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科学と宗教の未分化について

科学と宗教の未分化な状況とはどのようなものでしょうか?? 具体的な例をわかりやすくお願いします。

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回答No.5

 こんにちは。  ★ 科学と宗教の未分化について  ☆ 通念としては すでに回答も出ていると考えますが 科学や宗教あるいはむしろ信仰などそれぞれの定義によっては それほど簡単な話ではないと思われます。  話は長くなりますが:  (1) アブラハムという人は その生きる歩みの中で この世界とそれを超える領域とを峻別しました。  この世の自然環界や人びとのいとなみとしての社会からまなぶということのほかに それを超えた場を想定し 究極においては自分はこの経験世界からまなぶことはあっても その中に提出され保持されている命題からはおのれの人生を左右されることはないと考えました。    言いかえると 自分もむろんこの経験世界の住人であって その人間という存在から まなぶことはあっても その持ちうる見解や社会力学上の要請によって左右されることはないと決めたということは 早い話としては おのれのしたがうべきは 神のみである。という話です。  ところが このこの世を超えた神にのみしたがうという原則なり信念なりは ほかの人からみればけっきょく 人間としてのおのれの考えにしたがうに過ぎないということにもなる。ただの自己満足ではないかと。  この自己閉塞を突き抜けるには どうしたらよいか?    アブラム(アブラハムの元の名)よ 父祖の地を去って 行きなさい。  という神の声を聞いたというかたちで それまでの自分の人生のいっさいのシガラミから自由になる道をえらびました。  ここまでは ここまでなら いかに信仰がからまっていると言っても 経験合理性によって判断しうる広い意味での《科学》の話です。  (2) 信仰の信仰たるゆえんは この経験世界を超えたところに神を想定するからには 経験思考ないし科学をも超えることです。  アブラハムは わざわざこの・一方での《神とわれとの関係としての信仰》のことと 他方で《人間どうしとしてのわれとわれの関係としての社会情況》とを区別したその心の境地をさらに練り上げて行こうとします。人びとに説明しうるかたちを模索します。  神の要請であるなら おまえの――長年待ちに待ってさづかった――長子を神にささげることができるか? と問います。  けっきょく錯乱の寸前にまで行って 神は独り息子にせよ誰れにせよ 人間のいのちを召し取ることはするはずはないとさとるに到ります。(神ののぞむのは いけにえではない)。また 人は人をころすことはないとさとります。神の声を聞くとするならば と。  ということは 神ないし信仰の世界を 経験世界に合わせて説明するすべは 見つからなかった。観想もしくはヒラメキのようなものとしてその答えを得たのみであった。  (3) 《たとえ誰れであろうと 人間が人間に対して 人間のいのちを断てということはありえない》というさとりは その根拠は 《科学》としては見つからない。言いかえると 無根拠によって 人は人を殺さないのだというただただ信仰の動態があるのみだと知る。  ところが この・非思考の庭の成ったわが心のさとりの中身を じんるいは いづれ 《科学》として表現するに到った。《汝 ころすなかれ》あるいは《不殺生戒》などなどとして。  つまり 道徳ないし倫理規範も 或る種の仕方で《科学》なのです。  この倫理規範を規範として持ったところで アブラハムの信仰は 集団としての教義になり組織としての宗教が発生します。  言いかえると 教義はまだ《科学》です。その科学としての命題を 後生大事に絶対的に=つまりは 盲目的に絶対命令であると思い込んで その思惟および行為の形式にみづからを縛るということ これは 宗教です。非人道的で反科学的なおこないです。  (4) おそらく 信仰という行為も 神は非経験ですが 神と関係する人間は 経験存在ですから 全体として 経験行為であるとなるのではないか。非経験のナゾを包み込んだ人間の現実であるとなるはずです。  言いかえると 信仰という現実が 経験世界にかんして合理性によって判断するところの認識である科学をもつつむ。  宗教は 信仰からはすでに離れ 科学〔の扱い〕に対しても――盲目的に――反対を繰り広げるあほばか状態であると考えられます。  科学は 信仰に対して 言わばその是非を判断することが出来ないと心得ており その限りでその批評・批判については禁欲するようです。科学は 宗教に対しては みづからが得た成果――科学としての事実認識〔としての真実〕――の扱い方を まちがえることなかれという警告を発して とうぜんであると考えられます。少なくとも その扱いについて柔軟であれと。信仰は 宗教に対して 教義を絶対命令とするようなかたちで 固まってしまうことなかれと言うでしょう。  宗教は 科学に対しても信仰に対しても おれたちのこの経験世界における社会力学上のチカラの前に屈せよと言い続けているようです。《善良なる信徒が こんなにたくさんいるではないか》と。古くなったら 衣替えして出直せばよいだけだと これはひそかに 言っていましょう。    (5) 科学と宗教は もともと 分かれています。信仰も 宗教とは別物です。というよりは 宗教が 信仰からの・そして科学からの――それぞれ信仰を勝手に衣替えさせたことにおいて また 科学真実の勝手な扱い方において――鬼っ子である。こう考えられます。    

