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神は信じるものではない、神は感じるものである
万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は申された。 「ここにいるあなたがた皆に言っておきます。 あなたがたは神を信じようともがいても無駄である。 神を信じようともがいたところで決して神を信じることは出来ないのである。 何故なら神は信じるものではなく、感じるものだからである。 だから神を感じることが出来ないのであれば、なおのこと神を信じることなど出来るはずはない。 あなたがたは神を信じようともがいている限り、神が何かまるで分かっていないのである。 神が何かも分からずその神を信じようとしている。 何かも分からぬ神を信じることが出来るわけがない。 あなたがたは神が何かまるで分かっていないのである。 それが故にあなたがたは神を信じようなどと愚かなことを考えるのである。 神が何であるかまず知りなさい。 ここにいるあなたがた皆にはっきりと言っておきます。 宇宙の法則が神である。 そして万物の根源、宇宙の法則、アルケーを除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないことを知りなさい。 そうすれば神を信じようともがく必要はなく、神を感じることができるようになるのである。」 アルケーの神はこのように申された。 それでもあなたがたは神を信じようと願いますか。
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愛し信じることで理解が可能になるのだ。 私は君のアルケーちゃんをそんな風におちんちんで愛し、それにアルケーちゃんはアンアンと答えた。 だからアルケーちゃんの事は理解している。 こういう感じ方だ。 すでに任信したアルケーちゃんは、君にとって不実の証である俺様の子供を託す。 君はそうして、せっせと私の教えを守り、自らの死の証として、不実を全うするのだ。 君は痴漢だよ。 アルケーちゃんは君に目を付けられたりしなかったら、私とずっと幸せだったんだ。
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- ippouji
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宇宙の法則が神なら別に神なんて言わなくいいでしょうね。 アルケーの神なんていう神を出してくるとややこしくなるのです。 宇宙の法則なら感じるも感じないもなく皆それを生きているのです。 人間が何かを感じたらどうせそれだけに限定されたものになってしまうのです。残念ながら宇宙の広大さに届きません。
- 09000000000
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あなたが 神を感じてるのなら 今が どんな時なのか解かってる筈・・なのだが 一向に その方向の事は書いて無い 故に あなたは神を感じて無い それだけの事・・・・・・
- hiak123
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あなたは正しい。 信じられないものはくそなのである。 その人がくそだから神をくそだと分かるのである。 その人がくそだから崇高をくそだと分かるのである。 これは理解せよと強制はしない。まじめに言っている。 強制はしないといっている。 質問者に言う。アルケーはやめなさい。神を思いなさい。 生きるものの公平な神をと。理解できないでしょう。
お礼
>アルケーはやめなさい。神を思いなさい。 生きるものの公平な神をと。 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神は生きるもの皆に公平です。
- hyakkinman
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願いません。 感じようとも思いません。 神の存在を、全否定します。 申し訳ありません。 アンケートなので、ハッキリと考え方を書きます。
- michael-m
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すいません基本的に回答に対する意見に反応しないのですが、たまたま見てしまったので返答させていただきます。 >信じるとは感じるの前段階に過ぎません。 信じるとは願望であり、願いの段階に過ぎない。 信じることと願望はまったく別物ですよ。ぜんぜん違います。 願いは人の心の中に生じる感情であって、べつに無神論者だろうが無政府主義者だろうが願いはあります。 願いとは「こうなりたい」と希望を実行しようとする或いは求める姿勢です。誰かを信じるから願うわけじゃありません。 感じる事は単なる感覚でしかありません。このほか臭い、波道、音や光などの視覚もすべて感覚でしかありません。神を信じている者は、神を信じていない者に比べ数万倍神を感じる機会を得るでしょう。 なぜ信じる事にもがく必要があるのか、それは神の実在を納得させられる確かな感触がないからです。つまり感触がないと信じることが出来ないからです。条件付の信心は信心ではなく取引です。 主は申された「奇蹟を得て神を信じるものは幸せだ」としかし更に「奇蹟を見ずに信じるものは既に門が開かれている」と。奇蹟も感覚の一つでしかありません。感じるまでもなく信じることが出来る者の天に通じる道には門すらも存在しないのです。 貴方のおっしゃる事は、「奇蹟があったから信じれるでしょう」「手をかざして見なさい、温かいでしょう、それが神です」と言っているのと同じです。それであれば、奇蹟がないなら神ではない、温かさを感じられなければ神は存在しないと言っている様なものです。 神は私達が感じるか否かに関係なく存在する。だから信じるだけです。
