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15世紀からの世界史について
人口も多くない、連合もしていない小さな国が集まったヨーロッパが、15世紀から勢力拡大して世界の中心といえる存在になったのはどのような原因があると思いますか? 分析お願いします。
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- 小林 哲夫(@kobatetu01)
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質問が「どう思いますか?」ですので、思いっきり私の独創;思い付きを書きます。 與那覇 潤著「中国化する日本」の説を引用すれば、中国は宋の時代(10世紀)に近世が始まります。 それに対して西洋は遅れて15世紀に近世が始まりました。(私見でルネサンスと宗教改革) そして西洋の覇権は、何と言ってもコロンブスのアメリカ発見に始まる大航海時代によるものです。 では進んでいた中国が何故覇権国にならず、遅れていた西洋が世界を支配したのか? それは野蛮な軍事力に勝っていたからです。 中国は専制君主制によって、安定的平和を確立(特に清朝)したので、軍事力が発達せず、経済的には自給自足できたので、貿易も必要なく、鎖国状態でした。 中国の方が西洋より文明力が高かったので、茶、陶磁器、絹織物などなどを求めて西洋が進出してきました。 中国は西洋と貿易をする必要も無く、したくも無かったのですが、軍事力(つまり野蛮)に押されて、しぶしぶ貿易に応じました。 それに付け込んだ野蛮な侵略・略奪で西洋は世界を支配するようになりました。 以上私の歴史観は、「平和は野蛮に負ける」という法則です。 それでは何故西洋は野蛮になったのかと言えば、それは経済的な貧しさです。 麦の生産性と米の生産性が格段に違うのがその原因だと思いますが、この説は今のところ私以外に言っている人は居ないかもしれません。 (このサイトでミランと言う人が言っていることを教えてもらいましたが、確認できていません。) 注1;中国は遅れた国と思っている日本人が多いと思いますが、中国は歴史始まって以来ずっと世界第一の帝国でした。 因みに1820年の世界の工業生産の30%を占め、このとき英国は4%、日本は3%、という統計があります。 このころ世界の銀は中国に向かって流れ込んでいました。(一部インドにも) これに対処するために英国は産業革命による自給化によって輸入を減らし、またアヘン戦争によってアヘンを売って銀を回収したのでした。 注2、因みに日本の明治維新も同様に黒船と言う軍事力(野蛮)におびえただけであって、軍事力を別にすれば江戸時代の日本文明は世界最先端のものでした。 注3.野蛮が文明(平和)に勝つ、という法則を言いましたが、悪用することを勧めているのではありません。 「野蛮な西洋の覇権などを尊敬する必要は無い」と言いたいだけです。 お間違えなきよう、お願いします。
2番です。何はともあれ、どんな理屈を付けようと、有史以来23のの文明が起こりましたが、残っているのは23番目の現在のルネサンス文明です。それが後の蒸気機関等による産業革命につながったと思います。でも文明の発達は科学の発達と並行します。人間を大量に殺戮出来る兵器の発明。私はどこの国が世界の中心ではなく、1日でも早く平和な世界になることを望んでます。絵空事でも…
- mekuriya
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一つ目は、東ローマ帝国の滅亡の影響です。東ローマ帝国から保証されていたジェノバ共和国の地中海交易権をオスマン帝国に犯され、交易拠点を失い、ジェノバ共和国は没落していきます。ジェノバ共和国の船乗り達が新しい活動場所を求めたのです。 二つ目は、グーテンベルクが発明した活版印刷技術の影響です。「東方見聞録」などが広く読まれて冒険心が刺激されることになります。新聞らしきものが不定期に発行されるようになって、ニュースがより広範囲にスピーディに広まるようになりました。 三つ目は、パオロ・ダル・ポッツォ・トスカネッリが唱えた地球球体説の影響です。地球球体説が真実ならば、海に果ても無く、奈落の底に落ちるなんてことはないわけです。 