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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。
現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。 応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか? ほかの人からの評価についても 知りたいです。 というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。 つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。 いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。
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こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。 了解致しました。 > ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~ (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。 * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。 * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。 そうすると 言えることは 次である。 (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか? (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。 (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか? (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。 (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。 > (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。 * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。 おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。 > (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。 * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。 この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・ > (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。 * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。 おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。 > (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。 * 独我論が いちばん当たっていると思う。 仰られる通りかと存じます。 > (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.) * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。 はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。 > ▲ (同上) ~~~ (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。 * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。 * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。 おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。 > (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。 * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。 仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。 > (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。 * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。 上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。 > (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.) * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。 《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。 フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。 ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。
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こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ☆ クロロメタンが 総括名称だったのですね。 いえいえ。こちらこそ、説明不足のところがございましたため、申し訳ございませんでした。 > ★ ただ、いったん命名されてしまい、それなりの頻度で使用されてしまいますと、たとえ、それが後になって「正式ではない、おかしい」とされたと致しましても、その慣用表現は残ってしまう、ということなのですが・・・ ☆ ええ このことも 言語学――社会言語学でしょうか――の主題だと思います。 ただし例外はあります。きちんと改められる場合があります。 ビルマ → ミャンマー nです。 はい、かような大きな事項に関しましては、変更を余儀なくされるかと察せられます。 > 《自我》なる用語は ★ 日常語としてはふさわしくないように愚生も考えております。 ☆ 独りで吠えた甲斐がありました。ありがとうございます。専門用語としても 見直しがなされるとよいと思っております。 はい。そう望みます。ただ、閉じられた学問体系(化学もそうでございますが)ですので、変更は困難かとも考えております。 > 間主観性を どの時点で推し出すか。 ★ まず、《普遍的な意味》が形成されうるのは、「(ばらばらな)私の原初的世界」のみでは、不可能と考えられるのですが、いかがでしょうか。 ☆ ですから 見方をまったく一変させて見ようとしています。 了解致しました。 > 原初的な姿としてのわたしは 《身体および精神 そして精神は 記憶・知解・意志の三つの行為能力を持つ》という自然本性において 潜在的に《類》としてある。《わたし》は 類的存在であり得ている。 すなわち 《わたし》は初めから 潜在性として間主観性をもそなえている。こう見ようとしています。 つまり、《間主観性》という一種の形成能力なるものがアプリオリにひとには備わっているということでしょうか。もし、そうでしたら、意見を等しく致します。 ただ、「意味」なる把握能力もひとには(ほとんど)アプリオリに備わっているものとも愚生は考えております。 > (8) 純粋な(まだ世界の意味をもたない)他者から出発して上昇するこのような構成の本質には 次のことが含まれている。すなわち 私にとっての他者はいつまでも孤立した状態にあるのではなく むしろ(もちろん私自身の固有の領域においてではあるが)私自身を含む自我の共同体が 相互扶助的に共存する多数の自我の共同体として構成され 最終的にはモナド共同体が構成されるということ しかもこのモナド共同体が (その共同化された構成的志向性によって)一つの同じ共通世界を構成するのだということ が含まれているのである。(『デカルト的省察』H.I,137) (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。 > 《生活世界》は けっきょくつねに《わたし》にとって目の前にありますし わたし自身がそれでもあります。 けっきょくのところその目的は この世界における事象をどう見るか ですよね? 極端なことを言えば 超越論的反省をしなくても 現象学的還元を経なくても この《世界における事象》についての本質直観が得られそれを表わすことが出来ればよい。こうなるのでは? はい。まさしく仰られるとおりかと存じます。事実学(実証科学等)により、わたくしたちの目を曇らせているがために、あえて、これらをエポケーしているに過ぎないわけですから。 § 13 生活世界の根拠は? > フッサール自身の論脈を離れてでも総合的なまとめとして 新たな視点を覆いかぶせる(もしくは すでに得られている概念装置のそれぞれを組み替えて位置づける)議論は すでに必要かと考えます。 ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > そのようにして生活世界を 初めにも途中にもそしておわり(本質直観の瞬間)においても取り立て言わば大前提としているというその根拠はと言えば それは ただただ《言語交通》である。 