• ベストアンサー

旧約聖書のモーセの律法&マリアとエリザベトについて

『手塚治虫の旧約聖書物語』で、2つ分からない事がありました。 1つはモーセの十戒と律法の違いです。ヘブライ人とエジプトを出た後、シナイ山で神(または主)からモーセに与えられた律法の一部が十戒である、という解釈でいいのでしょうか? もう1つは聖母マリアが故郷に戻る途中で訪問したエリザベトですが、この2人の関係は従姉妹(いとこ)でしょうか?どなたか教えて下さい。

  • 歴史
  • 回答数2
  • ありがとう数6

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • ray_ray
  • ベストアンサー率40% (68/166)
回答No.2

『手塚治虫の旧約聖書物語』は読んでいませんが、聖書と関連書籍は読んでいます。 ■十戒と律法についてはあやふなや回答ですが、だいたい下記のイメージです。 律法はもともとは口伝で伝わってきた教え。 モーセがシナイ山で与えられたのが十戒。 モーセが十戒をさずかってからは、律法の中心はモーセの十戒になった。 ■マリアとエリザベトの関係について。 ふたりは従妹だといわれています。ただ当時は親族を従妹も含めて「兄弟」と呼んだりしていたので、あくまでも後の研究でそういうことになっている、でもいいのかも。 故郷に戻る途中で訪問したのではなく、ガブリエルに会ってお告げを聞き、エリザベトが妊娠していることを知り、手助けするためにに訪れたのだといわれています。 ちなみにNo.1さんの回答に「ヨハネという父なし子が誕生」とありますが、ヨハネには人間のお父さんがいます。アビヤ組の祭司のザカリアという人です。 以上、マリア&エリザベトについては、新約聖書のルカ福音書の最初のほうに書いてあります。

Diane_Lane
質問者

お礼

という事は、律法はモーセの前からイスラエルの民に口伝された物ですかね。 あと、やはりマリアはエリザベトの従妹みたいですね。 『手塚治虫の旧約聖書物語』ではザカリアも登場しますが、マリアが訪ねた時は故郷に住民登録をしに戻る途中で(エリザベトの子)ヨハネも生まれてるので、2度目(以上)の訪問なんですかね。 この本というかアニメは、向こうのクリスチャン達との討論も手伝って、かなり聖書に忠実との事ですが、多少違う所もあるのかもしれませんね。回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • harukit
  • ベストアンサー率37% (3/8)
回答No.1

マリアとエリザベトは従姉妹です。 ともに無性交妊娠によって、イエスとヨハネという、父なし子が誕生するわけですね。 モーセの十戒と律法・・ 詳しくはわかりませんが、十戒=律法 というふうに思ってます。

Diane_Lane
質問者

お礼

早い回答ありがとうございます。ヨセフとザカリア(?)は形ばかりの父で、マリアもエリザベトも無性交妊娠なんですか。 広辞苑ではモーセの五書=律法で、十戒のように姦淫や偽証等、具体的な十の戒めが記されてないので、イマイチ同じという気がしないんですが…。

関連するQ&A

  • キリスト教学 モーセの十戒

    モーセの十戒では未完了形が用いられています。これは旧約聖書の律法に、本来どのような出来事 前提が前提とされており、律法が本来どのような性質のものであるのかを示しているのでしょうか?

