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《金の仔牛》に罪はない!?

 この聖書のひとくだりの物語を例に 組織宗教の揚棄を問います。  ▲(出エジプト記 32:1-35) ~~~~~~~  1:モーセが山からなかなか下りて来ないのを見て、民がアロンのもとに集まって来て、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と言うと、  2:アロンは彼らに言った。「あなたたちの妻、息子、娘らが着けている金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい。」  3:民は全員、着けていた金の耳輪をはずし、アロンのところに持って来た。  4:彼はそれを受け取ると、のみで型を作り、若い雄牛の鋳像を造った。すると彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言った。  5:アロンはこれを見て、その前に祭壇を築き、「明日、主の祭りを行う」と宣言した。  6:彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた。  7:主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、  8:早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる。」  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  11:モーセは主なる神をなだめて言った。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか。  12:どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか。どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。  13:どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか。」  14:主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された。  15:モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。  16:その板は神御自身が作られ、筆跡も神御自身のものであり、板に彫り刻まれていた。  17:ヨシュアが民のどよめく声を聞いて、モーセに、「宿営で戦いの声がします」と言うと、  18:モーセは言った。「これは勝利の叫び声でも 敗戦の叫び声でもない。わたしが聞くのは歌をうたう声だ。」  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  19:宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。  20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  21:モーセはアロンに、「この民があなたに一体何をしたというので、あなたはこの民にこんな大きな罪を犯させたのか」と言うと、  22:アロンは言った。「わたしの主よ、どうか怒らないでください。この民が悪いことはあなたもご存じです。  23:彼らはわたしに、『我々に先立って進む神々を造ってください。我々をエジプトの国から導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです』と言いましたので、  24:わたしが彼らに、『だれでも金を持っている者は、それをはずしなさい』と言うと、彼らはわたしに差し出しました。わたしがそれを火に投げ入れると、この若い雄牛ができたのです。」  25:モーセはこの民が勝手なふるまいをしたこと、アロンが彼らに勝手なふるまいをさせて、敵対する者の嘲りの種となったことを見ると、  26:宿営の入り口に立ち、「だれでも主につく者は、わたしのもとに集まれ」と言った。レビの子らが全員彼のもとに集まると、  27:彼らに、「イスラエルの神、主がこう言われる。『おのおの、剣を帯び、宿営を入り口から入り口まで行き巡って、おのおの自分の兄弟、友、隣人を殺せ』」と命じた。  28:レビの子らは、モーセの命じたとおりに行った。その日、民のうちで倒れた者はおよそ三千人であった。  29:モーセは言った。「おのおの自分の子や兄弟に逆らったから、今日、あなたたちは主の祭司職に任命された。あなたたちは今日、祝福を受ける。」  30:翌日になって、モーセは民に言った。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない。  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  35:主は民がアロンに若い雄牛を造らせたので、民を打たれたのである。  ~~~~~~~~~~~~~  【Q】 社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?  集団ないし組織としての宗教は 揚げて棄てられるのがよいと考えられるのではないか?

みんなの回答

回答No.13

 ここは哲学のカテなので・・・。 汎神論という言葉があります。聖書にはそうした理解が根底にあると思います。日本の宗教感とは若干違うと思います。私は伊勢神宮などを少し調べてみたいと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  前回 質問者ながら 質問趣旨としてこれこれこうだと断定口調で述べたことは 《信仰》と《宗教》とを峻別すべきではないかという哲学の議論です。  信仰は 信教・良心の自由〔なる公理〕においてみとめられ 一人ひとりがその主観の内面におけるかぎりで 持たれます。  表現の自由において この内面の信仰を 言葉にしてあらわしその命題を他人(ひと)に伝えても その表現までは自由です。  信仰そのものは 思考に非ずであって 何も言葉で示されませんが 信仰を持つことによってそこからさらに思考の側面におけるものごとについての見方が 得られて来ることがあります。  たとえば信仰において 〔言葉に示せえないのですがそれでも示すなら〕人は人を――つまり自分をも他人をも――殺しはしないという内容をいだいているとします。したがってこの信仰内容がもし言葉にして思考の次元で表わされたとしたなら それは《なんぢ ころすなかれ》というかたちになって得られます。  この言葉にした命題までは どちらかと言えば信仰に属しているかも分かりません。  ところが この《ころすなかれ》を 何らかのオシエとして・しかもこのオシエを 複数の人びとがあつまって共同の守らねばならない倫理規範(律法)とするならば その集団のいとなみは 宗教となります。  つまり 宗教は 内面にいだかれた命題を介して 信仰とつながりはありますが 内と外とで けっきょくのところ まったく違ったものになってしまっています。  ひと言で言えば オシエは 信じるものではないからです。われわれが信じるのは 神です。そしてそれは わが心なる非思考の庭における出来事です。オシエは すでに概念をもって表現されているからには 思考するものです。  別の表現で示すなら 信仰にあってはワタシは 神を信じていて どこでもいつでも たぶん ひとをころさないと思う。  宗教にあってワタシは 《ころすなかれ》という規範をまもってひとをころさないようにしている。  というふうになっています。こういう違いです。  この信仰と宗教の違いは すべての人間にあてはまります。地域差はありません。  信仰と言えば ひとつです。主観内面における非思考の庭としてあります。  宗教と言えば 類型としてやはりひとつです。どういうオシエのもとにどういう神をかかげていても みな同じです。  そうして この宗教というのは その成り立ちじたいが 人間性に反すると言おうとしています。  すでに信仰という蝉の抜け殻でしかないからです。もしそれを 組織の決まり〔としての圧力のようなもの〕でその規範を守ることをオキテとしていたならば それは 自由という人間性をないがしろにするものとして 不法行為だと考えられるからです。  組織の権限関係が その規範遵守ということにおいて ものを言うなら そしてそれはそのとき信仰にかかわることにまで口を出すなら それは ひとの自由を侵すおそれがつねに出る恰好になっているからです。  伊勢神宮は 大幅にかんたんに言えば 外宮がその土地の人びとにおいて――主観内面からじつは外に出てはいますが――それぞれの信仰の言わば延長としてそしてその象徴として建てられているかたちです。  内宮は すでに外に出たかたちにおいて 目に見えず言葉でもむしろ語られないものとしての倫理規範をかたちづくろうとする次元で その語られざるオシエを集団として共有しようとする宗教にあたります。  すなわち もともとは伊勢の地に 外宮とは呼ばれてはいなかった神のやしろがあったところ その地にのちに内宮と呼ばれる神宮をつくって ふたつを区別しました。  内宮は その主宰者の家にとっては内面的な信仰に近いものがあったとしても 一般の人びとにとっては外面だけの書かれざるオシエがすでに内面にまで押し寄せようとしてやはり明らかに規範としてはたらくようにした宗教だと考えられます。クウキなるオシエであり クウキなる宗教です。

