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哲学者について教えて下さい
哲学者は自然科学の人みたいに実験や観察はしないんですよね。 他の学問みたいに発掘や統計の分析や解剖や意識調査のアンケートとかもしませんよね。 座って考えることだけが哲学的作業なのでしょうか?それとも哲学にも他の学問みたいに研究「作業」があるのでしょうか? 宗教の人達は山林修行とか瞑想とか座禅とか実技をしますよね。 哲学者は宗教的な要素を抜きにしてそういう実技は行なわないんでしょうか? それとも哲学者が実技を行なうと無条件に宗教家と定義されてしまうんでしょうか? ただ考えることが哲学なのであれば、その優劣は非常に曖昧だと思うのですが…。哲学者の優劣はどうやって決まるんでしょう?文学であれば、個々人の感性で味わえば良いのでしょうが、哲学は一応真理を追究するんですよね。他の哲学者が評価するんでしょうか? よろしくお願いします。
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- 1000827313
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#7です。 変換間違いの訂正です。 化現指定るのみ。→化現しているのみ。 夢幻集合論→無限集合論(部分は全体に等しい。) 申し訳ありませんでした。
- 1000827313
- ベストアンサー率30% (7/23)
哲学者が思索だけして、自然科学とは無縁かと言うと質問と理解します。 例えば「パンセ」で有名なパスカルは数学者、物理学者でもあります。数学では序列、三角、幾何などの仕事、物理では水力学、流体力学、真空論などあります。そういえば、天気予報の気圧の値ヘクトパスカルは彼の名前です。脳室の拡大する水頭症の理論もパスカルの法則で説明されているようです。 言語哲学では、ソシュールに既に芽生えていますが、現代ではハッキング、飯田などの本を読もうとすると、集合論の知識を要求されます。 そう言えば、仏教で教える「仏は只一つ、名前、形を変えて化現指定るのみ。木の葉の露に写った月と同じ。沢山の月が沢山の葉に見えるが本体は一つ。」と言われますが、これは夢幻集合論(部分は全体に等しい。)ですね。
- mmky
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追加の参考程度に 自然科学を含むあらゆる学問は、真理の追究が目指すところなのですその意味では哲学の範疇にあるといえるものです。 この世では生きてゆくためには職が必要です。だから哲学者になれとはいわないのです。あらゆる職業は必要だから存在しているわけですからいろんな職業で活躍すればいいんですね。しかし、学問も生活も職業さえ本質が哲学することにあるといいたいのです。これを忘れるといきやすいためだけの道具になりさがるということですね。 自然科学がどんどん進歩し、哲学の領域が狭まっている現状で、外観、内観だけしていて、他の学問に資するような成果をあげられるのでしょうか? 便利さを追求する工学は、その裏には、自然の摂理に基づく理論や原理があるでしょう。新しい理論や原理は外観だけでは得られないものですね。内観がいるのですね。インスピレーションともいいますが。つまり、大ニュートンも哲学者であったわけです。 不遇な中で歴史に埋もれた素晴らしい思想も多いのではないでしょうか? 吉田松陰先生はじめ多くの指導者も教育界の哲学者です。思想を教育としてたくさんの弟子を育てています。そのようなかたは大勢います。内村鑑三先生や吉田松陰先生、不遇だったかもしれませんが、立派なかたがたですね。だれしも同じになる必要はないが、精神をわすれてはいけないということですね。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
追伸 「哲学者の優劣はどうやって決まるんでしょう?] これをわすれてました。 哲学者の優劣は歴史が優劣を決めるのですね。 同時代にいる多くの論客は互いに論を戦わせますので評価としては好き嫌いぐらいの差しかありません。しかし、時代を下るごとにだめなものは落ちていきます、1000年も持っていればそれは立派なものですね。よく勉強してある程度本質を見ることができれば本物を見分けることができますね。釈尊、イエス、孔子、墨子、老子、カント、ヘーゲルなど多くの大人の同時代にいたどれほどの人が理解しえたかを考えてみればわかりますね。ほとんどの人は石を投げつけたが、気がおかしいと思っていたんでしょうね。それぐらい同時代の人間が優劣を決めることは難しいということですね。マルクスも哲学者でしょうね。200年で評価は決まりましたね。そういうものです。
お礼
ご回答ありがとうございます。 歴史の評価とは、それほど絶対でしょうか? 哲学者の始めた宗教の隆盛と、哲学者本人の思想の優秀さは必ずしも一致しないように思います。 政治的に利用され、国家試験で丸暗記を要求された思想は放っておいても社会に根付いてしまうのでないでしょうか。 それらの思想が優れていないとは思いませんが、不遇な中で歴史に埋もれた素晴らしい思想も多いのではないでしょうか?