これもまさしく仰る通りかと存じます。 > その言語交通の根拠はと問えば ない。無根拠である。(ヒラメキの根拠を問うかたちにおいて その結論を得るはずである)。 ただただそういう《人間のおかれた条件》から来ているとしか言いようがない。所与である。 はい。これも突き詰めれば、無根拠に突き当たるものと推察してございます。 > 無根拠は――いちいち言う必要はないであろうけれど―― 絶対的な所与である。つまりそこには 人間の条件から出発して言っているのだから 人間にとってという《人間原理》がはたらいている。 はい。意見を等しく致します。 > 最後の《数式化された世界》の問題。じょうずに 次のような主旨として 理解し得なかったことをお詫びします。 これは、愚生の説明不足のところがございましたため、ご質問者様には何ら瑕疵はないものと考えております。 > No.52お礼欄の § 8 精神分析の《自我》についての批判 ここから次をふたたび掲げたい気持ちです。 ☆ すなわち 《エスないし無意識が暴れるものだから 超自我もこれを抑えきれず 自我はエスの言いなりになってしまう》といった表現での見方が 出回っていませんか? これは こう捉えなくてはならないと考えます。すなわち 《わたしは わたしの欲望に勝てなかった。負けることになると分かっていつつ その欲望を実際におこなってしまった。すなわち わたしは わたしの意志としてその欲望を実行しました》と表現しなければ ウソです。つまりいくら 盗人たけだけしい! やら まだおまえは反省しないのか? やらと非難を受けても その行為は みづからの意志行為であったと まづは認めるところからしか 話は始まらないということ。 まず、“無意識”は、おそらく現象学に興味を持つものにとりましては、嘘っぱち、であるとの共通理解がございます。極論でございますが、ひどっち なる輩は、ヒトラー崇拝者である。これは、ヒトラーの政策を批判しなかったためであり、無意識のうちに熱狂的崇拝者となっているのだ、という論理でございます。こうなってしまいますと、「何でもあり」になってしまいます。そもそも、そのように崇拝者だと指摘された場合、「自らの意識に着目しつつ、無自覚に崇拝していた」と認めるならば、確かに崇拝者かもしれません。ですが、「どう省みても、そんな崇拝の意識がない、意志すらもない」のでしたら、いくら「“無意識”で思っているんだ!」と叫ばれようとも、ないものはないと思うのです。こうなりますと、もし警察国家に近い社会状況になりますと、ひどっち 等はすぐさま抹殺されるかと推察しております。 > この自由意志なる大前提をないがしろにする理論は 何をいくら精緻に展開しても 科学でも哲学でもない。こう考えます。 はい、漫画にすらなりえない、と考えております。 > 微妙なところがありますが 自由意志は どこか彼岸や西方浄土やらに《自由意志菩薩》としてましますというわけでは断じてないということ。それと同じように エスの欲望も超自我の自制も すべて《わたし》の思惟と行動として自己表現されるものであって それは取り分け《わが自由意志による選択と判断》であるということ。 あたかも《わたし(の自由意志)》とは別のところに《自我》なるハタラキがあって それが作用しているなどという解釈を よもや 許容しているわけではありますまい。 いくら人間・存在・精神・心理を分析し科学的に明らかにしたと言っても もし《おのれの判断による思想と行為であるという自己表現》の原則が ないがしろにされるならば 何にもならない。世の中は――その人間関係は―― のっぺらぼうとなります。顔がありません。どうしても 人間でなくなりたい。こう思っているとしか思えません。 《わが自由意志による選択と判断》、これは人類の営みの中での基本かと考えております。もし、これらがないがしろにされてしまいますと、人類の営み、歴史、諸賢人からの所産等、全てが消えうせてしまうものかと考えております。 字数制限のため、次項に移らせていただきます。
お礼
こんばんは ひどっちさん。ご回答をありがとうございます。 ここらあたりで どうにか批判的な見通しをも含めて フッサールが分かって来たように思います。ただし ほかに研究がさらに深められつつ進められていることを 『現象学の現在』という論文集をぱらぱらっと見て分かりました。新田義弘ほかの編集執筆らしいですが それも1989年出版ですから 現在までに さらにさらに進んで来ていると言うべきでしょうか。 デリダだとかも出て来ます。ちなみに ちらっと見ただけですが メルロ‐ポンティは なんだかおかしいように感じます。意志行為から離れて行っていないかという疑いです。(きわめて 暫定的な見方なのに言ってみたくなりました)。そのほか たくさんの主題が追究されているようにも見えます。 さて一つひとつ確認しつつすすみます。 《自我》もんだい: ★ ~~~~ ☆ 《自我》なる用語は・・・専門用語としても 見直しがなされるとよいと思っております。 はい。そう望みます。ただ、閉じられた学問体系(化学もそうでございますが)ですので、変更は困難かとも考えております。 ~~~~~~ ☆ 従いまして 開かれて行って欲しいです。 * 《間主観性がもともとそなわっている》問題: ★ ~~~ ☆ ・・・すなわち 《わたし》は初めから 潜在性として間主観性をもそなえている。こう見ようとしています。 つまり、《間主観性》という一種の形成能力なるものがアプリオリにひとには備わっているということでしょうか。もし、そうでしたら、意見を等しく致します。 ただ、「意味」なる把握能力もひとには(ほとんど)アプリオリに備わっているものとも愚生は考えております。 ~~~~ ☆ ええ 言語能力について触れ忘れていました。記憶・知解・意志の自然本性を 道具としてでしょうか 言語がつらぬいていると思われます。志向性のもとに 意味関係が得られているかたち。 * 《モナド》問題: ★ ~~~ (無数の各個人により、無数の世界が存在している)この世界は、それぞれのモナド(構成させている各個人)が、相互扶助的に共存する多数の自我の(個人の主観的な)共同体として、さらには最終的には(間主観性による)モナド共同体が構成されるということを述べているものと考えております。 ~~~~~ ☆ そうしますと ひとりの人間にとって 個人としてモナドなる《わたし》において その主観は 世界観としてある。これが あたかもその中に間主観性がはたらいているかたちで 社会を共同体として捉えている。これは 一人ひとりの《わたし》の主観においてモナド共同体が構成されていることである。 こうだとすれば なるほど そういう一つの切り口だと見られます。つまり 言語交通における《わたし》どうしの関係 これとしての社会 こういう切り口とは別にあり得るというようですね。 * 生活世界の《いま・ここなること》: ★ ~~~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~~~ 《生活世界》は けっきょくつねに《わたし》にとって目の前にありますし わたし自身がそれでもあります。 けっきょくのところその目的は この世界における事象をどう見るか ですよね? 極端なことを言えば 超越論的反省をしなくても 現象学的還元を経なくても この《世界における事象》についての本質直観が得られそれを表わすことが出来ればよい。こうなるのでは? ~~~~~~~~~~~~~~ はい。まさしく仰られるとおりかと存じます。事実学(実証科学等)により、わたくしたちの目を曇らせているがために、あえて、これらをエポケーしているに過ぎないわけですから。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ このことの確認は 重要であるように思いました。 超越論的反省を加えなくても 自然的態度が すでにエポケーを経ているという場合だってあるのだと。 * 生活世界の根拠は? で 無根拠に行く着くことの確認がありました。 * 《自我》のほかに 《無意識》なる用語も どうもおかしいという問題: ★ “無意識”は、おそらく現象学に興味を持つものにとりましては、嘘っぱち、であるとの共通理解がございます。・・・ ☆ 事由と例示は 言わば捨て身で書かれていますので 引用は二度も三度もしないほうがよいと見ました。 * 自由意志: ★ 《わが自由意志による選択と判断》、これは人類の営みの中での基本かと考えております。もし、これらがないがしろにされてしまいますと、人類の営み、歴史、諸賢人からの所産等、全てが消えうせてしまうものかと考えております。 ☆ メルロ-ポンティは この自由意志の問題を扱っていないのではないかというような――勇み足の――疑いがあります。
続きからでございます。 > § 9 《非我)とは何ぞや? ★ (goo辞書)2 哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。⇔非我。 まず、(あ)、(い)、(う)に関しましては意見を等しく致します。ただ、アイデンティティに該当する日本語訳は困難であったのかもしれません(元来、“わたくし”はございましたが、“個人”という概念は希薄だったかと思っております)。 なお、(え)、(お)、(か)につきましては、おそらく権威主義的なものが存在していたのかもしれません。 一方、(く)におきましては、哲学の認識論(特に独我論との関連)に関するものかと推察しております。 また、(こ)、(さ)、(し)につきましては、意見を等しくさせていただきます。 なお、(そ)、(た)につきましては、ロ○チャイルドのような陰謀論が孕んでいるのかもしれません。というよりも、他に申し上げようがございません。 (つ)につきましては、心理学等におきまして、新たな使用方法等を考えてもらえればと思われます。 > ★ ・・・さらに申しますと、エポケーしなくては、ガリレイ等により、複雑な数式化された世界から、《生活世界》へ辿り着けないということかと考えております。 ☆ ガリレイらの理論が分かって言うのではないのですが 《数式化された世界》は それ自体がすでに事象ないし世界を抽象化しエポケーして得られたところではないですか。 おそらく、愚生による説明不足によるところがあったろうかと存じます。