  • kurinal
  • ベストアンサー率10% (128/1195)
回答No.12

bragelonneさん、こんばんは。 >「有無を言わさない問題とその領域があるように思われますが いかがでしょう」 「「信教の自由」にも限界がある」という、人権の問題で。 「「マネーロンダリング」や「性的虐待」が、信教の自由に含まれるかどうか」は、もしかしたら、国際的な非難を浴びるようなことかもしれません。 (集団ないし組織、というところからは、若干、離れるかもしれませんが(「ぐるみ?」ということなら別))

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 「「信教の自由」にも限界がある」という、人権の問題で。  ☆ 微妙に食い違っているのではないでしょうか。  間接的に 信教の自由が侵されるという問題です。  つまりマネーロンダリングなどの問題があっても そして内部告発をした場合 上司から《あまり教会組織の汚点になることを外に漏らさないようにしたほうがいいよ》という《助言》を得たというとき それをどう見るかです。  《助言》に終わると思いますかという意味です。有無を言わさない《命令》ではないかという意味です。    ふつうの――《信仰》を問わないふつうの――組織であれば 常識や法律にもとづき処理されます。ところが 信仰を標榜する宗教組織は そういうふうには行かないのではないかと問うています。

回答No.11

 質問とお礼を再度考えて  聖書の金の子牛(十戒で言う、偶像崇拝の禁止)の物語を、神を信じるとは内面的な行為と見るのは間違いだと思います。  聖書に書かれてある神は、絶対で間違いのない方であると信じられて書かれてあります。天地や地球、生き物や人間全てを造った・・・と信じられているからです。  日本人の祈祷や願掛け、祝福が中心の神とは少し違って書かれてあります。  モーセが律法の石版をシナイ山から持ち帰る寸前に、民に取っても高価な金を持ち出し、神として金の子牛を造りました。モーセが持ち帰って読むはずの石版には“神は私である。神を像として造るな。”と書いてありました。ですから即、その場で金の子牛は破棄されなければならなかったのでしょう。  では造ってしまった民は悪者でしょうか?それゆえに殺されるべきだったのでしょうか?その点は私にはよくわかりません。聖書には、エジプトでは奴隷として苦役に従事していた民を救うためとありますが、それは神の主権と選びであると言われます。ですから多くの犠牲の上にあると言えるでしょう。  余談ですが、東日本大震災で多くの犠牲者が出たことは残念ですが、こうした大災害に備えた準備が忘れられていたのも事実です。そして、今回も全く同じように犠牲者が出てしまったと言えます。  日本的な神信仰は精神的とは言え、その奥には平和や健康・繁盛の願いが込められています。でも、それを確約しているわけではありません。ニュース報道などから、安倍首相の神観も同じように受け取れます。ある意味、結果はこだわらない・・それで良いのです。でも聖書の神はしつこい・難解な神です。  モーセがリーダーとして必要だった事は明らかですが、民の犠牲には閉口します。日本人に取ってそれは不可解な犠牲でしかありません。でもモーセと神の側からもう一度改めて見るとき、それほどまでに偶像を造って拝むことはゆるされなかった事を象徴しているとも考えられます。 ※以上 参考までに

bragelonne
質問者

お礼

 かなり聖書の解釈あるいは要するに《信仰》ということについての見解が違うように受け取りました。  まづは ご回答をありがとうございます。  そうですね。    ★ 聖書の金の子牛(十戒で言う、偶像崇拝の禁止)の物語を、神を信じるとは内面的な行為と見るのは間違いだと思います。  ☆ 偶像崇拝は その像を大事にしているということでしょう?  《崇拝》に当たるかも分かりませんが 《信仰》としては 信仰とそのこと(つまり像の神格化および崇拝)とは何ら関係ないとわたしは見ます。    内面において何を受け容れているか つまり信じているかは 外に出て行くことはありません。せいぜいが オシエとして――《ほかの神を神とするというような偶像崇拝を禁じる》というオシエとして――外に出かけるわけですが しかももうその律法は 信仰ではありません。  すなわち 律法ないし倫理規範ないしオシエ これは かたちのあるものではないとしても 言葉で表わされた観念としてあるものです。すなわち わが信じる神は 偶像ではないのとまったく同じく 観念ではあり得ません。  そういう問題をあつかっています。そういう物言いです。  ★ ~~~~  聖書に書かれてある神は、絶対で間違いのない方であると信じられて書かれてあります。天地や地球、生き物や人間全てを造った・・・と信じられているからです。  ~~~~~~  ☆ 書かれた内容すなわち 言葉で表わされた観念ないし命題 これは 思考の対象にこそなれ 信じるの対象には成り得ません。つまり いかに《絶対である》と書かれていても その理念や思惟は 神ではあり得ません。  むしろここでこそ 《ほかの神を神とするなかれ》は聞かれなければならないでしょう。  《神を像としてつくるな》でしたら その《オシエをけっきょく観念の像としてつくっている》ではないかと批判することができます。  《金の仔牛》と《律法の命令なるオシエ》とは どちらもそれを神としてはいけない《像》なのです。アイドルと言ってもよいはずです。  《神と像としてつくるな》という禁止を絶対命令とするならば その言葉による理念のようなものを神として《金の仔牛の像をつくること》と同じなのです。  このことは パウロが口を酸っぱくして語っていることですので 断定口調で述べました。  

回答No.10

 お邪魔します。  この聖書箇所を読み直すのは久しぶりでした。読んでみて、かなりおかしな記述も多かったと、今更ながら感じました。特に、12節(なぜ神ご自身が導きだしたのに、激しく悔いられたのか?) 20節(水の上にまき散らし・・・飲ませた。) 27~30節(レビの子らが同胞を殺す過ち、・・・モーセの執りなし)  以上を読む限り、組織としての状態は破局的にしか感じられない。しかし、そうした人間の破局状態だから、イスラエルの人々には神が必要だったとも考えられるのですが。そして、そうでない人たちは組織から漏れてゆくのでは。

bragelonne
質問者

お礼

 そうだん-ありさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  明らかになさったお考え――解釈というべきでしょうか――について 何かしっかりとした内容でお応えする資格が質問者であるわたしにあるとは思っていません。  それでも アブラハムの信仰がモーセの律法先行の集団的共同生活にすがたを変えているとすれば それは おかしいという見方を提出し問題提起としています。  ただし モーセもモーセというひとりの個人としては その心にアブラハムの信仰が燃えていた。こうも捉えます。律法という倫理規範がモーセの場合には 集団の問題として 介在するようになったと。  感想だけをしるします。   ★ 12節(なぜ神ご自身が導きだしたのに、激しく悔いられたのか?)   ☆ これにつきましては わたしは モーセの主観つまりその内面においては むしろ神の悔いをひとしく感じているのではないかと思います。異論です。  ▲ ~~~  9:主は更に、モーセに言われた。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。  10:今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする。」  ~~~~~  ☆ このとおりに 一個人としてはモーセは思っていたのではないか。  そして 民の指導者としては  そのあと神をなだめ人びとにかんして情状酌量を願い出ているのだと。  ★ 20節(水の上にまき散らし・・・飲ませた。)  ☆ ここは 残念ながら その《水を飲ませた》というところが どうもよく分かりません。腑に落ちません。  ▲ 20:そして、彼らが造った若い雄牛の像を取って火で焼き、それを粉々に砕いて水の上にまき散らし、イスラエルの人々に飲ませた。  ☆ よく分かりません。なぜそんなふうに《粉々に砕いて水の上にまき散らし その水を飲ませた》のか。・・・  ★ 27~30節(レビの子らが同胞を殺す過ち、・・・モーセの執りなし)  ☆ これはわたしはやはり異論があるのですが モーセやあるいはかれに賛同し従うレヰの子らのそれぞれ主観内面にあっては 神のさだめであると思っていたかも知れません。(律法規範で互いに集団生活を律して行くというかぎりで――石打ちの死刑もあるからには―― 納得さえしていたかも知れないと思います)。マチガイではないと。  けれども 民をみちびく任務にある者としては 執り成しをしようとした。  ▲ ~~~  31:モーセは主のもとに戻って言った。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。  32:今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。」  ~~~~~    ★ ~~~~  以上を読む限り、組織としての状態は破局的にしか感じられない。しかし、そうした人間の破局状態だから、イスラエルの人々には神が必要だったとも考えられるのですが。そして、そうでない人たちは組織から漏れてゆくのでは。  ~~~~~~  ☆ いえ これも分かりません。そこまではわたしは 分かりません。理解がとどかないと言いますか。・・・  物語にしたがう限りでは 次が まとめなのでしょうね。  ▲ ~~~~  33:主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。  34:しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する。」  ~~~~~~    質問者の問うていることは こういったかたちで《神》が もろに 人と人とのあいだでその対話において表明されその神の意向として 人びとの行動が採用されていくという事態。これについて それは 心の内面の信仰が 外に出て オシエとなったかたちでしかないのだから そのような《宗教》は 要らないし 人間性に悖る。こういう物言いです。  モーセやかれと信仰を同じくする人びとにとっては それぞれその内面において このように語られる中身が 事実としてあるいは少なくとも心の真実として持たれていて それこそが自分たちの世界であり歴史であったと納得のうちに受け留められている。じつは こう思います。  要するに わたしの物言いは 内面を外に出たならば あとは神だとかその定めだとかのことを 自分たちの従わねばならないオキテや指針として持ち出してはならない。というかたちです。

