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平安時代・大和守に任命される事は敬遠されていた?
こんにちは、いつも回答者の方にはお世話になっております。 平安時代の中流以下の家柄の官人達は、富裕な財産を築く機会に恵まれる<国司>に憧れ、どこかの<国の守>や<国の介>に任命されようと努力を惜しまなかった、と学びました。 しかし例外もあって<大和守>だけは敬遠された、というような文章を以前、どこかで読んだ気がするのです。大和国は京都=山城国に隣接し行き来も非常に楽そうですし、国の等級でも大国の筆頭です。まさかそんな国の守になるのを嫌がる理由は無いと思うのですが・・・。興福寺、という単語もあったような気がしますが記憶が定かではなく、ネットで検索しても良く分かりませんでした。 私が何か勘違いしているのだろうと思いますが、気になって仕方がありません。どうか平安時代の地方政治についてお詳しい方、教えていただければ幸いです。 よろしくお願いいたします。
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大和国には守護が置かれず変わりに興福寺が其の認にあたっていた 興福寺は藤原氏ゆかりの寺で国主のような役割をした時期も あった、したがって大和守は自由に政務を行うことが 出来ず敬遠されていたといわれているそうです
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- tachiuo
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手元に『国司補任』(続群書類従完成会)という書物がありますので、ざっと調べてみました。平安後期に至るまで、大和守の任命例が結構ありました。中には上流貴族の例もありましたが(この場合は遙任でしょう)、名を欠くような、文字通り無名の者もいました。 興福寺というのは鎌倉・室町幕府の守護職(しゅごしき)のことではないかと思います。
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ご回答ありがとうございます。おお『国司補任』!最寄の大学図書館に行けば閲覧できるのですが・・・大和の守は一応任命されているのですか。身分の高低問わず、ということは他国と似たようなものですね。
お礼
ご回答ありがとうございます。僧侶が守護の代行をしていたって、物凄い特別扱いじゃないでしょうか??(鎌倉時代はまるきり門外漢でよく分かりませんが。他国でもそのような例がありますでしょうか?) 藤原氏の全盛時代ならいざ知らず、時代が下がっても強大な権力を誇っていたなんて・・・それは守に任命されても敬遠したくなりますよね。