つきましては、再度、少々誇張をも交えて、ご説明させていただきます。 現実問題と致しまして、科学的な言語や数式などで示されるような「客観的世界」の方を「真なる世界」だと考えてしまっていまいがちです。つまり、実証主義的科学にて示される世界は、《生活世界》から独立してしまった(離れてしまった)存在となっているという訳でございます。 しかし、哲学の役割としては、 フッサールは、《生活世界》こそが実証主義的学問によって示される「客観的世界」を支える基盤・根拠であると主張するのです(ニュートンらによる、根拠を問わない”実証主義科学”に対して批判していることに着目してくださいませ)。 つまり、《生活世界》における知覚の確実性、間主観的かつ世界の存在の妥当性等が、「学問の客観性」、換言致しますと《数式化された世界》を、支えていると主張している訳でございます。 従いまして、”単なるある条件下における事実”に基づく”実証主義科学”なるものを間接的に批判してもいる訳です。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
つづきます。 最後の《数式化された世界》の問題。じょうずに 次のような主旨として 理解し得なかったことをお詫びします。 ★ ~~~~ つまり、《生活世界》における知覚の確実性、間主観的かつ世界の存在の妥当性等が、「学問の客観性」、換言致しますと《数式化された世界》を、支えていると主張している訳でございます。 従いまして、”単なるある条件下における事実”に基づく”実証主義科学”なるものを間接的に批判してもいる訳です。 ~~~~~~ * No.52お礼欄の § 8 精神分析の《自我》についての批判 ここから次をふたたび掲げたい気持ちです。 ☆☆ ~~~ ひとこと言えば 自我も超自我もエスも みんな《わたし》であるかその部分的な作用であるからです。エスが飯を食ったり 自我が仕事をしたり 超自我が相手の言い分をまづ聞くということをしたりするわけではなく すべて《わたし》がその意志のもとにおこなうものだからです。部分概念を全体の概念として用い過ぎです。 ~~~~~~ ☆ すなわち 《エスないし無意識が暴れるものだから 超自我もこれを抑えきれず 自我はエスの言いなりになってしまう》といった表現での見方が 出回っていませんか? これは こう捉えなくてはならないと考えます。すなわち 《わたしは わたしの欲望に勝てなかった。負けることになると分かっていつつ その欲望を実際におこなってしまった。すなわち わたしは わたしの意志としてその欲望を実行しました》と表現しなければ ウソです。つまりいくら 盗人たけだけしい! やら まだおまえは反省しないのか? やらと非難を受けても その行為は みづからの意志行為であったと まづは認めるところからしか 話は始まらないということ。 この自由意志なる大前提をないがしろにする理論は 何をいくら精緻に展開しても 科学でも哲学でもない。こう考えます。 微妙なところがありますが 自由意志は どこか彼岸や西方浄土やらに《自由意志菩薩》としてましますというわけでは断じてないということ。それと同じように エスの欲望も超自我の自制も すべて《わたし》の思惟と行動として自己表現されるものであって それは取り分け《わが自由意志による選択と判断》であるということ。 あたかも《わたし(の自由意志)》とは別のところに《自我》なるハタラキがあって それが作用しているなどという解釈を よもや 許容しているわけではありますまい。 いくら人間・存在・精神・心理を分析し科学的に明らかにしたと言っても もし《おのれの判断による思想と行為であるという自己表現》の原則が ないがしろにされるならば 何にもならない。世の中は――その人間関係は―― のっぺらぼうとなります。顔がありません。どうしても 人間でなくなりたい。こう思っているとしか思えません。 * もしよろしければ 次の考え方について再度吟味していただけないでしょうか? ☆☆(No.53お礼欄) ~~~ § 12 生活世界は つねに目の前にあります。 煮詰めた議論としましては 目の前の生活世界において《わたし》と自称しつつ互いに意志疎通をおこなっている人として 《わたし》は それぞれ互いにとって《自己》であり《他者》であると言えます。《〈わたし〉という自称が指し示すその存在》は と言いなおしたほうがよいかも知れませんが このような社会的な《わたし》どうしの関係 これが 生活世界であるとも言えまいか? その意味は――このような言語交通という切り口から世界や事象を見ることの意義は―― 《わたし》においてすでに主観でもあり 言うとすれば客観でもあるかたちになっている。誰もが みづからの《わたし》において そう見止めるかたちになっている。 (その基礎としての事由は おそらくことばとしての《わたし》が 何かに代わる代名詞ではなく みづからにとって固有名詞であるからではないか? 存在に固有の呼称であるからでは? ただしそれは誰もにとって同一の語になってしまっているので 何の某という名前のほうが 固有名詞と見なされ 《わたし》は 代名詞という規定におさまったのではないか?) そのうえで 自分とは違う存在として《わたし》を自称する者を 他者と呼ぶことにすればよい。