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教育が優れておらず、意識も低いのは何故でしょう?
私は教育の仕事に携わっています。 幼稚園~大学まで通い、学校の教師をやっていた時期もあります。現在は社会人を教育する学校に勤めています。 自分が小学校の頃から教育が優れていないと感じていました。 ちょっとだけ例をあげます。 ・教師は、その科目が何故必要なのか、どの様に役立つのかということをほぼ話さない。 ・科目の実践体験のようなものがほとんどない。(国語の実践として手紙を書くとか) ・知識そのものではなく、賢く生きる習慣が大切なのに、指導要領は知識を覚えさせるものが中心 ・社会人として必要なことをほとんど教えていない (卒業→就職→1年以内に退職というパターンがすごく多い) ・道徳教育で、いかなる理由があっても暴力はダメといっている教師が体罰をしているので説得力がない(矛盾しないような説明があれば良いと思いますが) 例をあげればきりはありません。 もちろん学校の先生が悪者ということではなく、全体的に教育が大切だという意識が低いと思いますし、教育者に対する感謝の気持ちも少ないと思います。教育を良いものにするためにはすごくお金がかかると思いますが、とても実りある先行投資になると思うのですが。 皆さんどう思われますか?
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- hey_hey_11
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貴方もそうですが、なぜ各教科が必要かって考えましたか? ほとんどの人は、考えていないと思います。 私も、気づいたのは社会人になってからですよ。 学生の時は、訳も分からず言われるがままでした。 でも、教員のどれだけの人が気づいているのでしょうか。 また、そんな事を説明して何になりますか。理解できますか。 教育は後から自分で気づくことでもあると思います。 それに、指導要領は誰が作りますか。 正直言って現場を知らないと言われても良いくらい、絵に描いた餅で理想論ばかりですよね。 でも、法律違反をして教えるのでしょうか。 いくら自分の主張が正しくても法律違反をすることはできないでしょう。 できるのは自分の子供に教えることくらいですね。
- key00001
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> 教育が優れておらず、意識も低いのは何故でしょう? 国家レベルの問題が最大因子だと思います。 近年、教育を重要政策に位置付けた政治家って、安倍元首相と橋下市長くらいでは?と思いますが・・。 国の未来を担う子供の教育って、そんなモノでは無いですよね。 全ての政治家が重要と位置付け、それぞれ教育に関し、理念・理想・一格言を持ち、高いレベルで議論されて然るべきものでは?と思います。 しかし増税だの原発だの電気代値上げだのは、連日議論されている様ですが、教育に関しては、最近では橋下さんが何か騒いだ時くらいしか、話題になりませんよね? マスコミも含め、同罪では?と思います。 民主党の高校無償化などは、共感出来る政策でしたが、それさえドタバタでした。 また世界を見渡せば、高校無償化はほぼ常識であり、大学も無償化と言う動きです。 日本が教育に対し真摯では無いとか、世界的に遅れているかと言う証明でしょう。 あるいは国が教育をナメてる証明と言えば、その最たるモノは「ゆとり教育」でした。 低い学力に合わせるのが「ゆとり」では無いですからね。 たとえ学力が低くても、詰め込みでは無く「ゆとり」を持って、教育を施すべきですから、必要に応じ、放課後や土日も教育を施すくらいの環境を提供すべきです。 まさに問題の本質は仰る通りで、「全体的に教育が大切だという意識が低い」です。 その全体をコントロールする(出来る)のは国しか有りません。 実りある先行投資も同感です。 財政を言い訳にし、教育をおろそかにするなど、有り得ないコトです。 ただ「教育者に感謝の気持ち」などは共感出来ないなぁ。 