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感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物

ok9608の回答

  • ok9608
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回答No.13

ピント外れの答えのように思いますが お許しを 質問は「感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物」とあり ますが、この命題は正しいか という問と理解します。 答えとしては ご指摘の通り 正しいとおもいます。聖書を創った人 々が 当時の民俗話に出てくる悪イメージの蛇を用いて人間に原罪 を背負わせた ということだと思います。それ以後 聖書とともに 蛇 の悪イメージが拡大されたと思います。聖書に現れる神様も人が創 ったものという考えがあります。神は言葉で人に語りかけます。要す るに 神をふくめた聖書物語は 他の物語と同じく 言葉のテキスト として取り上げてもよいモノです。蛇物語もマリア処女懐胎物語も  言葉であり 言葉のスサノオ/アマテラス方式の分解が可能であり また言葉での再構成も可能であると思います。 しかし、bragelonneさんは 神については 非経験ひらめき(B神)で あると発言されています。また これは 言葉では表しえない とも言 われます。これは感性の領域ではないか とも疑われますが 感性 は言葉で表され やはり感性ではない と結論づけられていると思い す。だから聖書の言葉の神(A神)は人の創ったモノで偽神なのです。 A神とB神は無関係であって 本来は A神を 神議論に乗せることは ない のです。しかしながら 聖書を深読みしていきますと 人類に対 する普遍的な言葉が 多く語られており あるいは多くの人が偽神で はあるが 神としてみています。だからA神とB神はとどこかで繋がって いるのではないか という疑いを持っておられように思われのです。そ の延長に蛇の話が質問になるのではないか と思います。しかし、聖 書は単なる一つのテキストとであって 蛇は理不尽な扱いをうけた動 物なのです。それ以上に深読みに拘る理由はないとおもいます。もっ とも 聖書以前に 蛇が悪のイメージに どうしてなったのか 私は理 解していません。爬虫類は その昔 哺乳類人類の祖先をいじめてお り 爬虫類を嫌悪するDNAが人にはある という話もありますが まっ たくあてにはできません。 私は「神とは非経験のひらめき」のような経験はしていない 普通の オッサンです。私にとって bragelonneさんの発言は信頼に足る モノ でしょうか。何万回 同じことを発言されたとしても この説明だけなら 信頼に足るかどうか疑問がのこります。疑問解消は bragelonneさん より外のひとの同様の発言がある場合です。胡散臭い人物の発言で あっても 同様の発言をしている データを多く集めれば話は変わりま す。共通の非経験ひらめき が 発言者同士で確認されれば おおき な声で 神についての発信ができます。古来よりの神様は 大方 キ リスト様を含めて粉砕されるでしょう。この場合、共通非経験ひらめき をして 発言者同士が唯一のB神をもつこと となります。 他方、bragelonneさんの神発言は  ただbragelonneさんが言ってい るだけのもので 非経験のひらめきではない という立場の人もいま す。経験上のA神です。言葉で説明されています。ここでは その言葉 を信じている人と信じてない人に分けられると思います。後者は 信じ てない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるで しょう。 言葉を信じる人は その中に矛盾があっても 何も問題ないのです。一 度理解すれば記憶が固定され それが正しいとされるのです。アマテラ スは それを利用したのです。スサノオを完全に制覇できるのです。多く の信者をもつ宗教は その典型でしょう。固定記憶を訂正するのは大変 です。大きな間違い、たとえば 固定記憶のために大量に信者が死亡し たことを認識し わずかに残っている内部のスサノオがこれはおかしいと 大きく反抗しないと訂正できないのです。聖戦の名のもとに アマテラス は とんでもないことを 起こす可能性があるのです。それは 固定化さ れた記憶に問題があり、思考が停止しているからだ と思います。が  逆に 固定化記憶に落ちたとき 人は何の不安もなく 迷いなく 涅槃寂 静の世界のような状態になるのも事実でしょう。平安の世界です。 ではどう対処するべきでしょうか。固定記憶(思考停止)の領域を できる だけ 狭めるのです。スサノオを温存するのです。例えば 多くの信者を 抱える宗教ではなく 個人個人が個人の神(C神)を信じていくという 狭い思考停止を創るのです。人の数だけ小さいC神がいていいとおもうの です。思考の活性化を強化していく ということです。 もう一つの 神を信じない 人は どう思考していくのでしょうか。何らかの 主張はあるわけです。その主張を非論理的と論理的に分けてみます。非 論理的とはスサノオが優先して自由に発言し 論理主張はしていない場 合です。芸術分野で よくみかける と思います。理屈は通ってはいない が 感覚的に相手の言いたいことは分かるという場合です。基本のDNA が作用しているのではないか と思います。 論理的とは 典型的なものは数学とか自然科学でしょう。矛盾はないが 証明できない原則から 構造体を演繹構成し 科学においてはそれを実 証していくもの と思います。原則を立てるところ は スサノオ的ですが  あとはアマテラス的であります。原則とは これ以上には 言葉の説明で は堂々巡りとなる 言葉なのです。神がいる あるは 神がいない は原 則なのです。神がいるとして 論理的な演繹構成体は可能であると思い ます。ただし 実証は 難しいと思いますが。 もう一つの無意識下の問題ですが 脳機能のMRI、CT、脳酸素分布測定 などの翻訳機によって 無意識が言葉になりつつあります。言葉になれば ス/ア分解できるのです。段々には 無意識問題も論理的に分かってきて いると思います。それでも無意識の領域は残るわけですが 反応がないだ けに捉えどころがないと思います。 以上 大変失礼いたしました。