  • 旧約聖書の神様について

    「10戒」を見て、旧約聖書でモーセを導いた神様は その後どうなったのでしょうか?  聖書を読まない者なので、お知りの方どうかお教えください。

  • 所謂モーゼ(モーセ)の「十戒」に付いて教えて下さい。先日久しぶりに旧約

    所謂モーゼ(モーセ)の「十戒」に付いて教えて下さい。先日久しぶりに旧約聖書(ヘブライ語聖書)の「出エジプト記」20章の「十戒」を読んでいましたら,第5節に「私は熱情の神である」と記述が有り,英文では(私は普段聖書を読む時は英語の勉強も兼ねて「和英対照」の聖書(新共同訳)を参考にしています)「I tolerate no rivals」(直訳すれば「私に逆らう(反抗する)者は決して許さない」とでもなるのでしょうか)となっており,英文と日本文の意味が余りにも違いすぎるので,参考までに他の聖書を調べてみましたが(日本聖書協会発行の文語訳/新改訳等4冊)全て「私は妬む神」となっていました。因みに米国で購入したNew International Version でも「I am a jealous God 」になっており,新共同訳以外は全て(我が家にある聖書のみですが)「妬む神」となっており,「熱情の神」とは意味が余りにも違いすぎると思いました。原文(ヘブライ語・ギリシャ語?)は判りませんが,何故訳によってこれほどの違いが出るのでしょうか。出来れば原文(?)の意味を教えて頂ければ幸いです。

  • イエスやマリアの像を拝むことは偶像崇拝にならない?

    NHKの100分で名著の「旧約聖書」という番組で「モーセの十戒」を知りました。 その「十戒」の中に「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。 ・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・」とあって、ユダヤの人が偶像を作ってそれを拝んでいた時、モーセが怒ったと番組の中で紹介されていたのですが、キリスト教の場合、イエスやマリアの像を拝むことが、なぜ許されているのでしょうか? 番組のなかでは、旧約聖書はキリスト教の聖典でもあると紹介されていたと思うのですが?

  • 旧約聖書と新約聖書の違いを教えてください。

    明確な違いを教えてください!今、旧約聖書物語(手塚治虫アニメ)をみています。幼い頃通っていた日曜学校はいったいどっちだったのかもわからず、なんだかアニメを観れば観るほど頭がゴチャゴチャです。知識として知っておきたいのでどなたかよろしくお願いいたします。

  • 偶像崇拝について。

    たしか、旧約聖書でしたっけ? モーセなる人物が十戒で偶像崇拝を禁じてたような気がするのです。 はてさて、キリストの像や十字架、聖母マリア像、新旧聖書等。 これらは、偶像なのでは? 私の『偶像』の認識が間違っているんでしょうか…。 どうか、皆さんの回答、意見をおよせくださいませ。

  • 旧約聖書の律法は破棄されたんですか?

