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ブロック制は哲学カテには ふさわしくない。

atomonadosの回答

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回答No.5

 嘆き節 承りました。ということは公論の意味を私は取り違えていますね。だとしても「万事公論」の根拠はもとより反論の意図はありません。  質疑応答の場にさえつかぬものは論外として,質疑応答の一方性より討論の双方向性を訴えておられる。それによってより問題は明確になるのだし,互いに高め合うこともできる。もっともなことだと思います。  そして,産婆法を引いての一面的な反論には,別なる取り組み,知識の活用術を説明されました。ご見解を尊重したいと思います。  ただ,一つ論点としたいことがあります。それは,《師》と《弟子》の関係です。もちろん表面的に師弟関係があるわけではありません。 たまたま「あわせてチェックしたい」のリンク先で以下のように回答されているのを見かけました。 >あるいは 次のような考え方があります。  【Q:ひとは だれから おそわるか】   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4974759.html  ☆ その答えは 《自分からである》です。《みづからがみづからをおしえる》です。 この考えに私は同意しています。  それを師弟関係というのは大げさですが,そういうものがなければ,おっしゃるところの知識の活用術にはならないと思われるのです。  だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。  この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。  具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。  そしてまた,回答する私が質問者から教わっているなと思う経験があり,ときおり,今回もそうでしたが回答欄に「ありがとう」を述べることがあります。これは今思えば,内なる師が導いたとみる見方もあるのかなと思ったわけです。  実際私の回答は等身大ではなく,自分で見てですが,せいのびをしています。先の回答はタイムラグを見逃してしまっていますが,単に思いつきを述べたのではなく時間をかけ推敲したものです。  論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。  以上よろしくお願いいたします。

bragelonne
質問者

お礼

 ★ 〔* みづからの心の中における〕内部的師弟関係  ☆ に完全に同意します。  あともさん ご回答をありがとうございます。  《知恵》の主題についてもです。まづは 文章全体を引きます。  ★ ~~~~  だとすれば,他者の質問であれ回答であれ,それを契機に《みづからがみづからをおしえる》ことを為すことができるとすれば,それを知恵と言ってよいのではないか,また哲学的であると言ってよいのではないかと思います。  この場合,自己に内在する師弟関係があると意識するほうがよいのではないでしょうか。そして哲学的であるとは外部から知識を吸収することではなく,この内部的師弟関係に基づいてゆくことであると思ったのです。  ~~~~~~  ☆ 知恵にかんして受け容れようとしていないように 前回のわたしの応答が見えたとすれば それは 《無知の知》とその対話過程がともなうけんか腰を避けようという気持ちがつよかったからだと思います。知識の授受に対して もともと倍も三倍も重く知恵のことを受け留めています。  《内部的師弟関係》につきましては まづその具体的なあり方として:  ★ 具体的には「私はこう思う」に対して内なる師「だがほんとうにそうかね」というようなやり取りがなされることが大切なのではないでしょうか。  ☆ ということだと これも同じくわたしも受け留めています。    そしてもし これに要らぬひと言をつけ添えることがゆるされるならば こう思っています。心の内なる師弟関係は ヒラメキないし《わが心における非思考の庭》(=信仰)のことにまで行き着きます。  すでに書き込んだことのある文章ですが:  ☆☆ (わが内なることばと それを超えることば) ~~~~  《いかなる国語にも属さないこころのことば(verbum cordis)》( Y‐Z )は もしそれがあるとするなら 真理( X )へ開かれた窓であるかも知れない。      *  《ところが わたしが疑うとき 疑う対象やその内容についてのことばではなく 疑いそのことについてのことばがある。  《疑っていることがどう展開するか これとは別に わたしは わたしが今疑っているということを知っているというそのことについての言葉がある。》  それは ほんとうは疑うべきではないという隠れた思いであるかも知れない。  それは 疑って必ずや真実を明らかにしなければならないという義憤でありうる。  有限・可変的・可謬的ながら 人間の得得る真実のことば( Y‐Z )だと考えられる。  《けれども このことばが いかに なぞの真理のことば( X )から遠いかを わたしは 見なければならない。》      *  今このように思惟していることは いかんせん 持続し得ないのだ。  思惟の成果も 座右の銘になるのが 精々である。  《疑いを持ったゆえ思考すること》と 《その疑いや思考をあたかもさらにその奥にあって見守りつつのように思惟を及ぼすこと》と いづれも ある種のかたちで 《わが精神が旋回しつつ運動する》ようである。旋回する精神が 求める解を見つけ出したときには その解とは別に 解は もはや あたかも どうでもよいと思わせるかのように 奥のほうには 真実のことば( Y‐Z )が 《わが日本語やどの言語にも属するとは思われないような音や声》として こころに語られるかのようである。  もしそうだとしたら もしそうだとしても わたしは なお このわが《親しき内密のことば( verbum  verum intimum )》( Y‐Z )をも超えて その窓を 開かねばならない。         *  (アウグスティヌス《三位一体論 DE TRINITATE 》中沢宣夫訳。1975初版・1977 4刷。pp.457-460 ;p.479を読んで 覚え書きしたものです。意訳・変更している箇所があります。)  ~~~~~~~~~~~~  ★ 論点がずれていればこれには反応されなくて結構ですが,そうでなければ,おっしゃる知識の活用術の知恵,あるいは人間革命が「哲学的」であることが私には明確でないので,なぜにそれが哲学的なのか教えていただければと思います。  ☆ 《非思考の庭》におけるヒラメキ(直感および直観)のほうが コギトとしての哲学よりも――時間的にではなく 知恵のあり方として――先行すると考えるゆえです。  もっとも《愛知》の知が 知識をも知恵をもそしてヒラメキをも含むとすれば 哲学という営為に幅広く奥行きの深い守備範囲を持たせてよいとも考えます。

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