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日本人の哲学を!
かつてナツィから逃れ招聘されて東北大学に教鞭を執ったK.レーヰットが こんなことをすでに言っていたそうです。 ▽ (レーヰット:日本の学問) ~~~~~~~~~~ ( a ) 学生たちはたしかに 献身的に私たちヨーロッパ人の文献を研究し じぶんたちの知性によってそれを理解してもいるけれども じぶんたちの研究のなかから かれら自身の また日本人の自我のために いかなる帰結をもみちびき出さない。 ( b ) ヨーロッパの概念 たとえば《意志》《自由》《精神》といったものを かれら自身の生活 思考 言語において相応するもの ときにじぶんたちのそれとは相反するものと区別したり 比較してみたりすることはしないのだ。 ( c ) かれらは それ自体として見知らぬものを じぶん自身のためには学ばない。そうすることが自明であるかのように ヨーロッパの哲学者の原文のなかに歩みいって じぶんの概念に対してその哲学の概念を 根源的に未知なありかたにおいて見ようとはしない。〔中略〕 ( d ) かれらはふたつの階で暮らしているようなものである。すなわち 日本的に感じたり考えたりする した(下)の 基本的な階と プラトンからハイデガーにいたるヨーロッパの学問がならべられている うえの階である。 ( e ) かれが一方から他方へとわたってゆく梯子はどこにあるのだろうか。ヨーロッパの教師は そう自問してみる。 ・・・・・・ ( f ) ボードレールやフロベールが プルードンやソレルが ワーグナーやニーチェが ヨーロッパに対して向かいあったのとおなじように 仮借のない鋭敏さでじぶん自身とその国民を問いただす日本人が果たして存在するのだろうか。私には疑わしく思える(しかし まちがっていたら教えてほしい)。 (誌《思想》掲載論文 その末尾に置かれた《日本の読者に寄せる後記》より。 下記の書の熊野純彦・解説より。 レーヴィット著 熊野純彦訳:『共同存在の現象学』 2008 岩波文庫 p.488 Karl Löwith: Das Individuum in der Rolle des Mitmenschen ―― Ein Beitrag zur anthropologischen Grundlegung der ethischen Probleme―― 1928 ) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この質問は 質問者じしんの自己 PR だとうたがわれてしまうかとおそれますが たとえばこのようなレーヰットの現状認識ないしそのわれわれにおける自覚を出発点とするよりほかにないとも考えられます。 《哲学》というひとつの言葉じたいについても われわれのあいだでは収拾のつかないほど受け留め方が違っていて その一事だけによってさえ われわれの心は断絶を余儀なくされているかに見られます。 どうしてここから出発しないのでしょう? ワールド・カップを目指さなければならないわけではないでしょうけれど 箱庭の中のおままごとからは そろそろおさらばしましょう。 一歩一歩じみちにあゆむあたらしい門出を迎えることが出来るようにするには どうすればよいでしょう? ・ 概念についての定義の再定義 ・ 学問におけるけんかをいとわず避けない さしづめこう考えました。 ご見解をうけたまわりたい。
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- NemurinekoNya
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西洋の自然は、単純で単調だから、学問の対象になりやすかった、 という考え方もありますね。 対して、 モンスーンが有し、高温多湿の南アジア、東南アジア、日本の自然はあまりに複雑すぎる。 自然に規則性を見出しがたい。 こうした複雑系は、現在の物理学をもってしても、その解明は絶望的。 こうした風土的な要因、環境的な要因もあるんでございます。 日本に至っては、 台風あり、地震あり、火山あり、異常気象ありと、 ありとあらゆる天変地異が日本という狭い国土の中に存在します。 こんな所では、物理学などの自然科学は生まれない。 ですが、 インドや日本は、 明治以降の西洋の数学の本格的な流入以前に、 西洋の数学に匹敵するような、独自の高度の数学の体系を有していた。 日本人は、十分過ぎるほど、論理的なんですよ。 論理的な思考ができる。 ほいで、 論理の前提が、西洋のそれと異なっているので、 時に、西洋人の目には、日本人の考え方や行動様式が奇異なものに映る。 その論理の前提を知れば、西洋人も「あ~、なるほどね」と理解できる。 ですが、 西洋サナダムシに脳まで侵食されている、どこぞやの哲学者といわれる人たちは、 自身の有している、そうした論理の解明、論理の前提の解明などはしない。 寄生虫である西洋サナダムシの解剖しかしない。 そりゃ~、何も生まれませんよ、新しいものは。 ニーチェのホニャララという本には、ヒルの脳髄を研究する人が出ていましたね~。 ヒルの脳を調べることは、それはそれで非常に立派な研究ですがね~。 日本のアニメは、世界中で大人気ですね。 素材を徹底的に生かす和食は、フランス料理や中国料理にも大きな影響を与え、それを変えていっています。 真に日本的なものは、世界中から高い評価を受け、世界のカルチャーに大きな影響を与えていますね。 インターナショナルなものとは、何なんでしょう? 金の鉱脈は、日本人自身の心の中や生活、文化の中のにあり、 それこそがインターナショナル性を獲得できるのかもしれません。
