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平安時代に大内裏に民衆は入れたのでしょうか?
伴大納言絵詞を見ると大内裏の中にある応天門が燃えた時に、大内裏の正門である朱雀門の中に入り身分の上下無く民衆が見ている姿が描かれています。 質問です。 (1)天皇の居る内裏は警備が厳重だったと思いますが、その外側にある大内裏の全ての門に警備があったのでしょうか? (2)色々な役所がある大内裏の中へ日常も民衆が入る事が出来たのでしょうか? (3)仮に入れたとしたら身分の低い者が大内裏の中をウロウロしていたら、やはり咎められるのですか? 以上よろしくお願いします。
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(1)大内裏の全ての門に警備があったのでしょうか? 文献では、衛士府・衛門府の四等官つまり管理職の定員は定められておりますが、実際に警備を担当した衛士の門ごとの定員などは定められていないので、全ての門に警備があったのか否かは不明としか言いようがありません。 また、仮に、衛士の門ごとの定員などが記された文献が発見されたとしても、実際にその通りに人員確保と配置がされる保障のない時代ですし。 ただ、衛士は数百人の規模だった時もあるようなので、それだけいれば全ての門に最低1人は配置する程度の体制はとれそうですね。 (2)色々な役所がある大内裏の中へ日常も民衆が入る事が出来たのでしょうか? (3)仮に入れたとしたら身分の低い者が大内裏の中をウロウロしていたら、やはり咎められるのですか? 民衆の概念によります。役所で奴隷労働?をしたり、役所に物資を搬入する庶民などを民衆に含めるのなら、大内裏の中には民衆がうろうろしていた筈ですね。 身分に関係なく、部外者は当然、本来は立入禁止であったと推測されますが、(1)の警備がされていなければ、現実問題として勝手に入れてしまいますね。それに、塀が崩れてもなかなか修理されないまま放置されていたようですし。 清少納言の「枕草子」87段(能因本91段)には、女房たちが庭先に侵入してきた乞食尼?をからかって面白がった‥の話が出てきます。残念ながらどこの庭先なのかよく判らないのですが、清少納言が仕えた一条天皇皇后定子の局の庭先であったとすれば、御所の中ですよね。独裁者?の藤原道長にその気があれば、御所の警備はいくらでも厳重にできたはずですが、現実はそうではなかったのでしょうか。
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- Verhalten
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大きく分類します。 民衆は萎烏帽子(なええぼし)を被っています。 貴族は立烏帽子、侍は侍烏帽子を被ります。 萎烏帽子は数名見える程度です。 これは庶民と言うより貴族の使用人が入ったと考えるべきでしょう。 火事場に駆けつける群衆の絵図の多くが萎烏帽子です。 これも貴族の指示で動いているように見えます。 現在の皇居も道路で繋がっています。 門には数名の警察官がいます。 入ろうとすると止められます。 「○○様の御知り合いですか?」と丁寧に聞かれます。確認を取り、違えば大変です。
お礼
ありがとうございます。 貴族の使用人なら用事があれば入れそうですが やはり庶民は入れなかったようですね。 参考になりました。
- あずき なな(@azuki-7)
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大内裏に入れるのは四位以上の官位を賜った 殿上人だけです つまり天皇に拝謁できる身分の人の事です 伴大納言絵巻は後世の作品ですからね 1 検非違使別当と蔵人当がいましたね 建礼門 中和門 朱雀門は蔵人当が警備していました 内裏の警備は藤原北家が担当(のちに近衛と名乗ることからもわかるとおり)です ですから藤原家の当主のさじ加減で入れたり入れなかったり ? たとえば仲良しの公家がちょっと入りたいからって言えば入れてあげたり?ぐらいはしてたかもしれません 2民衆は入れません 3当然です 大内裏って何か知ってますか?天皇の家ですよ 平民風情が入っていい場所ではないです
お礼
ありがとうございました。 私も入れない気がしていましたが 確認したくて投稿しました。 参考にさせていただきます。
お礼
大変参考になりました。 全ての門を警備するのは大変なようです。 庶民は入れないようですが、入ろうと思えば入れたみたいですね。 でも、見つかってしまえば大変でしょう。 これで疑問がとけスッキリしました。 ありがとうございます。