bragelonne
質問者

お礼

 まいった。持ちこたえられるのですが まいった。  おうけい9608さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  まづ ムイシキの問題を先に見ます。  ★ ~~~~  もう一つの無意識下の問題ですが 脳機能のMRI、CT、脳酸素分布測定  などの翻訳機によって 無意識が言葉になりつつあります。言葉になれば  ス/ア分解できるのです。  ~~~~~~  ☆ ス/ア分解 つまり 知覚か概念か あやまちうるスサノヲ人間語か 普遍性をめざすアマテラス人格語および科学語か これらが 分かるようになるのですか。  征服欲ないし支配欲――《われは 神のごとくいかなるものの下にも立つまい》とひそかに堅く心に誓った人間の思惟および行為の形式としての――は アマテラス語理性による産物であると明らかになりましょうか?    ただしもっとも 感性も じつはけっきょく絡まっていますので やはり全体としては 《スサノヲ( S )‐アマテラス( A )》連関としてあるとは 思います。それをも分解し得れば でかしたぞ 科学! ですね。  今回の問題とそれを解く鍵は 次のくだりにありましょうか。  ★ ~~~~  他方、bragelonneさんの神発言は  ただbragelonneさんが言ってい  るだけのもので 非経験のひらめきではない という立場の人もいま  す。経験上のA神です。言葉で説明されています。ここでは その言葉  を信じている人と信じてない人に分けられると思います。後者は 信じ  てない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるで  しょう。  ~~~~~~  ☆ この最後の  ★ 信じてない ことを信じている と捉えると一つの信者グループともいえるでしょう。  ☆ が 神の神たることを物語っていませんか? あるいはつまり  ★ 信じる・信じない  ☆ という言葉――つまり 表現ですね――そのものが 神を示唆していると思うのですが。  示唆していないとすれば すべては《考える》の世界であるとなります。  つまり 世界は合理か不合理かで割り切れるものとなります。経験合理性の世界です。  でも 《非合理》の領域があるかも知れない。  言いかえると 合理と不合理との世界を超えたところの非合理の領域は あるのか無いのか分からない。分かるか分からないかが 人間には 分からない。  だから 《考える》ではなく 《信じる(あるいは 無根拠において非思考として受け容れる)》があります。じんるいは この《信じる》という言葉を 幸か不幸か 持ち合わせています。  《信じる》の世界においては 狭義の信じると そして信じないとがあり これらふたつは 互いに同等です。表現の違いだけであって 中身はまったく変わりないものです。  中身も違うというときには――つまり 有神論と無神論とに違いがあるというときには―― その《神 ないし 無い神》がどういうものであるのかが人間に分かったときです。  《無限》とは何か? その中身が人間に分かったときには この神についても 信じるではなく 考えるというコトが起きます。でもおそらく そのときには そのように合理・不合理の世界に足を踏み入れたと捉えられた非合理なる無限=神は じつは 無限=神ではなかったと分かるとも思います。なぜなら 非合理は 合理・不合理の世界に含まれるようになったからです。そのようにあらたに拡大して出来た《合理・不合理の世界》を超えて じつは今度はそして今度もあらたな非合理の領域が 人間には想定されてくるはずだからです。    もしそうでなければ それはわれわれ人間が神になったときです。  《合理・不合理の経験世界と非合理の場》という全体世界をわれわれ人間が《考える もしくは 感じる》をとおして知ることが出来るようになるときです。  ★ ~~~~  もう一つの 神を信じない 人は どう思考していくのでしょうか。何らかの  主張はあるわけです。その主張を非論理的と論理的に分けてみます。  ・・・  論理的とは 典型的なものは数学とか自然科学でしょう。矛盾はないが  証明できない原則から 構造体を演繹構成し 科学においてはそれを実  証していくもの と思います。原則を立てるところ は スサノオ的ですが   あとはアマテラス的であります。・・・  ~~~~~~  ☆ このうちの  ★ 原則を立てるところ は スサノオ的ですが   ☆ が印象的です。そこにヒラメキがあるのではないでしょうか。  