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平安時代の国司

平安時代の国司は中央の下級貴族が派遣され、任期は4年だったと本に書いてあるのですが、そもそも、どういう基準で選ばれたのでしょうか? 1度選ばれた国司が再び同じ国の国司に就任することは可能だったのでしょうか? また、国司は世襲できたのでしょうか?

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回答No.2

世襲ではありません。 基準は特になしです。 国司(守)になるには有力者にいろいろ付け届けをして、いろんな御用をみずから率先して行うのが一番です。 たとえば、火事で有力者の邸宅が焼けた場合、屋敷を建設を請け負ったり、調度品を贈る。あとは、没落貴族の屋敷を買い取って贈呈する。 財力を有力者に使う→有力者の口利きで大国の守になる→いろいろがんばって財産をつくる→その財力で有力者に贈り物をする→(最初に戻る) こんなサイクルなので中流貴族の中である程度決まってくるのではないでしょうか。 あとはNo,1さんがおっしゃっているように、有力者の女房に口をきいてもらうのもあります。女房にいろいろ付け届けをしたり、愛人になって主人である有力者にいろいろ話をしてもらうこともあります。 紫式部の父藤原為時は下国である淡路守になったため、「私はこんなに教養があるのに下国の淡路守なんて・・・」という内容の漢詩を一条天皇に送り、これを詠んだ天皇が気の毒なので大国の守にしてやってほしいと道長にいって越前守になったというエピソードが「紫式部日記」あります。こういう手もあります。

kenta-kun
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  • huyou_77
  • ベストアンサー率22% (308/1368)
回答No.1

 国司の世襲はなかったと思います。少なくとも、ある程度、官僚制度が機能していたときはされていなかったと思います。  連続での就任については分かりませんが、一度は報告や引継のために京都に帰還したはずです。  基準は、ある程度の決まりはあったかもしれませんが、鶴の一声で変更可能な物だったようです。  紫式部の日記に、「大国の国司に着けるように願い出ていたがだめだった」と父親が嘆く記述があります。そこで、紫式部が藤原道長と話をしたところ、その願いが通ったと言った内容でした。  その時の条件が、道長の娘定子に紫式部が女房として仕えることだったはずです。  以上、参考にしてくださいね、これで失礼します。

kenta-kun
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