回答No.9

こんばんわ。 お礼の形であなたから投げかけられた言葉に、私は私なりの答えを準備したが今回はやめとくよん。 お客さんがついたようなのでそこで稼いでください。 哲学と言えば自分で考えることは大切で、私は私のみで考えを進めるし、あなたにもそうあってほしいよん。

bragelonne
質問者

お礼

 前々からわたしが自分で考えていることは あなたにも分かり切っているぢゃないですか。  ご投稿をありがとうございました。

noname#180711
noname#180711
回答No.8

 ありがとうございます。よくわかりました。非常に具体的な話でした。  ただし一点目については、どうなのでしょうね。 >自然史過程において自然史過程として 成ります。  それができたら聖人だなあと私は思ってしまいますね。  聖人でない人を啓蒙する、救うというのも宗教の仕事ではないでしょうか。  ただしこれは私の考えに過ぎません。ちょっと私には、全員が神の訪れを感じて集まったという様態が想像できないのですよ。そんな人、千人に一人いるかいないかだと思います。  しかし「雑談として」話しても構わないとあったように、自然発生は自明のことで、本題ではないと思っているのでしょう。大きなテーマですが、あなたにとっては分かりきっていると。あなたのお考えが分かったことにお礼を述べて、辞すべき時かなと思います。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  ★ ちょっと私には、全員が神の訪れを感じて集まったという様態が想像できないのですよ。そんな人、千人に一人いるかいないかだと思います。  ☆ 物語によるかぎりで 参考となる聖句をかかげます。  ▲ (新約聖書・ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の(モーセとの)契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわちこのあと――と言っても時間は長く経ったのちのことですが―― イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。      ▲ (新約聖書・ルカ福音4:17-21) ~~~  すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてある箇所が目に留まった。     《主の霊がわたしに臨み 油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え 捕らわれ人に解放を      ・・・告げ知らせるためである。》          (旧約聖書・イザヤ書61:1-2)  イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは        ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けている      あなたたちに実現した。  と話し始めた。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たとえばこの時点で あたらしい・第二の契約が成就したと――物語によるかぎりで――捉えられます。  《神を知れと言っておしえる必要はなくなる》も成就しました。  《千人に一人》いれば 万々歳です。

  • kurinal
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回答No.7

bragelonneさん、こんばんは。 助言か、「命令」なのか、ということでは。

bragelonne
質問者

お礼

 くりなるさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  回答No.6のお礼欄 そこでの(8)をごらんください。  ヨーゼフ・ラッツィンガー氏をめぐる問題をヰキぺでひろってかかげました。  ・マネーロンダリング  ・「バチリークス・スキャンダル」  ・カトリック教会の性的虐待事件  組織における権限関係は はっきりしているものと思われます。  ★ 助言か、「命令」なのか  ☆ の有無を言わさない問題とその領域があるように思われますが いかがでしょう。

noname#180711
noname#180711
回答No.6

 お礼ありがとうございます。今回も、かなりよくわかりました。しかし応答をかねて、三つ質問させてください。まず子供が入信しようという場合は、どのように教育するのですか? >研究・修行・社会事業などに分化して行けばよいわけです。  では、これのどの部門が、どのように教えるのでしょう。これが一つ目。本音を言えば、私はあなたの意見は、既にある程度の予備知識がある信者に対する提言であって、万人に当てはまるものではないなと感じています。  それから(4)は、あまり納得できませんでした。というのも、もうオクスフォードは信徒でなくても入れる大学です。だから、オクスフォードの話は、かつては社会的生命の危機に瀕したこともあったが、現代は違うという事例だと思います。ましてや日本で、そういうことはないと思います。東大がそのような制限を行っていたら困るけれど、聞いたことがないでしょう。  最後に、仮面ライダー氏との対話について、誤解を訂正させてください。私はお二人に差異があるのは承知していて、それはあなたが(5)に書いた通りです。しかし摩訶不思議なことに、最後に解体を主張するという結果は同じである、という指摘を私は行ったつもりでした。それを、途中経過は異なるけれど、同じ回答に行き着いた数学の別解のようなものだ、と前回表現しました。  以上です。  

