• ベストアンサー

肥前の熊

tanuki4uの回答

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.3

1578年 耳川の戦い 49歳 大友宗麟が島津家に敗れる 1580年 粛清強まる 51歳 1584年 沖田畷合戦 55歳 1587年 大友宗麟死去 1582年 本能寺の変 45歳 織田信長が明智光秀に殺される 1582年 山崎の戦い 45歳 1583年 賎ヶ岳の戦い46歳 信長旧臣の中でのNO1確定 1584年 小牧長久手 47歳 織田家を保護下に置く 1585年 四国攻め  48歳 1586年 九州征伐  49歳 大友家を完全に支配下に置けなかったので大敗した。 耳川の戦いまでは、龍造寺家は、大友家に服従しています。 同じように山崎の戦いで織田家から離脱しだした秀吉と比較すると構造がわかりやすい。 秀吉は、直接の主人だった信長が死んだおかげで、二年後には織田家を保護下に置くことに成功します。 このあとで、旧信長勢力圏から出てい行きます。 対して隆信の主人、宗麟は島津に大敗しながら死ななかった。 隆信は北九州の各武将に対して常に「同輩」という視線があり、自分が同輩より優秀であることを証明しなければならなかった。 証明とは1つには、旧同輩の粛清であり、軍事的な成功です。 このために冒険的な戦闘を行う必要があり、沖田畷の合戦の発生と討ち死にへとつながります。 耳川の戦いで宗麟父子が死に、有力外様として龍造寺隆信が大友家を支配下に入れる なんてストーリーだったら、沖田畷の無茶な戦いも起きなかっただろうに

azuki-7
質問者

お礼

ありがとうございます

関連するQ&A

  • 龍造寺隆信

    龍造寺隆信が島原の沖田畷で戦死せず勝利していたら九州の構図は変わっていたでしょうか? 当時、島津はまだ発展途上で龍造寺や大友に対して対抗できる戦力は持っていなかったと聞いたので・・・

  • 一番好きな、戦国時代(日本)の合戦!

    日本史が好きな方に質問! 戦国時代最大の合戦と言えば関ヶ原でしょうが・・・ それ以外で、御自身が一番好きな戦国時代の合戦を回答願います♪ 例>私は・・・ ※沖田畷の戦い 戦の天才・島津家久の「必殺・釣り野伏せ」により、龍造寺隆信を打ち破った戦いです♪

  • 次にあげる戦国時代の合戦に関して質問です

    こんばんは 早速、質問します (1)小沢原の戦いにおける両軍の兵数、勝因について 北条氏と上杉氏が戦い、北条氏が勝利したのは周知のとおりですが、両軍の兵数などは伝わっていないのでしょうか?また、なぜ北条氏が勝利したのでしょうか?勝因を教えていただけると嬉しいです。例えば、当初から北条が兵力で勝っていたとか… (2)上田原の戦いにおける村上軍の兵数について この戦いは村上氏優勢、または引き分けで終わるわけですが…武田軍8000、村上軍5000と、兵数に諸説はあると思いますが、どの説をとっても拮抗した兵力差ですよね?村上氏というと、信濃の有力勢力というイメージがありますが、それでも武田軍に拮抗できる兵力を集めている事には驚いてしまいます。村上氏がこのように大兵を動員できたのにはどのような要素がありますか?教えてください。 (3)戦国時代の合戦の兵数について 戦国時代を初期、中期、晩期に分けたとして、各期の平均的な合戦での動員兵力はどのくらいでしょうか? 例えば初期が1000 中期が3000 のように教えていただけると助かります。 また、戦国時代、味方の兵力数はどのようにして把握していたのでしょうか?聞くところによると、出陣を円滑にする為に、合戦城へ行く道中に家があるものは、途中から合流しても良いということだったみたいですよね?そうなると、勝手に合流する者が多いと自軍の兵力が正確に把握できなかったのでは?という疑問が浮かびます。 どのようにして自軍兵力を把握していたのでしょうか?