次のご指摘の分析するところは 前回から強烈な説明力を持つと思いましたが DNA を取り上げていることなど印象的だと思います。  ★ ~~~~~  非論理的とはスサノオが優先して自由に発言し 論理主張はしていない場  合です。芸術分野で よくみかける と思います。理屈は通ってはいない  が 感覚的に相手の言いたいことは分かるという場合です。基本のDNA  が作用しているのではないか と思います。  ~~~~~~~  ☆ 女性がしばしば 自分の見解について必ずしも論理を尽くして説明しないとすれば それはすでにヒラメキにおいて結論が分かっているという思いがあるからなのかも知れません。  《女(スサノヲ)‐男(アマテラス)》なる連関――しかも通念として支配関係にまで片寄った連関制――は むかしのものですが ただしあんがい《ヒラメキ》をめぐる知恵は 女性的なるものであるかも分かりません。ヒラメキとしての知恵は自然本性として 男にも女にもそなわると言いたいのですが その自然本性からの乖離が 男の場合 世の中に出てシガラミをたくわえて いちじるしくなるのかも分かりません。それも むかしの話でしょうか。  次のご指摘と分析も 女性的なるスサノヲ性ということが 基軸になっているように思われました。  ★ ~~~~  ・・・大きな間違い、たとえば 固定記憶のために大量に信者が死亡し  たことを認識し わずかに残っている内部のスサノオがこれはおかしいと  大きく反抗しないと訂正できないのです。聖戦の名のもとに アマテラス  は とんでもないことを 起こす可能性があるのです。それは 固定化さ  れた記憶に問題があり、思考が停止しているからだ と思います。が   逆に 固定化記憶に落ちたとき 人は何の不安もなく 迷いなく 涅槃寂  静の世界のような状態になるのも事実でしょう。平安の世界です。  ~~~~~~  ☆ すなわち  ★ わずかに残っている内部のスサノオ  ☆ は 具体的には世界の女性のみなさんに期待するところが大きいのではないでしょうか。    あるいはまた 《固定記憶ないし思考停止》という場合と そして《思考および判断を中断する》というエポケーの場合とは 分けて捉えるべきでしょうね。後者は ヒラメキに還るということを含むと思います。前者は アマテラス語――たとえば《聖戦》――による独走にさらに向かうということだと見ます。  今回は 順序が前後しましたが 次のようにご回答そのものから説き起こされています。  ★ ~~~~~  質問は「感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物」とあり  ますが、この命題は正しいか という問と理解します。  答えとしては ご指摘の通り 正しいとおもいます。聖書を創った人  々が 当時の民俗話に出てくる悪イメージの蛇を用いて人間に原罪  を背負わせた ということだと思います。それ以後 聖書とともに 蛇  の悪イメージが拡大されたと思います。                       聖書に現れる神様も人が創  ったものという考えがあります。神は言葉で人に語りかけます。要す  るに 神をふくめた聖書物語は 他の物語と同じく 言葉のテキスト  として取り上げてもよいモノです。  ~~~~~~~~  ☆ ご文章を分断してしまいましたが その後半の問題について考えたところを上に述べて来たわけでした。  あと 固有に《表現の問題》というものもあると見ます。  眠り猫にゃあさんとのやり取りで 《とぼけた問答といった文学上の手法》について触れたところもあります。  そしていつも引き合いに出しますが 《ねたむ神》という表現は 《たのしい我が家》という表現と同じように・つまり《たのしい》のは我が家がではなく我が家にあつまる人びとがであるのと同じように 《ねたむ》のは 神がではなく神のもとにあつまる人びとがであるという表現の結構があるかと見ます。  ★ 神は言葉で人に語りかけます。  ☆ むろんこれも 聖書記者の文学上の腕の見せ所である問題です。言葉が本当に聞こえたりあるいは モーセは顔と顔とを合わせて友だちのように神と話したと書いてあったりしますが そういう経験上の事象はありません。ぜんぶ 《神とわれとの関係》を仮りに人間の言葉で表わそうとすれば こうなるという試みです。  そうして 《へび》 このヘビは もうそろそろ おしまいにしましょうというところだと思います。(動物虐待のことではありません)。  ぜんぶ引用しなければならないとなると 困ってしまいました。みなさんも 精神の胃袋で消化して行かれることでしょう。