四つ目は、プレスター・ジョンの伝説の影響です。東方にあると信じられた未知のキリスト教国と連合して、イスラム勢力を追い払おうという壮大な妄想が生まれました。結局はそんな国は存在しなくて夢に終った訳ですが。 五つ目は、羅針盤の発明です。発明というよりは技術の発達で揺れる船でも実用できるようになったということかもしれませんが、それが航海術の発展に大きく寄与したのです。 六つ目は、レコンキスタの終焉です。そうなるとジブラルタル海峡を超えて、アフリカを南下して勢力拡大を図ろうという欲が生まれます。 七つ目は、貧しかったからです。ハングリー精神です。ヨーロッパの商人が精一杯のお土産を携えてインドの土豪に挨拶にいっても「なんだこんなものか」としらけさせてしまうぐらいヨーロッパには何もめぼしい産品が無かったということなのです。新大陸からとうもろこしやじゃがいもやトマトなどがヨーロッパに伝えられました。ということは逆にいえば、それ以前のヨーロッパには何が有ったの?という疑問が生まれるぐらい貧相な食生活だった訳です。 八つ目は、宗教改革の影響です。聖職者にとっては死活問題です。信者に免罪符を売りつけるといった古いビジネスモデルが行き詰ったことで、海外に新しい市場を開拓し、新しいビジネスモデルを創出するといった対抗策が求められました。それがイエズス会が生まれた理由なのです。 異教徒をキリスト教に改宗させることは神の御心に叶うとして、宗教的に海外進出を正当化して冒険者の後押しをしたのです。ギブ&テイクの悪の二人三脚です。奴隷貿易の正当性を保証するのが聖職者の役割で、聖職者が現地の有力者に接触することで商人の販路開拓を支援しました。 以上のように多くの要因が複合的に絡み合っています。またヨーロッパが一斉に大航海時代に参入したわけではありません。スペインとポルトガルが大航海時代の第一世代で、なおかつ旧教国で、イギリスとオランダが第二世代で、新教国です。新教国だからこそ、ローマ教皇の裁定を無視してスペイン・ポルトガルに挑戦することができた訳です。逆に言えば、スペインとポルトガルの成功を見て、スペイン・ポルトガルを追い落とす為には新教国に乗り換える必要があったということです。
- tukihana
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人口も多くない、連合もしていない小さな国が集まっている事が、実はヨーロッパを躍進させた原因ではないでしょうか? 逆にいえば古代から中世には先進地域だったインドや中国が停滞してしまい、科学や社会の発展においてヨーロッパに追い抜かれてしまったのは、人が多すぎ国土が広すぎ、しかもそれが単一の巨大帝国に統治されている状態に原因があったと思われます。 ヨーロッパはこれらの地域に比べて小国ばかりだからこそ、あまりに専制的権力が生まれず、発明や思想への抑圧が比較的弱い。 また抑圧があってもいくつもの国や領地に分かれてるので、亡命なども容易に行える。 国同士が常時競争状態にあるため、その競争に勝つために様々な技術の発展が促される。 しかも国同士が競争相手である一方、王家が全て姻戚関係でキリスト教の存在もあって一定の連帯感が存在するので、戦争しても社会やインフラを完全に崩壊させるような殲滅戦にもならない。 そういった事が様々な分野の発展に有利に影響したのではないでしょうか? 大航海時代以降に躍進した直接の原因はみなさんご指摘の通りですが、その躍進を用意したヨーロッパ世界の特質に注目するのがより重要かと思います。
- bismarks0507
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暇なので補筆 hekiyu氏は明らかに誤認と虚偽を開陳している (1)15世紀はオスマン帝国は最盛期ではない オスマン帝国の最盛期は、セリム1世・スレイマン1世であり、16世紀初頭であって、15世紀ではない これは、領土にしても、経済にしても言えることで、歴史教科書レベルでも、オスマン帝国の最盛期を15世紀などと評論することはないはずであろう。 おそらく1453年のコンスタンティノープル陥落を最盛期と勘違いしているのだろう (2)モンゴル帝国が衰退、ではない 15世紀ではなく、13世紀後期である。最盛期のフビライの時代以後は衰退しているのであって、14世紀後半には滅亡している。 