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死についての問答
- 死とは命が終わることであり、死んだら消滅して無になる。
- 死んだ人間は速やかに土に帰し、忘れることが一番良い。
- 供養などせずに生きている人間を大事にすることが宇宙の法則である。
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死とは肉体機能の完全停止であり、 それによって意識への強制回帰が起きる。 我々は死による意識への回帰によって、 薄ボンヤリとした存在状態となり、 死後はそれが無意味に続く。 生物にとって、意識のみの曖昧な状態は、 苦痛以外の何物でもない。 それは大して眠くもないのに、 無理やり寝ようとしているのに似ている。 だから、その曖昧な存在状態から、 曖昧ながらも抜け出したいと願う様になる。 その結果として起きるのが輪廻転生であり、 あらゆる生物は、生を楽しみながら、あるいは苦しみながら、 永遠に繰り返しを生きなければならない。 この無意味な繰り返しを止めるには、 己が生を完全燃焼させる事によって、 もう二度と生きなくて良いと思える程の、 完全な満足を得る必要がある。 そうでなければ、意識のみの曖昧な状態を良しとし、 そこに安らぐ事は、決して出来ないのである。 死の恐怖と、生の実感の渇望は、 意識のみの曖昧な状態を厭う気持ちに端を発する。 かすかに残る「生殺し地獄」の記憶が、 我々を生に駆り立てているのだ。 ・・・以上、作り話でした。
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- kurinal
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「その福利は、国民がこれを享受する」 改憲するか・・・。
- magnus4
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真理を探求するとはどういうことですか。
- magga
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完全に前世来世がないという見解を事実だと決めつけるなら リスクヘッジはいらないと考えるでしょう 完全に前世来世があるという見解を事実だと決めつけるなら リスクヘッジが必要と考えるでしょう 前世来世があるかないかわからないという人にとって リスクヘッジの必要性を感じるでしょう ★ 人がどんな見解を信じようが決めつけようが それが事実である時もそうでないとかもある ★ どの場合でも自分や他者が幸福であるように 自分の言葉・身体・思考を調律すること 感情面など自己内の対外的矛盾軋轢を是正すること。 集中力や気づきの能力・努力の維持力を養うこと。 これらに役立つ形で供養というものを使うなら三者共に安全かつ 今生きている自分や他者。場合によっては死後の生命の為にもなるかもしれない。 そう言った意味でお釈迦様の語る八正道の実践を伴う供養はリスクヘッジにもなり今生の自他に、生きとる生命を大事にすることにもつながると思う今日この頃です(=´∀`)人(´∀`=)
NO.5 です。 >死者に問いかけても、答えは返ってきません。 問いかけとは生きている人に行うもの。 あまりに自明なこと、あまりに正しいこと。 貴方はあまりに皮相的ですね。 死者が残したものはあまりに多く、ある場合は、当然かもしれませんが生者のそれを凌ぐほどです。 我々の開いた心と死者についての記憶がそれらを捉えるのです。 それがわからない 貴方はあまりに無神経であるというべきかもしれません。 私の場合、人生の岐路に立つたびに、亡き父はこの歳には何をして、何を考えていたのだろうと考えます。 そして私のゆく道を考える資にします。 それが父に対する私に可能な供養である。 私はそう思っているのです。
- magga
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前世来世があってもなくても供養に意味があるような形で構築すればリスクヘッジができると考えます 初期の仏教の語るように 他者の迷惑にならず自分の為になる 他者の為になり自分の為になる 身体言葉思考の三つの行為を調律し かつ、自他の軋轢、自己内の軋轢の解消に役立つ行為をなす これらを包括した八正道の実践。 それらによって積んだ功徳を一切生きとし生けるものに回向する。 その回向自体が他者の幸福を願う心の育成なのでもし前世来世功徳回向の有無にかかわらず今幸福に生きるために精一杯いきることであると。 そのようにすればもし前世来世があり供養に意味があった場合、功徳回向に意味があった場合でも、それらをしない時の損失はありませんしねo(=´∀`)人(´∀`=)o
お礼
> 前世来世があってもなくても供養に意味があるような形で構築すればリスクヘッジができると考えます 大いなる疑問、 何故、死んだ後のリスクを考える必要があろーか、 犬や猫も死んでゆくが、死んだ後にリスクがあるとゆーのか、 ドロボー猫は死んだ後、罪を問われるのか、 人を噛んで大怪我をさせた犬は死んだ後、裁かれるのか、 犬や猫が人と同様裁かれるのであれば、ミミズやトンボも裁かれるのか、 それとも犬や猫は罪を問われず、人のみが裁かれるのか、 裁かれるのは人のみなのか、 それとも生き物は全て裁かれるのか、 道端の小石はどーか、 人をつまづかせて怪我をさせた道端の小石は裁かれるのか、 このよーに考えてゆくと、死後のリスクなど考えたところで訳が分らなくなるだけではないのか。