- hekiyu
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日本には、哲学を研究する学者はいるが、哲学者は いない、と言われていますね。 これは、西洋哲学はキリスト教と密接に結びついて いるからです。 だから、生まれた時からキリスト教文化に浴した 人間でないと、哲学は理解できないのだ、という ことです。 つまり、日本人の哲学は皮相に止まり、骨肉に なっていないのです。 それで構わないと思います。 韓国などは、儒教、それも最も観念的であると言われる 朱子学に凝り固まり、それこそ血肉になり骨の髄まで 染み込んでいます。 それが反日の根底にあるわけです。 日本も儒教を勉強しましたが、それはあくまでも教養 でした。 韓国のように骨の髄まで浸透することはありません でした。 日本人は日本人であり、欧米人ではありません。 無理して、西洋哲学を骨肉にする必要など ないと思います。
お礼
へきゆさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ これは、西洋哲学はキリスト教と密接に結びついて いるからです。 だから、生まれた時からキリスト教文化に浴した 人間でないと、哲学は理解できないのだ、という ことです。 ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そうですね。こういうことではないのでしょうか? すなわち: 社会やあるいはさらに国家が クリスチアニティ一色となっているなら その神学のもとに展開された〔部分が大きいところの〕哲学は そのヨーロッパ人にとってのほうが なじみがよいし 深い。 けれども 古典ギリシャは クリスチアニズムに浴して興ったわけではありません。 あるいはまた 教父と呼ばれたアウグスティヌスは 決してローマ人でもなければギリシャ人でもありません。(ローマ市民ではあります)。そうではなく むしろセム系のアフリカ・カルタゴあたりの土着のベルベル人です。(これは 例のギリシャ人がよその国の人間を呼んだバルバロイから来ています)。 それでも 教父の中の教父と呼ばれるまでに神学および哲学をこなしました。 つまり 結論としては: クリスチアニズム文化ないし文明の中に生まれた人間のほうが 哲学になじみやすい。けれども ほかの人間でもそれが理解できないということは ありえない。 ではないでしょうか。 ★ つまり、日本人の哲学は皮相に止まり、骨肉に / なっていないのです。 ☆ 次の理論は 世界でも最先端の哲学だと自負しています。 ○ 【Q:神がみづからを揚棄しちゃった:エレミヤ書31:31】~~~~~ http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8604161.html 聖書の伝えるヤハヱーなる神は みづからによるみづからの揚棄をおこなった。 つまり おこなうと預言させて 子なる神キリスト・イエスにそのことの成就を果たさせた。 旧約聖書のエレミヤ書(31:31以降)に その内容を明らかにして予告し それがパウロをつうじて かれの著わしたと伝えられるヘブル書で けっきょくイエスによって 〔そのイエスが神の子キリストとして世に 現われたという想定のもとに〕 成就した と語った。 すなわち: ▲ (伝パウロ・ヘブル書8:7-13) ~~~~~~~~~~~~~ もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。 事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。 見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、 新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。 それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、 エジプトの地から導き出した日に、 彼らと結んだ契約のようなものではない。 彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、 わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。 それらの日の後、わたしが イスラエルの家と結ぶ契約はこれである ――と、主は言われる。 すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、 彼らの心にそれを書きつけよう。 わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 彼らはそれぞれ自分の同胞に、 それぞれ自分の兄弟に、 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 小さな者から大きな者に至るまで 彼らはすべて、わたしを知るようになり、 わたしは、彼らの不義を赦し、 もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。 (旧約聖書・エレミヤ書 31:31-34) 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ すなわち その神の神によるみづからの揚棄は 次の内容であると捉えます。これを問います。 (α) あたらしい契約の時代にあっては モーセの律法によるのではなく あたかもその昔にもどってアブラハムの信仰によるということ。 ▲(エレミヤ書) わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。 ☆ というのであれば これが 律法なるオシエ〔を守ること〕を第一義とするのではないことを示している。 (α‐1) ▼ 文字はころし 霊は生かす。 ☆ 石の板に書きつけられた十戒なる律法(なるオシエ)ではなく そうではなく 人びとそれぞれの心の胸の板に書きつけられた思いとしての律法すなわち霊をめぐる信仰によることを示していると思われる。 (β) イエスの登場を契機として 次のような内容として あたらしい時代と社会が開けるということ。 すなわち (β-1) 《原罪》は 贖われ終わったということ。 ▲ 彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない。 (β‐2) オシエは要らなくなったということ。 ▲ 『主を知れ』と言って教える必要はなくなる。 (γ) まとめて: イエスの去ったあと パウロの言うように《宣教というおろかな手段》を用いて 人びとにイエスをキリストとして伝えるつとめはあって これがおこなわれたが あとは 宗教としてのオシエは不要であり 組織も教会も要らない。――というあたらしい天と地の時代へ入るということ。 (γ‐1) 神は どんな名で呼ばれようと 全体としてひとつである。とキリスト・イエスが そのアウフヘーベンの内容と結果とを指し示したはずだということ。キリストにもヤハヱーにも こだわる必要はなくなっていること。 (γ-2) つまり エレミヤ書のこのくだりで 神は神みづからをユダヤ民族の神としての位置からさらに高いところに揚げて その世界全体としてひとつなる普遍の神のもとに含まれて〔みづからを〕棄てた。 (γ‐3) ▲ (エレミヤ書31:33) ~~~~~~~~~~~ わたしは彼らの神となり、 彼らはわたしの民となる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということであれば そのユダヤ民族にとって もう神はそのハタラキを 何も言わず語らずにおよぼしていることになる。ユダヤ民族内部で そのような神と人との関係がととのった。(だから そのことが 理論どおりに実現するとまでは言っていない。神が要らなくなると言っている)。 (γ‐4) そうして もしその《信仰》のあり方が人間にとって普遍なことであるなら 世界中の神の名前の違いにかかわらずに すべての民族において そう成るということだ。 ハタラキを及ぼす《神と人との関係》がととのったということは――逆説的ではあるが―― 神が何もしない・つまりすべてを人間にまかせるということでありうると考えられる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 無理して、西洋哲学を骨肉にする必要など / ないと思います。 ☆ 微妙に趣旨がちがいます。 日本人の哲学を持とうということと《西洋哲学を骨肉にすること》とは 違いましょう。 ひとつの通り過ぎる過程に 後者の西欧哲学はあるかも知れませんが それが目標ではありませんから。
- urigadai2013
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レーヴィッドはドイツでナチスが政権をとった時、ユダヤ人だったので師のハイデガーの口利きで、日本に亡命し、東北大で一時教鞭をとったことがある。 ハイデガーはフライブルグ大学の総長にナチスの左派、エルンスト・レームにシンパシーをもって、その推薦でナチス党員になり、総長になったが、レーム一派がヒトラーによって「長いナイフの夜」のクーデターで粛清されるとハイデガーは1年足らずの間に総長の職を失い、大学でも教鞭をとれなくなってしまった。 戦後はナチスの協力者とみなされて、学会から追放され、一切の教職につけなくなってしまった。 ハイデガーにしてみれば、戦中のちょっとした気の迷いからナチスの、それも左派にシンパシーを抱いたために高いツケを支払わされた、苦々しい思いだったろう。 ハイデガーの教え子にはユダヤ人がどういうわけか多くて、ハイデガーはアーレントやレーヴィッドの亡命先について、あれこれと助言し、助けていたようで、それでレーヴィッドも東北大に亡命することができた。 東北大から、ハイデガーのもとに留学していた生徒がいて、そのつてで東北大をあっせんしてもらったわけ。 だけど哲学というのは古代ギリシャから.ヨーロッパに伝わった独特の考え方で、ヨーロッパ以外のどの国にもないものだった。 哲学の役割は主として概念の分析で、その点、思想とは違う。 インドにも、.中国にも、日本にも思想というものはあるけど、哲学というものはない。 レーヴィッドも日本に来て、日本の風土には哲学の伝統がないのを痛感しただろう。 今でもそうだが、日本には哲学の解説者や研究者はゴマンといるが、哲学者というのはほとんどいない。 まあ、かつての京都学派の西田幾多郎とか出隆とか田辺元くらいなもの。 戦後でいえば大森荘蔵くらい。 あとはカツカツだ。 日本は明治に西欧文化を導入して初めて哲学というものがあるのを知った。 しかし、日本人には自我なんてものはないし、自然にしても西欧の物質的自然の概念はないし、自由という観念も考え方もないし、魂という言葉はあったが、精神なんて言葉はなかったし、社会・国家という概念もなかった。 そんな「無い無い尽くし」の風土に哲学的な思考なんて無理。 ただ概念だけ西欧から輸入したからといって、土台が違うんだから、定着することもない。 日本人が自由だとか自我だとか精神という言葉を聞いても、虚ろに響くだけ。 中身がない。 哲学の伝統のない日本には、まして日本人には哲学なんて土台無理な話。