hekiyu氏の知識は明らかに時代を誤認しているものが多い 百年単位くらい・・という認識もあろうが、本質問の時代における100年のラグは大きいものである (3)オスマンに押された欧州が、海外に活路を求めたのが発端です。 これも虚偽である。 まず、15世紀において、欧州が海外に活路を見出した事例は少ない。あくまでも散発的な指摘な海外進出であって、それが欧州・国家という視座の話ではない。 同時に、オスマンに抑された、指摘についても、問題が指摘できる。 欧州社会がオスマン帝国の侵攻を受ける以前から、大航海時代の原初は指摘できる。特にポルトガルのジョアン1世・2世はアフリカ東海岸への侵出を一早く展開していたが、これはオスマンが隆盛する以前の話である。 そもそも、欧州が紅海の海賊であるコルセアの弊害によって航路を絶たれたのは事実だが、コルセアはオスマンとの関係性は指摘できない 氏の見解は、もやは化石とも言える欧州側の認識であって、研究が進んでいる現場では、もはや虚偽と断じている話である。 (4)ポルトガルとスペインが、オスマンに対抗する形で、民族主義が沸騰し、 そんな事実はない。むしろ、中央集権でも絶対王政に向かったイベリア半島の現実は、民族主義ではない。 同時にそもそも、イベリア半島の両国は、中央集権国家としての未熟さを随所の顕在化させている そもそも王権が強いにしても、地方領主権限との兼ね合いであって、国家財政は早晩に破綻している (5)プロテスタントに信者を奪われたカトリックのローマ法王が、信者を増やすために後押ししました。 虚偽である トリデリシャス条約は、両国の海外領土を認証した条約という認識なのだろうが、そんな条約ではない 同時に、両国の海外進出をローマ教皇権が支援した形跡など存在しない あるのは、カソリック側の宣教師や宗教的情熱が過多だった野心家である (6)その海外進出で、アジアアフリカを侵略し、植民地にして、国力を大きくした。 これが第二の原因です。 虚偽である そもそも欧州社会の拡大は、植民地経営を基盤としていない。実際に問題である15世紀および16世紀の植民地開発はあくまでも重商主義であって、それは侵略行動ではない そもそも、hekiyu氏は大きな間違いを犯す事例が多い ある程度は、スルーしてきたが、世界史の常識と誤認されては困るので、虚偽事例を数点ほど指摘しておく おそらく、誤認を誤認として認めるような人間ではないだろうが・・・ 以上、回答とは関係ないが、質問者や回答者が間違うのを看過できないので指摘しておいた
- bismarks0507
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NO4氏の見解について補足するべき事象があるので指摘しておきたい ・・・・・・・・・・・・・・・ 氏は、人口増加と食えない人間が仕方なく・・という指摘をしている。これは、主因として大きいとは言えるだろう これは、大航海時代云々ではなく、社会構造としての大変革の必要性において大きなものがある、という意味である (なお、ノルマンヴァイキングの植民活動は人口増加を主因とするものであろう) ただし、注意しなければならないことは、大航海時代とは『海賊の時代』という側面部分にある 政治的な複合要因によって、食えない次男坊・三男坊が食い詰めて・・というのは確かにありえるだろう。 しかし、家業を継承できない次男坊・三男坊でも、職人ギルドや軍人という選択肢があって、多くの食い詰めものがそのような組織に流れているのである (実際に常備軍整備は人口逓増期に充実を見ていることは、戦史からも指摘できよう) 同時に傭兵時代でもあることから、実は次男坊三男坊は、家計からの投資を受けない不幸な境遇であるとしても、自由闊達に生きれた時代とも言える。 農耕という限られた選択肢に限定される時代から一歩踏み出した時代でもあるし、原始的な資本家の登場から様々な社会・非社会組織が勃興した時代でもある。 したがって、食えない、というのは事実であっても、想像されるほど悲愴なものではない、と示唆しえるだろう。 さて、一方で大航海時代なのだが どのような人間が大航海時代の主役であったのか? という部分で思慮すれば、決して食い詰め者ばかりではないのである むしろ、大航海時代は都市国家・国家主導の公務員海賊が跋扈し、一般化されているのであって、決して人口増加を主因とするだけでは説明が出来ないと言えよう。 