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真に自己改善する方法は何か?

tumaritou1の回答

回答No.9

人間の見ている世界は『一つしかない』ものですが、人間が浅はかな見方をする場合、一つしかない世界を『二つにして見ている場合が在ります。』 そういう場合に極端に言うならば、価値観が二つになってしまいます。そういう世界観の中で、『生きる価値をどちらの世界観で見た場合が良いのか?』と言う疑問が湧き上がります。 この疑問を聖書では『知恵が付いて、天国から追放された。』と表現しています。 つまり、『目の前の真実の世界』と『頭の中で描く世界観に』相違が生じる場合です。 こう云う事が『人間に疑問を抱かせています。』この疑問が湧き上がる事を聖書では『神に背いて天国から追放された。』と表現しています。 他の動物達は地獄に落ちないでいるのに『人間のみが、天国に住む事を、神によって拒まれた。』と言う意味になります。 聖書では、はっきりと言い切っています。『天国に一番近い存在は、幼子』と言う風にです。と云う事ですので、こういう観点から、貴方にアドバイスをしたいと思います。 人間が天国から追放されたと言う意味は『脳の機能完成によっています。』この意味は、幼子は『脳の機能分化が未発達のため、脳の機能が一つのものとして働いているためです。』 具体的に表現するなら『人間は何の為に生きているのか?』や『自分は何者か?』と云う事を、幼子は『微塵も考える事は在りません。』この疑問が湧く事のない心境を『天国』と表現しています。 人間は思春期頃から『悩み苦しむ場合が在ります。』この苦しみの原因を『聖書では知恵が付いた、仏教では分別する。』と言う書き方をしていますが、同じ事です。 人間の脳の構造を簡単に示してある、文章が在りますので、乗せてみます。ウイキペデアからです。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” 左右の脳の機能分化が『完成に近くなる頃が思春期頃です。』この機能分化の完成を持って、人間は悩み始めています。この意味するところは『心が二つになって、相争いを始める。』と言う意味です。 つまり二つの世界の狭間で、自身の心が、揺れ動いている、と言う意味です。 この二つの世界の一つが『真実の目の前の世界です』もう一つは、『頭の中に描く、虚の世界です。真実ではない事から、妄想といっても良い世界です。』 この二つの世界が戦う場合を『失楽園』と表現しています。是がキリスト教においての原罪、つまり罪の意識を感じている、と言う意味です。是が重い十字架を背負って人間は生きている、と言う意味です。 仏教においても同じです、罪の意識の替わりに『業』と云う言葉になります。業とは『生きる事にも、死ぬ事にも、或は何をするにも、全て人間は苦しみと感じる場合がある、』と言う意味です。『一切皆苦』と言う意味です。 キリスト教においては『その重い十字架を取り除く』 仏教においては『一切皆苦』からの解脱を説いている事になります。 こういう事を『魂の救済』として、人間は宗教文化の発展を後押しして来た事になります。 苦しい心を軽くする事、或は『心に感じている、生き難い想い、圧迫感からの開放です。』 つまり、『心の苦しさからの開放や、究極の、心の癒し』を、宗教の目的として、延々と人類は繋ぎ続けて来た事を意味します。 人間の苦しみは『心の矛盾』と云う事を、宗教は説いて来た事を意味します。 それは『自我意識』VS『右脳の意識』と言う意味になります。此処で問題となるのが『右脳の意識』とは何なのか?と云う事ですので、科学者であり脳の専門家でもあり、神経解剖学者でもある、ジル.ボルト.テイラー博士の動画を載せてみます。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM 此処で読み取って頂きたい事は、自我意識と右脳の意識は手を取り合って、お互いに協調しながら、一人の人間を、普通の健常者たらしめている事です。 逆な言い方をするなら、片方に寄った場合では、『健常者』ではなくなる可能性を示唆している事です。 右脳の意識の機能を説明してみます。この機能は『命そのものを働かせている機能』が全てと言う事です。身体の機能、行動する機能、心としての機能です。 人間の苦しみとは『心が二つになって、相争う事』です。つまり心の矛盾を『苦しみとして感じています。 具体的な例を挙げるなら、『身体的な機能』と言う心の矛盾を抱えた場合では、自我意識には出来ない事を自我意識がしている事を意味します。