教育をボランティアでやってるなら別ですが、職業ですからね。 教育者が「感謝される教育者」を目指すべきでしょう。 むしろ教師が、「そのレベルの教育を施すことが当たり前」と言うレベルの、真のプロ教師になるべきではないですかね? そう言う教師を育成するのも、また教育ですが。 とは言え、それを目指せる環境を提供するのは、やはり国の仕事であり、現状がそう言う環境か?と考えると、甚だ???ではあります。 まあ教師の質的向上は、簡単と言えば簡単です。 教員の給料を著しく引き上げれば良いと思います。 たとえば高級官僚より優遇すれば良いです。 これで教師の社会的立場はすぐに向上しますので、 一方で、教員免許の更新制や、教師の評価を厳密・厳格に行わねばなりませんが。 そうすれば、質問者さんが列記している様な問題をラクラク解決する「スーパー教師」がゴロゴロ出現するでしょう。
お礼
努力量は十分すぎると思っています。 例えば知識はITが教えてくれるから、 教員はモチベーションの管理が出来れば、 科目知識はほとんど必要ないとか。そういう制度があればなぁと思います。 ありがとうございます。
- princelilac
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・教師は、その科目が何故必要なのか、どの様に役立つのかということをほぼ話さない。 同感です。しかし、小中学校のうちは将来役に立つからしなければならないのではなく、やること自体に意味があるのです。その点では、日本の教育は明治維新の頃と発想が変わっていません。小中学校までは科学的な見方、外国からの見かた、文学的な考え方・・・などに触れる時期なのです。 ・科目の実践体験のようなものがほとんどない。(国語の実践として手紙を書くとか) 私個人的には、手紙や作文などをよく書いたものですが…。また、外国から英語の先生が来られた時は、積極的に話したものです。そのようなカリキュラムも以前よりは増えています。 ・知識そのものではなく、賢く生きる習慣が大切なのに、指導要領は知識を覚えさせるものが中心 同感です。しかし、「賢く生きる」ためにゆとり教育を目指しましたが、これは大失敗でした。小中時代に詰め込まなければ、一生涯詰め込むことが不可能になってしまいます。現役の大学生の低学力ぶりには目も当てられません。学力も生きる力もない学生は就職できませんし、しても長く続きません。 ・社会人として必要なことをほとんど教えていない (卒業→就職→1年以内に退職というパターンがすごく多い) 上と重複します。 ・道徳教育で、いかなる理由があっても暴力はダメといっている教師が体罰をしているので説得力がない(矛盾しないような説明があれば良いと思いますが) 同感です。そもそも「体罰は絶対いけない」というのが誤りなのです。この矛盾を解消しなければ、指導の際にあちこちで矛盾がでてきます。この世に「絶対」と言い切れることはありません。 ※総じて言えば、日本という国は教育よりも経済が優先なのです。人命よりも経済が優先される国なのです。理想を高く掲げて、それに向けて先行投資するような気概は感じられません。
お礼
保育園の先生の中には 何故○○をするのか、 何故○○をしてはいけないのか ということを説明する先生もいます。 小学以降は「皆やるから」とか、「当たり前」だからということで片付けられていることが多いです。 「当たり前」ができない大人が多い気がします。 小学以降の先生も保育園の先生と同じように、噛み砕いてほしいものです。 ありがとうございました。
- Nkfe
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箇条書だけ: 1)日本人、日本国民としての在り方を、示してくれる人がいない。 だから、学校で何をするべきかわからない。 2)学校を出て、民間企業などでの社会経験が無いまま 先生と呼ばれる 職務についてしまう人が殆ど。 実社会を教えらるわけ有りません。社会の変化に対応していません。 3)体育の先生ネ、、、。学校と言う団体のなかで、ニラミをきかして結構な役割をしていたり、生徒たちの監視役だったり、勝手にイロイロやりますよね。今まではそれなりに役柄があったんでしょうけど、グローバル世界になっていくと、無価値な、無知な人たちです。 成長時代には国や上の人たちが勝手に与えてくれて、親切にしてくれるものだったんです、だから意識はいらなかったんです。 今は下々が意見を出し合って、物事を変えないと行けない時代に急になってしまったのです。 自ら改革運動するべきですね。
