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江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士とし

江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか?

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回答No.2

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか?それとも武士としての待遇だったのでしょうか? 回答から先に述べますと「武士階級」でした。 (1)戦国時代の足軽は「卒」(そつ)と呼ばれ、馬には乗れない徒歩で戦場を駆け巡りました。 (2)しかし、秀吉の時代に「刀狩り令」が出されてからは、それまで、半農半卒であったものが、農業をとるか、卒となるかの選択を迫られました。当然、二手に分かれたことは言うまでもありません。そして、卒は武士階級としては、最下位に位置づけられました。 (3)江戸時代になってからも、足軽は武士階級の一番下位に位置しました。しかし、実際には、足軽の下には、中間、小者という最下位の身分も作られました。 (4)足軽は、下級ではあっても、士分でしたので、帯刀を許されていました。ちなみに、中間が腰に差していたのは「木刀」でした。小者は何も身に付けることはできませんでした。そして、小者が主人のお供をする時は「裸足」(はだし)でした。 (5)また、足軽以下は下駄を履くことは禁止されており、常に草履でした。 (6)家禄というものはなく、給金制度で、大方の大名などに仕える足軽は、年間5両2人扶持の安い給料だったため、内職などに精を出し家計を助けました。そして、足軽長屋に住んでいました。 <扶持の計算方法> 男扶持では1日5合の計算。 女扶持では1日3合の計算。 ですが、足軽は男扶持で計算されました。 5合×360日=1,800合。 1升=10合。 1,800合=180升。 1斗=10升。 180升=18斗。 米俵1俵=4斗。 18斗=4.5俵 従って、年間5両と米俵4.5俵を与えられたことになります。 (7)中には、内職が本業のようになり、職人肌になる者もいました。 (8)米沢藩の上杉鷹山などの時代には、下級武士が藩の財政危機を打開するため、新田開発などに従事しましたが、鷹山は、この者たちの藩を思う心に打たれて、士分を捨てることは許可しませんでした。 (9)米沢藩のように、農業をした者もいますが、江戸や大阪府内では土地を持つことは許されず、江戸や大阪府内の足軽はもっぱら内職で食いつないでいました。 (10)地方の大名の足軽では、農業をしていた者もいました。しかし、一応は立派な「武士」でした。

enbukan
質問者

お礼

わかりやすく細かいご説明ありがとうございます。参考にします。

その他の回答 (2)

  • oska
  • ベストアンサー率48% (4105/8467)
回答No.3

>江戸時代の足軽身分のものは半農半士だったのでしょうか? 江戸時代だと、底辺に属する武士扱いでした。 半農半士身分だと、有名なところでは「土佐藩の下士」ですね。 兵農分離が進んでいなかった旧長宗我部家臣が、この状態です。 普段は農業を行い、いざ合戦となれば武具を持って参戦。 山内家入城後、多くは帰農しますが一部は山内家家臣になります。 が、上士(山内家と一緒に土佐に入城した家臣)になる事は出来ず下士となります。 まぁ、武士とは名ばかりです。 江戸時代を通じて、下士身分(下士株)は売買の対象でしたからね。 (才谷屋)先祖が下士株を購入していたので、坂本家も武士扱いだったのです。 (本家筋の才谷屋が豪商だったので、坂本家は上士扱いだったとの説もあります) 先祖が下士株を購入していなければ、坂本竜馬は存在しません。 ただの、泣き虫寝小便小僧で終わっています。(笑) 例外的に、こんな変わった事例もあります。 伊予小松藩では、「農家の次男三男坊を、1年契約で足軽採用」しています。 1万石の小藩ですから、今の日本と同じで「慢性的な財政悪化・借金財政」だったのです。 ポンコツ与党は「増税する事で財政健全化を図る」様ですが、小松藩では「経費削減(贅沢禁止)、家臣の人員削減(解雇)」で乗り切っています。 安易に、年貢を上げる!事はしなかったのです。 某国のポンコツ選挙管理内閣首相も、藩主の爪の垢を飲んで欲しいもんですね。(笑) 藩としては、人件費削減が出来る。農家としては食い扶持が減る。一石二鳥ですね。 1年契約で足軽になった百姓は、契約期間中に限り「武士扱い」です。 武士扱いでも、農繁期には実家を手伝う事が許されていました。 この意味では、半農半士と言えますね。(笑)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3032)
回答No.1

戦国時代の足軽はほとんどは召し放たれました。(失職) 藩(幕府)に残れたものもいますが、ほとんどのものは武家奉公人扱いで、士分とは呼べません。 これらのものは家禄を得ているのではなく、奉公の代償として給金を得るのですから、半農とは呼べないでしょう。 なかには下士や郷士と呼ばれる待遇で、士分を得ています。 これらのものは基本的には士分なので禄が与えられます。 ただそれでは足りないので、農業も営んでいたわけです。 ご想像の半農半士といった形態のものは、下級ながらてっきとした士分で、農業は(身分上は)あくまで副業と考えるべきかと思います。

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