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立花宗茂の軍事評価の高さとは?
- 立花宗茂の軍事評価が非常に高い理由について、よくネットなどで話題になっています。
- 島津との戦いや朝鮮出兵など、数々の戦いで活躍した宗茂の戦略的な才能や勇敢さが評価されています。しかし、その評価をする理由にはいくつかの要素が絡んでいます。
- 秀吉による称賛や宗茂の戦略に対する理解者が多かったことなども、評価の要素として挙げられます。
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>よくネットなどで、立花宗茂の軍事評価が非常に高いですが何故でしょうか? 西国無双とよばれるまでの戦績 九州征伐時 天正14年(1586年)、島津忠長・伊集院忠棟率いる島津軍が筑前国に侵攻し、実父の高橋紹運は岩屋城にて徹底抗戦の末に玉砕した(岩屋城の戦い)。 このとき宗茂も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、数百人の首級をあげた。 この内に8月18日も岩戸にて兵糧を準備する原田種実隊2,000を撃退し700余の首を取った。 8月20日にも秋月種長隊2,000を奇襲し400余の死傷を出させた。島津軍は紹運との戦いですでに消耗していたため、8月24日に撤退した。 このとき宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の2城を奪還する武功を挙げている[注]『日本戦史・九州役』(補伝 第十二宗茂の忠勇)。 その時、大友宗麟から豊臣秀吉へ 「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人となしたまわりますよう」 と要請された[注]つまり、立花宗茂を豊臣秀吉の直臣として取り立てて欲しいと、大友宗麟が要請したという意味である。ただしこれについては、秀吉のほうから宗麟に対して、立花宗茂を譲るように命じたのを、宗麟が自ら推挙したようにして取り繕ったのではないかという説もある(海音寺潮五郎『武将列伝」)。 その後も秀吉の九州征伐で活躍し、西部戦線の先鋒として4月初から肥後国の[竹迫城]]、宇土城などを攻め落とした。 更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落ちて川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲した[注『日本戦史・九州役補伝』]。 戦後、秀吉はその功を認めて筑後柳川13万2,000石を与え、大友氏から独立した直臣大名に取り立てた。このとき秀吉は宗茂を 「その忠義も武勇も九州随一である(原文:その忠義、鎮西一。その剛勇、また鎮西一。)」 「九州の逸物」 と高く評価したという。 豊臣時代 天正15年(1587年)9月、佐々成政移封後の肥後国で大規模な国人一揆が発生したときは、兵糧不足の佐々軍救援のため、弟の高橋統増と共に兵1,200と輜重隊を率いて出陣し、兵を三隊に分けて小野鎮幸の主力隊が肥後南関を突破し南関城の将・大津山出羽守を討ち取った。そして平山城を包囲する一揆方の有働兼元軍を騎馬鉄砲[注、騎馬武者の馬首に鉄砲袋を備え、弾薬の袋を馬尻に掛けさせて「火車懸」の戦術を繰り出した]の先陣が引き離しつつ、第二陣に守られた輜重隊が城に兵糧を搬入、長槍の第三陣が有動軍を永野原において撃破し有働志摩守を討ち取った[注、『立花記(正・続)』、『武神 立花宗茂』、『清和源氏隈部家代々物語』による]。 立花軍は佐々軍に兵糧を支援し平山城に入城したが、一揆方3,000の兵に包囲された。その対応のため、先に輜重を運輸したの人夫を使って「立花軍は明日に城を出て柳川へ帰る」との偽情報を敵陣に流し、当日は軍を三隊に分けて由布惟信と十時惟由を先鋒に任じて疾駆の勢いで敵を奇襲突破したが、宗茂率いる本隊は三加和平野立尾の地で一揆方に挟撃された。そのとき宗茂は戸次家伝来の名刀・笈切り兼光を持ち馬上で敵兵七人を斬り伏せ、横撃して来た有動下総守と一騎討ちして討ち取った。やがて由布・十時の先鋒隊が反転し、小野鎮幸の後備隊が合流して全力で突破し一揆軍を総崩れにした。 その後、街道に沿う一揆方の出城を攻め落として、捕虜を城上や軍の前に置くことで一揆軍の攻撃を避けつつ南関に近い太田黒城へ進軍、たが城将・大知越前守は弓隊を伏兵として立花軍を奇襲した。立花軍は矢の当たりにくい森の中へ500の城兵をおびき出し、十時連貞と小野鎮幸率いる300が反転して迎撃、そして由布惟信が郎党20人を率いて堀や木柵を越えて一番乗りの功を立て二の丸に至る。大知越前守は50騎を率いて迎撃したが、池辺永晟と一騎討ちして討たれた。この時、立花軍は1日に13度もの戦いを行い、一揆方の城を7城も落とし、650余の敵兵を討ち取ったという武功を上げている。 また一揆方の和仁三兄弟の田中城を包囲するとき、参陣中に小早川隆景を義父とし、小早川秀包とも義兄弟の契りを結ぶ。秀包と共に城内に攻め込み、宗茂自身は和仁中務少輔を討ち取った。 天正18年(1590年)、小田原征伐に従軍する。このとき、秀吉は諸大名の前で 「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」 と、その武将としての器量を高く褒め称えたという。 >私自身、立花宗茂が好きですので逆に気になりました。 >たとえば、島津との戦いでは宗茂以外でも志賀親次が同じ様に島津の大軍を寡兵で持ちこたえ、島津義弘をもって「天正の楠木」と称賛されています。 