    なぜ誰も教えてくれないんですか。 裁いている者が終わりの日に裁かれ、不法な者が表し示されるのは終わりの日であると書いてあるにもかかわらず、他の群れが間違っていると、永遠をかけて言い切っている以上絶対な証拠が必要なはずです。間違っていたら裁かれるわけですから、真理のことごとくを悟っており、絶対的な証拠と覚悟が出来ているはずです。 どの教理について行けばいいのか、荒廃をもたらす嫌悪すべき者が立ってはならない所に立っているのは誰なのかを死ぬ前に判断しなければなりません。聖句だけを使ってその句を証明する句を教えてください。 マタイ 5 「17 「わたしが律法や預言者たちを破棄するために来たと考えてはなりません。破棄するためではなく,成就するために来たのです。 18 あなた方に真実に言いますが,律法から最も小さな文字一つまたは文字の一画が消え去って,[記された]すべてのことが起きないよりは,むしろ天地の消え去るほうが先なのです。 19 それゆえ,だれであれ,これら一番小さなおきての一つを破り,また人にそのように教える者は,天の王国に関連して『一番小さい者』と呼ばれるでしょう。だれでもそれを行ない,またそれを教える者,その者は天の王国に関連して『大いなる者』と呼ばれるでしょう。」 ここで、「律法を破棄しに来たと考えてはなりません」と、「一番小さなおきて一つを破りそれを教える者は一番小さい者と呼ばれる」は「それゆえ」でつながっているので、律法が破棄されたと教える者も天の王国には関連しているのはここでは置いておくとして、破棄されていないのは間違いないですよね? さらにイエスは、 マルコ 7 「8 あなた方は神のおきてを捨て置いて,人間の伝統を堅く守っているのです」。 9 [イエス]はさらに続けてこう言われた。「あなた方は自分たちの伝統を保とうとして,巧妙にも神のおきてを押しのけています。 10 たとえば,モーセは,『あなたの父と母を敬いなさい』,そして,『父や母をののしる者は死に至らせなさい』と言いました。 11 ところがあなた方は,『もし人が自分の父や母に向かって,「わたしの持つものであなたがわたしから益をお受けになるものがあるかもしれませんが,それはみなコルバン(つまり,神に献納された供え物)なのです」と言うならば』と言います― 12 あなた方はもはやその人に,自分の父や母のために何一つさせないのです。 13 こうしてあなた方は,自分たちが伝えた伝統によって神の言葉を無にしています。そして多くのこれと同様の事をあなた方は行なっています」。」 ここで、いろいろと理由をつけても結局神のおきて、つまりモーセの律法を巧妙にも押しのけて神の言葉を無にしていると書いてあるので、上の句とあわせても律法を破棄したとはイエスは言っておらず、律法が破棄されたと広まることを予測してなのか、律法を破棄しにきたと考えてはならないと念をおしています。 さらに、イエスはおきてを守り行いなさいと言っていて、律法をいくつか例に挙げて言っています。 マタイ 19 「17 [イエス]は彼に言われた,「なぜあなたは善いことについてわたしに尋ねるのですか。善い方はお一人だけなのです。しかし,命に入りたいと思うならば,おきてを絶えず守り行ないなさい」。 18 彼は言った,「どの[おきて]ですか」。イエスは言われた,「ほかでもない,あなたは殺人をしてはならない,姦淫を犯してはならない,盗んではならない,偽りの証しをしてはならない, 19 [あなたの]父と母を敬いなさい,そして,隣人を自分自身のように愛さねばならない」。」 同じ場面のマルコだとおきての「隣人を自分自身のように愛さねばならない」の部分が「など」になっているので律法の例を挙げているだけだということはわかります。 マルコ 10 「17 [イエス]が出かけようとしておられると,ある人が走り寄って来てその前にひざまずき,こう質問した。「善い師よ,永遠の命を受け継ぐためには何をしなければならないでしょうか」。 18 イエスは彼に言われた,「なぜわたしのことを善いと呼ぶのですか。ただひとり,神以外には,だれも善い者はいません。 19 あなたはおきてを知っています。すなわち,『殺人をしてはいけない,姦淫を犯してはいけない,盗んではいけない,偽りの証しをしてはいけない,だまし取ってはいけない,あなたの父と母を敬いなさい』などです」。」 この時点であなたが知っているおきてとあるので、モーセの律法のことなのは間違いありません。 さらに次の句はかなり絶対的な言葉で、 マタイ 22 「36 「師よ,律法の中で最大のおきてはどれですか」。 37 [イエス]は彼に言われた,「『あなたは,心をこめ,魂をこめ,思いをこめてあなたの神エホバを愛さねばならない』。 38 これが最大で第一のおきてです。 39 第二もそれと同様であって,こうです。『あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない』。 40 律法全体はこの二つのおきてにかかっており,預言者たちもまたそうです」。」 律法全体は隣人を自分自身のように愛するを意味しているとまで書いてあるので、律法を破れば隣人を自分自身を愛すことはできないことになります。これだけでは足りないと続けて書かれていますが、律法が破棄されていないのは間違いないと思います。 イエスが徹底的に律法を守ることを教えているのはイエスだけではなく、当然神も、 イザヤ 48 「18 ああ,あなたがわたしのおきてに実際に注意を払いさえすれば!そうすれば,あなたの平安は川のように,あなたの義は海の波のようになるであろうに。 19 そして,あなたの子孫は砂のように,あなたの内なる所から出る末孫は[砂]粒のようになるであろうに。人の名がわたしの前から断ち滅ぼされることも,滅ぼし尽くされることもないであろうに」。」 と、ヤコブの家を再び島々から集め、全地に告げ知らせよと書かれている(イエスより後の預言)このイザヤ48の中でも、律法を守れば平安は川のようになると言っており、ダビデも人の務めは律法を守ることが「すべて」であると言っています。 伝導の書 12 「13 すべてのことが聞かれたいま,事の結論はこうである。[まことの]神を恐れ,そのおきてを守れ。それが人の[務めの]すべてだからである。」 さらに、イエスは一度も律法を破ることを教えていない証拠に 使途 10 「14 しかしペテロは言った,「いえ,それはできません,主よ。わたしはいまだかつて汚れたものや清くないものを何も食べたことがないからです」。」 ペテロはここで、全ての食べ物が清いという意味が全ての人が清いであれ、全ての食べ物がきよいのであれ、イエスは一度も律法を破ることを教えていないのでモーセの律法で禁じられている食べ物は食べないといっているのは間違いありません。 この幻以降、全ての食物が清められたと悟ったならここではじめてモーセの律法中、食べ物に関しては清められたので守らなくてもいいことになります。しかし全ての食べ物が清められたのが、全ての人が清いという意味なのであればモーセの律法で禁じられている食べ物は禁じられたままだということです。 ペテロはいまだかつて食べておらず、今後も食べないと言っているわけですから間違いないと思います。 旧約聖書の律法は本当に破棄されたんですか?

