ベストアンサー 江戸時代の武士の比率 2004/01/05 08:33 江戸時代の各階級の人口比率はどうだったのでしょうか。特に武士の比率が知りたいので、Web上にあればURLなど教えてください。 みんなの回答 (2) 専門家の回答 質問者が選んだベストアンサー ベストアンサー tomo31 ベストアンサー率29% (5/17) 2004/01/06 22:58 回答No.2 大雑把には、士(武士)1割、農(農民)8割、工商(町民)1割というところでしょうか。 武士がどのくらいいたのか、ということは正確にはわかりません。江戸時代にも幕府が人口調査を行っていましたが、武士は調査対象外でした。 推定するとすれば、明治に入ってからの士族の数ですが、これは、卒族(武士への奉公人)を含めて約200万人です。総人口約3000万人のうち6~7%ということになります。 江戸時代を通じて武士人口がどうだったかということについては、なんとのいいがたいですが、幕末にむけて激減したということはないでしょうし、増加し続けていたとも考えられないというところです。 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 その他の回答 (1) noname#118466 2004/01/05 09:20 回答No.1 江戸と地方では比率が違ったと思われます。 江戸は世界一の大都市で人口は百万強あったようです。その半分が武士で武士階級では男性が7割ぐらいいたようです。これは参勤交代制度のため各藩が江戸に藩邸をもち江戸勤務の単身赴任者が多かったからだと思われます。 地方の資料は見つかりませんでしたが、当時は農業が基本になっていたのでおそらく農業関係者が7割~8割を占め武士一割、農業以外の職業が残りの一割ぐらいだったのではないかと想像します。武士階級が二割を超えれば農民は支えきれないと思われるからです。 参考URL: http://www.tilolu.com/yoshiwara/yoshiwara-2.htm 広告を見て全文表示する ログインすると、全ての回答が全文表示されます。 通報する ありがとう 0 カテゴリ 学問・教育人文・社会科学歴史 関連するQ&A 江戸時代の士農工商の人口比率は? 江戸時代を通じで人口は一定であったという話を聞きました。 では士農工商の身分の違いによる比率はどうだったのでしょうか? 人口全体に占める武士階級がどれくらいであったのか? またその比率が江戸時代を通じてどう変化していったのかが知りたいところです。 江戸の初期は、藩の取り潰しなどで武士は一時的に減りますが、農民よりも経済的に恵まれていたので、徐々に増え続けていったのではないかと想像しています。 それからこれはうろ覚えなのですが、江戸では武士が人口の50パーセントを占めていたという話を聞いたことがあります。 今おもうと、江戸中武士だらけになってしまい不自然だとおもうのですが、真実はどうなったのでしょう。 武士から見た江戸時代とは? 武士から見た江戸時代とは? 武士から見た江戸時代とはどんな感じだったんですか? 江戸時代末期のサムライの数は? 日本人は、何かと自分たちをサムライだとか思うような傾向があるように思います。 しかし、サムライってよく分からないのですが、サムライって武士の事ですよね。 明治時代以前の社会で、武士階級に所属していたものを指してサムライというわけですよね。 だったら、日本人はサムライの国だとか、俺たちはサムライだとかいうアンデンティティって間違ってませんか? その人の先祖は百姓かも知れないし、町人かも知れない。 そもそも、武士階級に所属していた人間はいったいどれくらいの数いたのでしょうか? 江戸時代の終わり頃の人口比率を大まかでよいので知りたいです。おねがします。 天文学のお話。日本ではどのように考えられていた? 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(現在の警察官の階級って、警視総監、警視監、警視長、警部、警部補、巡査部長、巡査長、巡査となりますよね。江戸時代の奉行所って警察とは職務が違うでしょうが) 3. 武士としては足軽が一番下で、その下に武士ではない中間、さらにその下に小者とかがいたのでしょうか? 4. 足軽の上にはどんな階級があったのでしょうか? 5. 奉行、吟味与力、与力、同心には武士のどんな階級が就いたのでしょうか? 江戸の武士 諸太夫などの高位の武士だと、身分の低い武士と同じ罪を犯しても量刑で優遇される事などはあったのでしょうか? 律令時代の「官当」は面白い制度だと思うのですが、江戸時代の司法制度で面白い事例があったら教えてください。 武士の出てる落語は、江戸時代に演じられいたのでしょ 落語に武士が出場する演目があります。 井戸の茶碗のように、武士を好意的に描き、武士の心意気を賛美している(演出方法により、これとは異なるのもありますが)演目もあります。 しかし、落語という笑いを求める・与える演芸の性格のため、人間の愚かさを描くことが多いです。そのため、武士の愚かさを描いたり、愚弄しているものもあります。