お礼
>自ら改革運動するべきですね。 そうですね。ちょっと検討します。 ありがとうございます。
- osx0000055
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>・社会人として必要なことをほとんど教えていない 実務家は教育に興味が無いんですよね。軽視どころか蔑視してるんじゃないかと思うほどです。 ジョージ・バーナード・ショーの「できない人は教える」という言葉はそれを端的に表しています。 その結果、教育に思い入れのある、教育現場を主な活動の場とする、特定の人たちの考え方が教育現場で幅を利かせるようになります。 カリキュラムの編成も含めて実務家の関与を促すような仕組みがあった方がいいのでしょうね。
お礼
大学には実務家の先生も結構いました。 大学だけじゃなく、高校や中学にもいれば良いのになぁと思っています。 ありがとうございました。
- bismarks0507
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小生は、元教師・現役予備校講師で、教育臨床論を専門にしている あえて、指摘しておきたい 質問者自身の認識限界の問題であって、質問者の問題提起の先に何も見えない。単なる幼稚な義憤に過ぎない 例示された主観(客観は存在しない)が、優れていない理由になる論拠もない そもそも、教育の首座からして難しい。おそらく質問者は教育の目的・目標という深淵なる教育課題をそそくさと失念して社会人教育に流れた部類なのだろう。 個別事例で示唆してみよう >・教師は、その科目が何故必要なのか、どの様に役立つのかということをほぼ話さない。 話すものではない。それを気づかせるのが教育である。 そして、どの様に役に立つのか?という領分まで気づかせるものであって、そのメソッドを思慮・想起されるように仕向けるのが教育であろう。もしくはそういう意欲を教育環境整備から支援するものだろう。 これは小生の教育観ではなく、おそらく教育学の基本ではあろうが、本当に質問者は教育者だったのだろうか?小生には想像も出来ない。 >・科目の実践体験のようなものがほとんどない。(国語の実践として手紙を書くとか) 実学的な領域がない、ことを優れていないことの理由にするが、履き違えだろう 実学があれば、優れているわけでもないし、机上だけでも優れているわけでもない 理解するために適切なメソッドとして実学・机上の両輪を適宜に使われるのが適切な教育であるに過ぎない。実学だから得れるものではない。 そもそも、実学的領分は、学校領域範囲外で代替可能なのであるが、そこまで思慮しているのだろうか? >・知識そのものではなく、賢く生きる習慣が大切なのに、指導要領は知識を覚えさせるものが中心 賢く生きる習慣などという抽象的概念をどう教えるのだろうか? 限定された教材・教育資源・予算の制約上で、国家教育権の範囲で要請される知識教育のどこが優れていないのだろうか?優れているとは言わないが、それが優れていないと言えるほどの無価値とは到底思えないし、そう思える論拠など想像できないのだが・・ 「賢く生きる習慣」を教える方法が具体的にあるなら高説願いたいものである そんなものがありないだろうし、そのようなものを教えることで人間がどうなるか?と考えれば、悪寒が走る 小生からすれば、当人の自己実現・当人の(公共性を前提にした)幸福の最大化が教育の首座ではあるが、その適否についてはずっと葛藤し続けているし、新しい回答を模索するべきものだと思っているが・・・・ >・社会人として必要なことをほとんど教えていない 当然である。 社会人として必要なことは社会人になって学び得るものであって、未就業時点で理解するものさえ十分に理解できないのに、社会人に必要な教育など無理であろう。 