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「神」は必要か?

deadmanの回答

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  • deadman
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回答No.19

わ、面白そう。知ってる方もいらっしゃるようなので混ざりにきました。 僕もこちらのQの多数派の意見と同じです。僕自身、神サマがほんとに居るかどうかは別として、いるとでも考えん事にはこんな人生アホらしくてやってらんねーべよ。みたく、いると仮定して生きた方が精神衛生上より好ましい結果を生むであろうことは確かです。 また、真の意味で「公平な世界」とはどういうものかを考えたばあい、輪廻転生とか死後の世界などという要素を加えれば、非常にきれいで万人を納得させるモデルが作れることもまた明らかです。 ですが、世界のありようをつぶさに見ていくと残念ながら神サマなんて居ないんじゃねーの的な見解に傾かざるを得ません。実際、全知全能の神サマが創られたにしてはこの世界の出来は確かにお粗末に見えます。 ただ、もし神サマが「信仰」という要素を重視していらっさるのなら、あらゆる材料が神の不在を指し示すこの状況はむしろ、必然というか、神サマにとっては都合のいいものでしょう。 もしもある日、どっかの科学者が神の実在を実証してみせたとします。「私の発明した神サマ発見器によって、神サマは100%いると証明されました。突撃インタビューを試みたところ、生前に功徳を積めば天国行きは保証するとおっしゃってます。その後はもう酒池肉林のウハウハです」。それを見て、ああ、じゃあ私も今日から善人になって功徳を積もう、なんて決心したとしてもそれはもちろん、信仰でも何でもありません。保証された利益と引き換えに今、代価を支払っているという意味では単なる商取引と同じです。 僕には信仰心をうんぬんする資格なんてありませんが、少なくとも僕の中では信仰とはそんなもんじゃありません。 いやしくも信仰とは、理屈や証拠で「信じられる」から信じるものではありません。あるかないかもよう分からんような頼りなげなものに対して、あえて「信じることを選択する」という行為を指しているのです。 もしも僕が神サマの立場だとしたら、どっちを向いても神サマなんているハズないわと思わせるような出来事ばかりのこの世の中で、それでもあえて信心深く生きている人を見つけたばあい、それはさぞかしその人を可愛く思うことでしょう。なんかごほうびをあげたくなっちゃうかも。 読み返すとけっこう長文ですね。どうも失礼しました。

masatoshi-m
質問者

お礼

 あ、deadmanさん。お名前からしてあの世の方?(ぉぃ) 私はある意味deadmanさんに嫉妬心を覚えています。だって、○○さんから「是非お会いしたい」とアプローチかけられてる。私もそういう言葉を掛けられてみたい(ぉぃ)。あの人もdeadmanさんの回答常連者だし・・・(←嫉妬の目(コラ)) >また、真の意味で「公平な世界」とはどういうものかを考えたばあい、輪廻転生とか死後の世界などという要素を加えれば、非常にきれいで万人を納得させるモデルが作れることもまた明らかです。  うんうん、そうですね。私もかつて、そのように考えていた時期がありました。でも人生斯くの如し、少しもきれいでなく、万人を納得させることもなく、不条理極まりない人生が、あるいは世の中が、未だ私の前に投げ出されるばかりなのです(笑)。 >もしもある日、どっかの科学者が神の実在を実証してみせたとします~~保証された利益と引き換えに今、代価を支払っているという意味では単なる商取引と同じです。  うわっ、おもろ、ホントにおもろ。なるほど、ここまで頭の良い方だったんですね、deadmanさんは。だから女性ファンが多い(ぉぃ)・・・ 実に鋭い考察ですね。言うことなし!!! >もしも僕が神サマの立場だとしたら、どっちを向いても神サマなんているハズないわと思わせるような出来事ばかりのこの世の中で、それでもあえて信心深く生きている人を見つけたばあい、それはさぞかしその人を可愛く思うことでしょう。なんかごほうびをあげたくなっちゃうかも。  今度生まれ変われるとしたら私はdeadmanさんに生まれ変わりたいかも(ぉぃ)。 >読み返すとけっこう長文ですね。どうも失礼しました。  いえいえ、とんでもない。長文でもなんでもないですよ。deadmanさんの文章ならこれからでもずっと読んでいたい(笑)。(でも「ライバル」ってこともホントだからね(ぉぃ))  何だかホンワカした気分になってしまいました。心癒されるご回答、有難うございました。ライバルの戦いはこれからもつ・づ・く(←バカ) 

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     1. 時空間ないし世界という存在・なかんづく人間という存在に先行するものは あるか?  2. ない。あるかどうか 人間には 分からない。分かるか分からないかが分からない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと》は カミという言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としてのあり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身であると。  6. 世界をつくったチカラがあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無神論である。  8. このような《自然神 / 創造神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分からないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによって(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉で〔特には人間が〕引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの――特に有神論の場合における――神とそのおのれの内面において しばしば向き合うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動態として―― 信仰とよばれる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界ないし世の中の〔しばしばかなしい〕あり方に沿って むしろ対立しこの神を否定しようとする場合もある。この種の神との関係は むろん 無神論となる。これは・これも 《無い神とわれとの関係》を内容とする信仰である。  (無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》と証明しなければならない)。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ理由も必然性もない。風車に向かって突撃するようなものである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・またおのおのわが心なる《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち足りている。(と推測される)。  あらたに問う必要を感じました。ご教授ください。

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  • 《神》は 補助線である。

     1. 時空間ないし世界という存在に――時間的にも考え方の上でも――先行するもの は あるか?  2. ない。つまり あるかどうか 人間には分からない。分かるか分からないかが分か らない。  3. そこで《かみ》という補助線を じんるいは考え出し これを引いた。  4. 《分かるか分からないかが分からないこと――これを〈非知〉とよぶ――》は カミ という言葉で交通整理して捉えあおうと。  5. 世界はそれを生み出すチカラがあったとしても それは いわゆる《自然》としての あり方であるしかないと捉えるなら 自然が神となる。  5-1. 山・川・海などなどの霊としての神々は それぞれ分身である。分身も神ので あると言っても それぞれ《神の依り代》と呼ばれる補助線である。  6. 世界をつくったチカラが別にあるとする場合 これは 有神論のひとつでありその 中でも 創造者としての神を立てている。  7. そのようなチカラは ないとすれば――すなわち《無い神》を立てるなら―― 無 神論である。  8. このような《自然神 / 創造主神 / 無神》に分かれたとしても すべては――分か らないところを補っているのであるからには―― 補助線として用いられている。  9. つまり神は 有る神と無い神とに区分され 有る神についてはさらに人びとによ って(その言語によって)いくつかの名がそれぞれつけられている。  10. このようにさまざまに種類分けされる《神》も すべては そのように一定の言葉 で――けっきょく人間が――引いた補助線であるしかない。  11. ただし人びとは この補助線の向こうの神を意識するときにはおのれの内面に おいて この神と(つまりは 神という補助線についての己れの意識と)しばしば向き合 うことを成す。このような《神とわれとの関係》は――ひとが生きているかぎり生きた動 態としてあり得て―― 信仰とよばれる。  11-1. 信仰は 神を意識している限りで 人間のただの思念である。と同時に そ の神は もともと《非知なるナゾ》であるなら 人間のコギトを超えている。《非思考の庭》 として ひとの自然本性の内にあると想定される。  11-2. ゆえにしばしば人びとは このナゾのことを《霊》とも呼び 《アートマン(霊 我)》や《ブッダター(仏性)》や《アニマ・ムンディ(世界霊魂)》などとして呼びならわして いる。  12. 補助線としての神に向き合ったとき 世界のあり方を見ればそれはむしろ 神と して立てているナゾの内容とは――人間の持つ《のぞみ》という考え方において――対 立していることが少なくない。よってこの種の神を否定しようとする場合がある。むろん  無神論となる。  12-1. これは・これも 《無い神〔としての非知なるナゾ〕とわれとの関係》を内容と する信仰である。無神論者は無神論も信仰であると言われたくなければ 《神は無い》 と証明しなければならない。  13. じんるいは 神によって(神の所為にして)互いに相いあらそう必要もなければ 理由も必然性もどこにもない。非知なのであるから。風車に向かって突撃するようなも のである。  14. 神は その呼び名としての多様性をふくみつつ・また人びとそれぞれわが心な る《非思考の庭(信仰)》における動態としての多様性を容れつつ すこやかに独り満ち 足りている。(と推測される)。  ご教授ください。

  • 神は 何でないか?