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  (7) 信仰の成るとき    ★ まず子供が入信しようという場合は、どのように教育するのですか?  ☆ 特に教育はしません。雑談の話題にしてもよいでしょうけれど。    《信仰》は 《非思考の庭》がわが心に成るそのときの来るのに任せます。  《自然法爾(じねんほうに)》という言い方もされますが 要するに自然(しぜん)にです。    のちにキリストとも呼ばれるようになった・かのイエスが誕生するというとき――物語によるならば―― 天文学につうじた博士たちも 星にみちびかれその地ベツレヘムにやって来ましたが それとは別に 荒れ野で羊を飼っていた少年たちにも――どのようにしてか(天使のよって告げられと書いてありますが)―― イエスの誕生が前もって告げられ 厩まで見に行きました。  名もない少年たちにです。信仰の土壌はあったでしょうが あたらしいかたちの信仰の始まりに際してのことでもありますから しかもそのイの一番に これら無名の人間に 非思考の庭がおとづれた。と言ってよいでしょう。  そのようにして 自然史過程において自然史過程として 成ります。  (8)=(4) 宗教組織における社会的生命の危機  ★ というのも、もうオクスフォードは信徒でなくても入れる大学です。だから、オクスフォードの話は、かつては社会的生命の危機に瀕したこともあったが、現代は違うという事例だと思います。  ☆ たとえば    ▲ (ヰキぺ:ベネディクト16世 (ローマ教皇)) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%8D%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%8816%E4%B8%96_(%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%9E%E6%95%99%E7%9A%87)  § 2.5.2 マネーロンダリング  またバチカンではマネーロンダリングが問題になっており、EUからも法の不備の指摘を受けてきた。・・・    その後2010年末にバチカンはマネーロンダリングを含む不透明なカネの流れをなくすための財務情報監視局を設置したが、2012年にはアメリカ合衆国の「国際麻薬統制戦略報告書」の「マネーロンダリングに利用される国々のリスト」にバチカンが載せられることになった。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という問題があるそうです。このような場合 もし良心的な人間が内部告発しようとしても・またしたとしても その後のかれの人生は 往々にして不遇をかこつことに成ると思われます。  ▲ (同上) ~~~~  § 2.5 不祥事  §  2.5.1 「バチリークス・スキャンダル」  2012年に教皇宛の告発文書がリークされる事件が起きた。漏洩した元執事の男にはバチカンの裁判所は窃盗罪で禁固18か月有罪の判決を下したが、教皇は恩赦を出している。  リークした男は「教皇は操作されて」おり「不正をただすために」リークしたと動機を語っている。  リークされた文書にはバチカンの行財政を取り仕切る宗教事業協会(バチカン銀行)の文書やマネーロンダリングなどバチカンの不正一掃を試みたカルロ・マリア・ビガーノ大司教が失脚の恐れがあるので教皇に助けを求める内容の文書もある。  これらはバチカンの行政の長であるベルトーネ国務長官など教皇の側近に不利に働くものであった。そのためバチカンでは権力闘争が激化しているのではと考えられた。  ~~~~~~~~~~~~~~~  さらにもうひとつ:  ▲(ヰキぺ:カトリック教会の性的虐待事件) ~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%AF%E6%95%99%E4%BC%9A%E3%81%AE%E6%80%A7%E7%9A%84%E8%99%90%E5%BE%85%E4%BA%8B%E4%BB%B6  § 2 経緯と影響  教会の上層部がスキャンダルの発覚を恐れ、事件を起こした人物を異動させるなどで問題を隠蔽してきたことが判明すると、カトリック教会の対応が厳しく批判された。これにより、2006年に教皇ベネディクト16世は、今後同様の問題が起きた場合は厳正に処断すると宣言。このような罪を犯すことはもちろん宗教的・社会的にも許されない上に、隠すことも大きな罪になるとはっきり述べた。しかし、その後の教皇・カトリック教会による対応に批判は止まなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  これらは 信仰をその上っ面の言葉としたオシエに代えて組織をつくっていることより派生する問題だと考えます。つねにどこでも起こりうる問題をかかえた組織だと見られます。  そうではなく宗教ではないふつうの組織なら 案件ごとにと言いますか・信仰にからめた人格の問題としてではなく経験合理性で考えることのできる話として処理されるものを 宗教組織では聖職としての権限関係で処理される度合いが大きくなるものと考えられます。   (9)=(5)  仮面ライダー氏との対話  ★ しかし摩訶不思議なことに、最後に解体を主張するという結果は同じである、  ★ 途中経過は異なるけれど、同じ回答に行き着いた  ☆ わたしは 氏が 宗教組織の自己解体を勧めるという結論を得ているかどうかおぼえていませんが もしそうであってもその理由はわたしと違うと思います。  信仰の自殺行為によってしか宗教組織は成らないという理由を聞いたことはありません。つまり わたしと同じ見解だとは理解していません。  つまりこの理由にしろほかの理由にしろ理由を明らかにしていることが 大事なのだと考えます。  憲法九条改正という最終の結論は同じでも 理由が違えば 自衛隊を自衛軍とせよというものから 核武装を説くものまでありえます。

