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江戸時代の大阪の武士
江戸時代、豊臣家が滅んでからの大阪城には 誰が住んでいたのだろう…?なんてふと 疑問に思いました。大名でしょうか? 江戸時代の大阪には、武士が極端に少なかった そうですが(ネットで調べたら200人足らず) 本当ですか? だとすると、大阪は封建時代にほとんど封建と いうものを意識しない、自由市場経済の中で 生きていたということになるのではないでしょうか。 東京に行くと、いつも意識するのは「身分をわきまえる」という気風です。 これは、武士が多く、身分の格差を肌で感じることが 多かった時代の気風を、今も多少ながらひきついで いるのかなあと思ったりします。 ひるがえって大阪では、身分の違いというのは 経済力の違いによって生まれていたように思います。 努力と運次第で、身分の逆転もできる。 金持ちは、金を持っているだけだから威張るな。 そんな反骨の精神を感じたりもします。 (京都に行くと、公家というものがあり、 生まれ付いての身分の違いの意識が若干残っている ような気もします) これをまとめて大胆に仮説するなら、 「江戸は身分社会だが大阪は格差社会だった」 というようなことがいえるのではないでしょうか? 直接の質問の内容は、冒頭に挙げた2点ですが、 それ以外の皆さんのご意見も幅広くうけたまわりたいと 思います。 長文おゆるしください。
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江戸時代の大阪はごく初期に家康の外孫松平忠明が領した以外は天領(幕府直轄領)であした。(いまの大阪府の範囲なら小大名は高槻・岸和田にいましたが。) そのかわりに、大阪には大阪城代がおかれ五万石クラスの譜代大名が赴任していたほか、大阪定番、大阪加番として一~二万石クラスの大名も赴任していました。 また城代の下には大番組の一組が一年交代で江戸から赴任してきており、そのほかに大阪町奉行などもあり、大阪にいる武士が二百人というのは過小すぎますが、大阪に住み着いている(単身赴任ではない)武士であれば町奉行所の与力・同心、大阪定番の与力・同心、大阪船手くらいですので二百人ほどになります。
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- Pinhole-09
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児玉幸多氏の「大坂城代の歴史的意義」より抜粋 大坂城守備のためには、城代のほか、元和九年になって、定番(城番)二名を置いた。 慶安六年に付属の人員を、それぞれ与力30騎、同心100人に増員した。 (260人) 大坂城警備にあたったのは、このほか大番衆がある。 大坂には2組で組ごとに大番頭一名の下に大番衆50人がいた。 (100にん) 城代、定番、大番は幕府直属の常備兵力だが、このほかこれを加勢する加番があった。 数万石以下の大名四人でその軍役に応じた兵力を備えねばならなかった。 ただ加番の大名には石高に近い合力米が支給されたので、小大名は希望者が多かったという。 (一万石、二万石各二名として1200人) このほかに町奉行二名が置かれ、それぞれに与力30騎、同心50人ずつが付属していた。 (160人) このほか大坂目付、鉄砲奉行、弓奉行、具足奉行、金奉行、蔵奉行、破損奉行なだがあり、同心を付属するものもあり、軍事能力を有するものであった。 (200人位か) これらを総計すると大坂における軍事力は数の上ではかなりのものであったといえよう。 大坂の町奉行は他と異なり、大坂市街のほかに摂津、河内、和泉、播磨などの天領の租税も扱うので権力はおおきかった。 合計すると二千人近くなりますが、大坂に来ている経済関係の各藩の武士を加えても、江戸に比べると武士の姿ははるかに少ないでしょう。 町奉行の経済面での力といい、矢張り大坂は商人の町だったといえます。
お礼
詳しいデータ、ありがとうございます。 でも、それでも2000人程度ですか。 当時の大坂の人口から考えると、本当に少数ですよね。
補足
みなさん、ありがとうございました。 お礼を書く欄がありませんので、この欄を 借りて御礼申し上げます。 ちょっとでも勉強した方は常識的なことでしょうが「江戸時代の大阪は商人の町だった」と言うものの、 大阪の武士の実態はどうだったのか知っているか、と周囲の人に尋ねてみると、ほとんどの人が 「そういわれれば考えたこともなかった」 「江戸よりは少ないだろうけど、時代劇みたいに 普通に侍もいたんじゃないの?」といった 回答がほとんどでした。 これは、大坂を舞台にした時代劇がほとんどない ことや、「封建時代に商人が力を持つ」という 言葉の意味を深く考える人がほとんどないためかも 知れませんね。 つたない質問でしたが、あらためて江戸時代の 大坂に興味が湧いてきました。 みなさま、どうもありがとうございます。
- tachiuo
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大坂には諸藩の蔵屋敷が集中していましたから(中之島を中心に)、「200人」ということはないと思うのですが。有名人では、福沢諭吉は大坂生まれです。父が中津藩の蔵屋敷に勤めていましたから(父が幼い時に亡くなり、中津に戻りましたが、青年となった福沢は、大坂の適塾に学びました。なお、適塾の建物は、京阪淀屋橋駅近くに今も建っています)。多分、「200人」というのは、こうした諸藩の藩士を除いた数だと思われます。大坂城代や大坂町奉行などについては、#1さんの答えを参照してください。私は、特に付け加えることはありません。 いずれにせよ、武士が少ない都市であったことは間違いなく、封建制と無縁というと言い過ぎですが、江戸に比べると、本音が重んじられる社会ではありました。 なお、私は「大坂」と表記しました。これが「大阪」と変わったことについては諸説ありますが(有名な説は、坂=土に返る(反で「返る」と読める)=死ぬで縁起が悪い)というものですが、いずれにせよ、ほぼ、明治維新前後で書き換えるのが穏当でしょう。
お礼
ああ、なるほど。確かに私も文章を書く時は 明治維新を境に「大坂」と「大阪」を書き分けて います。適塾も見学にいったことがありますよ^^ 意外に狭い建物で、階段が急で驚きました。 時代劇を見ていると、江戸というところは 武士がたくさん歩いていますが、大坂の町中では 非常に稀だったということになりそうですね。 ちょっと都市部を離れると、生涯サムライという ものを見たことがない人がいたりなんかして。 ご助言、ありがとうございます。
お礼
なるほど、大阪が天領であったことは聞いたことが あります。 「天領」が幕府直轄領を意味するのはわかるのですが、 具体的にどのような統治体制であったのかが なかなかイメージできないのですけれど…。 江戸城代というのは、決まった家ではなく、いろいろ な大名が代わる代わる赴任してきていたのでしょうか。 当時の大坂の様子、もっと詳しく知りたくなって きました。