つまり、『生業としての海賊』が、極めて社会的地位・意義を持つものであって、決して食い詰めもの・・というのは妥当ではない・・と言うことである これは、人口増加を主因にしたヴァイキングにも通じることで、むしろ家長が主力になって植民活動をしていることについては、適切な理解をしてほしい・・と指摘しておく ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ なお、日本人的感覚では、「海賊」を適切に理解できないだろうことを懸念するが、質問者及び回答者が自前で、海賊という概念を精査してほしい、とだけ言及しておく 以上、回答との関連性が希薄であることは寛恕願いたい
- phj
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#1さんや#3さんの回答はまさに正しいのですが、宗教改革や自然科学の発展という視点だけであれば「大きなリスクをしょってまで、知らない海に乗り出すのか?」という疑問が私の中にもありました。 たとえばコロンブスは卵を机に叩きつけ「逆転の発想!!」と宣言して航海に出るわけですが、その船の乗組員は20人以上必要だったわけで、当時の人々は「海の端は滝になっていて落ちてしまう」と考えていましたから、わざわざ乗り組む人は少なかったはずです。 それでもその恐怖を我慢してまでも「俺は乗る!」という乗組員がいたから、コロンブスなどは大航海時代に海の端で落ちることもなく、新大陸を発見することになるわけです。 では「なぜ、危険を承知で(というより当時の常識では十中八九死んでしまうと思っているのに)そのような冒険に参加する乗組員がいたのか?」というのが、とても不思議だったのです。 答えは、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパ諸国で人口が極端に増加したからです。 西洋諸国は1450年ぐらいから1600年にかけて大体2倍から4倍の人口増加を記録しています。日本は明治初頭が約3000万で150年近く経った現在が13000万で約4倍ですからものすごく急激にふえているわけです。しかも近代以降の日本では、鉄道の敷設・自動車の発展・エネルギーの大量消費・ビルの高層化などで人口増加に対応したのに対して、15世紀のヨーロッパではそのような人口収容の政策を持つことがほとんど不可能だったわけです。 こうなると、まず食料の増産が追いつかず貧困者が増えていくことになります。そして子供が増えても家業の相続(畑など)がままなりませんから、次男・三男はどこかで自分の生きる道を探すしかありません。通常は職人になるのですが、人口増加で職人すら余ってしまいます。 これを吸収したのが船による大航海時代の始まりということです。 つまり、 ・食い詰めた若者が都会に出てきて職を求める。 ・オスマントルコによって、東方貿易の旨味が少なくなった商人などが新しい航路開発に投資する。 ・安い賃金で使い捨ての若い労働者を確保できる=若者も死ぬかもしれないけど、航路開発に成功した船に乗っていれば、次は自分がその航路を案内してお金持ちになれる。 という経済的な事情と労使の妥協点があり、 ・ルネッサンスで羅針盤の開発や天測技術の発達により「どうも地球は丸いらしい・・」と一部の知識人は最新の知識を得た。 という科学技術の発達により、新しい航路開発への目処が立ったことが、大航海時代をスタートさせた大きな原動力になっているといえます。 つまり現在知られているような、世界一周を成し遂げたフェルディナンド・マゼランやコロンブスのような成功者の影には、その何倍もの失敗者と犠牲者がいるということなのです。 しかし当時の農民の次男以降の若者にとってはそれぐらいしか生活の道が無かった、ともいえるわけでこの人口増加による貧困がなければ、大航海時代は無かったともいえます。 その上で、ヨーロッパ各国は競うように大航海に船を仕立てるようになり、また東方(この場合はインドよりも東のこと)航路の確立と新大陸発見により、ヨーロッパ人の見立てよりも世界が広いことが分かったため、さらに加速度をつけて新天地を発見する冒険者が増えた(当然、段々リスクが下がるので出資者も増えたし、若者も参加した)というのが大航海時代にヨーロッパが勢力を拡大した結果を生むことになります。 ということで、様々な理由がタイミングよく西洋に凝縮したといえますが、そもそも船を仕立てて未知の領域に踏み出さざるをえなかったのは、人口増加で人が増えすぎてこれ以上人々を養う土地が無くなってしまったから、というのが大きな原因になったのです。