ukyo6133
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございました!

その他の回答 (7)

回答No.8

 No.5です。  あらためて――横やりになりますが―― 通念とは別様に考えることがあります。  ● 聖書は科学の書ではない。  ☆ という命題は これが 宗教が科学を勝手にあつかうそのやり方です。  聖書は 人間の言葉で書かれています。だとしたら 経験合理性でその中身を判断することになります。そのように判断の出来ないような記述もあるわけですが それは 一般に 比喩としてあつかわれます。  言いかえると 言語表現に成るものは すべて科学です。もしくは科学の認識する事柄と同じ次元のものであり 地続きの内容であるはずです。  ▲ (創世記 第1章) ~~~~  1節  初めに、神は天地を創造された。  2節  地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。  3節  神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。  ・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 神は人間ではないのですから あくまで比喩による表現である。と分かるはずです。比喩による表現は 科学であるか もしくは科学と地続きの世界に属します。  それ以外に取り扱いようがありません。  つまりはこの《科学》を勝手に扱うそのやり方 それが宗教のものです。  ですから たとえば比喩表現を比喩ではないと言い張る。これです。しかもその文字どおりの意味内容が――それは 経験思考で考える対象であるしかないのに――信じる対象であると やはり勝手に扱い方を変える。信じる対象は 人間とこの経験世界を超えている神であると はじめから 分かっているのに その大前提をひん曲げてしまう。これが 宗教の手口です。  もしローマ教会が ガリレオに詫びを入れてそのとき《聖書は科学の書ではない》と言ったとしたなら それこそが 宗教の勝手な手口であり 信仰をないがしろにし 科学に反する発言であると言わねばならないでしょう。そして 一般の人びともみごとこの手口にまんまと引きずられてしまっている。というありさまではないでしょうか?  

ukyo6133
質問者

お礼

二度目の回答ありがとうございました!

回答No.7

わかりやすい具体例としては、科学者が家業の神主をやったり、神父が理学部の教授になったりする状況です。

ukyo6133
質問者

お礼

わかりやすい回答ありがとうございました!

noname#221368
noname#221368
回答No.6

 ガリレオの話が出たので、それについて書きます。   ガリレオがリアルに生きていた時代、科学書としての聖書は、もう目を覆うばかりにズタボロだった、という意見があります。  というのは、その当時の少なくとも天文学者達の間では、コペルニクス,チコ・プラーエ,ケプラーがいたので、天動説は常識であったという話です。そしてガリレイは、自作の望遠鏡により、月に凹凸を発見し、火星や木星にも衛星を発見します。  天上(宇宙)の物体は完全無欠な球であり、凹凸などある訳がなく、地球以外に衛星などないのが、聖書の世界でした。さらに、天上世界は永久不変なものでもありました。ところが折しも蟹星雲が超新星爆発を起こし、天上界すら永久不変でない事を、世界中の誰もが認めた時期でもありました(この記録は、日本にも中国にも残っているそうです)。  しかし教会は、てんで平気だったのです。何故なら、   ・科学によって、現実がどう観測されようと、神がこの世界を、そういう風に作った事にはならない. からです。人間と、完全無欠な神の間には無限の距離があるので、例え科学が聖書と違う結論を出したとしても、それは「妄想だ!」という訳です。この論理には反証可能性がないので、社会的にこれが認められてしまったら、ほとんど立ちうちできません。  ガリレオは敬虔なキリスト教信者だったと伝えられているので、上記に反対する気は毛頭なかったのだと思います。でも彼は、やってしまいます。   ・一つは、円運動の慣性を、地上の物体にも認めます.正確には、これがガリレイの言った、慣性法則です。   ・という事は、天上の物質も、地上の物質も同じ。 かも知れない、という事です。  ここまでなら、教会は許したかも知れません。しかしガリレイは、言ってしまったのです。   自然は、数学の言葉で書かれている.  と・・・。という事は,   ・神がもし誤認したら、人間は数学的論証能力で、人間は真実を数学によって、神に強制できる. という事になります。これが、ガリレイ裁判の本質と自分は思っています。  ガリレイ裁判のガリレイの罪状の一部は、次のようなものです。   ・彼(ガリレイ)は、神と人間が数学的能力を敷行する能力において、人間と神が一部同等であると言った.  聖書の文言のまま仮定を立て、それを論理的に追い詰めて、聖書の文言では数学的に成立しない事を「言ってしまった」ガリレイは、上記により、火炙りの危険もあった訳です。  「最終的に、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から実に350年後のことである」は、事実です。  これこそ、「科学と宗教の未分化な状況」ではないでしょうか?。少なくともカトリックは、少なくとも「聖書が科学の書ではない」事を公式に、やっと認めました。それには3.5世紀必要だった訳です。

ukyo6133
質問者

お礼

ガリレオのついての、くわしい回答ありがとうございました!

  • hekiyu
  • ベストアンサー率32% (7193/21843)
回答No.4

ガリレオですか。 地球は動く、という客観的事実があるのに、 宗教がこれを否定しました。 そう伝えられています。 このような状況は科学と宗教が未分化である と言えるのではないでしょうか。

ukyo6133
質問者

お礼

回答ありがとうございました!

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.3

科学は仮説をたて検証すること、宗教は信じること、とおもいます。現代のこれらの未分化は 科学者が 仮説を信じ検証を放棄し 伝道者のごとく 科学解説をしているような場合でしょう。 宇宙も素粒子も 仮説の世界と思います。

ukyo6133
質問者

お礼

回答ありがとうございました!

回答No.2

元々、宗教は世界観であり、科学・哲学を兼ねたものでした。 未熟な知識において“全てを意味づける”ためには、全知全能 の神でも持ち出さねばならなかったのです。 しかし、人が観察や実験、分析を深めていくにつれ、神の 痕跡のない領域が広がっていき、科学(原理分析的世界観) や哲学(現象観想的世界観)といった形で独立した体系を 成すようになったのです。

ukyo6133
質問者

お礼

回答ありがとうございました!

回答No.1

『違和感や漠然とした不安』の分析です。人間の心に湧き上がる感情の内『感じたくない、湧き上がる感情が違和感や、漠然とした不安』です。 今書いた感情を強く感じた場合に『心は苦しくなったり、心に圧迫感を感じたり、もっと強い場合には恐怖感にまで大きくなります。』この湧き上がる感情をキリスト教的な言い方をすると『原罪』仏教的な言い方をするなら『業』です。 人生において抜け出せない苦しさという意味です。生きる事によって感じている苦しみです、或いは死のうとした場合にも感じます。人間の苦しみは『生病老死』或いは『一切皆苦』と云う事になります。 生きる事自体が重い十字架を背負っている事を意味しています。是が宗教的な自覚です。 昔の時代には精神科医も心療内科も存在していませんでした。従って『心が苦しくなった人達は』教会やお寺に行って、話を聴くことで、心の癒しを受けていたと思います。 今の時代は少し事情が異なってきました。 心が苦しい場合もその苦しさを分けて、分析をして其の苦しさの違いにも気が付くようになっています。 其の苦しさの元を辿ってゆき『身体の生物学的、或いは植物学的な機能的な問題からくる苦しさを』自律神経失調症と診断しています。 其の苦しさを『行動学的な機能という観点から判断する場合を』神経症。 其の苦しさを『精神的や心の問題として捉える事で』心を病むと診断しています。 そういう分析的手法で『今は宗教家の元には余り行かなくなって』宗教家はすっかり葬式的な仕事になっています。 精神科医や心療内科の元に、『迷える子羊達が』押し寄せてきて繁盛しているようです。 心の苦しさの解消が『宗教の本来性』と思いますが、今の宗教家達や『お釈迦の弟子でさえ』心の苦しさの解消方法を忘れてしまったように見受けられます。 本来の宗教の目的は『心の苦しさからの開放です。』それが『魂の救済』です。今の医学は『何故心が苦しくなったり、自我という心に圧迫を受けるのか?』の解明が出来ていません。 それでも歌い文句は『早期発見で早く良くなります。』どうして心が苦しくなるのかの原因究明が出来ていないにも拘らずです。 健康な心と健康ではない心に『如何いう根本的な違いがあるのかの解明が出来ていないにも拘らずです。』 どうしたら健康になるのか、どうしたら健康ではなくなるのかのという証拠もまだ掴んでいないにも拘らずです。この結果が交通事故死者よりも多くなった自殺者の数が証明しています。 心が苦しくなる原因は、はっきりしています。それは人間には二つの人格が存在している為です。其の証拠をウイキペデアから紹介してみます。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が 『それぞれ独立した意識』 を持っていることを実証した。” 自我意識は左脳に存在する意識です。其の機能は『言葉』に代表されるがごとくに、物事を分析的に評価する機能です。或いは物事を割り切って見る、ものの掴み方や認識する力です。この機能から分る事は『有限の世界や限界』という壁を作る機能です。 他の言い方をするなら『割り切れない事や、矛盾する問題を解く機能が始めからない事』を意味します。言い換えるなら『無限や永遠』の概念でさえ把握する機能が付いていない事です。 従って少しでも情報が不足する場合には答えを、出す機能がないという意味になります。この事を『明日の事を思い煩うな、、、、』とキリストは言っています。 右脳の人格は『人間の生命の源』として働いています。或いは命そのものを働かせる者としての人格です。誰でも備わっている働きです。脳梁を切断したら誰にでも存在する人格です。 機能的には『生命維持装置』としての機能です。生物学的にも植物学的にも生命を保っている働きの事です。 機能的には『行動学的にも』生命維持装置として働いている働きです。 機能的には『心にも精神にも』生命維持装置として働いている働きです。 今書いた通り大きく分けた場合三つの働きになっています。 人間の苦しさは『自分自身を疑う時』自我が苦しむようになっています。是は心の矛盾を苦しんでいる事を意味します。 その訳は右脳の人格が『無意識の中に存在するからです。』今書いた事に通じている事は『意識した時』に心が圧迫を受けています。 無意識からの交替要請を『違和感や漠然とした不安』と感じています。ですが『自我意識』は気が付きませんが、気が付く場合があります。 そういう場合には本人の器質が関係してきます。その人が神経質な場合や、不安になり易い場合です。そういう場合は『自分自身に敏感』という意味です。自分自身の内的に『もう一つの意識の存在に敏感』と言う意味になります。 健常者という場合には『無意識』との交替制が順調に出来ていますので、違和感が浮かんで来ていません。 『意識性が強い事』は無意識との協調性に欠ける面があるという意味になります。 その欠けたところがその人の症状になって『違和感となって』意識に浮かんで来ている事を意味します。 自我意識が自分の機能では出来ないと分かる時、無意識の意識が出て来て、自我を救ってくれます。その救いは三つの方向性があります。 一つは『身体の機能面からです。』 一つは『行動面からです。』 一つは『精神面や心理面からです。』 この救いをキリスト教では『神と和解する』仏教では『生死の問題が解決する』といっています。 科学的な表現方法をするなら、自我が先に考えたりしないで、右脳の働きの後から自我が付いてゆく場合『心は争う事がなくなって、心が静寂に包まれる』ことを意味します。この波風が立たなくなった『心の状態』を涅槃といっています。 その生きる態度が『神の僕となって』と云う事になります。それは自分自身の『命の働きに従って生きる事』を意味します。 右脳の意識を認識している動画が有りますので参考にして下さい。 URL:http://www.youtube.com/watch?v=ldSoKfFYKqM そうして自分自身の命そのものの働きとの出会いを『見性』と表現しています。意識の根底で、まだ意識とも無意識ともなっていない状態での出会いです。立った一回の出会いで『左脳の意識と右脳の意識』』との間にホットラインが構成されます。 それ以後『心の矛盾は解消されてしまいます。』三つの症状群に対しては『完治』と云う事を意味します。 三つの症状群とは自我意識VS自分自身の働きとの間に齟齬や誤解が生じていた事を意味します。

ukyo6133
質問者

お礼

URLまでありがとうございます!

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