noname#180711
noname#180711
回答No.5

 お礼、読みました。上から目線でこういうのもなんですが、いつになく、明確に書けていたとおもいます。そういうわけで、問い返しの必要がなく、私はとても楽です。楽だ、ばんざーい。どうもありがとうございます。しかし・・・私の疑問に答えていただいたのとは違うようです。どちらかといえば質問趣旨をもう一度、丁寧に説明していただいたということだと感じています。  あなたの話では、信仰というものの性質を考えていくと、宗教は団体化ができないということみたいですね。これには部分的には同意します。つまり宗教団体を構成しようという時、信仰の度合いを根拠にすることが間違っているということです。この理由はあなたが書いた通りでよろしいと思います。反復はしません。  しかし別の理由を根拠に団体化はしてよいのではないかと思うのです。というのも前に書いた通り、最低限の統制をとらなければ、◯◯教という形態が維持できなくなってしまう。だから全員で共有するルールのようなものが必要ではないでしょうか。  ここでいうルールは上から押さえつけられるというものではなく、それぞれが平等な立場で共有するものです。憲法に近いものと言っていいかもしれません。つまり日本人である以上、守るべき法があり、それは国民が主権となって宣言したという格好です。天皇から押し付けられたわけではありません。同様に宗教も、守るべきルールを教皇からくだされるのではない形で持てば良いのではないか。問題は組織化の是非ではなく、ルールを共有するやり方であると思います。  これすらもいらないとなれば、無秩序が起きてしまい、宗教そのものの意味が無くなるでしょう。そういうわけで宗教を組織化することを全否定まではできないと考えています。否定できるのは、組織化する基盤が信仰ではないということです。 >社会的な生命が危機にさらされる。生活する基盤や範囲が限られて来ます。人びとから省みられなくなり それによって仕事に就くことも出来なくなる  これはよくわかりません。つまり、具体例が思い浮かばないということです。司祭が司祭としてやっていけなくなる(=失職する)ということはあるかもしれませんが、他は想像できないです。中世の異端者審問? 少し神経過敏ではないですか。うーん。海外のカルト的な事例を出してくれば何かあるかもしれませんが、日本ではどうなのでしょうか。教えてください。  ところで、仮面ライダー氏とあなたの言っていること、ある部分では似ていると思いますよ。あなたは全く違うと思うかもしれませんが、それは細部において違うということであって、傍目には似ているということです。解法は異なるけれど、同じ答えを出した数学の別解が並んでいるみたいなものでしょうか。というのも二人とも、既存の組織の解体を唱えています。彼が仲間意識を感じるのはもっともでしょう。なので・・・No1のお礼は、かなり笑わせてもらいました。  でもそういうことを言い出せば、このカテの住人の大多数が、それぞれの理屈で、既存の「何か」を解体する必要性を唱えていますね。このカテで言う「哲学」とは破壊ゲームであるようですね。そこまで言うと、皮肉が過ぎるでしょうか。あるいはまたも、穏健派と言われてしまうやもしれません。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  まづ先にいくつかの点で 破壊ではなく創造の側面についても触れているということを重ねて強調しておきたいと思います。  (1) 《見えざる教会》  を推し進めています。  ☆☆(No.5お礼欄) ~~~   どうしてもきづななり人びととの連帯感をあぢわいたいと思うなら いっさい宗教色を抜いた《目に見えざる教会(エクレシア・民会)》として ムラ(市町村)や地域のコミュニティーをかたちづくって行けばよいでしょう。  ~~~~~~~~~~~  (2) 宗教組織について  ★ 否定できるのは、組織化する基盤が信仰ではないということです。  ☆ ですから 次のように研究・修行・社会事業などに分化して行けばよいわけです。  ☆☆ ~~~~  せいぜいすでにオシエとなったコトガラの勉強会であるとか それにもとづく修行道場であるとか あるいはオシエにもとづく福祉事業団体であったりするにとどめるのが 人間であることの最低条件である。こう考えます。  ~~~~~~~  ですから  ★ だから全員で共有するルールのようなものが必要ではないでしょうか。  ☆ というときにもこの《ルール》も 信仰に基礎を置く組織としてのであれば アウトでしょう。  (3) 修道院というのは  ちなみにですが 一人ひとり個別に 自分の一生を祈りについやしてもあまりあるめぐみを自分はすでに受けている・感じているという人が そういう一般社会から離れて暮らすところです。  修道士などという言葉が間違いやすいイメージをもたらします。  なにも初めから完璧であるというのではなく そうではありませんが しかもわざわざ道を究めるというのでもないはずなのです。微妙にちがっていて その違いは大きい。  すでにめぐみを感じているゆえにその感謝のための一生を人びとから離れて生きるというに過ぎないはずです。  これとても そういう人びとの――或る種の助け合いとしての――あつまりであって 宗教組織ではないと思われます。  これくらいだと思うのですが。つまり次のように個人の信仰を保ち守るかたちで 集団を成す場合というのは。  ★ 同様に宗教も、守るべきルールを教皇からくだされるのではない形で持てば良いのではないか。  (4) 宗教組織における社会的生命の危機    ★ ~~~~~    >社会的な生命が危機にさらされる。生活する基盤や範囲が限られて来ます。人びとから省みられなくなり それによって仕事に就くことも出来なくなる  これはよくわかりません。つまり、具体例が思い浮かばないということです。・・・  ~~~~~~~  ☆ ほかの質問で 次のような具体例を示してもらったことがあります。  ◆(にゃん_にゃんこさんの回答) ~~~  これは「学問の自由」に関してですが、史実としてありました。オックスフォードやケンブリッジは英国国教会信者・信徒にのみにしか門戸が開かれなかったため、広く学問を普及していくという目的のため、ロンドン大学が設立されましたから。  ~~~~~~~~~~~  ☆ 日本では 要するに不当に乾されたり左遷させられたり辞めさせられたりする事例だと思います。  (5) ★ 仮面ライダー氏とあなたの言っていること  次のように 《神》を経験事象――金の仔牛あるいはそれをめぐる生活と労働など――に直接につなげていることをわたしは問題にしています。つまり 集団の内でそのような神との直接的な連絡は 雑談として話してもかまわないであろうけれど 人びとの思惟や行動を規定し規制するまでの取り決めに成っているとしたら それはおかしいと言っています。  ● (回答No.3) ~~~  貯金を取り崩して自動車を買って、それが神の恩寵であると喜んだ。  モーセとやらはそれは神と無縁であると憤りを感じたと言う事だね。  ~~~~~~~~~~~  ここではモーセは 神が違うと言っているはずです。違う神を人びとは立てていると言って怒っています。  わたしは このモーセの考えについても そのように集団内において神をめぐる話が 規範へと到るまでの取り決めとして 決まってしまうのは おかしいと言っています。  ぜんぜん違うでしょう。わたしとライダー氏とは。  (6) おまけとして ルーテルと親鸞  ★ ~~~~  つまり日本人である以上、守るべき法があり、それは国民が主権となって宣言したという格好です。天皇から押し付けられたわけではありません。同様に宗教も、守るべきルールを教皇からくだされるのではない形で持てば良いのではないか。  ~~~~~~  ☆ ご承知のように《万人司祭》を ルーテルはとなえたわけです。信仰を活きたかたちで集団においても保とうとして。  でも 《司祭》と言ってしまえば 羊と羊飼いとに分かれます。あつまりが一定の組織である場合には すでに羊飼いの《信仰》が問われた上で 組織の権限関係もかたちづくられて来ると思われます。プロテスタントとしての組織がつくられています。  坊主は要らない。みな同朋だと言ったのは 親鸞です。信徒が自主的にあつまって 社会一般として共同生活をするのみだと。  いちど浄土真宗といった宗派の内実は廃れたあと 蓮如が組織づくりをしてしまいました。別の組織宗教になりました。