- hekiyu
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モンゴル帝国が衰退し、オスマントルコが 全盛を極めた時代ですね。 オスマンに押された欧州が、海外に活路を 求めたのが発端です。 ポルトガルとスペインが、オスマンに対抗 する形で、民族主義が沸騰し、 中央集権国家が他国に先駆けて樹立されました。 これが第一の原因です。 中央集権国家は強いのです。 航海技術の発展とともに、ポルトガル、スペインは 競って海外に進出しました。 それを、プロテスタントに信者を奪われたカトリック のローマ法王が、信者を増やすために後押ししました。 その海外進出で、アジアアフリカを侵略し、 植民地にして、国力を大きくした。 これが第二の原因です。
1番さんの言われる事が正解です。今の世界はルネサンス文明です。
- bismarks0507
- ベストアンサー率31% (192/605)
ほいほい 元教師・現役予備校講師なりよ >人口も多くない、連合もしていない小さな国が集まったヨーロッパが、15世紀から勢力拡大して世界の中心といえる存在になったのはどのような原因があると思いますか? 現実的に世界の中心と世界史的に評価しえるようになったのは、早くて16世紀後期(大航海時代)だと思うのだが・・ 15世紀という見解も全否定する必要性は・・・微妙 色々思慮したすえにやはり、16世紀初頭・・として回答させてもらう ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 原因を指摘したい。影響度順に指摘したい (1)宗教改革による影響 特に自然科学的思考の発展・・・は大きいように思われる (2)自由主義の萌芽 (1)との兼ね合いもあるが、イタリア都市国家・及び欧州諸地域における『都市の空気は自由にする』を根底にする原始的自由の発展・進化が 封建権力の制約下からいち早く脱したことも要素であろう (3)急激な人口減少からのリバウンド 黒死病の大流行からかなりの人口現象が確認された時代を経て、人間の死生観が激変したこと またも(1)との兼ね合いがあるが、人間が広く「死を見つめる」機会を得ることによって、新しい自我を獲得した・・このことが社会科学・人文科学的な進化を加速度的にさせた・・と思われる 同時に急激な人口増加に対応する社会形成を余儀なくされた結果、様々な社会インフラ整備の急激な進化も指摘できよう (4)ローマ法による統治体制・契約概念の進化 これは極めて歴史学的な研究が日本では行われていない話だが、小生個人が納得した話なので説明しておきたい 14世紀以降、それまで慣習法で成分化されていなかった経済契約・個人間の契約が、古典的ローマ法の進化によってより活性化された、というものである わかり易くいえば、現代法により近い大陸法(シビルロー)へと進化したと同時に、それらが封建領主の下で採用されたことによって、社会底辺からの自由な経済行動を促し、経済活動の進化が様々な社会的発展因子を更に醸成した・・と思われる まぁ、簡単に言えば、より社会統制の上で好ましい法体系が確立し、それを基にした統治・司法環境が出来上がったことによるプラス効果が時間差を経て、発現してきた・・ということである ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ とりあえず、宗教改革の関係は大きい。 十字軍・モンゴル侵攻による世界経験・魔女狩り・黒死病などの恐怖状態から開放された欧州人民が、宗教の不条理・不合理性から蜂起するに至たる経緯には、それ以前の先進文化・文明の恵沢に浴する部分は大きいだろう。 一方で教育機関(特に大学)の充実は、その後の欧州社会は常に世界的に先進的であることも事実である。 小生が教育者であることもあろうが、欧州の基盤はローマ帝国であり、キリスト教であろうが、その進化・発展を促進させた起爆剤は、自由と封建体制からの開放であろう。 以上。極めて簡略かつ極論ではあるが・・