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足軽

江戸時代の足軽は武士なんですか? 下級足軽小物は木刀や脇差を所持してたと聞いたことありますが、足軽の立場は微妙みたいで、ネットで色々言われてて、どっちが本当なのかはっきりしません ある藩は、足軽身分の人も藩主江戸屋敷に連れて行った話しもあります その藩(中規模な譜代藩)は700人も江戸屋敷に家臣を住まわせてたんですけどね

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回答No.4

>江戸時代の足軽は武士なんですか? 足軽は士ではなく卒でしたので武士には数えられませんでした。 卒には足軽の他に仲間、小者などと呼ばれる武家奉公人が含まれます。 一般的にはこの武家奉公人を管理していたのが足軽階級の人達でした。 幕府(江戸徳川家)では足軽の上に歩行侍とされていた御家人がいました。 歩行侍までが士でした。 足軽は建前上は本人一代限りでしたが実際は子々孫々が代々引継いでいました。 土佐山内家や薩摩島津家ではこの士卒の区切りは江戸徳川家とは異なっていました。 >足軽の立場は微妙みたいで、ネットで色々言われてて、どっちが本当なのかはっきりしません 「はっきりしない」のは幕府をはじめ各大名家でその取り扱いが様々で更に時代によっても異なっていたことが原因です。 取り扱いが様々だったことから呼称も多々あり一般論では説明できません。 明治政府が戸籍上の身分制度を設けたさいに当初は士族と平民の間に卒族というのを設けていましたがすぐに卒族を士族に吸収した形にしました。 >ある藩は、足軽身分の人も藩主江戸屋敷に連れて行った話しもあります 連れていったというか参勤交代の際の要員数を定めた武家諸法度に石高に応じて引き連れる人数の中に足軽身分の人達の員数が定められていました。 参考:享保六年の規定 一万石:騎乗の者(3~4騎)足軽(20人)仲間・小者(30人) 五万石:騎乗の者(7騎)足軽(60人)仲間・小者(100人) 10万石:騎乗の者(10騎)足軽(80人)仲間・小者(140~150人) 20万石以上:騎乗の者(15騎~20騎)足軽(120人~130人)仲間・小者(250人~300人) ただし、騎乗の者とされる重臣は自身が召し抱えた足軽を引き連れていましたので行列全体から見れば足軽とされる人達の数は武家諸法度で定められていた数よりも多くなるのが実情でした。 >その藩(中規模な譜代藩)は700人も江戸屋敷に家臣を住まわせてたんですけどね 中規模というのは何万石をお考えでしょうか。 20万石以上の大名はおよそ21家ありました。 さらに加賀前田家のように禄高が1万石を越える家臣がいた大名家もありました。。 下手な大名よりも石高が高い家臣がいてその家臣が召し抱えていた足軽もいますので江戸屋敷に700人程度の足軽が居た大名家があってもおかしくはありません。

sokoo0823
質問者

補足

足軽というのは、基本的に武家奉公人なんですね 足軽は名字帯刀が許された一番、下の位の武士ということもネットで足軽の意味を調べるとでてきます 中規模というのは10万石くらいです。お城に足軽含めて1250人くらい、江戸屋敷に足軽含め750人くらいです 1万石につき200人以上のお城勤めの武士、足軽を雇わないといけないというルールがあったみたいですから、お城に雇う武士、足軽の人数が少ないですけどね

その他の回答 (3)

  • jkpawapuro
  • ベストアンサー率26% (812/3031)
回答No.3

藩により異なりますし、足軽にも身分はまた上下があり足軽の上位層と下位層で異なります。 江戸幕府は「徒士」や「同心」「中間(ちゅうげん)」として一応武士の末端です。 これは幕府直属の「中間(ちゅうげん)」は「中間(ちゅうげん)」でさえそれを本業の生業としているので実態にも即してます。 これがたとえば米沢藩だと「中間(ちゅうげん)」は帰農したうえで戦があれば(現実には大名行列しかないですが)臨時に雇用する形をとります。ですから彼らは農民身分です。 ですからどちらが本当かは各藩の記録を紐解かないとはっきりしません、ケースバイケースです。 >ある藩は、足軽身分の人も藩主江戸屋敷に連れて行った話しもあります 人数の多寡はあれどこの藩だって連れて行きますよ。大名行列に人数が定められていますので足軽含め大名行列を組むのがルールです。そもそも一定のクラスの武士が軍役につく限り荷物持ち等で足軽が必要になりますので。現実には口入屋(労働派遣業者)を使い極限まで人数は搾りますが。

  • ithi
  • ベストアンサー率20% (1960/9577)
回答No.2

sokoo0823さん、こんにちは。 いちおう、武士ではないです。武家奉公人という身分ですね。一代限りですが、後継者と交代することで事実上世襲も可能のようです。 詳細は下記のURLを参照してください。 足軽 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E8%BB%BD#%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%99%82%E4%BB%A3

回答No.1

今でいう歩兵です。 十手持ちの与力同心は町では花形でしたが、足軽です。 関東八州(八州)取締り出役はすごく権力を以て威張って各地を駕籠で出歩きましたが足軽です。 無論武士です。 大名行列の時に前を横切った西洋人を切り捨てた警護の武士も足軽です。 奉行所で、西洋人の指揮官を前にして、腹を掻っ捌いて腸を掴み出して投げつけました。多くのお話に出てきます。

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