• 締切済み

戦国大名の側室

少し前の質問で側室の居ない大名の話が出ていたので、逆に側室を多く持っていた大名などを知りたく質問させていただきました。 知っている限りでは「豊臣秀次」と「伊達稙宗」が多いとのことですがもっと側室の居た人はいますか?

みんなの回答

回答No.3

No1ですが、徳川家康の時代には大奥という制度は確立されていません。 それに家康が江戸城に居た期間は短いし、造営中でした。 家康は三河時代(豊臣政権下)に既に側室がいましたし、大阪、伏見、 江戸、駿府と各拠点に側室をおいていたとされています。 ちなみに2代将軍徳川秀忠は側室1名(長男・長丸生母)、御落胤1人です。

hirarno36
質問者

お礼

再度の回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
  • hazu01_01
  • ベストアンサー率31% (341/1067)
回答No.2

豊臣秀吉 13人  浅井長政の娘(淀殿)、前田利家の娘(加賀殿)、京極高次の姉(松の丸殿)、 織田信長の娘(三の丸殿)、蒲生賢秀の娘(三条殿)、織田信包の娘(姫路殿)、 名護屋経勝の娘(広沢局)、喜連川頼純の娘、成田氏家の娘、山名豊国の娘(南の局)、 高田次郎左衛門の娘(香の前)、某(南殿)、三浦能登守の娘(備前殿)

hirarno36
質問者

お礼

すごい豪勢なメンバーですね。成田氏家の娘は何かエピソードがあったような気がしますが、忘れてしまいました。山名豊国の娘も・・・大手柄ではないでしょうか。 回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。
回答No.1

徳川家康 約16人

hirarno36
質問者

お礼

あ、言われてみればそうですね。徳川家は将軍家であるので(大奥があるので)できれば将軍家以外で教えてくださるとありがたいです。説明不足ですみません。 早速の回答ありがとうございました。

全文を見る
すると、全ての回答が全文表示されます。

関連するQ&A

  • 戦国大名について

    戦国大名についての授業していているのですが、織田信長にもしかすると勝てたかもしれない人(豊臣秀吉とその家来以外で)がいるらしいんです。 一体誰なんでしょう? だれか教えて下さい。

  • 生母の実家を攻めた戦国大名っていますか?

    自分の生母の実家を、自発的に攻めた戦国大名っていますか? 伊達政宗の例もありますが、自発的とは言い難いので、伊達政宗以外の戦国時代の大名(大名に限らず)の、質問の趣旨にあたるエピソードがあれば、ご教授願いたいです。

  • 大名の結婚

    以前にも同じような質問があったらごめんなさい。 江戸時代の大名の結婚制度についての質問です。 江戸時代は大名の結婚は武家諸法度によって定められ、幕府の承認がないとだめですよね? では、大名の側室はどうだったのでしょうか? 幕府は大名の側室もいちいち承認していたのですか? 側室がいると言うことは大名も国元に大奥を持っていたのでしょうか?

  • 戦国大名の最大版図

    タイトル通りなのですが、戦国大名の最大版図の石高がどれくらいになったのかが大変興味があります。 関ヶ原後の石高はかなり有名なのですが、その前に最大版図を迎えた武将も多いと思います。 人数が多いですが下に書いてある武将の石高を教えて頂けると幸いです。 ・伊達政宗 ・北条氏直 ・上杉謙信 ・上杉景勝 ・武田信玄 ・徳川家康 ・豊臣秀吉 ・織田信長 ・柴田勝家 ・明智光秀 ・長宗我部元親 ・毛利元就 ・毛利輝元 ・島津義久 人数が多くて申し訳ありません。 よろしくお願い致します。

  • 大名の江戸屋敷での暮らしぶり(伊達藩)

    徳川幕府は大名から人質をとって、隔年四月ごとに国許と江戸を参勤交代させて統制と経済力を削(そ)いだのは知ってますが、元和二年(1616)頃の伊達家をクローズアップした場合、具体的にはどんな感じだったのでしょうか?。 (1)前田藩の正室は江戸上屋敷。側室は国許とか。それゆえにお家騒動の遠因になったとか。伊達藩は正室と忠宗はむろん側室(猫御前)と秀宗も江戸住まいを強要されたのではないのでしょうか?。ご存知の方は書き込みお願いします。 (宇和島藩の藩祖になる秀宗と猫御前は側室なれど、政宗の嫡男であり豊臣政権では伏見屋敷に住んでいた) (2)側室も江戸屋敷にいた場合、正室と同じ上屋敷なのか中屋敷なのか。 特に寛永年間の前の元和二年当時ならば、数多い側室を江戸に住まわせた場合、屋敷は三つでは足りなかったのではないか。 ただ香の前(秀吉との碁の勝負で縁)は、仙台城内にも置かなかったとあり、江戸か国許でも別宅だと推察できます。 五郎八郎姫すら離縁後は仙台郊外に住まわせたとか。 ご存知の方、出来れば立証となる資料。あるいは映画や小説でも構いません。