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    キリスト教の原罪と 贖罪について質問です。 まず2つの 聖句をあげると、 (創世記 1:28 ) 神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。 (創世紀9:1) それで、神はノアと、その息子たちを祝福して、彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地に満ちよ とあります。 神様は人を増やそうと命令していて、誰かを殺そうとは命令しておられないと思います。 人を減らすようなことはしない。 むしろ 生まれることを望んでおられる。 これを確認したいと思います。 一方で アダムとエバが蛇にそそのかされて、食べると死ぬことをになる 知恵の実を食べてしまった。 2人は神のようになるという言葉を受けて、食べてはいけないと言われた 知恵の実を食べて 神様に背き、罪をおかし、永遠に生きる見込みを失って死ぬことになった。 これが 原罪ということだったと思います。 そこへ、こ の原罪を贖うために 代償として イエスキリストの命を 十字架にかけた。 イエスキリストがその死を持って 原罪を償った贖ったということだと聞いています。 そうすると、現在によってアダムとイブが死ぬことになった この2つの命、まず2人がいなくなるわけです、そしてこの子孫 もう 原罪を引き継ぐので、これらはの命も失われたわけです。 これで 無数の命が失われることになります。 人が死んでいなくなるわけです。 言葉が直接 すぎたらごめんなさい。 それなのに贖罪によって、イエスキリストの命も失われます。 十字架にかけられて死んでしまうからです。 と考えると、人がひたすら失われていませんか? それはこの文章の冒頭であげた、創世記の2つの聖句「生めよ 増えよ 地に満ちよ」という神様の命令や意志に矛盾してるし 反してると思います。 神様は人を増やしたいわけです。 命を増やしたいわけです。 ところが この 原罪と 贖罪の考え方では、ひたすら 人が減っていきます。 一説によれば神様は 十字架にイエスをかけられることを計画にされ、イエスの前の時代に生まれてきた 預言者たちはイエスが十字架にかけられることをあらかじめ 述べていた。 イエスも十字架にかけられる前日に、ペテロによって 十字架にかけられるようなことがあってはなりませんと言われたけれども、イエスはペテロをあなたは人のことを思って 神のことを思っていないと退けて、十字架にかけられます。 もちろん イエスは様々な 奇跡を起こす力を与えられていたので、十字架を避けることもできたでしょう けれども、十字架にかけられる方を選んだ。 でもそれって本当に神様が望んだことなのかなと思います。 先ほども言った通り 神様は誰の死も望んではいなくて、むしろ人が増えていくようにと思っているわけであって、アダムや エヴァ それの子孫の死もイエスの死も望んでいないと思います。 では 何なんだろうと考えた時、サタンの思惑ということが浮かんできます。 永遠の命を見込まれていたアダムとエバをそそのかし 知恵の実を食べさせて、死に追いやり、原罪を贖う 目的でイエスキリストを十字架にかけ、死に追いやり、大勢の人を死に至らしめた。 例えば アダムとエバが原罪を負った贖いとして、イエスの死によらなくても あるいは、新たな命を誕生させることによって贖わせることもできたと思うんですよね。 アダムとエバの原罪を贖う方法として、もしあなたたちが新しい命を誕生させれば、赤ちゃんを生み出せば、あなたたちの原罪を取り払いましょうと全知全能の神様ならできたと思うんです。 ということは原罪による死、その子孫の死、 それを贖うための死、これらはとても サタン的だなと思います。 死ぬことでしか 何かを表現できないからです。 神様ならば 誕生させることで全てを表現してくれるんじゃないかと僕は思います。 イエスの贖罪後も 人は死んでいます。 本当に神様が望んだ贖罪であれば、それが神様的なものであれば、直ちに 永遠の命が与えられると思うんです。 それから 2000年経ったと言われる今も人は死んでいきます。それは 原罪と 食材がサタン的なものであり、神様の意志にそぐっていないからじゃないですかね。 例えば 子供がお腹を空かせて親に食べ物を求める時。親はできるだけ早く食べ物を与えたいと思うと思います。 ところが 永遠の命が与えられるのは ハルマゲドンの後。死を恐れ 苦しむ人もいるのに、ずっと先です。神様ならば 直ちに 永遠の命を与えてくれるんじゃないですか? 原罪、贖罪、 ハルマゲドン、 復活はサタンによる計画 じゃありませんか? ご読了に感謝します

