努力をしたという事実があれば それでよいというようなことではないですよね?――そんなんぢゃ 相手つまりこの場合ゴメルにしたところで 何をふざけているのか? 現実を何だと思っているのか? わたしをただ あんたの神の愛のまねびの実験台にするだけのおあそびはやめて欲しい。と言いませんか?  ~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これをあらためて 問いたいと考えます。放っといてくれというところを 無理にホセアはゴメルに向かって行動していませんか?  ホセア書本文にゴメルの言い返しやいちゃもんが書かれてないとしても 《犠牲》論ないし《愛》論としては とうぜんのごとく問われなくてはいけない問題点だと考えます。  ここに集中したいと考えますが いかがでしょう?  * ホセアは 十字架におもむくイエスのごとくに ゴメルをふたたび妻に迎えるという行動をしたのか? そうだとして それは どういう中身になっているのか? ほんとうに人間にそういうおこないが出来るのか? などなどです。

  • cincinnati
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回答No.2

この聖書の箇所は神様の命令といえども売春婦であった女とその子供を受け入れて結婚せよという命令に対してあなたはそのような命令でも実行する用意がありますか、という意味で有名な箇所と思います。 従いましてそのような本来であれば避けたいことを神様の命令だからという理由で守ろうとする人にだけこのホセヤ書は意味を持ってくるのではないかと思います。もし私どもが具体的に自分にとり不都合なことが起ころうとするときとにもかくにもそこから離れて、災いを避けようとするならば、この聖書の箇所はほとんど意味をなさないと思います。 一方これを売春婦の側から読みますと、夫であるホセヤを裏切り、その結果別れて、なおかつまた再婚してくれたホセヤに対してどう対応すれば良いのだろうかという売春婦の側の対応があります。つまり私は神をもっとも忌み嫌われる方法で傷つけ、その前から去った自分に対してさらに、それでもなおかつ赦される方、どこまでも赦す神ということに気づきます。結局は新約聖書にあるとおり、 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。 それは御子を信じる 者がひとりも滅びないで、 永遠の命を得るためである。 」ヨハネ3章16節 という神の意図の原型があると思われます。人を愛するとは自分の最も大事なものを上げてしまうということに帰ってくると思います。さらに言えば神に愛されていたホセヤは売春婦をも愛したのである。あなたも他の人々を同じように愛することが出来るほどに神様の愛を受け止めていますかとも語りかけてきます。自分を犠牲にしない愛は聖書の語る愛とは違うということも言えると思います。ご質問者さんが予想しておりますように多くの要素が絡み合っておりまして、みじかい文書でカバーすることはできません。ただ一プロテスタントのクリスチャンとしては神の愛とはすごいなと思いますし、この世をさる時は全てを与えて葬式に備えて一着の着物と履物だけが残ったと言われるような人生を歩みたいものです。(難しいとも感じています。)

bragelonne
質問者

お礼

 ★ (難しいとも感じています。)  ☆ これは この質問に対する答えを出すのが と取ったのですが どうもそうではないようですね。  しんしんなちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  初めから読み継ぐにしたがって おっしゃっている意味が読みとりづらいと思っていました。最後のところで 回答者としても答えを出しにくいという気持ちを表わされたのかなと一瞬思いましたが どうもそうではないようですね。――とは 冒頭に触れてみたのですが 必ずしも全部を撤回する必要もないでしょうか?  なぜなら 《難しいとも感じて》おられるのは  ★ ただ一プロテスタントのクリスチャンとしては神の愛とはすごいなと思いますし、この世をさる時は全てを与えて葬式に備えて一着の着物と履物だけが残ったと言われるような人生を歩みたいものです。  ☆ ということについてだとしますと 前半の《神の愛とはすごいなと思う》ことにもかかわっているように思われるからです。  あるいはさらに その見方で解釈をするならば  ★ ご質問者さんが予想しておりますように多くの要素が絡み合っておりまして、みじかい文書でカバーすることはできません。  ☆ という事柄にもかかわらせて捉えるならば――わたくしの見方に引き寄せて捉えるならば―― このご回答は 中間報告のようなものであり 決定版ではないとおっしゃっているようにも受け取れます。  いづれにしましても ごちゃごちゃ言っていないで はっきり表現されているところを ともかく取り出すとしますと:  ★ ~~~~~~    「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。    それは御子を信じる 者がひとりも滅びないで、 永遠の命を得る    ためである。 」ヨハネ3章16節  という神の意図の原型があると思われます。人を愛するとは自分の最も大事なものを上げてしまうということに帰ってくると思います。  ~~~~~~~~~  ☆ この命題としてご回答をなさっている。  とは言うものの じつは この命題ほど読みとりにくいものはないのではないでしょうか?  と質問者の執拗な問い求めが始まりますが おつき合い願えれば どうぞお読みください。  つまり 疑問ははっきりしています。   ○ 父なる神と子なる神とが――ふつうの人間イエスとして――おこなう愛と われわれふつうの人間が成し得る愛の行為とは 互いにへだたりがあるのではないか?  これです。すなわち  ★ 人を愛するとは自分の最も大事なものを上げてしまうということに帰ってくると思います。  ☆ この《人間の愛としての行為》は いったいどういうことを示していましょうか?   ホセアにしてみれば では《自分の最も大事なもの》とは何でしょう? 何をゴメルにあたえたのでしょう?  キリスト・イエスにしてみれば――人間イエスとしては その盃を飲むとき大声で泣きましたが―― キリストとしては 死のうと思うときに死ぬのですから そのまま十字架上の露と消えることに甘んじた。  では ホセアは いったい何をあたえたのでしょう? あるいは このホセアなる人間が《犠牲になる》ことは 神が欲していることなのでしょうか? そもそも《犠牲》とは何でしょう?  ★ ~~~~~~~  さらに言えば神に愛されていたホセヤは売春婦をも愛したのである。あなたも他の人々を同じように愛することが出来るほどに神様の愛を受け止めていますかとも語りかけてきます。自分を犠牲にしない愛は聖書の語る愛とは違うということも言えると思います。  ~~~~~~~~~~  ☆ じつは さっぱり分かりません。  1. ゴメルを愛したと言いますが つまり金を出して買い取り 夫婦関係に戻しましたが これがホセアがゴメルを愛したということでしょうか?   2. ちょっと日本人の見方考え方を当てはめてみようと思いますが 《ゴメルよ わたしのもとに戻って来なさい。ふつうに自由な人間でいなさい。あらためて子どもたちとともにわれわれの共同生活を始めよう》と言って実行すれば それが《愛した》ことなのでしょうか?  3. そのときホセアは 何を犠牲にしたのでしょうか? 何を・どんないちばん大事なものをゴメルに与えたのでしょう?  4. ですから上に触れた問いです:   ○ 父なる神と子なる神とが――ふつうの人間イエスとして――おこなった愛と われわれふつうの人間が成し得る愛の行為とは 互いにへだたりがあるのではないか?  5. われわれ人間は 多少とも努力をしたという事実があれば それでよいというようなことではないですよね?――そんなんぢゃ 相手つまりこの場合ゴメルにしたところで 何をふざけているのか? 現実を何だと思っているのか? わたしをただ あんたの神の愛のまねびの実験台にするだけのおあそびはやめて欲しい。と言いませんか?  それとも  ★ 従いましてそのような本来であれば避けたいことを神様の命令だからという理由で守ろうとする人にだけこのホセヤ書は意味を持ってくるのではないかと思います。  ☆ というように 《人それぞれである。自由に受け取ればよいのだ》というお答えでしょうか?  それはそれで 回答になっているとは思います。  果てさて いったいぜんたい どういうお考えでしょう?  是非とも知りたいです。

回答No.1

「他者を許すことが,悪循環に終止符をうつ」ということが語られているのではないかと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 あともなどすさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  たぶん無難な――と言うと 心外に思われましょうか?――ご見解ではないかと思います。  そうですね。  この無難な見方になお やぶにらみが出来るとすれば それを問うてみようと思いました。  ★ 「他者を許すことが,悪循環に終止符をうつ」  ☆ 《人を赦す》ということが ほんとうに・また簡単に出来ましょうか?  おそらくわたしたち人間は 自分のあやまちについては 二日三日もあれば あとはけろってしています。つまり自分を赦すことは 出来ると思います。《他者を赦す》ことは 出来るでしょうか?  わたしは むしろ《人が人を赦すことは出来ない》 すなわち《赦すことも赦さないことも 出来ない》 つまり《人は人を裁くことは出来ないのと同じように 赦すことも赦さないことも 出来ない》のではないか? と考えています。  そのあやまちの考え方やおこないの内容について 互いに間違いを指摘し合い自由な批判をおこなう。あとは 出来るかぎりで 相手を同じ場に受け容れる。この程度しか出来ないのではないか?  むろん いがみ合いや敵対の  ★ 悪循環に終止符をうつ  ☆ ことは大事であり 必要だと考えます。それには 上のように互いに自由な批判をおこない合い その対話をつうじて互いに一段と高い思想的な対立の次元にのぼってさらに批判をおこない合って行く。こういう《好循環の発進》しか 人間には出来ないのではないか?  とも考えていますので この問いを立てました。  ありがとうございました。

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     この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?

  • 原罪は死語だと思いますが なぜ無くならないのか

     原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう? ――これが 問いです。  それは もし文献の問題とすれば エレミヤ書31:31以降に《罪は覚えられることはない》であったり《主を知れと言っておしえることはない》であったりと書かれており それは ヘブル書にも取り上げられています。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ○ 原罪は なぜなおいまだに それが人にはあると言われつづけているのでしょう?

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • 神みづからによるみづからのアウフヘーベン

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • いやしくも神なら 神は 普遍神であるほかない。

     1. 名前が違っても・誰にとっても 同じひとつの神であるしかない。  2. 有る神も無い神も 互いに同等であり どちらかを自由にえらべばよい。  3. 普遍神は 有るとか無いとかの経験事象を超えているゆえ。  4. シュウキョウは この普遍神を信じる――無条件に心に受け容れる――ことをつうじてヒラメキにて得られた直観を言葉にして表わし オシへとした結果生まれたものである。  5. 信仰という蝉の抜け殻である。経験思想ではある。つまり オシへは考えるものである。信仰という蝉本体ではない。  どうでしょう。  

  • 神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  みづからによるみづからの揚棄をおこなった。  つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。     見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。     それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。     それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである     ――と、主は言われる。     すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  (α‐1)  ▼ 文字はころし 霊は生かす。  ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  (γ‐3)  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。  (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。  ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。  ご教授・ご批判を俟ちます。賛成票をもどうぞ。

  • イエスの系図の中で、本来なら死罪の(もしくは死ぬ運命だった)人間が多いのは偶然でしょうか?

    こんにちは、 イエスの系図を見ていると、 先ず、 イサク:父親に生贄にされそうになる。 (とわ言っても、途中で止める予定だったけど、、、。) ユダ:姦淫の罪。 死刑 ラハブ:偶然、ヨシュア達の軍勢を助けたから、エリコ人は皆殺しの筈が、生き残る。 ダビデ:姦淫罪=死罪 ソロモン:モレクに犠牲をささげる。 レビ記20章2節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 2)「イスラエルの人々に言いなさい、『イスラエルの人々のうち、またイスラエルのうちに寄留する他国人のうち、だれでもその子供をモレクにささげる者は、必ず殺されなければならない。すなわち、国の民は彼を石で撃たなければならない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 列王記上11章7節に ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 7)そしてソロモンはモアブの神である憎むべき者ケモシのために、またアンモンの人々の神である憎むべき者モレクのためにエルサレムの東の山に高き所を築いた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ レハベアム(ソロモンの子):おそらく、かなりの悪事を行ったものと思われる。 死罪 歴代志下12章1節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 1)レハベアムはその国が堅く立ち、強くなるに及んで、主のおきてを捨てた。イスラエルも皆彼にならった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 列王記上14章21~22節 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 21)ソロモンの子レハベアムはユダで世を治めた。レハベアムは王となったとき四十一歳であったが、主がその名を置くために、イスラエルのすべての部族のうちから選ばれた町エルサレムで、十七年世を治めた。その母の名はナアマといってアンモンびとであった。 22)ユダの人々は、その先祖が行ったすべての事にまさって、主の前に悪を行い、その犯した罪によって主の怒りを引き起こした。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ など(最後まで書くと疲れるのでこの辺で、、、、)ソロモン以下かなりの悪人(モーセの律法での死刑に値する罪人)が続きます。  しかし、何故か誰一人として(なっていたら系図に載るはずないから当たり前なんだけど)、死刑にならなかったりして、生き延びてきました。 単なる偶然なんですよね? 教えてください、よろしくお願い致します。

  • クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう

     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。