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「神」は必要か?

chapaneseの回答

  • chapanese
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回答No.10

まーちゃん(きゃっ、呼んじゃった)ことmasatoshi-mさん、こんにちは。 今回もchapaの戯言にお付き合いくださいね。 >もっと砕いて言いますと、「人間は生きる上であの世が必要か」ということです。 必要かというのもですが、あの世は事実存在するような気がします。 いったい人は死んだらどこへ行くのでしょうか? 人間だけでなく、この世に生を受けた者は遅かれ早かれ死にます。それはまぎれもない事実ですよね。 その昔、「野辺の煙となって」などと歌にも歌われてましたが、煙と化すのか、大河の一滴と化すのかわかりませんが、なんていうのかな、この世に命を生み出す世界、それがあの世のような気がします。 そして、この世での勤めを終えて、自分の生まれた故郷(源)である世界に戻っていく、そういう繰り返しなんじゃないのかな、って思うのです。 以前も申し上げたかもしれませんが、わたしはどういうわけか子供のころから海(大河)の流れをみると、なぜか心落ち着くというか、ここに戻るんだろうな、という思いを漠然とですが抱いておりました。 (それゆえに五木先生の「人はみな大河の一滴」というお言葉に共感するんです) chapaも「神」という固体というか、そういう存在は ないんじゃないかな、って思うんです。 でも、この世を動かす世界はあるような気がしますね。死んだらそこに戻っていくような気がします。 最近思うのです。 「善き者は逝く」ということを。 自殺するのはあの世のよさを知っているからじゃないのかと。この世=苦しい、あの世=幸福、という図式をその人は知ってしまったからだろうな、と思います。(だからといって決して自殺ということはしてほしくありませんよ) 「善き者は逝く」・・・きっとmasatoshi-mさんのお姉さまもそうだったのでしょうね。 よき者は早くになくなってしまう。それはきっとこの苦しい世に生きていく「図太さ」「しぶとさ」がなかったんじゃないか、いえ、この世にしぶとく生き残ったものは「罪深い」ことなんじゃないのか、って思うこともあるんですよね。 正直わたし自身も長生きしたいな、って思ったことはないです。 だけど、ふと手をあわせることはあります。 誰に対してというわけでもなく、「日々穏やかにすごさせてください」とかつぶやきながら。。 とりあえず、まずはこの辺で。

masatoshi-m
質問者

お礼

>まーちゃん(きゃっ、呼んじゃった)・・・  (*^o^*)・・・ > 必要かというのもですが、あの世は事実存在するような気がします。 いったい人は死んだらどこへ行くのでしょうか?  chapaさんはあの世肯定派なんですね。若い頃の私と違って今の私は(と言っても、まだ私も若いんですからね。誤解なさらないでくださいね。念の為(笑))何の気負いもなくそれを受け止めることができますよ。若い頃の私なら「君、何バカな事を言ってんだ」ぐらいが関の山(笑)。  だって、事実、私如きに「あの世はない」なんて断言できるはずもない。勿論「ある」とも断言できないわけですが(笑)、「あるような気がする」と思ってらっしゃる方々を否定する傲慢さは疾うに振り払ってしまいました。 >(それゆえに五木先生の「人はみな大河の一滴」というお言葉に共感するんです)  うんうん、人は皆、大河の一滴です。本当に大河の一滴なのです。こんなにも豊かな生命のさざめき。こんなにも豊かな生命の流れ。それは本当に怒濤のように流れ、溢れ返っています。私たち一人一人はその巨大な命の流れを形成する、まさに「大河の一滴」なのです。その一滴であれることにどんなに深い畏怖の感情を抱くことでしょう。命の素晴らしさを思う気持ちは今まさに私の全身を満たしています。