  • 大名の子

    将軍・大名の子は側室腹が多く、正室の子が家督を相続するというケースはかなり少なかったようです。 正室は死別・離別しない限り1人しか置けず、側室は複数もてたということもあるのでしょうが、妻を1人しか持てないのは現代人も同じことです。 もう少し、正室の子が嫡子になっても良さそうなものですが、やはり大名の姫や公家のおひいさんは子を産むには体が丈夫ではなかったのでしょうか? それとも、外戚の影響力が増すのを望まなかった家臣や奥の年寄・上臈が、意図的に正室が妊娠しないように動いていたのでしょうか。 ご意見を賜れれば幸甚です。

  • 側室制度について  皇族への再導入とか

    大学4年生女子。理系です。 江戸時代は大名とか身分の高い男性には側室がいたそうです。 正室はそれなりの身分の人がなっていたみたいですが、側室は普通の身分でもなりえたみたいです。 そういう側室になった女性って、どんな気持ちだったと思いますか? もちろん世継ぎの子供を作って、正室以上の権力を握ってやろう、と上昇志向の人もいたとは思うけど、大半の側室の人って、今でいうところの愛人みたいな、ただの男性の性のはけ口みたいな感じだったのかなあ、とか。奄美大島だと、鹿児島からきたお役人さんに、村の有力者が自分の娘を島嫁として差し出した、とかいう話も聞きます。 天皇制とか、側室制度がないと続きえないのかなあ、と思いますが、今はないそういう側室になった女性ってどんな気持ちだったんだろう、もちろん私は嫌ですが。 また、皇族に側室制度がまた復活したら、そういう側室になりたいって人、どれくらいいると思いますか。もちろん私は嫌ですが。

  • 戦国時代の女性の呼称について。

    戦国時代の大名や武将の正室・側室の呼び方で 山手殿、村松殿、七曲殿、淀殿といった呼び方がありますが、この呼び方の由来が分かりません。伊達政宗の側室・猫御前のように、容姿や仕草から付けたか、淀殿の別名・西の丸殿のように、住んでいる場所が由来となって付けられたのでしょうか? また、「~殿」「~御前」「~姫」の呼称は、女性の出自の違いで呼び方が変わっているのですか? 駄文で申し訳ありませんが、分かる方いらっしゃいましたら教えて下さい。 宜しくお願い致します。

  • 東日本の大名は、弱い?

    東日本の大名は、弱い?島津や毛利のような渋とさ、根強さが、ないと思う。織田、豊臣、徳川は東日本に含めません。徳川は、関東で幕府を開きましたが、出身地の三河は京都寄りで、東日本側の秩序外。 今川、武田、北条、上杉、伊達。 特に、今川は弱いことが判明すると、あっさり滅亡。武田も四方から攻め込まれ、内応者続出で滅亡。寄り合い所帯で過大に見えていただけで、いったん弱いと判明すると、あっさり滅亡。降伏。上杉、伊達、戦わずして豊臣に降伏。 島津や毛利じゃ、内部崩壊で滅亡とかありえんし、情勢判断力や渋とさが違うよな。 甲陽軍鑑で、武田信玄や山本勘助マンセーして事跡捏造したが、九州の松浦氏に、偽書だってばらされるし。 伊達政宗にいたっては、東北制圧してないのに、東北の覇者とか捏造。天下も狙えたとか法螺。 上杉が織田に勝ったとかいう手取川も捏造らしいし。。

  • こんな(○△□大名)がいるよ・・・

    みなさんお元気ですか? 今回の質問は(○△□大名)です。 冬の寒い時期には鍋料理をしますよね、必ずと言っていい程仕切る(鍋大名)が居ると思います。 そこで、みなさんに質問です。 どんな、(○△□大名)が身近にいますか?私の身近には、人を傷つけておいてから、彼是と言い訳する(言い訳大名)がいます。(身勝手大名とも言えるかな) 色々と面白い(○△□大名)を教えて下さい。