     神を想定する手続きについて述べつつ 神は何でないかを次のように明らかにした文章をたたき台とします。  批判・修正・評言などなど 自由なご見解をお示しくださればありがたいです。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《信じる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《信じる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の領域に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神の作用にとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。この非経験の場が 非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。これをそのまま受け取ったというその行為を《信じる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。  8. どちらも互いに同等の《信じる》行為である。非思考の場のナゾを 思考の場でその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の場は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス ブラフマン アミターユス マハーワ゛イローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。  10. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  11. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  12. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて思考の場に降りて来ている。この仮りの代理の場をとおして 非思考の場を望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。  13. だから《おしえ》は 思考の場に属しており それが非思考の場の神だということはあり得ない。なのに教義を信じるという言い方をする間違いが見られる。    14.エトセトラ。エトセトラ。  15. まとめて 神は何でないか?   A. 神は 人間の精神ではない。   ――精神だとすれば 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。   B. 神は 宗教ではない。宗教を信じるという表現は まちがいである。   ――宗教とは 教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力にかかわ    っている。これを・つまりは要するに人間の存在および能力のすぐれたと    ころを けっきょくは《信じる》というおかしなこととなる。     つまり A. 神は 人間の精神ではないと言わねばならない。

  • 神は完全ではありえないのでは?

     キリスト教等の一部の宗教では、神は完全なる存在と見做されている場合があるようですが、果たして神は完全な存在と言えるのでしょうか?  もしも、完全な存在というものが存在するとしますと、それはその存在のみで自己完結した存在でなければならないと思います。  己のために、何か己以外のものを必要とする様な存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外のものを必要とする事は無い筈です。  又、完全な存在である以上、他の存在に影響されるなどという事も無い筈です。  又、完全な存在が自己完結している以上、己以外の存在に対して敢えて働きかけたり、逆に己以外の存在から何らかの影響を敢えて受けたりする必要はない筈です。  又、必要性の無い事をする存在は、完全な存在とは言えないと思います。  ですから、完全な存在は、己以外の存在に対して何かを働きかける事は無いと思います。  つまり、完全な存在というものが存在したとしますと、それは人間の役に立つ事は一切なく、人間に対して害のある事を行う事も無く、自ら動く事も、人間を含めた他の存在によって、何かの影響を受ける事も無い訳で、只存在しているというだけの存在であり、人間にとっては、何の役にも立たないものの、邪魔になる訳でもない、まるで道端の石ころの様な価値の無い存在という事になると思います。  しかし、キリスト教を始め、多くの宗教においては、神は世界を創造し、人間を始めとする全ての生き物を作り出し、人間を導く存在だとされています。  又、上記のものとは異なる性格を持つ神を信仰している宗教においても、神は人間との間に、何らかの関わりを持っている場合が殆どです。  もし神が完全な存在であるとしますと、神にとって、その様な行為は全く行う必要のない事の筈ですから、不要な事を行っている神は不完全な存在だという事になるのではないかと思います。  この「神は不完全ではないのか?」という命題に、「キリスト教等の『神は完全なる存在』としている宗教」や「その様な宗教から1歩離れた視点から考察している哲学者」は、それぞれ、どの様な考えから、どの様な結論を得ているのでしょうか?  もし、御分かりになるのでしたら、その考えと結論は、どういった立場の何という人物の考えなのかという事も、併せて御教え頂けたら幸いです。