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ 東北大から、ハイデガーのもとに留学していた生徒がいて、そのつてで東北大をあっせんしてもらったわけ。 ☆ この人かどうか分からないのですが 九鬼周造のあっせんによるとか。(ヰキぺで確認しました)。 ★ しかし、日本人には自我なんてものはないし ☆ そうですね。これは もしレーヰットの見方に意義があるなら 《自我》と訳すから おかしいのだと思えます。 【Q:ひとは 根源的には《共同相互存在》であるのか?】 の問い求めとカカワリを持つと思うのですが けっきょく《わたし》のことである。具体的でほかの誰でもない存在としてのワタシ。これなら 日本の歴史と文化なる地に足をつけつつ その土壌から掘り起こし根っ子からあたかも点検して生き直して行くほどの《哲学》をおこなう主体として ふつうであって 不足はないと思われます。 ★ 自然にしても西欧の物質的自然の概念はないし、 ☆ これは お互いさまではないですか? あちらには情緒や情感の共同性といった自然はないかも知れない。 ★ 自由という観念も考え方もないし、 ☆ これは 潜在性として 地球市民ならどこでもどの民族にとっても 普遍的な理念であるとわたしは思います。目覚めるのが 早いか遅いかだけで。 ★ 魂という言葉はあったが、精神なんて言葉はなかったし、 ☆ おそらく《息・風・霊》にあたる日本語は たましいよりも ふつうに《生きる・起きる》の意義において《息(いき・おき)》ではないかと考えます。(いき∽おき は母音交替形)。息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)など。 つまり プネウマやスピリトゥスなどと同趣旨で同種だと思われます。 精神は こころでしょうね。 ★ 社会・国家という概念もなかった。 ☆ くに ですら 群の訓読みではないかと見られています。文:ぶん⇒ふみ。簡:かん⇒かみ(紙)。 でも 考えてみれば 市民社会のレベルにおける村々のマツリ(祀り・祭り)とそしてこれらを一段高いところから――つまり国家という次元から――統べるマツリゴトという概念は持ち得ました。 つまり 二階建ての構造に作ったのは 世界共通です。 ですから このような社会形態のツクリから言って たとえば《アマアガリ》という出世志向を取り出せます。 これを成功させたなら症候群ではなく そうは言いませんが 一般にその志向の実践は 挫折が多いわけですから ややもすると《アマアガリ・シンドローム》というような社会的な心的現象があらわれます。 また このお二階さんは 公民――もっぱらの公民――としてアマテラス族と言い得ると思いますが このお上とも呼ばれる二階族へのすり寄りは アマテラス予備軍症候群という特徴的な心性を持つ場合があり得ます。 自分は 一階のスサノヲ市民社会の生活者であるとき それでも 三度のご飯よりもお二階さんのカリスマだとか派手やかさや華やかさが好きで 何かと そのアマテラス人種の提灯を持つという心的現象です。何か失敗をしたり裏切りに遭ったりすると ゆすり・たかりへと 反転する場合もあります。 このような概念は 輸出することができましょう。 日本人の哲学の一端をおしめししました。どうでしょう。
- NemurinekoNya
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こんにちは。 哲学そのものを学問する《めた哲学》でもなく、 哲学書学、哲学(書)文献学が、 日本の「哲学」ですからね~。 《訓詁》の学問、《訓詁学》。 哲学書の注釈が哲学であり、日本の哲学者の《お・し・ご・と》!! たぶん、 この分野では、世界で一番厳密かつ正確なのではないですか、 日本(ニコニコ)。 古代中国語や漢字の研究でさえ、御本家・中国のはるか先を行っているようですし・・・。 日本に仏教がやってきて以来、連綿と続いていますので、 百年やそこらで変われるような甘っちょろいものではない。 何しろ、「温故知新」ですから~。 真理は先人の書き記した書物の中にある・・・。 ~~~~~~~ ・ 概念についての定義の再定義 ・ 学問におけるけんかをいとわず避けない ~~~~~~~ 「ホニャララによると、これはホニャララである」と概念についての再定義をしているんじゃないですか。 そして、 「○○の考えこそ正しいのだ!!」と、口角泡を飛ばしていると思いますよ。 この哲学カテは、違うようですね。 「オレさまの哲学(?)こそが唯一絶対だ」とばかりに、 オシコモリを貫いている人もいらっしゃるような、いらっしゃらないような(ニコニコ)。 最近では、 「存在性」なる新たな概念も提出されているようです。 一つのムーブメントなんですかね、 哲学と物理学の融合(?)が。 ですが、 《心の哲学》などでは、《物理的領域の因果的閉包性》などが議論になるんですけれどね。 物理的領域の因果的閉包性 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E7%9A%84%E9%96%89%E9%8E%96%E6%80%A7 随伴現象説 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%8F%E4%BC%B4%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E8%AA%AC お話(フィクション)としておもしろいので、 わたしは、《哲学的ゾンビ》の話をしたりするんですけれども・・・。 ゾンビ問題 http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/zonbi.html
お礼
こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ たぶん、 この分野では、世界で一番厳密かつ正確なのではないですか、 日本(ニコニコ)。 古代中国語や漢字の研究でさえ、御本家・中国のはるか先を行っているようですし・・・。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ たぶん。世界一でしょう。(ニコニコ)。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「ホニャララによると、これはホニャララである」と概念についての再定義をしているんじゃないですか。 そして、 「○○の考えこそ正しいのだ!!」と、口角泡を飛ばしていると思いますよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぢゃあ 自分としては・あなたとしては の再再定義が必要になります。 《あなた自身の考え》を 確信をもって明らかにしてください。と言って行かねばなりません。 ◇ 一つのムーブメントなんですかね、 / 哲学と物理学の融合(?)が。 ☆ これは 意外とおおきな問題であると思われます。 よい結果をさえ生むかも知れませんし。また ほんとなら 両方の知識が必要なのでしょうから。 ▽ 物理的領域の因果的閉包性(ぶつりてきりょういきのいんがてきへいほうせい、英:Causal closure of physics)とは、『どんな物理現象も物理現象のほかには一切の原因を持たない』という経験的な原理。 ☆ ですけれど 《心》と言っても 脳裏やその細胞や神経組織というのは 物理化学的な現象ですよね? そのこととカカワリを持っているのではないのですか 心は? だって ミラー・ニューロン現象を言うぢゃないですか。 心で意識をつくれば 何らかの電気が流れるのでしょう? ちがうんですか? ▽ 随伴現象説(ずいはんげんしょうせつ、Epiphenomenalism)とは、心の哲学において、物質と意識の間の因果関係について述べた形而上学的な立場のひとつで、『意識やクオリアは物質の物理的状態に付随しているだけの現象にすぎず、物質にたいして何の因果的作用ももたらさない』というもの。 ▽ 『工場と煙』の話:つまり煙が出てきた事が原因となって突然 工場が生産を始めたり、煙がなくなったことが原因となって生産が勝手に止まるなどということがあるだろうか。こうした事は普通起きないだろう。 ☆ 《煙の出方を見て 工員が工場の稼働具合いを調整する》とか。あるいは 《煙が出なくなったとき それを見て工員が工場の機械を 点検し稼働させる。それによって 工場が動き煙も出るようになる》。 というように人間の要因を加えて考えれば どうなのでしょう? 全体の情況において その諸要素を加味して考えるのでなければと思いますが。・・・
お礼
◇ ~~~~~~~~~~~~~~~ 真に日本的なものは、世界中から高い評価を受け、世界のカルチャーに大きな影響を与えていますね。 インターナショナルなものとは、何なんでしょう? 金の鉱脈は、日本人自身の心の中や生活、文化の中のにあり、 それこそがインターナショナル性を獲得できるのかもしれません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ でしょうね。 ご回答をありがとうございます。 普遍的な理論は 地域的な社会現象や人間行動の観察から生まれるのでしょうね。けっして初めにグローバルとかインタナショナルなものがあったわけではない。 ◇ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ですが、 インドや日本は、 明治以降の西洋の数学の本格的な流入以前に、 西洋の数学に匹敵するような、独自の高度の数学の体系を有していた。 日本人は、十分過ぎるほど、論理的なんですよ。 論理的な思考ができる。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 日本語の文表現は 論理的なことを表わしえないといった通念もありますね。 けっきょく潜在的なチカラは どこにでもある。どの民族にもひとしくそなわっている。 だったら 西欧哲学をたたき台にして 世界の哲学をかたちづくって行けばよい。 《くにゆづり》ひとつを採ってみても 世界哲学のひとつの理論になると考えます。