  • 戦国時代以前の動員兵力

    元亀・天正年間以降の合戦の動員兵力は、比較複数の記録が残っていたり、現在の研究結果から見てもそれほど誇張が大きくはないと思うのですが、南北朝以前から源平合戦の時代までの動員兵力には疑問に思う数字がかなり残っています。 以下いくつか例を挙げます。 ・富士川の合戦(両軍合わせて7万、吾妻鏡は20万) ・奥州征伐(頼朝の幕府軍で公称20万以上、藤原氏も数万) ・承久の乱(幕府三方面軍計19万) ・弘安の役(日本軍12万、元軍14万) ・湊川の合戦(足利軍50万‥これはいくらなんでも) ・応仁の乱(東西合わせて27万) 疑問に思う理由は ・戦国末期、国内最大と思われる動員がかかったのは以下の3つの合戦  (1)秀吉の小田原攻め(両軍合わせ25万)  (2)関ヶ原の合戦(含む関連戦役)(両軍合わせ本戦線20万、東北戦線10万、九州5万)  (3)大阪の陣(両軍合わせ30万)  これだけの兵を動員するための兵糧生産力、兵糧運搬に関わる街道の整備具合、付随する武具等の製造能力、大量動員を可能にする軍制等、少なくても両軍合わせて10万以上の大軍を揃えるには相当の運用計画や条件が必要だと思うのですが、古代と対して変わっていないと思われる戦国期以前の街道状況や農業力で上記のような合戦でそれだけの兵力を揃えられたか? 当然、碌な武装も持たないでいただけの兵がかなりいた可能性は考えられます。 当時の人口や他状況から考えて、実際はこれくらいだったんじゃないか、又は事実それだけ動員は可能だった等ご意見をお願いします。

  • 長篠の合戦 (織田軍の鉄砲の三段撃ち?・武田の騎馬隊は存在しなかった?)

    長篠の合戦についての通説の誤りが指摘され、新しい定説が普及しつつあります。 代表的なところでは 1、信長・家康連合軍の鉄砲「3千挺」という数字は誤り。せいぜい1千。 2、織田軍の鉄砲の三段撃ちはなかった。それぞれ勝手に撃っていただけ。 3、武田軍には、いわゆる騎馬隊(モンゴル軍のような騎兵隊)は存在しない。 4、兵力も、連合軍3万8千、武田1万5千はおおげさ。せいぜい連合軍1万5千~2万5千、対、武田7千から1万。 5、合戦の性質も、野戦ではなく、織田軍が築いた土嚢の陣地を武田軍が攻めるという「城砦攻防戦」だったのではないか。 長篠の合戦に関する賛成意見・補足・反論などをお願いします。

  • 立花宗茂について

    見てくださった方、ありがとうございます。 よくネットなどで、立花宗茂の軍事評価が非常に高いですが何故でしょうか? 私自身、立花宗茂が好きですので逆に気になりました。 たとえば、島津との戦いでは宗茂以外でも志賀親次が同じ様に島津の大軍を寡兵で持ちこたえ、島津義弘をもって「天正の楠木」と称賛されています。 朝鮮出兵では碧蹄館の戦いで活躍しますが、島津義弘の泗川の戦いの方がすごいように感じますし…。 桶狭間の戦い、沖田畷の戦いのように寡兵をもって大軍に挑みかかり、大名クラスの首級を挙げたわけでもないですし、関ヶ原の戦い後に領地に攻め込んできた鍋島直茂と戦い、奮戦するも結局撤退し籠城してますし。 秀吉に豪勇鎮西一や西国無双などと称賛されたからでしょうか? 戦巧者の名将だとは思いますが、これほど高く評価しているのが何故なのかどなたかお詳しい方、教えていただけないでしょうか?よろしくお願い致します!

  • ノモンハンでの日本軍(戦術)

    かつては「帝国陸軍の歴史的大敗」と教えられたノモンハン事件ですが最近ではソ連側損害のほうが多かったことが定説なようで国境線を譲歩したのはむしろ外交的問題との意見もあります。 日本軍のほうが兵力、装備とも劣っていたことは確かなようです。 そこで疑問なのですがなぜ日本軍は敵に大損害を与えられたのでしょうか?航空部隊の圧倒的優位は開戦初頭だけ(キル・レシオは最後まで優勢だったが飛行機の数が圧倒的に足りなかった)、大砲も旧式の38式野砲が虎の子。不意打ちの先制攻撃や市街戦、ジャングルでの戦いならまだしも、ノモンハンのような原野では兵器、兵力の優越がかなりのウエイトを占めるはず。日本軍のとった戦法について詳しい方お願いします(イデオロギーではなく軍事技術の回答をお願いします)。

  • 肥後国人一揆での立花宗茂

    見てくださった方、ありがとうございます! 肥後国人一揆の際に立花宗茂は「1日に13度もの戦に勝利し、敵方の城を7城も落とし、650余の首級を挙げる」活躍をしたそうですが、それはどれほどすごいことなのでしょうか?秀吉が誉め讃えたらしいのですごいってのは分かるのですが、どれほどなのかしっくりこないので(>_<) どの程度のすごさかを例えでいいので言い表してもらえないでしょうか? また宗茂は九州征伐で島津軍の攻撃から立花山城を死守し、援軍到着まで時間を稼ぎ、撤退する島津軍を追撃するなどの活躍が有名ですが、そのほかに豊臣軍の先鋒として武功を挙げたと聞いたことがあるます。どの様な働きをしたか知っておられる方、教えてくれませんか? その他、あまり知られていない宗茂のマイナーな合戦なども教えてもらえたら嬉しいです!よろしくお願い致します!

  • 伊達政宗は名将か?

    昨日だったか、奥州仕置きで回答された方が政宗うんねんの話しをしていましたが。 伊達政宗は遅れてきた英雄だと言われています。 正直いうとあまり合戦が上手いとは思わないのですが。 伊達と連合軍(芦名・佐竹・岩城)と戦った人取橋の戦いでも、鬼庭良直が壮絶な討ち死にをする活躍がなければ惨敗でしたし。 有名な、伊達と芦名が戦った摺上原の合戦でも風向きが変わらなかったら、負けてた内容でした。 追記 最上義光は策謀家ですが、政宗と合戦したら勝算はどうでしょうか。やはり勝てないか? 各同好者の意見お待ちします。

  • 合戦について素朴な疑問

    日本の戦国時代や、三国志などの合戦についてお聞きします。 例えば大軍を狭いところに誘い込んで細長い隊列にさせれば、兵力で劣る軍でも有利に戦えるというのはよくわかります。 ですが、大軍相手でも挟み撃ちにして逃げ場を無くし、劣る兵力で相手を崩すといいう戦術がよくわかりません。援軍が期待できる場合は籠城し、援軍が来たら城から打って出て挟み撃ち、なんてのもよくありますね。 軍隊というのはかくも「逃げ場がない」という事に弱いものなんでしょうか?一人一人の兵の気持ちになれば、その時その時相対する敵と戦う事に違いはないわけで、挟撃されていなくとも、命令無しに後ろへ退くことはできないのだから、大した違いはないように思うのです。 軍隊がまるで一つの生き物のように、焦ったり士気が上がったり下がったりするのがよくわかりません。一心同体となっているのでしょうか。私が一兵卒だったら、働いてるフリしていかに生き残るかばかり考えると思います。 それともう一つ気になるのが、平時は百姓の足軽が戦死した場合の保障と、活躍した場合の恩賞。それらが無ければとてもまじめに戦おうなんてしないと思うのですが。 質問がうまくまとまりませんが、合戦の現場の兵の気持ちなどを教えていただければうれしいです。