  • キリスト史観

    (1) イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。  ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~   はじめに ことばがあった。  ことばは かみとともにあった。  ことばは かみであった。  このことばは はじめにかみとともにあった。  すべてのものは ことばによって成った。  成ったもので、ことばによらずに成ったものは何一つなかった。  ことばの内に いのちがあった。  いのちは 人を照らすひかりであった。  ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。  くらやみは ひかりをとらえ得なかった。  ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~  16:しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。   あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。  17:はっきり言っておく。   多くの預言者や正しい人たちは、   あなたがたが見ているものを見たかったが、   見ることができず、   あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、   聞けなかったのである。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。  これにしたがうと イエスは キリストなる神として モーセやアブラハムよりも前にいたことになります。    その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。  (2) イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史。  アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように―― 《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。  その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》              (出エジプト記3:14)  という答えを得たと言います。  さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は     《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編2:7)  という言葉を その神から聞いたそうです。  イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3)  (3) 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。  その後 時は飛んで――アブラハムからニ千年でしょうか―― イエスという人が出たというわけです。  イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書いてあ   る箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人びと   は皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。   と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21)  (4) このとき――さらには 十字架上に去って行ったそのときに―― 言わばキリスト史観が完成したと思われます。  神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上―― ここまで 及んだのだと捉えられます。  まるで 千年二千年もの時間をかけて ことばをもてあそぶかのように。  (5) 理論としては 存在論である。  《存在》――《わたしは ある(エフイェー)》――をめぐる理論としては これで 完成だと言ってよいのではないでしょうか。  《わたしはわたしである》という自己到来とその自己の自乗(冪)を繰り返す動態。  (6) アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか?  むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。     (α) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来ないと人びとは思ってしまう。   (β)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。   (γ) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ道徳や信念やあるいは科学としての光に終わってしまう。   (δ) あるいは ひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。   (ε) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。   (ζ) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなく イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。   (η) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。   (θ) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。   (ι) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。  (7) ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めて キリスト・イエスだと分かった。  生前には――イエスはみづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。  ▼ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~  21: 更に、主は言われた。    「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。    あなたはその岩のそばに立ちなさい。  22: わが栄光が通り過ぎるとき、    わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、    わたしが通り過ぎるまで、    わたしの手であなたを覆う。  23: わたしが手を離すとき、    あなたはわたしの後ろを見るが、    わたしの顔は見えない。」  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は 見えない。      (8) というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。    この虚構が なかなか 捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのかを別としても。  (9) ことばを《こと(事・言)の端》として捉える民にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか?  ・ たぶん 辻褄は合っている。か。  ・ 二千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。  (10) ユダヤから見て異邦人のあいだに このキリスト史観を共有する人間はいるか?  世界は このキリスト史観を受け容れただろうか?  ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけである。