それとも質問者は、社会人として必要なものを優先して、未就学段階で学ぶべきものは軽視してもいいのだろうか? 優先順位として社会人として必要なことは、社会人で学ぶのが筋である。と同時に、社会人として必要なものは、当人が加入する”社会”で学ぶものに過ぎない 更に言えば、未就学時点で要請される事象の上に、社会人として必要なものが存在しえるものだろう・・・ >道徳教育で、いかなる理由があっても暴力はダメといっている教師が体罰をしているので説得力がない(矛盾しないような説明があれば良いと思いますが) どういう道徳教育を受けたのか?という問題は別にして、 上記の問題は、教育で論じる話ではないだろう。道徳とはコモンセンスであり、道徳という概念を持ち出した人間が体罰をしてはならないのが論理的筋ではあろうが、そういう教育を施す側がその道徳を信奉する大前提に立つ必然性はない。 小生の知己にはそういう人間がいる。 「先生の道徳・みなさんの道徳は違います。道徳というのはそういうものであって、回答がないものです。仮に回答があるとすれば、それは道徳という大義名分を創造した強制でしょう」 ある道徳教育で著名な人が指摘した言葉である。 少なくとも質問者の道徳は、上記したような道徳がベースにないのだろうが、そういう教師がいたことが不思議でならない >もちろん学校の先生が悪者ということではなく、全体的に教育が大切だという意識が低いと思いますし、教育者に対する感謝の気持ちも少ないと思います。教育を良いものにするためにはすごくお金がかかると思いますが、とても実りある先行投資になると思うのですが。 質問者の主観は否定しない。 しかし、小生からすれば、質問者は教育者の限界を弁えていない・・としか思えない。 所詮は、教育者も人である。聖職者という仮面を強制された職業人であるが、所詮は人間である。 小生の本音を言わせてもらえば、質問者のような独善的な人間が学校教育に居たことが日本の教育の悲劇と思えてならない 小生のようにナルシストが、全ての概念・常識さえ疑い続ける教育するのはもっと危険で悲劇的ではあるが、小生は、質問者ほど独善的にはなりえない部分では、マシだと思っているが・・ 「ドングリの背比べ」と指摘する人が正鵠だろうが、個人の見解として指摘しておく 以上
お礼
私の聞き方や日本語が不味かったようです。 学校教育の批判をしているような文章になってしまいました。すません。 ありがとうございました。
- momo_to_hana
- ベストアンサー率40% (53/130)
他の回答者の方もおっしゃっていますが 「優れた教育」ってどんなものなんでしょうか・・。 もし仮に、「人生をまっとうに過ごすために必要なこと」「何があっても生き抜ける力」 などを培う教育を「優れた教育」というのであれば、 現行の学習指導要領はまさにそれがゴールです。いわゆる「生きる力」です。 お役人の机上の空論かもしれませんが、書かれていることはいいと思いますよ。 加えて、今使われている新しい教科書もかなりよくなっています。 知識量(内容)が増えたことだけではなく、実践体験のようなものが 多く取り入れられています。手紙の話などはいい例ですね。 質問者様の年代は分かりませんが、お話しされた「知識中心」「概念中心」「詰め込み」 といったことが以前の学校現場では問題になりました。 そのため、学習指導要領を改訂し、それらが改善されたものになりました。 また、社会人として必要なこと=キャリア教育も、意識の高い学校現場では 積極的に導入しつつあります。 その科目を何のために学ぶのかということも、子どもの意欲関心を高めるために 現場の人間はそれを伝えようとしているんじゃないでしょうか・・・。 一例に対しての返答にしかなっていませんが、上の方に書かれた疑念は 「時間はかかるが改善しつつある」と個人的には感じます。 ただ、最後におっしゃられた、「教育が大切だという意識」「感謝の気持ち」「お金をかける意識」 はひどいですね・・・・。 どんどん悪くなっている・二極化していると、私も思います。
お礼