そのような共通項としての《わたし》をわざわざ《自我》だのと呼び変える必要は生じていない。そんなことをしたら かえってややこしくなりはすまいか? だってこのように考えることをしているのは 《わたし》なのだから。それともわたしの脳の神経細胞のどの部分かを突き止めなくては 納得しないのだろうか? それを《自我》と名づけて 自我大明神としてたてまつるというであろうか。 ~~~~~ ☆ 少し書き直しています。 ○ ~~~~ 他者は わが個体(つまり自分なる存在)と ヒトとしての自然本性において通底しており 《わたし》という自称行為を 言語習慣として・しかもおそらく社会生活にとって必須のコミュニケーション行為として 共有している。 そのうえで おのおのの自由意志による思惟および行動についての取捨選択とそこにおける判断 これを――自由という基礎のうえにであるからには――異にしうるという存在およびその共存のあり方をしている。 しいて言うのなら 自己のわれと他者のわれとは 共通我と非共通我とを持っている。 ~~~~~~ ☆ こう言わなければならないのではないか? 《非我》と言っただけでは 分かりづらい。 * なぐり書きのところがあるかと思いますが 考えてみれば これだけ批判している場合には ていねいに表現すると かえっておかしな印象がついてまわります。 つまり よほど腹に据えかねて 企むところがあるのではないかと見做され疑われるおそれが 出て来ます。これを回避するためにも 独り語りのごとく きつい表現にて 批判を表わしています。 波風を立たせようと思ってなら こんなきつい捨て台詞のような言い回しはしなかった。赤き血の流れていることだけは 示したかった。・・・
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > (6) そしてこの層が明示されると同時に それが動機になって 私の原初的世界の上に《普遍的な意味》の上層が構築され そしてこの上層に媒介されて私の原初的世界は ある一定の客観的世界 すなわち私自身も含めた万人にとって同一の世界の現出となるのである。 人間の単位体としての個人すなわち《わたし》は 放っておいても 分かれていくであろうと思われる。精神の三つの機能のうちの意志能力が おのおのの固有の意志であるかどうかをつねに思っているからだと思われる。 自他の分化は 自然史過程として起こる。その分化の前に・原初的に《わたし》は 普遍的なあり方をしていたし していると考えられまいか? そうでなければ わざわざ現象学的還元をする意味は うすれる。 言いかえると 超越論的反省を繰り返してたどり着いた超越論的主観性に 相互主観性をも捉えてそこでやっと 普遍的な共同主観を得るというわけ(その順序)ではなかろう。 まず、《普遍的な意味》が形成されうるのは、「(ばらばらな)私の原初的世界」のみでは、不可能と考えられるのですが、いかがでしょうか。 ですが、後段におきましては、順序的には、仰る通りかと存じます。 > (8) 純粋な(まだ世界の意味をもたない)他者から出発して上昇するこのような構成の本質には 次のことが含まれている。すなわち 私にとっての他者はいつまでも孤立した状態にあるのではなく むしろ(もちろん私自身の固有の領域においてではあるが)私自身を含む自我の共同体が 相互扶助的に共存する多数の自我の共同体として構成され 最終的にはモナド共同体が構成されるということ しかもこのモナド共同体が (その共同化された構成的志向性によって)一つの同じ共通世界を構成するのだということ が含まれているのである。(『デカルト的省察』H.I,137) モナドを持ち出すのなら 《立ち帰るべきわれ》であったりあるいは《アートマン》であったりしてもよいはず。 でもモナドは ややこしい定義があるようで 措いておきます。言いかえると 個体としてのわたしに モナドを見るだけではなく社会ないし共同体にも 《モナド共同体》が構成されると言おうとしているようだ。定義によっては そう言えるのかも知れない。むつかしい。 モナドは、ライプニッツの次の言葉からの着想のようでございます。「同一の都市でも、さまざまの異なった側面から眺めるとまったく別様に、いわばパースペクティヴの多様性において現出するが、それと同じように、単純な実体が無限に多くあるために、それと同じ数だけの異なった世界が存在している。これら世界は、それぞれのモナドの異なる観点から見た、唯一の世界のさまざまなパースペクティヴにすぎない」(57節) > ★ ~~~~~ > なお 数学のほうでも意味論があるようですが・・・ 形式的世界(論理式、記号等でございます)がそこには存在します。・・・ ~~~~~~ ☆ このように触れていただくだけでも ついて行くうちに明るくなるかも知れませんので ありがとうございます。 ご参考としていただきましたこと、厚くお礼申し上げます。 > ★ ~~~~~ > そうしますと 今度はそういう意味論によるそのモノの規定は 認識論とはどういうかかわりを持つのか? これが 分かりにくくなります。 ここから、間主観性なるものが導かれるかと考えております。 ~~~~~~~~ ☆ 意味論は 単なる定義の領域を担うように思いますが つまりですから 現象学的還元は しているかしていないかを必ずしも問わないかたちであるように思いますが はい、問うていないと考えられます。 > すでにそこにおいて《間主観性》を問うているようでしたら 科学的定義を得ているでしょうし そうではなく意味論のあとに間主観性が問われるようでしたら ただ言語使用の慣習においてのみ定義としているもののように受け取っています。 ただ、モノないし概念の”意味”がなければ、そもそも《間主観性》なるものは生じないと思われるのですが・・・ > 《自我》とは何ぞいや――焦点は その表現なんですが――をめぐってが続きます。 よろしくお願い申し上げます。 > § 5 クロロホルム (chloroform)の正式名称( IUPAC 名)は トリクロロメタン( trichloromethane ) まづは簡単な(?)ところからです。 ■ (ウィキペ:クロロフォルム) ・・・クロロメタン、ジクロロメタン、クロロホルム、四塩化炭素という4種類のクロロメタン類・・・ ☆ とあります。だとしたら 総括名称とその一つの種類名との違いのように思えますが どうでしょう? ご質問の意味がわかりにくかったのですが、確かに、総括名称とその一つの種類名に分けることはできます。なお、以下のように扱っています。また、用途によって、各溶媒を使い分けています(現在では、毒性の点から、四塩化炭素は使いにくい状況になっております)。 ただ、いったん命名されてしまい、それなりの頻度で使用されてしまいますと、たとえ、それが後になって「正式ではない、おかしい」とされたと致しましても、その慣用表現は残ってしまう、ということなのですが・・・ ・総括名称:クロロメタン類 ・各名称:メタンクロライド(正式名称:モノクロロメタン;慣用例:メタンクロライド);メチレンクロライド(正式名称:ジクロロメタン;慣用例:メチレンクロライド等);クロロホルム(正式名称:トリクロロメタン;慣用例:クロロホルム);四塩化炭素(正式名称:テトラクロロメタン;慣用例:特になし) > § 6 イッヒ( ich )とダス・イッヒ( das Ich ) じつは その元の語であるエゴー( ego ;ちなみにサンスクリット語は同根で aham だそうです。子音の交替は g ∽ k ∽ kh ( ch )∽ h のごとく。母音はほとんどみな互いに交替しえます)は いわゆる自称の代名詞でそのかたちは《われ‐は / われ‐が》という意味です。日本語などのような・無格のかたちでの《われ》という意味の語はないはずです。 自称の《われ・わたし》が日本語では 学術語においてどうして《自我》という語に変わってしまうのか? こういう単純な問いです。 以下に、英訳の際の経緯を述べた言説がございました。以下の文章を見ますと、この英訳を参照しながら、(もしくは英訳のように)勝手に日本語化した人がいたのかもしれません。 「1953年にジェイムズ・ストレイチーによるフロイト翻訳全集の英訳の際、独: das Ich(自我)は羅: ego(エゴ)、独: Über-Ich(超自我)はsuper-ego(英: super、羅: ego)(スーパー・エゴ)、独: Es(エス)は羅: id(イド)と訳され用語として流布した。」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%85%E8%87%AA%E6%88%91#.E8.B6.85.E8.87.AA.E6.88.91 > § 7 《 Ich denke, also bin ich. 》と《 das Ich 》 ですが 《われなるもの das Ich 》のその《われ Ich 》がそのまま《われ考える Ich denke. 》として用いられています。つまり反対の方向では《自我》が使えないのが 日本文の特徴です。なぜわざわざそういた面倒な言い回しを 《正式に》用いようとするのか? こういう問いです。 * イッヒとアイ あるいは デンケとシンク(ティンク think )いやはや訛ったものです。ただの訛りで 全く同じ言葉なのに。 元来、英米人(アクグロサクソン)は、ゲルマン民族の一部族であり、アングロサクソンが用いていた言語は、ゲルマン民族の方言だったようですが、場所と時代の移り変わりとともに、こうなってしまったのかもしれません。 > § 8 心理学ないし精神分析における《自我》は もはや相手にしません。 それゆえにも完全な批判をしておく必要があるのですが 今度にします。 了解致しました。 > ひとこと言えば 自我も超自我もエスも みんな《わたし》であるかその部分的な作用であるからです。エスが飯を食ったり 自我が仕事をしたり 超自我が相手の言い分をまづ聞くということをしたりするわけではなく すべて《わたし》がその意志のもとにおこなうものだからです。部分概念を全体の概念として用い過ぎです。 日常語としてはふさわしくないように愚生も考えております。 字数制限のため、次項に移らせていただきます。
お礼