  • 【宗教・イスラム教の嘘】イスラム教の教えに矛盾を見

    【宗教・イスラム教の嘘】イスラム教の教えに矛盾を見つけてしまいました。 イスラム教の教祖はムハンマドで、ムハンマドこそがこの世の唯一の神である。地球の人間の誕生であるアダムとイブの直系の子孫で、兄弟の子孫にユダヤ教の教祖であるモーゼがいますが、モーゼの兄弟の子孫がイエスであり、キリスト教はイスラム教が誕生して、数世紀後にユダヤ教が生まれて、ユダヤ教の数世紀後にキリスト教が誕生したはずなのにイスラム教の教典のクルアーンにはキリスト教が登場します。 イスラム教の教祖のムハンマドが生きていた時代にはキリスト教は存在しなかったはずです。 いまイスラム教徒が信じて信仰している教えはムハンマドの教えではないのでは?

  • 闇の中にいる人が光を見ることができるためには・・・

     ( a ) わたしたち人間が 闇に覆われていたのが そこに光の差すのを見ることができたのは イエス・キリストの出現によってである。  と 質問者自身 思っています。  信仰――非思考の庭がわが心に成るということ――の問題ですが・つまり言いかえるとドグマの問題なのですが 哲学として考えるところをこの( a )の命題を説明しつつ述べますので ご見解をおおしえください。  闇の中にいる人間が光を見ることができるようにする手段についてという切り口ですが。つまりはその意味で 人びとの罪が贖われるためには 何が為されなければならなかったかという問題ですが。  それは いくつかありえたのでしょうが もっともふさわしい手段というのは   ( b ) 神が人間となって 人間として――ということは 人びとに決して その生前には 神であることが分かられずに 人間として―ー去っていくことだった。のだと思われます。  ( c ) 人間としてというのは たとえば弟子たちも 最後には全員 イエスを裏切ったという事態。つまりイエスは 人から裏切られるような人間存在であったということ。  あるいは はりつけになったイエスの脇腹を突くと 血が出たのだし 実際 イエスは死を死んだということ。などを言います。  ( d ) 人間としてでなければ――つまり神として 十字架上から降りて来るなどといった奇蹟を起こしたなら 話は別になってしまうという意味ですが―― わたしたちの生活上の尽力が 到底 最終の目的に達することなど出来ないとわたしたちが思ってしまう。  ( e ) しかも 神が肉となった人間としてでなければ 人に見させる光は ただの理性の光にとどまってしまう。逆に言いかえると 神は――そして神なる聖霊は―― 人間の精神なのではないと知らせる必要があった。  だから 信仰は 非思考。ヒラメキ。  ☆ この物語について 哲学はどう捉え扱うのか これが知りたいところです。どうでしょう?

  • 宗教の歴史

    世界の宗教の発生の歴史や相違について、宗教学の専門書でなく、 判り易い本がありましたら教えて下さい。 「ユダヤ教・キリスト教・イスラム教」と「仏教・ヒンズー教」の どちらか一方のグループだけについて書かれた本でも構いません。 一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教は同じ神で、宗教の違いは、 預言者の違い(モーセ・イエス・ムハマンド)と聞いています。 イスラム教の5大預言者はモーセ・ノア・アブラハム・イエス・ムハマンドで、 悪魔サタンはイスラム教でシャイターンとか、 仏教のお釈迦様はヒンズー教のヴィシュヌ神の化身とか。 どうぞ宜しくお願い致します。

  • キリスト史観が成ったんだって!  おおーい! 