昔と今は違うんですね。自分の目でも調べてみます。 私は教える仕事もしますが、教えてもらうこともよくあります。 何日も何ヶ月も何年もかけて、苦労して手にした技術や知識を サクっと教えてくれるので、とてもありがたいです。 ありがとうございました。
- hekiyu
- ベストアンサー率32% (7193/21843)
”教育が優れておらず” ↑ 優れた教育とはどのようなものでしょうか。 例えば、 考える力をつけさせるには、教えない教育てのも あると思うのですが、それはどうでしょう。 ・教師は、その科目が何故必要なのか、どの様に役立つのかということをほぼ話さない。 ↑ 小学生にそのようなことを説明して、それで何処まで 解るのでしょうか。 自問自答した方が、考える力がつく ということはないのでしょうか。 ・科目の実践体験のようなものがほとんどない。(国語の実践として手紙を書くとか) ↑ 学校では、抽象的理念的なものに限定して 実践体験は、家でやる、という役割分担は ないのでしょうか。 ・知識そのものではなく、賢く生きる習慣が大切なのに、指導要領は知識を覚えさせるものが中心 ・社会人として必要なことをほとんど教えていない (卒業→就職→1年以内に退職というパターンがすごく多い) ↑ 賢く生きるには知識は必要だと思いますが。 義務教育は、社会で何とかやっていける為の最低限度の 知識を教えるところではないでしょうか。 賢く生きる習慣とはどんなものでしょう? そういうのは家庭の役目ではないのですか。 ・道徳教育で、いかなる理由があっても暴力はダメといっている教師が体罰をしているので説得力がな ↑ 小学生に説得力ですか。 理屈無用で道徳を叩き込む年代ではないのですか。
お礼
家庭での教育も大切ですね。 学校と家庭の役割分担も大切だと思います。 私の子供は四歳と二歳ですが、必要な理由を納得すると色々やります、頭ごなしにやりなさいといってもなかなかやりません。小さな子供にもどうして必要か、どうしてダメなのかを説明したり体験させたりすることは無駄ではないと思います。 私の質問の仕方が批判文章のようになってしまい、すみませんでした。 ありがとうございました。
- akr
- ベストアンサー率18% (32/173)
ここで書かれている「教育が優れていない」のは、学校の先生が世間知らずだからじゃないですか。 一般的に学校の先生は、小中高大学を出て就職先がまた学校ですよね。知識としての世間はあるのでしょうが、実体験での世間を知らないと思います。そんな人が、世間を教えることはかなり難しいと思いますよ。
お礼
そうですね。教師の採用計画や教員免許なども改善してほしいですね。(学校の先生の半数は社会人経験者にするとか) ありがとうございます。
- toshipee
- ベストアンサー率10% (725/7148)
スレてた自分が感じるのは、教育に携わるヒトは、ホンマに真面目です。信じられないくらい。国が決めた学習指導要領をみますと、あなたの言うことと正反対のことが書かれています。「自由に個性を」尊重するので、決まりやなぜを欠片も教えない。職人の世界では、基本の繰り返しを「親方が黒と言えば、それは白でも黒と思え」パワハラ姿勢で接すことが最大価値とされるハズなのに、そしてそれ故プロ性が維持されるのに、下積みをさせないで、基本を教えず、何も知らないのに好きに考えさせる。 真面目な方々は、「書かれているから」その通りにされます。そして、それが「決まっているから」正しいことと豪語され、続いています。ここでもネット世界でもそうですが、逆説的に「規制書に書かれていないことはしてもかまわない」。教授する者は書かれていることだけをし、教授される者は、自由を前提にしているが故、書かれていないことを探してする。 私は問題はそこだと思っています。
お礼
確かに、教師と生徒の間でそういったミスマッチはあると思います。 教育者だけでなく、文科省等がきちんと計画を立てて動かなければ、国全体では変わらないと思います。 今後の政策に期待すると同時に、自分もがんばります。 ありがとうございます。
お礼
努力の絶対量ではなく、どうしたいのかという部分が腑に落ちないのです。 私は子供のころからずっと各教科が必要か考えていました。 努力量はむしろ多すぎる気がしています。 ありがとうございました。