お礼
ところであなたは神が何か分かっているのですか。 わたしは神は宇宙の法則であるとはっきり述べています。 あなたが信じる神は結局何だと言っているのか最後まで明らかにすることは出来ないのですか。
- asisai888
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>宇宙の法則が神である hitonomichi33さんの立場はイスラームの原子論に似てると思います イスラームの原子論とはwikiの引用で端的にいいますと 「イスラームの原子論では(西洋の原子論のように世界を機械論的に説明しようとはしておらず)、 世界に生成性(muhdath)があり、世界を生成させているのは神であり、神が世界を直接支配している、 と説明している。」 というものです この立場に立つと、宇宙の法則が存在するのは神の仕業ですから、宇宙の法則の存在は 神の存在の証明になります それと質問ではなく、単なる布教活動になってますからマナー違反ですよ
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~ 宇宙の法則について確かなことはある。 それは宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であるということである。 我々が経験する全ての物事、全ての現象は変わりゆくものであり唯一の例外を除いて永遠不変ではない。 その唯一の例外とは宇宙の法則である。 宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限である。 それ故に宇宙の法則は神なのであり、また宇宙の法則を除いて神は存在しないし、また存在し得ないのである。 それがつまり万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ふたつの問題。 1. 神を《アルケーの神》と呼ぶのは 問題がない。たとえばあなたの嫌いなアッラーフ(もっともこれは神という意味の言葉であるが)やヤハヱーと名づけても そのことには問題がないのと同じである。 けれども その名が――つまり神のその名が―― ただひとつ神の呼び名であって ほかにはないと決めつけるのは 人間の成すところではありません。それは 創価学会・日蓮やほかの決めつけ新興宗教と同じです。どうか 目をさましてください。 2. 神の説明で けっきょく《宇宙の法則は宇宙の法則である》《唯一絶対は唯一絶対である》《永遠不変は永遠不変である》《神は神である》と繰り返し述べているに過ぎません。 あとの三つにかんしては それなりに自同律としての意味はあります。《わたしはわたしである》という自己了解するときの現実性が この神とわれとの関係を述べることで やはり確認されるという意味があるからです。人間の存在という有限性とそして神についての無限性との関係が 現実に意味を持つと考えられます。 ただし 《宇宙の法則》については あいまいなままです。宇宙の法則を感じるから宇宙の法則であるとか 宇宙の法則はマチガイのないものだから 宇宙の法則であると言っているに過ぎません。どうかそこのところも 理解してください。 これら二点の問題をクリアして ほかの神学よりもさらに妥当な説明を提示することができたなら そのおっしゃるところのアルケーの神を みなが内に省みることになりましょう。
お礼
>ただし 《宇宙の法則》については あいまいなままです。 ところであなたは神が何か分かっているのですか。 わたしは神は宇宙の法則であるとはっきり述べています。 相変わらず神は分かるか分からないかが分からないナゾのなんたらかんたらだと繰り返すのでしょうか。 これだとあいまいなままどころの話ではありませぬ。 結局神は何だと言っているのか最後まで明らかにすることは出来ないのですか。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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★ (No.8お礼欄) 《神は神である》≠《神は宇宙の法則である》 ☆ これをわたしが等号でむすんだのは 《宇宙の法則》について説明が無いことを大目に見るとすればという条件をつけてのこと。 説明は 《宇宙の法則は 宇宙の法則である》と言っているに過ぎない。 ★(同上) 宇宙の法則は唯一つなのであるから、神は万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて存在しないと結論できる。 ☆ 宇宙の法則の問題は措いておいて あとは 《アルケーの神を除いて 神は存在しない》という命題が 妥当ではないということ。 それは あなたの頭の中でだけ通用するに過ぎない。 わたし〔や 一般にほかの人も〕は その名づけに問題はないが その名のみが排他的に神の名づけだとは見ていないということ。 だから 一人ひとりの主観にあって 《神は神である》となるのが 信仰の内実です。これが 一般理論です。これを分かって 創価学会の行き方から抜けてください。