masatoshi-m
質問者

補足

>chapaも「神」という固体というか、そういう存在は ないんじゃないかな、って思うんです。  あーっ、chapaさんの漢字の間違い、見ーっけ(ぉぃ)。神様を固めないでね(笑)。固体じゃなく個体ですよね? (#これからは俺もchapaさんとのやり取りでは漢字を間違えられねえぞ。すぐにツッコミが入りそう(笑))  そうですね。個体としての神は存在しないでしょうね。存在すれば笑っちゃいますよね、不謹慎な話ですが(笑)。 >でも、この世を動かす世界はあるような気がしますね。死んだらそこに戻っていくような気がします。  なるほど・・・その感覚は分かるような気もしますね。こうした感覚を現代人の多くは失いかけていますね。命の源、と言うか、命を生み続ける源泉のようなものがあって、命は絶えず循環し続ける「流れ」なのだ、と・・・ >「善き者は逝く」・・・きっとmasatoshi-mさんのお姉さまもそうだったのでしょうね。  う~ん、姉たちが「善き者」だったかどうかについては甚だ自信がありません。(^^; でも、本当に優しい姉たちでした。何で一遍に俺の手から二人とも奪っちゃうんだよ、神様は・・・と思ったこともありました。 >いえ、この世にしぶとく生き残ったものは「罪深い」ことなんじゃないのか、って思うこともあるんですよね。 正直わたし自身も長生きしたいな、って思ったことはないです。  ・・・そうですか、長生きしたいと思ったことはない・・・ う~ん、やばい、私は健康で他人に迷惑をかけないで生きられるなら150歳ぐらいまでも生きていたいと思ってるヤツなんです。(^o^; 私は私の「罪深いこと」は百も承知しておりますので、生き延びれるだけ生き延びたいと、そんなふうに考えています(笑)。もっと若い頃には「夭折希望」の文学青年だったはずなのですが、今は生にしがみつく俗物の中年オヤジに成り果てたのかもしれません(笑)。でも「生きる」ってのは素晴らしいことですよ、掛け値なしに。私はchapaさんの内面世界にもう少し降りることができたら、と思っています。ご回答、有難うございました。

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     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

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    無宗教者です。 様々な宗教、特にアブラハムの宗教を学ぶにつれ、 「そもそも救済は必要なのだろうか?」 という疑問を抱きました。 例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。 しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。 人間は惨めなまま死ねばよいのであり、神による救済など不要ではないかと思うのです。 私はニーチェの永遠回帰を信じているので、人間は無意味に生き、無意味に死んでゆく人生を無限に繰り返し続けるだけだと信じています。 私の人生も無意味ですし、今生きているのも無意味であり、死ぬのも無意味、今ここで自殺するのも無意味です。 したがって、宗教がなぜ「救済」を求めるのか分かりません。 仮に神がいたとして(私は神を信じていませんが、実際にはいるかもしれませんし、それは証明できないことです)、私は神から救済されることなど望まないと思います。 質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

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    宗教は特に研究していないのですが素人ながらに以下のように例えます。 1、神様私は罪深いです。どうかわたしを罰してください。 2、神様私は罪深いです。どうかわたしをお救いください。 信仰に盲目的であるならば、私の場合は1でした。 私に言わせれば、2の「お救いください」を面倒見るのは人間同士の互助のみであり、救いの言葉を探すとしたらお釈迦様なりイエスさんなり、元人間の神様の象徴のみから探る事になるでしょう。 無神論のお釈迦様は人生を謳歌しましたが、イエスさんの方はいけにえになりました。 そもそも人間同士でお互いに和解して助け合えば、神の救いは不要ではないでしょうか。 お互いに愛し合いなさいと言うではないですか。 神に助けを求める「お救いください」は、経験世界のみの事柄を指していて神様の関知しない自由意思の範囲内の事柄ではないでしょうか。 このように考えて神なり仏なりに救いを求めるのは無い物ねだりであり恐れ多い事ではないか。 さらに自然に人間同士の互助により解決すべき問題となるので、宗教や派閥が勃興して互助と和解が成立するまで争い続ける故に、個人の信仰の範疇では収まらない争いの火種ではないか。 はっきり言いましょう。 「お救いください」は、悪意が存在します。 以上のように考えました。 御意見をお待ちいたします。 なお、年末なので毎日ネットに接続するとは限りませんので、お礼の返事は遅れたりぶっきらぼうだったりします。

  • 「神を見てしまった。」ということにどんな意味があるのか?

