• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:大和言葉の書き言葉について)

大和言葉の書き言葉について

このQ&Aのポイント
  • 大和言葉が,元々日本人が話していた言葉で,漢字が導入された後は,崩してひらがなを作ったり,漢語を表現の一つとして取り入れたりしたことは分かりました。
  • ひらがなが作られる前までは,筆記には漢文(中原の言葉)を使っていたのでしょうか。政府機関などで書記の必要がある場合は,書記の担当者は,話し言葉を漢文に翻訳して書いていたのでしょうか。あるいは,ローマ字で日本語を書くように,むりやり漢字を大和言葉にあてはめて書いていたのでしょうか。
  • 朝鮮語も同様の発展をしたと考えられるのでしょうか。15世紀にハングルが作られるまでは,記述にはもっぱら漢文が使われていたと思われるのですが,漢語を朝鮮語に無理やり当てていたのか,文章を書くときだけは漢文に翻訳しながら書いていたのでしょうか。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.3

    #1です。補足です。 1。  筆記には漢文(中原の言葉)を使っていたのでしょうか。     漢文(中古音)と日本語の両方だと思います。 2。  政府機関などで書記の必要がある場合は,書記の担当者は,話し言葉を漢文に翻訳して書いていたのでしょうか。     『古事記』などは#2さんがおっしゃるように、序は中国語、本文は日本語ですから、書記が中国語ネイティブなら自国語、日本語ネイティブのバイリンガルなら「話し言葉を漢文に翻訳して書いた」と思われます。 3。  あるいは,ローマ字で日本語を書くように,むりやり漢字を大和言葉にあてはめて書いていたのでしょうか。     それもあると思います。いわば「文字の無い」社会に始めて「書く道具」を導入する段階ですから、いろいろ試行錯誤があり、未だに8世紀の日本語母音が8つだ、いや5つだ、と騒いでいる始末ですから当時はいろいろ意見が交錯したものと思われます。 4。  また,朝鮮語も同様の発展をしたと考えられるのでしょうか。15世紀にハングルが作られるまでは,記述にはもっぱら漢文が使われていたと思われるのですが,漢語を朝鮮語に無理やり当てていたのか,     これは#1で申し上げたように、南北に分かれていても言語は一つ、という現在とは違って、いろいろ事情が、例えば『魏志』では高句麗、沃沮、わい(三ずいに歳)、辰韓、弁韓、馬韓などの言語がはなされており、土地の(=中国語以外の)言語を書く、という伝統も無かったので「漢語を無理矢理当てて」書いたものは、下記のように、ありません。     http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/siru06.html 4。  文章を書くときだけは漢文に翻訳しながら書いていたのでしょうか。     下記のように特権階級の両班は、書く言葉には漢文だけを使っていました。     http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB 5。  大切なのは、識字階級の人がほとんどいなかったこと、政府中央部に帰化人や二重言語の日本人が重用されたこと、標準語が無く多くの言語や方言があったこと、詩や地名、さらに民間伝説などを残すため中国語とは異なる日本語を「書き残そう」とする努力があった、ということでしょう。     固有の文字が無いのに、8世紀に遡る日本語の姿を残していただいたということは、たいへんありがたいことだと思います。

9URO
質問者

お礼

補足ありがとうございます。 そうですね。本当にありがたいことだと思います。 ここのところ,文書を書く際に,日本語の表現があるものは,できるだけ漢語を使わないようにしようと心がけているのですが, 表現が易しくなったと言われています。 こういう国語教育もあったほうがいいかもしれません。

その他の回答 (2)

  • toast5
  • ベストアンサー率37% (239/638)
回答No.2

古事記は天武天皇の勅命で編纂されたわけですから、バリバリの政府文書と言えると思います。 Wikipediaによると古事記の序文は「撰録帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉」と、漢文です。 「欲流後葉」を大陸の発音で読んでたのか、 「後葉に流(つた)へむと欲(おも)ふ」と訓みくだしていたのかは知りませんが。 本文中の例えば「天地」は「あめつち」と読むんだそうで、これは訓読みです。 伊邪那岐命と書いていざなぎのみことと読ませるのは、「の・みこと」は訓読みでしょうね。 「伊邪那岐」は漢文でも訓読みでもなく、 ローマ字で日本語を書くような、当て字です。万葉仮名と呼ぶんでしたっけ? というわけで答えは「いろいろ」じゃないでしょうか。

9URO
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 やはり発展過程から考えると,話し言葉としての大和言葉があり, 他国語としての漢文が導入されてから,いつしか漢字で大和言葉を表現する工夫が生まれた, そのうち,その漢字をくずしてひらがなを作った, という流れが現実的ですかね。

  • SPS700
  • ベストアンサー率46% (15297/33016)
回答No.1

1。  そこで質問ですが,ひらがなが作られる前までは,筆記には漢文(中原の言葉)を使っていたのでしょうか。     漢文と大和言葉の両方だと思います。 2。  政府機関などで書記の必要がある場合は,書記の担当者は,話し言葉を漢文に翻訳して書いていたのでしょうか。     3の例外を除いて、そうだと思います。 3。  あるいは,ローマ字で日本語を書くように,むりやり漢字を大和言葉にあてはめて書いていたのでしょうか。      ちょうど「ローマ字」が、日本語を書くにも、ヨーロッパの言語を書くにも使われるように、漢字も「音」だけを使って(万葉仮名はその例)(万葉集や記紀歌謡のように)日本語を書く場合と、「音」と「意味」の両方を使って、(日本書紀の地の文のように)中国語で書く場合があったと思われます。 4。  また,朝鮮語も同様の発展をしたと考えられるのでしょうか。      そうだと思います。 5。  15世紀にハングルが作られるまでは,記述にはもっぱら漢文が使われていたと思われるのですが,漢語を朝鮮語に無理やり当てていたのか,文章を書くときだけは漢文に翻訳しながら書いていたのでしょうか。     単に中国語で書いたものと思われます。その理由は多分(1)朝鮮半島には複数の国と複数の言語があり、(2)中国語のみが「書き言葉」として価値があり、地の言葉は「書き留める価値が無い」と考えられていたのではないかと思います。     文字化の過程では(日本も朝鮮も)中国からの帰化人や、中国からの帰国子女(僧侶)などのバイリンガルを登用していたのではないかと思います。

9URO
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 導入した国の工夫と言うのは,オリジナルの国の工夫をしのぐものがありますね。 少しイメージがつかめてきました。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう