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真に神を信じるものは神を拝んだりはしないはずである

  何故なら真に神の存在を信じ、その神を信頼しているのであれば、いちいち神を拝む必要はないからである。 アラーは神ではない、ただの偶像である。 万物の根源、宇宙の法則、アルケーの神を除いて如何なる神も存在しないし、また存在し得ないのである。   非信非拝非願。 アルケーの神は信じるためのものではない、拝むためのものでもない、願うためのものでもない、 アルケーの神は感じることの出来るもの、理解することの出来るものである。 アルケーの神を除いて如何なる神も存在しない。    

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.4

>真に神を信じるものは神を拝んだりはしないはずである 本当は神を信じないものも神を拝んだりはしない。同じだ。無意味だ。

hitonomichi34
質問者

お礼

  真に神を信じるものは神を拝んだりはしない。 神を全く信じないものも神を拝んだりはしない。 いい加減に神を信じたいな~と願うものが神を拝むのである。  

その他の回答 (3)

  • Kirama
  • ベストアンサー率54% (45/82)
回答No.3

拝む神を言葉で明確に限定していないので、徹頭徹尾、意味不明な文章です。 「一から十まで面倒を見てくれる根源の神」を考えている場合もあれば、 「拝めば救ってくれる神」を信じて信頼している人もいます。 推論も組み立ても間違っています。 拝むとは、「祈る。願う。心から望む」などといった意味です。 信頼しているから、弁護士に相談をしたり、お医者さんにお願いをするのです。 偶像も神も、信仰の対象という意味では同じです。 しかし、最初にアラーを、慈悲あまねく慈愛深き万物の主などと定義したのはコーランです。

回答No.2

belief__:理性的確信に基づく行為。 worship:何かのためのに要求または懇望をする。 beliefは、時々の状況に左右されない理性的な確信に基づくもの。worshipは、その時々の状況によって惹起する気持ちのなせるワザ。だから、信心が無い者も「苦しい時の神頼み」はする。「信じる」と「拝む」とは、このように完全に別次元のもの。決して、同列に語れるものではありませんよ。

hitonomichi34
質問者

お礼

  だから年中拝んでばかりってことは、つまりもともと信心が無いってことなんだよ。  

noname#203768
noname#203768
回答No.1

アララー  もう次の質問なんだ(笑) 何でも良いのです アルケーだろーが 走れーだろーが 止まれーだろーが そんなの神は 関係ないのです そして 崇拝されるのも 神は望んで無いのは あなたも知っての通り・・しかし 拝むのは 崇拝目的ではありません 人と人が逢うと挨拶しますよね・・ 拝む事・・・それが 神との挨拶の仕方なのです

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