志賀親次は1000人で新納忠元の35000人を撃退し、近郊の諸砦を回復して秀吉に激賞されましたが、残念なことに父の親度が島津に内応して自害してるし、祖父の親守は耳川の戦の時、別働隊を率いて肥後に進出したが積極的に動かず敗戦の一因になってます。また翌年の秋月種実の征伐も失敗して立花道雪に非難されてます。つまり、祖父、父の汚名をそそぐための奮戦だったと言えるでしょう。 また本人も文禄の役の平城攻防戦で小西行長の援軍要請がきたときの軍議で退却を主張して、大友家改易の原因を作ったので後世の評判が悪いからじゃないですかね。 また立花勢は実父高橋紹運 養父立花道雪の家臣も引き継いだ為、 >朝鮮出兵では碧蹄館の戦いで活躍しますが、島津義弘の泗川の戦いの方がすごいように感じますし…。 泗川の戦いの明朝鮮軍は20万と号してますが実際は3万7千から数万です。島津は7千(島津は10000人の軍役)。 碧蹄館の戦いでは明軍40000人日本軍41000人で 弟の高橋軍と合わせて3000人で先陣でした(立花は2500人の軍役)。 >桶狭間の戦い、沖田畷の戦いのように寡兵をもって大軍に挑みかかり、大名クラスの首級を挙げたわけでもないですし、 基本的に立花勢は全ての戦いで寡兵です、なぜなら立花氏は大友の一家臣だったし、大名になってからも13万2000石しかありません。 >関ヶ原の戦い後に領地に攻め込んできた鍋島直茂と戦い、奮戦するも結局撤退し籠城してますし。 家康への恭順を示すため宗茂は城に残ってます。戦ったのは家老の小野鎮幸です(それでも13段の9段まではいきましたが)。 >秀吉に豪勇鎮西一や西国無双などと称賛されたからでしょうか? 九州の役 秀吉軍来る!の報に 普通ならここで安堵し秀吉軍の迎え入れの準備をする城兵。 しかし、ここからがまだ20歳前の若者宗茂、戦争の天才の真骨頂です。 島津軍が撤退するや否や城門を開けて追撃 十分に備えのあった島津軍を一日で数百討ち取り さらに次の日には島津方の高鳥居城を攻略し そのまま岩屋城、宝満城を奪還します。 たった三日で筑前方面の島津軍を掃討します。 この電撃的な早業には秀吉も「九州一之一物」と絶賛し 「その忠義は鎮西一、またその剛勇も鎮西一」 「上方にこれほどの若者はいない」と激賞します。 小田原出陣で京に大名を参陣させた時に本多平八郎忠勝をわざわざ召し出し、 「東国に隠れなき勇者本多平八、西国無双の誉れの立花左近将監、東西にそれぞれ無双の者故、対面を許す」 リップサービス好きの秀吉ですが自分に比しないでしかも一番と言っているところから見ると本気のようです。 >戦巧者の名将だとは思いますが、これほど高く評価しているのが何故なのかどなたかお詳しい方、教えていただけないでしょうか?よろしくお願い致します! 名将言行録より 「宗茂の人柄は、温純で寛厚で、人徳があっておごる事が無い 功があっても自慢する事がない。 人を使うのも、おのれの意にしたがってしかも自然である。 善に従うこと、あたかも自然の流れのようである。 中略 士はみな、宗茂の役に立つ事を楽しみにした。 その用兵ぶりは、奇襲といい正面攻撃といい、いずれも天性の妙を発揮した。 ゆえに、攻めれば必ず取り、戦えば必ず勝利を得たのである。」と
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おそらくは、質問者様の方が詳しいとは思いますが・・。 ・弱者の立場で奮闘(判官びいき) 衰退する大友氏の武将として奮闘。島津氏は強者の立場ですね。 ・目立つ活躍 豊臣秀吉の九州征伐と直接繋がる活躍。志賀親次の奮闘は評価されますが、大局的には、仮に活躍がなくても、影響が少なかったのでは。 ・最終的に大名家として生き残った 生き残ったからこそ、武勇を宣伝ができたと思います。志賀親次の主家大友氏は改易されていますね。そういえば、碧蹄館の戦いのすぐ前の時期の失策が理由でしたね。 の3点が重なったからだと思います。
- tanuki4u
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単純に言うと、最後の実践指揮官だから。 ということではないかと。 宗茂 没年 1643年 伊達政宗 没年 1636年 藤堂高虎 没年 1630年 蜂須賀 至 没年 1620年 加藤嘉明 没年 1631年 丹羽長重 没年 1637年 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84 関ヶ原の戦いが最後の野戦となりますが、(大坂の夏の陣を除くと)この段階でだいたい10万石以上(野戦における戦闘単位 3千人を動員)の大名で、最後まで生き残ったのが宗茂。 しかも丹羽長重が二代目イメージが強いのに対して、宗茂のみが、「負け組からの復活」という立場なので、かっこ良かった。
- kusama1
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>秀吉に豪勇鎮西一や西国無双などと称賛されたからでしょうか? 恐らく質問者様の方が戦国史お詳しそうなのでお教えできる事は何もないのですが、言われてみればその様な気はします。 真田信繁(雪村)にしても「日の本一の兵」と称されなければこれほどの知名度は無かったかと思いますし、小説なんかを書く時にそういったエピソードを持つ人物はやはり書きやすかったり、書きたいと思う著者が多いかもしれませんね。道雪とか誾千代とのエピソードもありますし、宗茂はそういった意味では最高ですね。 著者=語り部と考えるとあながち間違いでもないのかな(^^;)