自我意識が腸のシステムに介入する場合では『腸は自我意識の言うことを利かなくなっている事実です。』こういう心に矛盾を抱えた場合を『過敏性腸症候群』と言っています。或は自律神経失調症です。 心臓の働きに介入する場合では、心臓神経症、呼吸する事に介入する場合では『過呼吸』と言う具合です。発汗に介入する場合では、汗を止めようとすると汗が流れ出ると言う現象になっています。 行動に関する機能では、自我意識が字を書く事に介入する場合では書けい、口を開く行為に介入する場合に、吃音と言う具合です。人の会う時の機能において『自我意識が介入する場合を、対人恐怖症』と呼んでいます。そうして自分の行動した事に介入する場合を『強迫行為』と呼んでいます。自分が自分を疑う事です。 心の健康に介入しようとする場合では、『心を病む』と言う現象です。医学的な検査をクリアーしているにも拘らず、自分が自分を疑う場合です。自身への信頼感を失う時『心を病む』と表現しています。二つの意識の間に『齟齬』が生じた事を意味します。 人間の心が休んでいる場合とは『自我意識が無くなっている場合です。』それは『無意識の自分に切り替わっている場合です。』 その反対に『心が休まらない場合とは』『意識地獄に入る場合です。』それは『自我意識が、身体も心も全て支配しようとする場合です。』 この意識地獄の事を『一切皆苦』と表現しています。『もっと右脳の意識に寄った生き方をして下さい。』と言う右脳からのメッセージが『漠然とした不安の正体です。 右脳の意識は、人間として生命が芽生えた瞬間から働き始めています。それは『命の働きとしてです。』細胞分裂する事を、既に知っている存在として働き始めています。 生まれるや否や、泣く事も、笑う事も、不安や安心や恐怖する事さえ、既に知っている存在として働いています。人間も動物も昆虫も植物も全ての存在を、その種固有のものとして働かせている『意識を持っています。』この意識を仏性と言っています。 この仏性と仲違いする事が『人間の障害となっています。』 具体的には、自律神経失調症や、難治性の病気です。或は神経症の全てです。或は心を病む事の全てです。 これ等には共通する症状はありませんし、ぜんぜん違うように見えていますが、発症する原因は一つです。その原因は『意識する』です。そうしてその意識する内容を『症状』と呼んでいます。 ですがこれ等の、障害に関して共通する事が『二つほど在ります』 一つは漠然とした不安です。もう一つは、『検査をした場合に、異常な点がない事です。』と言う本当の意味は『健康体である事』です。 健常者と同じ健康体でありながら、本人の主張のみが『異常と訴えている事を意味します。』 即ち現実に健康体でありながら、健康ではないという主張です。 こういう事になる真の原因は『心に矛盾を抱えているためです。』心の中で『症状らしきものを作り出している。』と云う事になります。 こういうことになる原因と解消の仕方を書いてみます。 自我意識は右脳からの情報を貰って、全ての判断をしています。右脳からの情報は『言葉以外の情報です。』言葉意外と言う意味は『言葉にならない情報』と言う意味ですが、この情報を自我意識は『言葉に翻訳をしてから』感情にして感じています。 この翻訳作業の間違いが『全ての障害の元になっています。』この意味は『貰う情報に好き嫌いで対応している』と言う意味です。只この事が、『自己修正』が出来ない理由です。 貴方のここ数年の書き込みを拝見していますので、今の貴方の心境が分かっています。貴方の性格は神経質な性格と云う事になりますが、この性格のままで、安楽に暮らせる方法と、人生に実りある実績を残せる方法を書いてみます。 是は実に簡単な方法です。『湧き上がる自身の感情に逆らわないでいる事』是だけです。その為には、良い感情の反応の仕方は『喜び過ぎない様にする事』 嫌な感情が湧き上がった時には『殊更問題にしたり、落ち込みすぎ無い様にする事』只是だけです。 過去の貴方は『湧き上がる自身の感情に』過剰反応しているだけだからです。 検査をした場合に異常がないと云う事は『健康であるという証明です。』自分の頭の中で『異常感を作り出している』と言う意味は、湧き上がる自分の感情に『過剰に反応しているだけ』と言う意味です。 貴方がバリバリ仕事をする場合には、湧き上がる自分の感情に『一々反応する事が無くなっています。』 お金の為に仕事をしなくなっています。只自分で出来る事に最善を尽くすのみです。 その最善の事が世の中のためになっています。

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