    0. 経験合理性から飛躍した思惟があることをお断わりします。 §1. イエス・キリストは モーセやアブラハムより先にいた。 1. 聖書記者の述べるには こうです。 ▲ (ヨハネによる福音 1:1-5 ) ~~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/john.html はじめに ことばがあった。 ことばは かみとともにあった。 ことばは かみであった。 このことばは はじめにかみとともにあった。 すべてのものは ことばによって成った。 成ったもので ことばによらずに成ったものは何ひとつなかった。 ことばの内に いのちがあった。 いのちは 人を照らすひかりであった。 ひかりは 暗闇のなかでかがやいている。 くらやみは ひかりをとらえ得なかった。 ▲ (マタイによる福音書 13:16-17) ~~~~~~~~~~ http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html イエスは言った。 《・・・ しかし あなたがたの目は見ているから幸いだ。 あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。 はっきり言っておく。 多くの預言者や正しい人たちは あなたがたが見ているものを見たかったが 見ることができず あなたがたが聞いているものを聞きたかったが 聞けなかったのである》。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   2. ヨハネのほうは キリスト・イエスについて語っており マタイのほうはイエスがみづから語った言葉です。これにしたがうと イエスは キリストなる神(《ことばである神の子》)として モーセやアブラハム(《多くの預言者や正しい人たち》)よりも前にいたことになります。   3. その正否をうんぬんする前に すべては表現の問題であるというようなかたちです。その表現の歴史としてでも 世界は動いて来たというひとつの主題です。 §2 イエス・キリストを俟ちのぞみつづけた歴史 4. アブラハムは 七十歳をすぎているのに この神から――あたかもお告げがあるかのように――《故郷の地を去って 行きなさい》と言われ そのようにしました。 5. その子孫としてモーセは その神に名を尋ねたとき    《〈わたしはある〉 それが わたしである》     (エフィエー アシェル エフィエー。)              (出エジプト記 3:14 ) という答えを得たと言います。   6. さらにそのあと 伝えによると ダヰデという人は或る日    《きょう わたしは おまえを生んだ》(詩編 2:7 ) という言葉を その神から聞いたそうです。   7. イザヤという人に到っては 《主なる霊が わたしに臨んだ》と表現する歴史に到りました。    これは主がわたしに油を注いで     貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね     わたしを遣わして心の傷める者をいやし     捕らわれ人に放免を告げ・・・(中略)・・・るためである。               (イザヤ書 61:1-3 ) §3 俟ち望まれたキリスト・イエスの登場。 8. その後 時は飛んで――アブラハムから二千年でしょうか――イエスという人が出たというわけです。 9. イエスが 《自分の育ったナザレに来て いつものとおり安息日に会堂に入り 聖書を朗読しようとして立ち上がった》時のことです。        すると 預言者イザヤの巻き物を渡され 開くと次のように書い    てある箇所が目に留まった。      主の霊がわたしに臨み      油をわたしに塗った。      主がわたしを遣わしたのは      貧しい人に福音を伝え      捕らわれ人に解放を・・・告げ知らせるためである。          (つまり イザヤ書 61:1-2)    イエスは巻き物を巻き 係りの者に返して席に坐った。会堂の人    びとは皆 イエスに目を注いでいた。そこでイエスは      ――この聖書のことばは 今日 耳を傾けているあなたたちに       実現した。    と話し始めた。         (ルカによる福音4:17-21) 10. このとき――さらには十字架上に去って行ったそのときに――言わばキリスト史観が完成したと思われます。 §4 神と人間との関係の歴史が――人間のことばによる表現上――ここまで 及んだのだと捉えられます。   11. それは まるで千年も二千年もの時間をかけて あたかもことばをもてあそぶかのように。 12. そして もし成就したのなら キリスト史観は もうそのイエスまでだと考えられます。あとは 余韻のみではないかと。 13. キリスト史観から オシへを取り出し掲げる神観ないし神学をみちびくのではなく――ましてや その考えるべきオシへを 何を錯乱したか 無条件で受け容れなさい(つまり 信じなさい)と説く組織宗教をでは断じてなく―― 哲学としての神論ないし人間論をかたちづくりたい。 §5 キリスト史観は 理論としては 存在論である。 14. 《存在》――《わたしは ある(エフィエー。 I am. )》――をめぐる理論としては この命題で 完成だと言ってよいのではないでしょうか。 15. 《わたしはわたしである》という自己到来とその――そこから逸れたときにはわれに還るところの――自己還帰すなわち 自己(存在の数として一(いち))の自乗(冪)を繰り返す生活動態。(1^n=1)。 §6 アブラハムやモーセや ダヰデやイザヤらは このイエスの登場を待っていたと どうして言えるのか? 16. むしろイエスの退場の仕方に焦点が当てられる。   (あ) イエスは磔にされたまま 人間として去って行った。その意味は もし《神の子なら そこから降りて来てみろ》とあざける声を承けて神として十字架から降りて来ていたなら それは神の力による奇蹟であろう。だから そんなことは 人間には出来っこないと人びとは思ってしまう。 (い)  けれども人間としてだけではなく 神として去った。その意味は もし人間としてだけならば それは単なるひとりの殊勝なしかも目立ちたがり屋の人間がやったことだ。で済んでしまう。 (う) つまりその暗闇の中でかがやく光は ただ人間のちからとしての道徳や信念やあるいは科学の光に終わってしまう。 (え) あるいはひとりの奇特なやからの一編のパーフォーマンス(芸術作品)だと見なされて終わってしまう。 (お) すなわち確かに闇を照らす理性の光あるいは感性の輝きとして世界を明るくしたかも知れないが そこまでである。闇そのものを晴らすことは出来ない。 (か) われらが心の底なる深い闇そのものに光をあて照らしただけではなくこれを晴らし イエスはみづからがキリストなる神として わが心の燈心に火をともすことを成した。 (き) それは 人間にできることではない。神・その霊のみがよく成し得る。と示した。 (く) しかもこれらすべては 大ウソである。一編の虚構である。 (け) この虚構が 虚構ゆえにも 世界史上ただひとつの特異点であり核反応である。 §7 ペテロや弟子たちも イエスが去って行ったあと初めてキリスト・イエスだと分かった。 17. 生前には――イエスは みづからが神の子であると自称さえしていたが―― ペテロらは 分からなかった。《虚構――イエスの大嘘――》を捉え得なかった。 18. なぜか? ▲ (出エジプト記 33:21-23) ~~~~~~~~~ 更に、主は言われた。   見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。   あなたはその岩のそばに立ちなさい。   わが栄光が通り過ぎるとき、   わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、   わたしが通り過ぎるまで、   わたしの手であなたを覆う。   わたしが手を離すとき、   あなたはわたしの後ろを見るが、   わたしの顔は見えない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ というふうに 生前のイエスについては 弟子たちの目は覆われており イエスの正体が分からなかった。死後やっと キリストの背面を見ることが出来た。《顔――真理そのもの――》は なお見えない。     §8 あらためて《表現の問題》という問題 19. というふうに 言わば《ことばの民》にとっては ことば・ことば・ことば・・・として歴史が推移すると捉えられているものと考えられます。   20. この虚構が なかなか捨てがたいようだと思われ 受け容れられたのでしょう。どこまで分かったのか・どう解釈されたかを別としても。 21. ことばを《実質である事の単なる端として捉え 言の葉としゃれて表わす民》にとっては このキリスト史観をどのようにあつかうのがよいか? ( a ) たぶん 辻褄は合っている。か。 ( b ) 二千年四千年ものあいだ 語られたコトバを追って 人びとの歴史がいとなまれたと言われても こたえようがない。か。 22. 世界は このキリスト史観を受け容れたのだろうか? ユダヤは イエス・キリストをみとめていない。ヨーロッパ人は あらためてどのように受け容れたのか?  23. ただしその実質的な内容は 人びとに元気をあたえること。人びとが元気になること これだけであると考えられる。俟ち伸びわびた史観が成就したのであるからには あとは すこやかさだけである。