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
哲学者を称して「ミネルバの梟(ふくろう)」ともいいます。ミネルバの森に住んで静かに世の中や、人々の行いを観察し、外観ですね。また静かに考え、内観ですね。何かあったときは出かけるという存在ですね。だから本来哲学者は観察もしますし、考えもするのですね。ミネルバの森は、現代ではどこでもいいんですね。山にこもって滝に打たれてばかりいたのでは、外観できないですし、情報もないですよね。内観はどこででも出来るものなので、外観できる場所にいればいいのです。中国のことわざに「大人(たいじん)は町に住み小人(しょうにん)は山に住むという言葉があります。立派な哲学者や宗教家は町に住むという意味ですね。まだまだなのは山にいるという意味ですね。 宗教家は哲学者でもあるのですね。何かあるから出ている存在ですね。これは内観が強く出ているか外観が強く出ているかの差だけです。 哲学の本来の意味も失われてきてますが、いえることは、便利さだけを追求すれば人間性が失われることは確かですから、自らを見つめる時間をもって、本当の自分を通して周りを見ることも大切ですね。それが哲学の本質ですね。何かを覚えたから賢くなったというものではないのですね、学べば学ぶほど無知の知になるようではだめなのですね。学びながら本質を捉えていく努力をすることが哲学者の道なんですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。 哲学者の道についてはよく分かりました。 でもそれは哲学者だけの道ではなくて、あらゆる学者や一般の人にも当てはまることですよね。 町に出て、人々の営みを観察するのが哲学者の外観であるならば、他の学者の外観は町の人に直接疑問点を聴取したり、アンケートを取ったり、町を測量したり、通行量調査をしたりすることであるように思えるのです。 勿論、バランスよく町全体を見渡す哲学的視点も大切だとは思いますが、そういう役目に相応しいのは、他の学問や実業の分野でそれなりの実績や功績を収めた、衆人が能力を認める人達なのではないでしょうか? 大きなことを成し遂げた人や、大きな苦労に耐えてきたひとが、人生を概観して発する言葉には重みがあると思いますし、医学や物理、化学を修めた人の世界観は聞くに値すると思います。しかしギリシャ時代ならいざ知らず、現代の若者でいきなり哲学を志向するのは正しい方向ではないのではないかと思えます。 宗教はその目的が哲学と共通する、というか宗教も哲学に内包されるということは理解できます。ただ、宗教には一応、独自の様式や修行法、悟りを得るための儀式や(擬似)学問的な体系もあります。是非はともかく、宗教の目指すところが、言語や思考を超越した真理の感得であるならば、それらの方法論も故なしとはしないと思います。むしろ、宗教以外の哲学でそういう「実技」的な試みがあまりなされていない(ように私には見える)ことが不思議なのです。 自然科学がどんどん進歩し、哲学の領域が狭まっている現状で、外観、内観だけしていて、他の学問に資するような成果をあげられるのでしょうか?
- alama
- ベストアンサー率14% (7/47)
哲学者は、学者さん、つまり、考えることを研究する研究員ですね。 その成果を、論文に発表したり、著書に著したりしますね。 これに加え、宗教家は、教祖の教えを広めることをします。 そのためにカネを集めます。 それがために、欲がくらんで本末転倒する宗教家もいますね。 人生を極めようと、‘行’を行う人は、そのどちらにも存在するようです。 ですから、哲学者も自分の考えを広めようと、金を集めだしたら、宗教家に変身する・・・・ 私は、そんなふうに考えています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 欲にくらむひとはどの分野にもいますから別にいいんですが、考えることを研究するとは、具体的に「考える」こと以外に何をするんでしょうか?
- kyoutoukyo
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哲学者だろうと宗教者だろうと、人間的に魅力がなければ評価もされないですよね。 宗教が今ひとつ嫌われイメージが根強いのは、 そういう魅力のある宗教者が日本にいないということもあると思っています。 哲学者を自称している方は魅力ある人が僅かながら存在しているじゃないですか。 だから宗教より哲学に人気の比重がいっちゃうんですよ(笑)
お礼
ご回答ありがとうございます。 宗教とか哲学に魅力ある人が少ないというのは、現代の宗教や哲学そのものに魅力ある人を惹きつける魅力が無いということでしょうね。
- miracle3535
- ベストアンサー率20% (306/1469)
ソフィーの冒険をお読みになった事はありませんか。 哲学の歴史をわかりやすく書かれています。 この哲学から、宗教、化学、自然科学、等々が枝分かれしていきます。 数量化できないものが哲学に何時までも残っているのです。 何故人間は異性を求めるのか。しかも何らかの理由を付けて選別するのか。 人間が正確(数量などで)に把握できないことを、何とか説明し理解させられかで優劣が決まるのではないでしょうか。 私が最近感じている科学?哲学?は、この世の物質はすべて光のエネルギー で造られていると考え始めました。 原子を分解すると、電子、陽子、中性子がありこれらは素粒子から出来ている 事がわかってきました。ではこの素粒子は何から出来ているのか? 私は光エネルギーが何らかの理由で溜めこまれていると考えています。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ソフィー読んでみます。 私は素粒子は半分この世のものでは無いと思います。 物質も無限に分解できるわけではないでしょうから、ミクロの世界でこの世の物差しが通用する、つまり空間と呼べるのは素粒子近辺が限界なのでは無いかと思います。
お礼
ご回答ありがとうございます。 あらゆる学問に哲学的思考が重要であることは、まったくその通りだと思います。 しかし、哲学的思考「だけ」では中々世間に認められないということですね。 実際、現代の大学の哲学科の多くは文学部に属し(きちんと調べた訳ではないですが多分そうですよね)、内容は「哲学」ではなく「哲学史」か、あるいは「哲学」であったとしても文学の一分野、つまり「参考程度」の扱いでしかないように思います。 本当の哲学的思考の最前線は物理や化学や工学の学者や専門家のなかにあるように思うんですが…。