例えば、たがや・巌流島・三軒長屋・棒鱈などが、これに該当します。 武士の出てる落語は、江戸時代に演じられていたのでしょうか? 町内内にあるこじんまりとした寄席のなかで、町人同志が、武士に隠れて彼らの愚かな行いを楽しむことがあったのでしょうか? あるいは、明治時代になり、武士が消滅して初めて、遠慮することなく大ぴらに、武士の出てる落語を演じることができる、ようになってきたのでしょうか? 江戸時代、武士への借金取立て 江戸時代、商人が武士に借金の取立てをするとき、なかなか払ってもらえなかったらどうしたのですか。 日本史の転換点?:赤穂浪士、池田屋事件、禁門の変に見る武士の忠義と正義 OKWAVE コラム 江戸時代の武士の服装について 今、江戸時代の武士の服装の画像を探しているのですが、 そういう画像が載せてあるサイトがなかなか見つかりません。 どこかいいサイト、もしくは本や雑誌があれば紹介してください。 宜しくお願いします。 江戸時代の領地支配 小学生の子供の社会科のテスト問題を何気に見て、疑問に思いました 問題の元となる資料は、武士・士・農・工・商・僧・公家等の人口比率 それと、領地支配者の割合 その領地支配者割合は、大名が77% 幕府が23% というもの つまりは、大名と幕府 すなわち武士が領地の100%を支配していたということが、読み取れました 江戸時代といっても、二百年以上ありますが、どの時点なのかは言及されていません 私の質問は、 ・江戸時代は、武士が領地のほとんど全てを支配していたのでしょうか? ・天皇家、公家、貴族、僧は、領地を持っていなかったのでしょうか? ・領地=田=米の生産量=経済の根本 が江戸時代だと思いますが、天皇家や僧が領地を持っていなかったのであれば、どうやって食っていたのでしょうか? なぜ江戸時代の武士は? なぜ江戸時代の武士は名前を変えるのですか? 例えば 西郷吉之助→西郷隆盛 桂小五郎→木戸孝允 伊藤俊介→伊藤博文 といった感じで名前が変わります。 ちなみ上記は司馬遼太郎さんの「竜馬がゆく」に出てくる一部の人物です。 他にもたくさんの人が改名しています。 どなたか分かる方いらっしゃいますか? 江戸時代の大阪の武士 江戸時代、豊臣家が滅んでからの大阪城には 誰が住んでいたのだろう…?なんてふと 疑問に思いました。大名でしょうか? 江戸時代の大阪には、武士が極端に少なかった そうですが(ネットで調べたら200人足らず) 本当ですか? だとすると、大阪は封建時代にほとんど封建と いうものを意識しない、自由市場経済の中で 生きていたということになるのではないでしょうか。 東京に行くと、いつも意識するのは「身分をわきまえる」という気風です。 これは、武士が多く、身分の格差を肌で感じることが 多かった時代の気風を、今も多少ながらひきついで いるのかなあと思ったりします。 ひるがえって大阪では、身分の違いというのは 経済力の違いによって生まれていたように思います。 努力と運次第で、身分の逆転もできる。 金持ちは、金を持っているだけだから威張るな。 そんな反骨の精神を感じたりもします。 (京都に行くと、公家というものがあり、 生まれ付いての身分の違いの意識が若干残っている ような気もします) これをまとめて大胆に仮説するなら、 「江戸は身分社会だが大阪は格差社会だった」 というようなことがいえるのではないでしょうか? 直接の質問の内容は、冒頭に挙げた2点ですが、 それ以外の皆さんのご意見も幅広くうけたまわりたいと 思います。 長文おゆるしください。 江戸時代からの儒教について 江戸から明治時代までに儒教(儒学)を学んでいた人が頭がすごく良かったのはどうしてですか? 比較的お金持ち層や実業家が(渋沢栄一など)学んでいる分野に見られます。 貧乏人は学んでいるイメージがありません。 あれって富裕層や武士階級が学んで価値のある学問なのでしょうか? 武士の言葉遣い 時代劇を見ていると、ある程度身分ある武士はいわゆる武家言葉でしゃべっています。 一方、奉行所の同心や下級の御家人、浪人者などは町民と同じ江戸っ子口調が多いです。 時代劇の考証が正しいのかがまず疑問ですが、実際の江戸時代でも階級によって武士の言葉遣いは違ったのでしょうか? その場合どのくらいの身分で分かれていたのでしょうか? 時代劇の金さんや鬼平みたいに、身分が高くても個人的好みで江戸っ子口調の人もいたんでしょうか? 江戸時代の敵討ち wikipedia「敵討ち」の文に 仇討ちは、中世の武士階級の台頭以来、⋯⋯「江戸幕府によって法制化される」 に至ってその形式が完成された。 とありますが、敵討ちを正当化した江戸時代の法典というのは何でしょうか。 私的制裁権としての「無礼打ち」や「妻敵討」は、江戸時代の刑法である「公事方御定書」の中にその定義がありますが、敵討ちはどうも違うようです。 HP上にも関連記事は沢山見つかりますが、その根拠を示した文章を見つけることができないでいます。 鎌倉時代の武士も暇? 江戸時代の武士は相当暇だったと聞きました。 鎌倉時代の武士も同じように暇だったのでしょうか?