  • イエスとアクマ

     キリスト・イエスは 要するに 人間のチカラで戦わなかったのだと考えられます。  だから 十字架上に去って行ったあと 人びとの心に復活した。  話の都合じょう悪魔という言葉を出せば 悪魔は その十字架じょうの死の淵までは よう ついて来なかった。  それまでは イエスと同じ足取りで同じ軌跡をたどっていた。  イエスが何をするか その行動を追跡していた。  ハリツケの寸前にまで影のごとく寄り添って来ていた。  ところが 死の淵にまでは そのみづからの能力によってついて行くことが出来なかった。  それでこそ悪魔であった。  すでに死んでおり あらゆるものを否定し死にみちびく親分である悪魔も 自分がふたたび死ぬことは 出来ない相談であった。  もしそうすれば 即座に一たんよみがえって ふつうのまともな存在となる。と思ったとたん 中から炉心溶融を起こして溶けて行ってしまうとちゃんと知っていた。  ゆえに イエスの死の淵にまではもう よう来なかった。  去って行ったイエスに度肝を抜かれた。  よって それまでに罪を犯した者どもを自分の胃袋の中に抱え込んでいたのが すべて吐き出さざるを得なくなった。  文字通り アクマは 腑抜けになったのである。  添削をどうぞ。思いっきりのご批判をも。