お礼
>《宇宙の法則》について説明が無い 宇宙の法則について確かなことはある。 それは宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であるということである。 我々が経験する全ての物事、全ての現象は変わりゆくものであり唯一の例外を除いて永遠不変ではない。 その唯一の例外とは宇宙の法則である。 宇宙の法則は唯一絶対であり、永遠不変であり、永遠不滅であり、永遠無限である。 それ故に宇宙の法則は神なのであり、また宇宙の法則を除いて神は存在しないし、また存在し得ないのである。 それがつまり万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神である。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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あなたは 《神は神である》と言っているだけなのであるが もうこれ以上合理的な説明の仕方をもとめても無理なようだ。 それに 神は神であるという表現は わたしはわたしであるという命題と同じように 説明能力が低くてもそこに実質的な意味があると言うことも出来る。 (そういう公理なのだと考えられる。すでに《わたし》についての現実があるという意味で。そのわたしに神も その主観にあって現実であると考えられるので)。 残る問題は この神について《アルケー》を持ち出し しかも――その名づけまではよいとして――そのアルケー以外に神はいないと言っていること ここにある。 議論を省こうと思えば これでは 創価学会・日蓮とちっとも変らないということ。これを助言として進ぜよう。(これまでにもさんざん言って来ているのだが)。
お礼
>あなたは 《神は神である》と言っているだけなのであるが 《神は神である》とは言っていない。 神は宇宙の法則であると言っている。 《神は神である》≠《神は宇宙の法則である》 >残る問題は この神について《アルケー》を持ち出し しかも――その名づけまではよいとして――そのアルケー以外に神はいないと言っていること ここにある。 宇宙の法則は唯一つなのであるから、神は万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて存在しないと結論できる。 故に《神は宇宙の法則である》ことが分かれば、《神は万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて存在しない》ことも直ちに分かるはずである。 何一つ間違いはない。
- NemurinekoNya
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「ここにいる・・・ ・・・なるのである。」 と、 アルケーの神が本当に言ったのですか? これは、hitonomichiさんの考えではないのですか? ただ、アルケーについての自身の考えを表明したに過ぎないのではないか。 アルケーの神を信心しても、アルケーの神にお祈りしても、超自然的な、奇跡的な利益をもたらしてくれるわけじゃなし、 また、 信心しなくても、人は宇宙の根本原理・アルケーに適っていない、アルケーに反する行動をとれるわけじゃなし ───もし取ることができるのであれば、アルケーは宇宙の根本原理や法則ではなくなってしまう───、 アルケーなんてどうでもいいじゃん。 人がイエスの奇跡という与太話を信じるのも、その行動がアルケーに適っているんじゃないの。 違うの? 違うとしたら、アルケーには例外があるということで、エラいことになってしまう。 アルケーが存在するのであれば、 アルケーの存在を信じようが信じまいが、 いやいや、それを感じようが感じまいが、それすらどうでもいいことじゃん。
お礼
>アルケーの神を信心しても、アルケーの神にお祈りしても、超自然的な、奇跡的な利益をもたらしてくれるわけじゃなし、 また、 信心しなくても、人は宇宙の根本原理・アルケーに適っていない、アルケーに反する行動をとれるわけじゃなし ───もし取ることができるのであれば、アルケーは宇宙の根本原理や法則ではなくなってしまう───、 アルケーなんてどうでもいいじゃん。 アルケーの神を知ることによって、我々は我々自身と宇宙についての深い理解が得られるのである。 これが真理の探求である。 真理の探求は無意味なことではない。 真理の探求はどうでもいいことではない。 真理の探求は人を人たらしめる最も尊い行いである。
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お礼
悪いが君の痴漢変態趣味にはいい加減付き合ってられんね。 近くの小学校へ行って小学生の前でV字開脚してきなはれ。