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倫理学のプロセスは論理だけですか?
やはり価値命題なので論理が中心なのでしょうか?
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論理だけではありません。倫理に関するある議論のなかで「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いがあったとします。この疑問文は命題ではありません。このことから、命題ではない文が倫理に関する論には含まれると判断できます。もちろんそうした疑問に答えようとするならその答えは論理的になります。質問者さんの問いに賛成するにせよ反対するにせよ、理由reasonが要りますよね。言い換えると、「~だから」とか「なぜなら~」のような論理的な接続詞や接続助詞が。たとえその答えとなる意見に論理的な飛躍や誤りが含まれようとも、理由と結論がその意見で表れているなら、その意見は論理的です。論理的に評価できる以上は、論理的に誤りである文も論理的ではあるわけです。 理由reasonがあれば推論reasoningと結論もあります。「~だから…である」における「…である。なぜなら~」における「…である」が通常は結論に該当するでしょう。 また、事例を挙げたり事実に関する報告もしますね。ある地域では火葬なんてとんでもないという文化があり、またある地域では火葬が慣習として受け入れられている、みたいな事例とか。これは論理的な命題や前提ではなく事実に関する報告であり、推論や結論を含まないので論理ではありません。あとは思考実験そうですね。 以上から私は、倫理的な問題に関する意見には論理ではない記述が含まれると考えます。しかし倫理学が学を名乗るならば論理は不可欠です。質問者さんの意見に対して「倫理学の過程は論理だけではない」と答えるとしても、その答えには理由Aとその理由Aを論理的に正しい理由として正当化するべつの理由Bや推論が必要になるので、やはり論理は不可欠、むしろ不可避です。 広義の論理で言えば、「倫理学の過程は論理だけである」という命題に、それと異なる「倫理学の過程は論理だけではない」という命題を立てるなら、テーゼに対するアンチテーゼが立っているわけですから、この流れがまさに弁証法という論理の過程にあると言えるでしょう。
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- moto_koukousei
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倫理学であっても、倫理学であっても、学問が検証可能性、論証のプロセスを抜きに出来ないのである以上、倫理学のプロセスで論理を無視したら、もう倫理学のプロセスにならないでしょう。 なにをテーマにし、価値判断で偏りを持たせたとしても、プロセスが論理的でなければ学問ではないです。 [、、、であるべきである][、、、すべきである]というにしても、そのプロセスが論理的でなければ、単なる宣言にもならず、はちゃめちゃな迷い言でしかないでしょう。結論が倫理、道徳に適っているかどうかは問題でないです。 プロセスは論理的でないと、学問にも、まっとうな言説にもなりません。
そんなわけないでしょう。 論理的に正義や悪を割り切れないんですから。 論理を超えたところに倫理はあります。 その超えたところとは「現実社会で感じること」ではないでしょうか。