  • 旧約・新約聖書についての質問です。

    キリスト教の話になるので文化人類学でいいのかと思ったら、皆、 哲学のほうに質問を書き込んでいるみたいなので、私もこっちに書き込みます。  (実は何度も同じところに書き込むの恥ずかしい)  聖書を読んでいて何とも分からないところです。  まず、旧約聖書のほうで、モーセが岩を2回叩いただけで、神様が「あなたは私を疑いましたね」と、モーセを叱る場面があるのですが、(モーセの二度叩きの部分)どうしてたったそれだけの事で、モーセはカナンの地を踏ませてもらえなかったのでしょうか。ジーザスと違って、モーセは普通の人間だから、 あせる事もあると思うんですが・・・。旧約の神様は、かなりキツイ性格をしているように思えます。  いまひとつ旧約で、パロの頑なさは度を越している異常性格のように感じるのですが、本当にあんなにわからずやだったのでしょうか。  新約聖書です。盲目のバルティマイは、目が見えるようになった途端、ジーザスのあとにくっついていったのに、どうして「使徒」の中に入っていないのでしょうか。マグダラのマリヤも。  復活の後、使徒たちがエマオでジーザスに会い、それが主なる神であることを知った、と書いてありますが、ジーザスは神様であると考えてよいのでしょうか。(そのほうが嬉しいけど) 長くなるといけないので(充分長いよって)箇条書きにします。 ・マタイとマルコの福音書と、ルカ・ヨハネの福音書でずいぶん違う個所があるの はどうして? ・「主の名をみだりに唱えてはならない」(これ旧約だっけ)とあるが、ジーザス の話を他人とべらべら話してはいけない?  ・・・まだまだあるんですが今日はこのくらいにしておきます。 もしよかったら解釈の仕方を教えて下さい。

  • 創世記(旧約聖書)の解釈

    創世記(旧約聖書)の解釈 出エジプト記なんかでは神をヤハウェという唯一神で表現しています 創世記ではエロヒムと複数形のニュアンスで表現し、他の宗教色(多神教)が若干出てます しかし、創世記も出エジプト記も含めて一神教であるユダヤ教のモーセ五書です おかしくないですか? 当時のユダヤ教徒は創世記の表現、複数形になったことに何の違和感も感じなかったのでしょうか 自分は創世記の1章と2章では作者が違う、創世記はバビロン捕囚のときに編集されたものである、と考えてます

  • クリスチャンにとっての神の言葉とはなんですか?

    クリスチャンの信仰がある人にお願いします。 神の言葉・・・・とかよく教会では聞きますが、旧約聖書の時代にモーセの十戒を忠実に守った(旧約聖書の最初の5章)人がイエスを殺したのと思うのですが・・・・ どうでしょう?