「君が代」裁判に関する素朴な疑問

このQ&Aのポイント
  • 2011年5月の「君が代」裁判について、疑問をもったので、質問してみる事にします。倫理的な問題なので、哲学の問題だと考えました。
  • 判決文の全体の流れは、(1)国旗と国歌の掲揚は当たり前であり、慣例的・法的に認められている。(2)日の丸と「君が代」は歴史問題とは関係がないし、諸外国も認めている。(3)上告人の精神的苦痛は個人的な問題であり、マイノリティの意見を排除するのは憲法に反する。(4)上告人は過剰な迫害を受けていないし、国歌の斉唱は公共の福祉に適う。(5)国歌斉唱は憲法や思想・良心の自由を侵さない。(6)裁判官の補足意見では、国際マナーを持つためにも自国の国旗と国家への敬意が必要だということが述べられている。
  • 裁判の判決には疑問があり、(i)「ある国」が「君が代」を敬意を欠いた態度で蔑視したのか、それとも歴史性を問題としているのか。(ii)自国の国旗と敬意を払うことが国際マナーの身につくとは限らないのか。(iii)「君が代」は国際的に認知されていないのか。(iv)判事の述べ方が正確であるべきではなかったのか。(v)国際社会で「君が代」は認められており、歴史問題も解決しているのか。(vi)教員の意見が裁判の前提を失わせているのではないかという疑問があります。
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「君が代」裁判に関する素朴な疑問

2011年5月の「君が代」裁判の最高裁判決について、疑問をもったので、質問してみる事にします。倫理的な問題なので、哲学の問題だと考えました。 まず判決文の全体の流れは、次のようなものでした。(1)国旗を掲揚し、国歌を歌うのは当たり前の事である。これは慣例的にも、法的にも認められている。(2)日の丸と「君が代」の意義は諸外国も認めるところであって、歴史問題とは関係がない。(3)上告人が精神的苦痛を訴えるのは、あくまで個人的な問題である。(4)上告人の意見がマイノリティであるからと言って、排除するのは憲法の精神に反する。(5)だが過剰な迫害を受けているわけではなく、全体の秩序を維持することが公共の福祉に適う。(6)よって国歌の斉唱を命ずる事は、憲法十九条、思想・良心の自由を侵す事にならない。 上の(2)を補うものとして、裁判官の補足意見が次のようについています。この引用箇所が微妙な問題なので、読飛ばさず、ご検討していただけたらと思います。 >国際社会においては、他国の国旗、国家に対する敬意の表明は国際常識、国際マナーとされ、これに反するような行動は国際礼譲の上で好ましくないこととされている。先年、ある外国における国際サッカー試合の前に慣例により「君が代」が演奏されたとき、その国の観客が起立をしなかったということがあり、これが国際マナーに反するとして我が国を含め国際世論から強く批判された事があったのは記憶に新しい。他の国の国旗、国歌に対して敬意をもって接するという国際常識を身につけるためにも、まず自分の国の国旗、国家に対する敬意が必要であり、学校教育においてかかる点についての配慮がされることはいわば当然であると考える。 これは次のような事を言っているのでしょうか。 A : 「ある外国」が国際マナーを分かっていないので、「君が代」を蔑視した。 B : この外国のような事に我が国はなってはならない。 C : 自国の国歌を斉唱させる事で、子供たちを教育するべきだ。 このように読むと、私は次の疑問を感じるのです。 (i)「ある国」 はマナーが分かっていないという理由で、「君が代」を蔑視したのだろうか。いや、そうではなくて、「君が代」の歴史性を問題と看做し、意図を持って敬意を払わなかったのではないか。その証拠に、「ある国」は他国の国歌に対しては敬意を払っている。 (ii)自国の国旗と国家に敬意を払ったからと言って、国際マナーが身に付くとは言えないのではないか。 というのも、「ある国」は日本以外の国には敬意を払っているし、加えて、自らの国の国旗掲揚と国歌斉唱はちゃんと行うからである。 (iii)上記の疑問を踏まえれば、子供たちに 「君が代」を斉唱させる事で国際マナーが向上するという結論は我田引水であって、議論として不十分ではないか。マナー云々の問題ではなく、要するに、「君が代」が国際的に未だ認知されていないのではないか。 こうした疑問は細部に過ぎず、審議全体に影響を及ぼすものかどうかは分かりません。しかし敢えて、さらに考えるを進めると次のような事になります。 (iv)判事は本当ならば、次のように述べるのが正確ではなかったのか。「『君が代』は未だに国際的に認知されている言いがたい状態にあり、実際、サッカーの試合でも、ある国が敬意を欠いた態度を取るという残念な行為があった。しかし『君が代』を日本の国歌として国際社会に認めさせるためにも、国内で認識の統一を図るべきであり、特に子供に教育する必要がある」と。 (v)しかし、上記がむしろ正確であるとすれば、国際社会で「君が代」は十分に認められており、「君が代」をめぐる歴史問題は存在しないか・解決しており、斉唱を拒否する教員の意見が特殊であるという認識から出発した裁判の判決は、結論の前提を失う事にならないか。 (vi)拒否した教員の側が、むしろ裁判官よりも「ある国」に対する事実を捉えている事になるのであれば、判決は正確な事実に基づいて、正義を行使したと言えなくなるのではないか。 ※1 私個人は「君が代」について、賛成も反対もこの質問で表明するものではありません。司法の議論が精密であってほしいと思うだけであり、それが質問の動機です。 ※2 この質問は個人批判でないので、判事の名前は控えます。また判決の文面でも「ある国」と匿名になっています。

noname#159801
noname#159801

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • D-Gabacho
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回答No.3

まず、「君が代」をめぐる歴史問題は存在しないか解決しているということが判決の前提になっている、という質問者さまの認識には、いささか誤解があるように思います。 手元に資料がありませんので、判決内容については質問者さまの要約をもとにお答えするのですが、(2)日の丸と「君が代」の意義は諸外国も認めるところであって、歴史問題とは関係がない、というのは、歴史問題が存在しないということではなく、「日の丸」「君が代」の国旗・国歌としての地位は、歴史問題が存在するかどうかとは関係がない、という意味だと思います。少なくとも(2)の文章からは、歴史問題が存在しないとか、解決済みだといっているようには読み取れません。 また、「ある国」が日本の「君が代」についてのみ選択的に不敬な態度をとり、その他の国の国歌には敬意を払っているのは、「ある国」が国際的マナーを理解していることの証だとされていますが、この点についても、一部誤解があるように思います。 たしかに「ある国」の人々は、国際試合の開始前のセレモニーなど儀礼的な場面で、他国の国旗・国歌に敬意を払うという国際的マナーを、一応は理解しているようですが、歴史問題や政治上、思想上の問題などとは無関係に、常にあらゆる国に対して儀礼的な態度を崩さないのが国際的マナーである、という点については、理解できていないと思われます。マナーといものは、気に入らない相手なら放棄して良い、というものではありません。 自国の国旗・国歌に敬意を払ったからといって国際マナーが身につくとはいえないというのは、まさにその通りですが、敬意を払いたくない理由があれば、儀礼的な場面であっても、意図的に不敬をはたらいてかまわない、というのでは国際マナー以前にマナーそのものを根本的に誤解してしまいます。マナーというものを理解させるために、儀礼的場面において「日の丸」「君が代」に敬意を払わせることは、教育上必要といえるでしょう。 なお、わたしは、「ある国」の人々は「君が代」そのものがもつ歴史性を問題にしていたわけではなく、靖国神社参拝などに見られる、日本の政治家や日本政府の歴史認識を問題にしていたのではないか、と思います。本当のところどうなのかは、その国の人たちに聞いてみないとわかりませんが、もし、日本が戦後、国旗・国歌を「日の丸」「君が代」から別のものに変更していたとしても、国歌そのものに対する怒りや抗議ではなく、日本政府、日本そのものに対する怒りや抗議の表明だったのなら、変更された国歌に対しても同じ事態が起きたでしょう。

noname#159801
質問者

お礼

鋭いご指摘、ありがとうございます。資料はウェブ上にあり(最高裁のサイト)、簡単に閲覧出来ます。しかしリンクを貼ってしまうと、判事の名前がわかります。これが躊躇われました。 > 歴史問題が存在しないということではなく、「日の丸」「君が代」の国旗・国歌としての地位は、歴史問題が存在するかどうかとは関係がない、という意味だと思います。 >(ある国は)常にあらゆる国に対して儀礼的な態度を崩さないのが国際的マナーである、という点については、理解できていないと思われます。マナーといものは、気に入らない相手なら放棄して良い、というものではありません。 まず「関係」という言葉の捉え方ですが、確かに、私の解釈の他に、そういう解釈がありますね。No1の方がおっしゃる、儀礼行為における歴史問題の考え方と共通していると思いました。 しかしこの「儀礼」の捉え方ですが、日本独特のものではないでしょうか。つまり国際的に通用する考え方でしょうか。ナチスを連想させるものが国際交流の場で排除されるという例を考えれば、儀礼であれば何事も許されるとは言えないと思うのです。 >もし、日本が戦後、国旗・国歌を「日の丸」「君が代」から別のものに変更していたとしても、国歌そのものに対する怒りや抗議ではなく、日本政府、日本そのものに対する怒りや抗議の表明だったのなら、変更された国歌に対しても同じ事態が起きたでしょう。 国歌を変える選択肢もあっただろうと私はNo1のお礼欄で述べましたが、確かに、国歌を変えても同じことが起きたかもしれませんね。となると、日本としては儀礼行為の重要性を強調する他ないということになりそうですね。その儀礼の論理が国際的にどこまで通用するもので、また日本はそれを認めさせるために、どの程度、主張してよいものなのか、改めて知りたいと思いました。

noname#159801
質問者

補足

◎質問全体の補足 ご意見をいただいて明らかになった結果をまとめます。裁判の根幹となる判断の論理は、三段論法に整理すると、次のようになります。 1あらゆる儀礼は形式に過ぎず、形式に歴史問題は介入しない。 2「君が代」斉唱は儀礼的な行為である。 3故に「君が代」問題に歴史問題を持ち出すのは筋違いである。 1の大前提が成立しさえすれば、これは筋が通っています。しかし、大前提 が日本国内で慣例的に認められる可能性があるとしても、国際社会で通じる理屈であるかは、十分に明らかではないと私は思いました。 たとえばナチスを連想させるものは、いかなる理由であろうと排除されます。また宗教的儀礼を国家施設に持ち込む事を禁止している国もあります(フランスはイスラム教徒の女の子がスカーフを身につけて公立学校に登校する事を認めない)。儀礼であるからと言って、常に許される訳ではないのです。大前提を認めるのは、日本独自の感覚ではないか?と私には思えます。 となれば、不起立者は国際感覚を有していたのであって、日本の独りよがりを指摘しただけとも思えるのです。もちろん「ある外国」の見解だけを最重要視する訳には行きません。しかし1の前提が局所的に日本にしか当てはまらない理屈であって、普遍的な説得性をもたないのだとすれば、法の最高機関の提示する論理としては、杜撰ではないかと私は不安に思うのです。 「儀礼」という一言でその存在根拠を自明にするとか、外国に国内の事に口出しされる言われがないなどと治外法権を持ち出すのではなく、国際社会に認知を求める形で「君が代」の議論が行われるべきだ、という感想を私は持ちました。国歌一つ認知させる論理を日本はもたないのかもしれないと、寂しくも思いました。これでは、日本は国際社会で孤立してしまうでしょう。ともあれ、先の大前提の検討は、また改めて行うべき事かもしれません。

その他の回答 (4)

  • D-Gabacho
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回答No.5

No.3です。世界の中で「ある国」ただ一国だとしても、その国の政府が公式に「君が代」を拒否するのであれば、それが道理にかなっているかどうかは別として、それなりの重みをもちますが、「ある国」の競技場内の観客の態度、それも何十年にもわたってずっとというのでなく、突発的に出たに過ぎない態度が、「君が代」の国歌としての地位をどうこうするほどの重みをもつとは考えられません。 首相の靖国神社参拝や、政治家・政府高官の歴史認識をめぐる発言に対して、公式に抗議・非難するのを常とする一部の隣国も、「日の丸」「君が代」に対しては、何の批判もしておらず、むしろ、儀礼上の観点から、過激な行動に出る一部の国民に自制を呼びかけていたように思います。「日の丸」「君が代」が日本の国旗・国歌であり、国際的なマナーにしたがうなら、それを儀礼の場において尊重しなければならないということは、「ある国」もどの国も、公式に認めているといえるのではないでしょうか。

noname#159801
質問者

お礼

ありがとうございます。次のようにお考えを受け止めました。 ・まず烏合の衆と国家の態度を分けて考えるべきであり、 ・国家が直接批判して来ない限りは、儀礼行為として是認しているとみなすべきである。 簡単に言えば、サッカーで観客がブーイングしたとか、無視したなどでは、国家の意思表明と看做しえないという訳ですね。では、次の例はどうでしょうか。たとえば朝鮮労働党機関紙である労働新聞は、大阪府の「君が代起立条例」を批判したと報じられています。 >最近、日本の大阪府が地域内の教職員が『君が代』を奏楽する際、起立することを義務づける条例を公布した。これは尋常ではない動きであり、日本の反動どもの軍国主義を鼓舞するための暴挙以外の何物でもない。……教職員を通して、純真な学生の頭の中に軍国主義の歴史観、復讐心を植え付けようとするものだ(11年6月29日付)。 私は労働新聞がどの程度、その政府の見解を伝える存在なのか、よく知りません。しかし、これにたいして橋下氏は「一介の自治体の長が北朝鮮という国から批判の対象になり、光栄だ」と述べたそうです。労働新聞の記述では、君が代=軍国主義の象徴とみなされているのですし、また橋下氏に他国から批判されたという認識があるということも明らかです。要するに、他国から歴史問題を批判されても意に介さないという事です。この調子で、国家の直接的な抗議意見とみなせるかどうかという重みの差こそあれ、探せばいくらでも事例は見つかると思います。 こうした観点から再び考え直すと、サッカーの事例は烏合の衆と切って捨てられるものとも思えません。国家としては国益を考えるから黙っているとしても、民意は抑えきれるものではないでしょう。サッカーは他国民の意思が噴出した象徴的な例と看做すべきであり、それは外国の本音を反映したものとして、重みを持つのではないでしょうか。

回答No.4

No.2です。 補則を読みましたが、質問者様の言う「外国」とは中国・韓国・北朝鮮くらいなもので、他の国ではあのように失礼な扱いを受けたという事例を私は見た事がありません。 逆に言えば、あくまでも一部の国の行為であって、世界の他の全ての国もそうで有るかのように言われる根拠が私には分かりません。

noname#159801
質問者

お礼

ご投稿、実は我が意を得たりというところです。裁判官の記述を真に受ければ、国際情勢を把握するデータの中に「ある外国」が入っていないことになります。「ある外国」の見解はマイノリティであって、捨象してよいという論の運びになっています。 おっしゃるように、それらの国の見解が、国際情勢の全てだとは言えませんし、世界の中ではたった三か国あまりです。しかし考慮に入れないわけに行かないと言えるのではないでしょうか。非常に当然すぎて、笑われてしまうかもしれませんが、名前を挙げてくださったどの国も、同じ民族であり、かつ地理的にも近いのです。経済協力もしていかなければならないはずの国々です。 日本を囲む隣国の国々の見解をマイノリティと看做してバッサリ切ってしまうという態度を、一国の法の番人がとってよいのでしょうか。国際政治評論家が持論を口にするなら話は別でしょうけれども、法の番人であり、しかも最高機関ですよ・・・事の重みは全く違います。

回答No.2

ある国とは、数年前のサッカーアジア杯での中国ですよね。 「君が代」や「日の丸」が国歌、国旗と認められていないと言う論点は何処にあるのでしょうか?それとも何処かにこれが国旗、国歌ですって届けなければならないのでしょうか? この前に終わったロンドンオリンピックにおいて、日本の金メダルに対し、どの会場においても礼を失した行為は認められませんでした。 質問者様の言うような行為は、中国や韓国では良くある行為です。 反日教育を進めている両国では、仕方が無いのかも知れないと思っています。 だが、いかなる歴史的過程があろうと、スポーツのような平和的な催しでのあのような行為は、その国の民度の低さを表すと考えます。両国ともにオリンピックの開催国になった事もあるのに・・・。 日本人の中にも「君が代」「日の丸」をないがしろにする様な輩は不幸にも存在します。 けれど、自国を代表する歌や旗を認める認めない等と言っているのは日本人くらいなものかと思うと、とても複雑です。 教育する立場の教師自体が、「君が代」「日の丸」を認めていないというのはとても不幸な事だと考えます。 こんな教育体制では、愛国心は育まれないのではと懸念してしまいます。

noname#159801
質問者

補足

>「君が代」や「日の丸」が国歌、国旗と認められていないと言う論点は何処にあるのでしょうか? 外国に敬意を払ってもらえないという事例を考えれば、「国際的に」認められていないと言えるでしょう。

  • mixxxx
  • ベストアンサー率75% (3/4)
回答No.1

私も質問者さまと同様に、国歌斉唱や国旗掲揚の是非について 個人的な信条を述べるつもりがないことを前置きします。 (i) 国歌に対する礼儀とは一種の慣例であって、そこに恣意的な判断は存在しませんし 個人的な感情や解釈、相手との関係性はすべて排除されなければ成立しません。 たとえば「気にくわない」との理由で挨拶を拒否すれば「礼儀」は形骸化します。 すなわち「歴史性を問題と看做し、意図を持って敬意を払わなかった」のであれば それは「マナーが」なんたるかを「分かっていない」ということです。 (ii) 「敬意を持つかどうか」と「敬意を払うかどうか」は個別の概念です。 なぜなら「敬意を持っている」から「敬意を払う」という関係だけでなく 「敬意を持っていない」が儀礼上「敬意を払う」という関係も成立するからです。 推進派が主張する国旗掲揚と国歌斉唱の「敬意」は 国旗や国歌への敬意を知らなければそれらのマナーは存在しないという考えです。 (iii) 君が代の斉唱でマナーは身につきません。なぜならこの場合のマナーは 日常生活におけるさまざまな儀礼を含んだ広義の「マナー」を指すからです。 これは賛成派・反対派にかかわらず多くの人たちが混同しています。 君が代の斉唱、もしくは国旗掲揚で身につくであろうマナーは 国歌や国旗に対してどのように振る舞うべきかという「マナー」です。 もちろん国際的な認知度はまったく関係ありません。 (iv) 繰り返しますが国際的な認知度はこの問題にまったく関係ありません。 質問者さまの考察が仮に正しいとすれば小国の国歌・国旗に非礼を働いても 国際的な認知度を理由に許されることになります。 国歌・国旗の定義はその国が公式に定めているかどうかであり 国際的な認知度や他国の感情によって左右されるものではありません。 そしてこの原則の上に国家・国旗へのマナーが成立しているのです。 (vi) この裁判は自国の国歌・国旗を公務員が個人的な思想信条で拒否できるのか すなわち公務員の身分と職務規定が問題になっています。 判決における「国歌の斉唱を命ずる事」は一般の国民が対象ではなく 原告が公務員であることを前提として発せられたものです。 教員が仮に「事実を捉えている」としても判決に関係はありません。 質問者さまはこの裁判を「倫理的な問題」と捉えているようですが それは原告の教員たちが歴史問題を拒否の理由に持ち出しているからであって 結果として裁判官も歴史認識に触れざるを得なかったというだけのことです。 たとえば自動車の速度違反の裁判で 被告が「急いでいた」「ボーッとしていた」と証言しているのであれば 裁判官も法律に則って粛々と裁判を進め判決文を書くでしょう。 しかしながら被告が自動車文明のあり方や自動車産業の欺瞞を主張し それを自己の正当性に掲げれば裁判官はこの問題に触れざるを得ないでしょう。 その場合、裁判は自動車文明のあり方を争うために行われているのでしょうか? 原告が公務員であるからこそ「国歌の斉唱を命」じられたのであり この命令が妥当であるか、すなわち公務員の身分と職務規定が裁判の争点です。 原告が歴史問題を持ち出したからといって争点は変わりませんし だからこそ裁判官は判決の主文ではなく補足意見で言及しているのです。