  • 神に意志はあるか

     1. まづ 神は無いという信仰をお持ちのみなさんには むしろ一般論として 神には《人間に対して意志を見せるつもりはない という意志》がある。とお伝えしましょう。  2. ふつうは われという一人の主観の内において〔のみ〕 神はわれにその意志を示すことがある・・・とわが主観が思ったとしても 誰からも後ろ指をさされるということはない。と考えられる。  3. 神とわれとは タテの関係であり われと他のわれとは ヨコの関係である。  4. タテの関係が 信仰とも呼ばれる《非思考の庭》なる動態である。   ヨコの関係は 《思考の緑野と感性の原野》とでマジハリ(交通)をおこなう社会的な人間関係である。  5. ちなみに ヨコの関係なる場に 信仰から脱皮した宗教が棲息している。   宗教は 非思考から思考に移っているので 言わば《信仰という蝉の抜け殻》である。オシヘとは そういうカスである。  6. で要するに 神に意志があると見るのは 非思考の庭なる信仰にあっての話であり その場合のみである。  7. もし 《われ ‐ われ》なるヨコの関係において 神には意志があると成ったとすると たとえそうだとしても 直接の意味は生じない。タテとヨコとは 直接のカカハリを持たない。タテは 非思考なのだから。  8. ヨコの関係において神について話をしてもよいでしょうが それは基本的に神についての感想やまた思想としての話に限られる。 神論や信仰論〔ましてや宗教〕といった搾りカスと 生きた神や生きた信仰とは 別です。  9. つまり 人間どうしのヨコの関係では 神に意志があるとたとえ主観が見ているとしても その神の意志は お呼びではない。   フクシマは 神罰だといった夢物語にしかなりません。  10. それでも――つまり いま述べた話の全部をもってしても それでも――わが主観なる非思考の庭にわが固有の時を憩いながら過ごすとき 神は この世界のすべてのものごとをつうじて われにつねにメールを送って来てくれていると思ったとしても 何の問題もないでしょうね。(読めるか どうかの問題がありますが)。  ご批判を歓迎します。(率直に考えるところにしたがって 応答します。つまり反批判をもおこないます)。

  • 人間には「救済」が必要なのか

    無宗教者です。 様々な宗教、特にアブラハムの宗教を学ぶにつれ、 「そもそも救済は必要なのだろうか?」 という疑問を抱きました。 例えば、パウロは、私は惨めな人間であり、誰が私を救ってくださるかといっていますね。 しかし私は、なぜ人間が惨めであってはいけないのか分かりません。 人間は惨めなまま死ねばよいのであり、神による救済など不要ではないかと思うのです。 私はニーチェの永遠回帰を信じているので、人間は無意味に生き、無意味に死んでゆく人生を無限に繰り返し続けるだけだと信じています。 私の人生も無意味ですし、今生きているのも無意味であり、死ぬのも無意味、今ここで自殺するのも無意味です。 したがって、宗教がなぜ「救済」を求めるのか分かりません。 仮に神がいたとして(私は神を信じていませんが、実際にはいるかもしれませんし、それは証明できないことです)、私は神から救済されることなど望まないと思います。 質問ですが、「救済」はなぜ必要なのですか? なぜ人間が惨めであってはいけないのですか?

  • 神について何故ひとは哲学しないのか?