- hanniyagi
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朝に紅顔ありて夕べには白骨となる、人や先我や先、今日とも知れず明日とも知れず。 野辺の送りに親類縁者集まりて嘆き悲しめど、何の甲斐やあるべし。 哀れと言うも愚かなり。 親鸞の詩なんでしょうか。葬儀の度にそんなお経を聞かされました。 人の詩を嘆いたり悲しんだりするのは、愚かな事だ。 供養は、回向、しかない。と言っているですよね。 そしてその後、色不異空 色即是空、諸法空相 不生不滅 不垢不浄、不増不減 と、未来の?、理論物理学 を唱えたります。日本の昔の葬儀というのはは、面白い。 と若い頃感じた事があります。 供養、は回向、しかない。というのが基本的考え方なんですね。 回向(えこう)とは、死んだ者には何もしてやれることはないから。その思いを他の事に振り向けよ、 役立つ事に奉仕しなさい。それが死者を仏(導くもの)とする。いわゆる、成仏、させてあげる道だ。 との考え方なんですね。だから香典替えし、として遺産を寄付したりするんですね。 回向、という思想の元は。裏盆経?とかの、寓話のようです。 日本人なら誰でも知っている話しなのでしょうが。日本人でないアルケーちゃんはご存知なさそうですね。 ブッダの10大弟子の一人とされる、目蓮が。自分を愛し育ててくれた、優しかった、母親に 会いたいと、あの世?出かけます。 極楽で安気に過ごしていると思いきや、母親は、地獄で、亡者、餓鬼、となってさまよっていました。 目蓮に会うと、何か食わせてくれ、と哀願し、食べ物をやると、食おうとするが、食物は口の前で 燃え尽きてしまいます。餓鬼は食うことが出来ないのです。餓鬼は怒り、お前が悪い、と木蓮をののしりさえします。 あまりの事に、木蓮は、ブッタの元に行き。何とか母を救って下さい。と涙ながらに頼みます。 ブッタは、たとえ天地が動こうとも、どうにもならぬ。と答えます。 目蓮は、何故母は地獄に堕ちたの、を考え。母は私を愛したから地獄に堕ちた。私を愛する母の心は、他の子をねたみ、憎む心、でもあったのだ。私が母を地獄に落としたのだ。と気付きます。 、 木蓮は再び、ブッダの元に行き。 私の母だから助けてもらいたいなどと言ったのは、間違いでした。 地獄に苦しむ者たちために、私に出来る事はないものでしょうか。と尋ねます。 するとブッダは。8月の15日は、国中から修行者たちが、この山に集まる徳の高い日だから。 修行者達に奉仕をしなさい。と言った。 お盆、の起源なのでしょう。 盆の16日は、地獄の釜の蓋が開く日だから、決して殺生をしてはいけない。と昔、ばあちゃん、が 言ってました。 人はいずこから来て、いずこに行くのかを知らない。(ブッダ) しかし、あなたが、無、から生まれた訳ではないなら、死が無に帰す事もない。 生がなければ、死はなく、死がなければ生はない。 、死が無に帰するのであれば、生命体は、たちまち、滅びる事になるのでは。 死は無であるというのは、最も自然発生的な考えであり、同時に、神や霊魂などという妄想、以前の思想でもあるのです。どちらも幼稚だと、鬼が言っていたと、アルケーちゃんに伝えてください、 預言者さん?
- 令和のだぶるいー(@wsg48)
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感覚は相対的で、 人は必ず死ぬことを意識しないと、生きているうちの幸せは感じることができない。だから、葬式とか供養を、生きている人はやるんだと思います。 人は生きていると死ぬことを忘れてバランスを失ったりします。
- magnus4
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アルケーの神のソースはありますか。
お礼
万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は我々の周り至る所に存在する。 真理を探求する者はアルケーの神を感じることができ、 漬かろーとする者は永遠にアルケーの神を感じることはできまい。 あ~、アルケー
- ochamango
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実は「無」というものは生存者にしか存在していません。 死ねば「無」すら認識できないからです。 もちろん「死」も生存者にしか認識できません。 と、個人的には思います。
- kurinal
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極端だね。
お礼
>極端だね。 究極の真理とは常にこのよーな姿となる。
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お礼
>我々は死による意識への回帰によって、 >薄ボンヤリとした存在状態となり、 >死後はそれが無意味に続く。 人は死ねば土に還る。 人が土に還る途上に薄ボンヤリとした状態が起こるが、これは人が生から死に移る時に現れる過度現象であり一瞬の出来事である。 土には生も死もなく、また薄ボンヤリとした状態もない。 人が死んで土に還ったとき、人は消滅したのであり、人は無になる。 全て自然界の掟であり、万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神の定めである。