- ベストアンサー
戦国大名で「頼」のつく名前の大名家は滅ぶ?
武田勝頼 土岐頼芸 豊臣秀頼 三大名とも、「頼る」 という字がついていましたが、滅びました。 これは偶然なのでしょうか?ご教授お願いします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
その他の回答 (3)
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1978/11764)
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1978/11764)
- あずき なな(@azuki-7)
- ベストアンサー率16% (1978/11764)
関連するQ&A
- 秀頼が家康に恭順したら、豊臣家は小大名としてでも存続できたでしょうか?
秀頼が家康に恭順したら、豊臣家は小大名としてでも存続できたでしょうか? 義昭が信長に恭順したら、足利家は小大名としてでも存続できたでしょうか? 信長が義昭を自分の手で殺してしまわなかったことを不思議に思います。 あれほど残酷なことをやった人なのに・・・
- ベストアンサー
- 歴史
- 関が原の戦い後、秀頼が所領を削られたのはなぜ?
関が原の戦い後、豊臣秀頼の所領が65万石に減らされました。豊臣家のための西軍でしたが、西軍の総大将は毛利輝元だったと思います。 なぜ豊臣秀頼の所領が減らされたのでしょうか?減らされたとき抵抗はなかったのですか? 家康も豊臣家のために戦うと言う事で味方の大名を集めたのではないのですか?それなのに豊臣家の所領を削れたのはなぜですか? 豊臣秀頼が所領を大幅に減らされてもしょうがないくらい西軍に肩入れしてたからだと思うのですが、そうだとするといろんな事情はあるにせよ、家康に味方した秀吉子飼の大名たちは、自分たちが勝つと秀頼の所領が減らされることは予想できたと思うのですが? それとも65万石しか相続してなかたのですか?
- 締切済み
- 歴史
- 算学大名の有馬 頼徸について
算学大名の「有馬 頼徸」にういて調べています。 和算の得意な大名だったそうですが、 ・大名、という多忙な職にありながらどのように研究していたのか ・Wikipedia以上に書かれていない研究内容 について知りたいと思っています。 何か詳しく載っている本、サイト等ご存知でしたらご教授お願いします。
- ベストアンサー
- 歴史
- 三國志・戦国で好きな群雄・大名 変ですか?
タイトル通りなのですが自分の好きな群雄・大名挙げると変に思われます そんなに変でしょうか? 三國 袁紹・袁譚・呂布・袁術 戦国(大名・独立勢力の時のみ) 浅井長政・柴田勝家・武田勝頼・北条氏政・上杉景虎・龍造寺隆信・陶晴賢 総合的に見てある程度の強さは有るがどこか人間的な弱さがあり、それでも強敵に立ち向かってる所に好感持てるようです 逆に史実で彼らを破った時の相手勢力はどこか全体的に人間的に強すぎる印象を持ってしまいあまり好意を持てない所があります 特に歴史シミュレーションでは割と難易度高いですが その勢力もしくはその配下でプレイして史実で彼らを破った勢力を討ち滅ぼした時に とても溜飲が下がる思いをするのですが、よく変と言われます これってそんなに変な趣味なのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 武田勝頼と戦国を生き抜く武将の知恵
「流れをつかむ日本史」(山本博文著)の「武田氏の滅亡」の項(下記)を読んでいて、疑問が生じました。 記 天正8年(1580)、信長は、途中講和をはさんで10年にわたって敵対してきた石山本願寺を屈服させ、畿内全域をほぼ支配下におきました。 次に信長がめざしたのは、甲斐の武田勝頼の攻撃でした。 天正9年3月、勝頼の前線基地だった遠江高天神城が、徳川家康によって落城しました。このため、これを支援できなかった勝頼から国人たちが離反していきます。これを好機とみた信長は、家康と北条氏政に、武田領に攻め込むよう命じ、嫡子の信忠を武田攻めの総大将としました。 南信濃の武田方の城将は、城を捨てて逃げ、あるいは服属していきました。救援のため諏訪に着陣していた勝頼は、新府城に引き返します。このとき、7、8千ほどもいた軍勢が千にも足りないほどに減少していました。遠江では、重臣の穴山信君が裏切って家康に服属しました。勝頼の弟仁科盛信が守備していた高遠城は、徹底抗戦しますが、信忠によって落城します。 勝頼は、天目山を望む田野というところに陣屋を建てて籠もり、滝川一益の軍勢に発見され、周囲の家臣たちが最後の奮戦をする中、切腹して死にます。 戦国大名は、一門や譜代の武将のほか、その地域の武士団である「国人」を家臣団に編成していました。彼らは、主家が傾くと、主君を見限り敵に降ることになります。このときの武田家も同様で、周囲を敵に囲まれ、抵抗できないと思った国人たちが離反し、勝頼が田野に籠もったときには、従う武士がわずか41人に減っていたということです。 以上 上記の文章で気になったのが、「これを支援できなかった勝頼から国人たちが離反していきます。」ということです。調べてみますと、WIKでは、勝頼にも事情はあったようです。それに、「城中にいた軍監の横田尹松は、援軍を送らないように、とする旨の書状を本国に送っている。」とありますので、勝頼の判断が必ずしも間違っているわけでもないように思います。なのに武田家は滅んでしまった。 教えていただきたいのは2点です。 1 これは勝頼に、「時の流れ」、「地の利」が味方しなかったし、「運がなかった」と理解するしかないのでしょうか???それとも、勝頼に、「国人」たちに裏切られないほかの良い「知恵」、「方法」は、あったでしょうか??? 2 戦国時代の大名が、部下から裏切られない、あるいは裏切られても、それを克服できる「方法」、「知恵」というものがあったら教えてください。具体例でも、一般論でも構いませんし、「克服」ということにもいろいろあるかも知れません。
- ベストアンサー
- 歴史
- 工場の社員はなぜスルーされるのか?仕事の真剣さやコミュニケーションの問題か
- 工場の社員の意識問題。会社改善に対する関心の欠如が仕事にどのような影響を与えるのか
- 工場の社員の問題。コミュニケーションや仕事への取り組みについて考える
お礼
回答ありがとうございます。力説ありがとうございます。偶然でしたか。ありがとうございました。