noname#180711
noname#180711
回答No.4

>社会的な交通(コミュニケーション)においては 特に権限関係のある場合に 主観内面におさまりとどまる神を持ち出して その神との近しさや信じる度合いあるいはそれにもとづく業績を判断基準として ひとの思惟や行動を左右することは ゆるされない。のではないか?    「社会的な交通」においては「許されない」とまではいかないけれど、望ましくないと思いますよ。権威を持ち出されると、言いたいことが言えなくなってしまう。これじゃあ、対等な関係で友人となれないでしょう。  しかし「宗教的な交通」では、しょうがないと思います。というのも、祈り方、教義など、様々なことを教えてもらう必要があるからです。また道を外れたら、道を外れていると指摘してもらうことも必要でしょう。あなたの話をさらに展開していったら、先生と生徒の関係というものが全部ダメということになってしまうんじゃないか。  とはいえ、あなたはそれでいいのかもしれない。もう老人だし、知っていることもたくさんあるでしょう。祈り方も、おそらく、よく知っているんだろうと思います。しかし若い人とか、子供とか、これから入門する人には必要じゃないですか。全員が全員、我流で好きなことを始めてしまったら、どうなっちゃうんでしょうね。無秩序になってしまうでしょう。これにも良さがあるのかもしれませんが、私には分かりません。  展望があるなら教えてください。

bragelonne
質問者

お礼

 ご回答をありがとうございます。  神は たぶんじんるいの誰れにとってもナゾです。分かりません。あるいは 分かるか分からないかが分かりません。  神をいだくにしても それは思考に非ずとしてです。  もしオシエにおいてけっきょく《思考や想像》の対象としてこの神が持たれたとすれば それは ただの概念であり観念です。  観念の神は 神ではなくなっています。  オシエは宗教がそれをみづからの存立にとっての根幹とするのならば その宗教は 個人の主観内面においてただナゾを受け容れているという状態の信仰にとっては その信仰――非思考の庭――の自殺行為を経て生まれた。こう考えられます。  オシエと《信じる》とは 水と油です。  オシエは蝉の抜け殻にしか過ぎません。  ですから  ★ 先生と生徒の関係  ☆ において 宗教が信仰というコトを標榜して活動するなら それは生まれたときからの自己欺瞞になります。  せいぜいすでにオシエとなったコトガラの勉強会であるとか それにもとづく修行道場であるとか あるいはオシエにもとづく福祉事業団体であったりするにとどめるのが 人間であることの最低条件である。こう考えます。  どうしてもきづななり人びととの連帯感をあぢわいたいと思うなら いっさい宗教色を抜いた《目に見えざる教会(エクレシア・民会)》として ムラ(市町村)や地域のコミュニティーをかたちづくって行けばよいでしょう。  重ねて言えば  ★ 宗教的な交通  ☆ はそれがあるとするなら あくまで《信仰》にはいっさいかかわらないかたちの活動でなくてはいけないでしょう。  むろん現在時点では 結社の自由のもとに宗教組織もその活動が自由であるとされています。ですが 信仰をも持ち出すなら それは人間性にとっての自由からして憲法違反であると考えられます。    さらに詳しくは こうです。  《信じる》はひとりの人の主観内面にとどまる。つまり表現の自由にもとづき他者にも表現され伝えられるのだけれど その表現されたオシエや神なる観念が 信じるの対象であるものではないからには 信じるというワタシの動態はつねに主観内面にとどまる。  ゆえに 組織宗教において この《信仰の度合いに応じて 職務が決まり その職務の権限関係によって 行動を要請したり規制したりする命令がおこなわれている》とすれば それは 成り立たない。と考えます。  たしかに 実際にはいくら《信仰の度合いに応じて ことが決まる》と言ってもその度合いは じつは誰にも分からないのですから――本人にも分からないかも知れません―― ただただ世俗の組織としてその権威や権限関係が決められているだけだと見るべきかも分かりません。つまり《世俗の組織として》です。宗教組織がです。  その上で言えば 事実問題として 権限が上の職務に就く人から自分の見解やあるいは信仰のあり方まで規定され否定されるというようなことがあったなら それは――信教・良心の自由への干渉には 信仰の度合いが誰も分からないからには なりませんが それでも――言ってみれば 社会的な生命が危機にさらされる。生活する基盤や範囲が限られて来ます。人びとから省みられなくなり それによって仕事に就くことも出来なくなる場合があるからです。  そしてそれは おそらく つねにその惧れが持たれるほど マチガイの起こる確率は高いと言わねばなりません。  お坊さんは――信仰にかこつけてものを言うのならば―― 蝉の抜け殻が法衣を着ているようなものだと考えられます。

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    モーゼの十戒やアダムとイブの話など,これらはフィクション(夢のない言い方ですいません)だと思うんですが,では出エジプト記などのイスラエルの民についてはどうなんでしょうか? 出エジプト記のストーリーは神から約束の地(イスラエル?)を与えられてエジプトから脱出し,何代にもわたってやっと約束の地を得ることができたのもつかの間,さまざまな内戦や敵の侵入に闘い続けるというストーリーだったと思います.これがフィクションならそれで終わりですが,実際でも闘い続け,イスラエルは崩壊し,その子孫がユダヤ人として迫害という形戦い続けます.現在では今問題になっているアメリカのテロ事件へと続いています. 旧約聖書の他の話はとても物語りですが,この出エジプト記だけはそれとはちょっと違う気がします. 出エジプト記に限ってはフィクションですか,それともノンフィクションでしょうか?

  • クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう

     クリスチャンの方は エレミヤ書31:31以降をどう解釈されますか?  新約聖書においても このエレミヤ書のくだりは取り上げられています。  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち たたき台として 次です:  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかも昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示しています。  板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われます。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが 指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。

  • 神みづからによる自己の揚棄:エレミヤ書31:31

     聖書の伝えるヤハヱーなる神は  旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に  その内容を明らかにして予告し  それがパウロをつうじて  かれの著わしたと伝えられるヘブル書で  けっきょくイエスによって  〔そのイエスが神の子キリストとして世に  現われたという想定のもとに〕  成就した  と語った。  すなわち:  ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」         (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は  次の内容であると捉えます。これを問います。  (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。  ▲ わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。  ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。  石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち信仰によることを示していると思われる。  (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。   すなわち  (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。   ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。  (β‐2) オシエは要らなくなったということ。   ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。  (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって おこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。  (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。  (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。  ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。すべての民族において そう成るということだ。  (ハタラキを及ぼすということは 何もしない・つまり人間にすべてをまかせるということでありうると考えられる)。  添削・ご批判を俟ちます。

  • モーセはどうして殺されそうになったのですか?

    出4章で、神がモーセに民の解放をしに行けと任命されておきながら、子供が割礼をしてないから殺そうとしたのですか?なぜ異邦人の奥さんは気付いたのでしょうか?解放を命じた時に「割礼しとけ」と命じておけば普通に従ったのではないのでしょうか?皆さんはここの箇所はどう解釈しますか? 「4:22あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、わたしの長子である。 4:23わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたしに仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺すであろう』と」。 4:24さてモーセが途中で宿っている時、主は彼に会って彼を殺そうとされた。 4:25その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはまことに、わたしにとって血の花婿です」。 4:26そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言ったのは割礼のゆえである。」

  • 水による洗礼は 何故なくならないのか

     ◆ 1. 《水による洗礼は 要らない》という命題を問うものです。  1-1. すでに二三度質問しています。このところ質問にあげてやり取りの中から答えが得られるという二度の事例に遭い この問いについてもこころみたいと思いました。  ◆ 2. これまでの経過としましては こうです。  2-1. 《要らない》の根拠はやはり エレミヤ書31:31以下のくだり(そしてこれは ヘブル書8:7以下に取り上げられています)です。《罪は赦される》のだし 《主を知れといっておしえる必要はなくなる》のだと。  ▲ (ヘブル書8:7-13) ~~~~~  もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。  事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。    「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、     新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。    「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、     エジプトの地から導き出した日に、     彼らと結んだ契約のようなものではない。     彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、     わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。    「それらの日の後、わたしが     イスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。    「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、     彼らの心にそれを書きつけよう。     わたしは彼らの神となり、     彼らはわたしの民となる。     彼らはそれぞれ自分の同胞に、     それぞれ自分の兄弟に、     『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。     小さな者から大きな者に至るまで     彼らはすべて、わたしを知るようになり、     わたしは、彼らの不義を赦し、     もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」      (エレミア書 31:31-34)  神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。  ~~~~~~~~~~~~  2-2. 《要る》の根拠は 《水と霊による》などの記述とそして神秘的なもので おそらくは サクラメント(秘跡)であるのだからむしろそのように決まっているのだという理由なのでしょう。  ◆ 3. ユダヤ民族の 初めには基本としてアブラハムやイサクやヤコブそれぞれにとっての個人の信仰としての神であったものであり そのあとモーセに到って民族という集団にとってもの規範としての律法宗教となったもの これが キリスト・イエスの登場によって 揚棄され あたらしい世界的なものと成った。  3-1. 神は――つまり モーセを経てキリスト・イエスにおいて―― アブラハムらの信仰の中の神にもどった。  3-2. しかも 名がちがっても 世の中に神と称される神は それぞれ互いにまったく同じ神である。  3-3. すなわち 《わが心に非思考の庭が成る》という信仰は 名が違ってもその神が非思考なるゆえに同じ類型においてある。しかもさらには 無い神をいだくのも 非思考ゆえに信仰なのであり 有神論と無神論とに何の違いもないと明らかにされた。  ◆ 4. 洗礼は もし必要ならば 聖霊によるそれのみでよい。つまりは風が吹きその風に当たるというようなものですから すでに誰もがこのバプテスマは受けている。(受けていないと言っても 信仰にかんしては 同じである)。  4-1. 人間存在とその自然本性は ヒトにかんする限り 同じである。と成ったのではないだろうか?  4-2. 信仰は わづかに人間の思考ないし科学が有限のものであると言っているのみとなり 背景にしりぞく。もともと そうであったのであり これが たぶん・おそらく人類史上においてイエス・キリストがひとり明らかにしたのだと考えられる。コロンブスの卵に過ぎないとしても。  4-3. 神への(または 無い神への)きよからかなおそれ これは ヒトからなくなるものではない。と言っておく必要があるだろうか。  4-4. 目に見える教会は 要らない。見えざる教会は きよらかなおそれを通じて〔のみ〕あってもよい。組織宗教は すべからく自己解体がのぞまれる。  スサノヲ市民の自由のまったき自由にもとづくご見解を思う存分あきらかにして ご教授ください。