noname#159801
質問者

お礼

丁寧にありがとうございます。応答させていただきます。 >(i)
国歌に対する礼儀とは一種の慣例であって、そこに恣意的な判断は存在しませんし
個人的な感情や解釈、相手との関係性はすべて排除されなければ成立しません。 そもそも儀礼行為の場で、歴史問題は関係ないということでよろしいでしょうか。これは判決の主文にも読み取れますね。しかし回答者様は、日本国内のみならず、国際交流の場においても同じであるとお考えと見ました。しかし私は、このような意見を初めて聞きました。それが国際的なスタンダードであるというのであれば、根拠を示していただけないでしょうか。この点が分かれば(ii)と(iv)のご指摘もすんなりと理解出来ます。 しかし今の段階では、ご持論を展開なさっているだけとしか私には受け止められません。というのも私はいくつかの反例を上げられるからです。例えばナチスを連想させるものは、国際交流の場から閉め出されるのではなかったでしょうか。ナチスは極論ですが、形式的な儀礼であるから、あらゆるものが許されると国際社会は考えていないようです。では外国に非礼を働かれてもよいかと切り返されるでしょう。しかし、これは日本の対外認識が甘かった以上、仕方ないと私は考えざるを得ません。というより、「君が代」を国歌と定めた時点で、そのような目に遭うことを日本人は、もとより覚悟の上であるべきだったのだと思います。他の歌を国歌にする選択肢もあり、またそうした意見も出ていたのですから。 >

(iv)
繰り返しますが国際的な認知度はこの問題にまったく関係ありません。 いえ、議論の過程に綻びが生じれば、必然的に結論は懐疑に付される事になります。 この教員は、「君が代」が認められないという諸外国の意見を代弁しているのかもしれません。すると彼個人の独自の信条という扱いでは捉えきれないものになります。また公共の福祉という観点から見て、命令が正当とも言えなくなります。この意味で、国際情勢をどのような形で把握するかが問題なのです。 (vi)で公務員の職務命令が問題であると強調なさっていますが、これはおっしゃる通りに思います。私もこの問題が審議全体で占める位置については、慎重に考えるべきと思っています。しかし公務員と言っても、これは教員です。その職務は、儀礼を守ることだけではないでしょう。その職務の第一は教育であり、憲法では学問の自由が認められています。正確な国際情勢の認識があった上でなければ、教員が何を教えるべきかは、判断出来ないと考えます。だからこそ、私は判決の補足意見が適格であったかを考えたいのです。

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