    「私は神を見た。」という時、それは「私は、この存在のすばらしさの面をあまりにも奥深く垣間見た。 垣間見たにすぎないことも解る。私の感覚にとって神がいないということはあまりにも不自然で納得のできないことといつしかなってしまっていた。」といった神の存在の確かさを感じているという意味合いで使われることがよくあると思う。 私の場合、上記の感性と理性と良心との融合のようなものからの神の存在の発見のようなものが脳の中に いつしか定着してはいますが、 そのこととは別に、実際に神の臨在をあまりにも深く感じたことが、十数回ほどあります。 その時の迫力はすごいもので、思考停止状態となってしまうのですが、何しろ数秒のことですし、 2、3年置きに忘れた頃に、そういう状態がやってきていた(50歳まで)ので、 いったいこれは「何なんだ?!!」という疑問を考える時間はたっぷりありました。 60歳となった今、それは「あまりにもリアルな錯覚」であり、そういう錯覚も人間の脳には存在しうるという結論となり、むしろ病的症状(完全な意味で病気だとか精神の病という意味ではないですが)に近いとう考えとはなっています。 それでもなお、 もし再びその感覚がやってきたら そのような理性で必死に構えていたとしても、 すくなくともその数秒間の間はとてもでないですけど神の存在を実際に感じているというその状態を否定することなんか出来ないような感覚です。 形は無いです。  でもそれは こんな感覚です。 視覚の根拠は 現代の科学ではたぶん網膜に映るレンズの光と神経の作用ということしか解っていないのではないかと思うのですが、 神経があるとどうして「見える」のかは解っていないはずだと思うのです。 脳があり神経があってはじめて見えるのですが、 それはなぜだか解ってないわけです。   その脳と神経に、神を感じる何かが一瞬ですが開発されたのでは??? という感じです。 そうとしか考えようの無い感覚です。 神が私を選んで訪れたとかいった感覚や思考は、それが始まった20歳の未熟な時にも私にはまったくありませんでしたが(それは、たぶん私が子供の頃何度も重い肺炎で死の床をはいずったことがあるため、さすがに未熟な青二才ながらも神を物語的には考えることは卒業していたのだと思います。)、人間の脳には神をこんなふうにキャッチする能力が隠されていてやがては、それが誰の脳の中にも開花するのではないか? という考えはありました。 最初のうちは、けっこう無邪気に その驚愕状態を楽しめました。 ほんの数秒でも 印象はあまりにも強いですから忘れることなんかできないようなインプレッションの刻まれるそれを 「何なんだろう?」と思いつつもけっこう楽しんでもいたのです。  ともかく楽しい思い出ではあるなというふうにです。 でも そのうちに、その瞬間にある疑問を聞いてみようという考えが起こってきてからは、その時が完全に思考停止状態となることが気になりだしました。 あることとは「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 そして、一番最後の50歳の時に、その感覚がやってきたときには、わたしは最大限の恐怖で ギャーーーっ叫んでいました。 苦の存在の因果を深く深く考えたら そうなります。 でも、やがて、神は「いっさい人間を助けたりはしない」ということがようりはっきり私の理性の中に訪れた時、 神が絶対だとかいう論理も消えた時、おそらく神から自立したとき、 恐怖は消えていました。 みなさんは、この体験に どんな意味(意義でもいいです。)があると思いますか? 私の考えも、書いてしまえば、 それは自立すれば、無神論も受け入れることが出来るような信仰が生まれますよ。ということだけです。 「けんかは、もう止めよう。」とうことだけ。 それ以外にたいした意味も意義も 私にとってはですが、残念ながら何もありませんでした。 私のは たぶん錯覚(病気状態)でしょう。 しかし、もし実際に錯覚で無く「神を見た」という能力が人間に開かれたとして、 あなたならどんな意味があると思いますか? へんな質問でごめんなさい。

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