• ベストアンサー

資料と形相とは

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.1

 こんにちは。  レンガの家について:   形式:家の四角なかたちや骨格   内容:家が出来ているその材料としてのレンガ      形相:家という実在から離れて概念としての多面体・立方体   質料:概念としてのレンガ  形式と内容とは つねにそのモノについて一体です。  その実際のあり方から離れて形式や内容を単独に取り出すなら それぞれ形相と質料(しつりょう)になるという用語の規定です。  質料のない形相を 特に第一形相と言ったりします。  形相のない質料は 第一質料です。  第一形相は 精神ないしイデアであり得ます。  第一質料は 物質と呼ばれます。  どちらも 仮想の概念ですから 精神(世界精神)と物質とは けっきょく同じものです。  言いかえると 唯心論と唯物論とは 定義からすると 同じことです。

psuedoase
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 形式、内容、形相、資料、それぞれ違うものなのですか?? なんとなく感覚的にそれぞれがどのように違うのか分かるのですが、 例えば、例にあげてくださったのでいうと 形式と内容は、実際に存在するものの在り方 形相と資料は、抽象的な現実世界とは離れた精神の在り方 を表しているように思えるのですが、 その用語のそれぞれ定義みたいなものはあるのでしょうか?

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