     せめて神についての勘違いをただしておくことまでは出来るのではないか?  これは 日本人に限るのではないと考えますが 次のような思い違いが 目立ちます。  A. 神は 精神であるという勘違い。   ――勘違いでなければ 精神を持つ人間がそのまま 神であることになる。  B. 宗教を信じるという矛盾した言い方。   ――宗教とは いっぱんに教祖・教義・教団を前提とするゆえ 人間の能力    にかかわっている。      これを・つまりは要するに人間の存在および能力の一般をけっきょくは    信じるというおかしなことになる。  C. オシエを信じるという間違い。   ――オシエは 人間の言葉で表わされている。ゆえに人間の身体=精神的    な能力とその行為成果であるに過ぎない。      やはり 精神主義的な人間信仰となってしまう。  D. 要するに 神を人間の理性や想像力によって 表象しうると思っている間違い。   ――表象し得たならば その対象物は 人間の行為成果である。想像力の    産物であるに過ぎない。人間のつくった神でしかなく いわゆる近代人の    《人間の能力》信仰となる。  ひとことで言えば 偶像崇拝という勘違いが多く見られるのではないか。理念や観念としての偶像(つまりアイドル)がそこら中に見られます。  偶像は偶像として――つまり信仰内容としての《おしえ》を取ってみても それは それとても神の知恵についての仮りの表現でありそれとして観念の偶像であるのですから その偶像は偶像(仮りの表彰)として――扱えばまだしもいいのであって しかるに偶像そのものを 後生大事にする片向きがあるように映ります。        *  同じく神は 何でないか? について考えます。  1. じんるいは それぞれの言語に分かれてではあるが どこでも《信じる》ということばを持つことになった。またその対象は 言葉として広く言えば《かみ》である。  2. この《しんじる》という言語習慣は 科学万能と見られる時代になっても消えないで残っており じっさい使われている。  3. では ならば この《しんじる》という概念を定義せよ。  4. もし固有の意味がある概念だとすれば それは 《かみ》を 人間の能力によって分かるか分からないかが分からない非経験の場に想定する場合であり その場合のみである。  5. ということは 非経験だとすれば 精神のハタラキにとっては 思考の場ではなく 非思考の場であるとなる。言いかえると 神は 人間の精神ではない。  6. 精神を超えたところの非経験の場が 人間の精神(つまり 身と心)に接している。ないしそれをつらぬいている。あるいは そこにやどる。  この非経験の場が わが心なる非思考の庭となるかのごとく人は 神のおとづれを聞いたという場合が起きる。  これをそのまま受け容れたというその行為を《しんじる》と名づける。むろん 主観の問題として言っていることである。  7. その神をさらに細かく《存在する神》として受け容れたなら 有神論としての信仰になり そうではなく 《無い神》として受け容れたなら 無神論としての信仰となる。どちらも《しんじる》である。  8. 神は存在すると見ても存在しないと捉えても どちらも互いに同等の《信じる》行為である。  非思考の庭なるナゾを 思考の緑野においてその《有る・無い》という概念で仮りに代理として受けたかたちが そのまま二つに分かれて現われただけのことである。非思考の庭は 経験事象としての有る・無いを超えている。  9. ○ (ワタシなる存在における自然本性の成り立ち) ~~~      非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。直感・ヒラメキ)    ____________________    思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市)    感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)    ____________________   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  《心の明け》というのは 心がいろんな名のあらゆる神に対してあるいは《無い神》に対しても閉じられていないことである。  10. 有神論の神は さらにわざわざ名前がつけられる。ヤハヱー クリストス アッラーフ ブラフマン アミターバ マハーワイローチャナ等々。どの名前をつけようが・そして《無い神》と称しようが 神はすべて同一である。全体としての一である。  と言うより 神が人間のつけたその名によってそれぞれ違っているということがあり得ない。  11. 特定の名前をつけた神について その説明やらあるいは信仰者の神体験などなどやらとして たしかに《物語》が語り出されてくる。  12. むろん物語も 神についての仮りのしるし(つまり人間のことば)を用いての代理表現として編まれている。その文字どおりを神と採ってはならない。文字は殺し 霊は生かす。  《神》という言葉じたいも ただの代理物であり 仮りの表現である。  13. 《むさぼるなかれ》という戒めを そのまま神だとすることは いただけない。文字は殺し 霊は生かす。  物語も同様である。言葉・文字をとおして表現されたものは すべて非思考の庭から思考の緑野に降りて出て来ている。この仮りの代理の場をとおして 神のナゾを望み見なければならない。その展望の茶店は わが心に成った非思考の庭である。    14. だからオシエは 思考の緑野に属しており それが非思考の庭の神だということはあり得ない。なのに教義や宗教を信じるという言い方をする間違いが見られる。    15.エトセトラ。エトセトラ。  16. まとめて 神は何でないかまでは人間が明らかにしうるのではないだろうか。  さらなる探究へと 思いっきり自由なご批判をあおぎます。

  • 神に慈悲を願い、取りすがる事は信仰の自由の範囲内で完結するのか

    宗教は特に研究していないのですが素人ながらに以下のように例えます。 1、神様私は罪深いです。どうかわたしを罰してください。 2、神様私は罪深いです。どうかわたしをお救いください。 信仰に盲目的であるならば、私の場合は1でした。 私に言わせれば、2の「お救いください」を面倒見るのは人間同士の互助のみであり、救いの言葉を探すとしたらお釈迦様なりイエスさんなり、元人間の神様の象徴のみから探る事になるでしょう。 無神論のお釈迦様は人生を謳歌しましたが、イエスさんの方はいけにえになりました。 そもそも人間同士でお互いに和解して助け合えば、神の救いは不要ではないでしょうか。 お互いに愛し合いなさいと言うではないですか。 神に助けを求める「お救いください」は、経験世界のみの事柄を指していて神様の関知しない自由意思の範囲内の事柄ではないでしょうか。 このように考えて神なり仏なりに救いを求めるのは無い物ねだりであり恐れ多い事ではないか。 さらに自然に人間同士の互助により解決すべき問題となるので、宗教や派閥が勃興して互助と和解が成立するまで争い続ける故に、個人の信仰の範疇では収まらない争いの火種ではないか。 はっきり言いましょう。 「お救いください」は、悪意が存在します。 以上のように考えました。 御意見をお待ちいたします。 なお、年末なので毎日ネットに接続するとは限りませんので、お礼の返事は遅れたりぶっきらぼうだったりします。

  • 「神を見てしまった。」ということにどんな意味があるのか?

    「私は神を見た。」という時、それは「私は、この存在のすばらしさの面をあまりにも奥深く垣間見た。 垣間見たにすぎないことも解る。私の感覚にとって神がいないということはあまりにも不自然で納得のできないことといつしかなってしまっていた。」といった神の存在の確かさを感じているという意味合いで使われることがよくあると思う。 私の場合、上記の感性と理性と良心との融合のようなものからの神の存在の発見のようなものが脳の中に いつしか定着してはいますが、 そのこととは別に、実際に神の臨在をあまりにも深く感じたことが、十数回ほどあります。 その時の迫力はすごいもので、思考停止状態となってしまうのですが、何しろ数秒のことですし、 2、3年置きに忘れた頃に、そういう状態がやってきていた(50歳まで)ので、 いったいこれは「何なんだ?!!」という疑問を考える時間はたっぷりありました。 60歳となった今、それは「あまりにもリアルな錯覚」であり、そういう錯覚も人間の脳には存在しうるという結論となり、むしろ病的症状(完全な意味で病気だとか精神の病という意味ではないですが)に近いとう考えとはなっています。 それでもなお、 もし再びその感覚がやってきたら そのような理性で必死に構えていたとしても、 すくなくともその数秒間の間はとてもでないですけど神の存在を実際に感じているというその状態を否定することなんか出来ないような感覚です。 形は無いです。  でもそれは こんな感覚です。 視覚の根拠は 現代の科学ではたぶん網膜に映るレンズの光と神経の作用ということしか解っていないのではないかと思うのですが、 神経があるとどうして「見える」のかは解っていないはずだと思うのです。 脳があり神経があってはじめて見えるのですが、 それはなぜだか解ってないわけです。   その脳と神経に、神を感じる何かが一瞬ですが開発されたのでは??? という感じです。 そうとしか考えようの無い感覚です。 神が私を選んで訪れたとかいった感覚や思考は、それが始まった20歳の未熟な時にも私にはまったくありませんでしたが(それは、たぶん私が子供の頃何度も重い肺炎で死の床をはいずったことがあるため、さすがに未熟な青二才ながらも神を物語的には考えることは卒業していたのだと思います。)、人間の脳には神をこんなふうにキャッチする能力が隠されていてやがては、それが誰の脳の中にも開花するのではないか? という考えはありました。 最初のうちは、けっこう無邪気に その驚愕状態を楽しめました。 ほんの数秒でも 印象はあまりにも強いですから忘れることなんかできないようなインプレッションの刻まれるそれを 「何なんだろう?」と思いつつもけっこう楽しんでもいたのです。  ともかく楽しい思い出ではあるなというふうにです。 でも そのうちに、その瞬間にある疑問を聞いてみようという考えが起こってきてからは、その時が完全に思考停止状態となることが気になりだしました。 あることとは「なぜこの世にこれほどまでの苦しみがあるのですか?」ということです。 そして、一番最後の50歳の時に、その感覚がやってきたときには、わたしは最大限の恐怖で ギャーーーっ叫んでいました。 苦の存在の因果を深く深く考えたら そうなります。 でも、やがて、神は「いっさい人間を助けたりはしない」ということがようりはっきり私の理性の中に訪れた時、 神が絶対だとかいう論理も消えた時、おそらく神から自立したとき、 恐怖は消えていました。 みなさんは、この体験に どんな意味(意義でもいいです。)があると思いますか? 私の考えも、書いてしまえば、 それは自立すれば、無神論も受け入れることが出来るような信仰が生まれますよ。ということだけです。 「けんかは、もう止めよう。」とうことだけ。 それ以外にたいした意味も意義も 私にとってはですが、残念ながら何もありませんでした。 私のは たぶん錯覚(病気状態)でしょう。 しかし、もし実際に錯覚で無く「神を見た」という能力が人間に開かれたとして、 あなたならどんな意味があると思いますか? へんな質問でごめんなさい。

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