ごめんなさい。つぎの事項で勘違いがありました。 ★ ~~~~ § 5 クロロホルム (chloroform)の正式名称( IUPAC 名)は トリクロロメタン( trichloromethane ) ご質問の意味がわかりにくかったのですが・・・ ~~~~~~~ ☆ クロロメタンが 総括名称だったのですね。それを トリクロロメタンであるとばかり見てしまっていました。 あっ ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ただ、いったん命名されてしまい、それなりの頻度で使用されてしまいますと、たとえ、それが後になって「正式ではない、おかしい」とされたと致しましても、その慣用表現は残ってしまう、ということなのですが・・・ ☆ ええ このことも 言語学――社会言語学でしょうか――の主題だと思います。 ただし例外はあります。きちんと改められる場合があります。 ・ビルマ → ミャンマー ・ラングーン → ヤンゴン ・アウンサンスーチーは 英字として Aung San Suu Kyi です。 ・鎌倉幕府の成立は むかし 1192年だとされていましたが いまでは実質的な機能の成立を捉えることにより 1185年説が優勢になったとか。 《自我》なる用語は ★ 日常語としてはふさわしくないように愚生も考えております。 ☆ 独りで吠えた甲斐がありました。ありがとうございます。専門用語としても 見直しがなされるとよいと思っております。 * 意味論にかんしてですが: ★ ただ、モノないし概念の”意味”がなければ、そもそも《間主観性》なるものは生じないと思われるのですが・・・ ☆ これは どうでしょう。わたしはむしろぎゃくで すでに間主観性にもとづき普遍性をもとめるかたちで モノゴトについての概念は その意味が与えられるのではないかと思っているのですが。 * 間主観性を どの時点で推し出すか。 ★ まず、《普遍的な意味》が形成されうるのは、「(ばらばらな)私の原初的世界」のみでは、不可能と考えられるのですが、いかがでしょうか。 ☆ ですから 見方をまったく一変させて見ようとしています。 原初的な姿としてのわたしは 《身体および精神 そして精神は 記憶・知解・意志の三つの行為能力を持つ》という自然本性において 潜在的に《類》としてある。《わたし》は 類的存在であり得ている。 つまり普遍的な意味を持ちうるし 《人は人に対して狼なり》といった見方におけるバラバラ性を――もしそれがあったとしても――包むようにしておさめている。と見ようとしています。 すなわち 《わたし》は初めから 潜在性として間主観性をもそなえている。こう見ようとしています。 生活世界にしても フッサールの見方は 順序がぎゃくだという考え方です。すでに初めに・そして途中にもそしておしまい(本質直観が得られる瞬間)においても 生活世界は わたしの・と同時にわたしたちの目の前にあって つねに大前提であるのだと。 * 《モナド》は まだよく分かりません。 ★ ~~~~~~~~~ ☆ ~~~~~~~~ モナドを持ち出すのなら 《立ち帰るべきわれ》であったりあるいは《アートマン》であったりしてもよいはず。 でもモナドは ややこしい定義があるようで 措いておきます。言いかえると 個体としてのわたしに モナドを見るだけではなく社会ないし共同体にも 《モナド共同体》が構成されると言おうとしているようだ。定義によっては そう言えるのかも知れない。むつかしい。 ~~~~~~~~~~~ モナドは、ライプニッツの次の言葉からの着想のようでございます。 ◆ 「同一の都市でも、さまざまの異なった側面から眺めるとまったく別様に、いわばパースペクティヴの多様性において現出するが、それと同じように、単純な実体が無限に多くあるために、それと同じ数だけの異なった世界が存在している。これら世界は、それぞれのモナドの異なる観点から見た、唯一の世界のさまざまなパースペクティヴにすぎない」(57節) ~~~~~~~~~~~~~ ◆ それぞれのモナドの異なる観点から見た、唯一の世界のさまざまなパースペクティヴ ☆ この見方に照らして 社会としてのモナド共同体を捉えるのでしょうか?
続きからでございます。 > (15) しかもおそらく この超自我を《根源的なわれ》として立てるときにも 生存の欲求としてのイド(エス)は もとから《わたし》の記憶の倉庫にはあったのだと考えられるからには 根源的な超自我というのならばその超自我は このエスをも〔そしてむしろ我を張りつつ表層における思考をおこなう〕自我をも 含み持っていると考えられなければおかしい。つまりは それは 人間の存在として・全体として 《わたし》のほかのことではない。こう考えられるのではありますまいか? 正論かと存じます。ただ、専門用語化してしまいますと、例えば、上記のクロロホルムの例もそうなのですが、あまりにも慣用表現が多くなってしまったために、統一した名称にすべきとの観点から、IUPACにて名称化が試みられました。ですが、合成 or 発見化合物数も増加し、それに合わせて、各自(各研究者)の使用が見られ続けます。そして、このIUPACも数年に一回ずつ、改変がなされているという現状もございます。 これはある程度致し方のないものと考えております。 > § 3 インタメッツォ § 2からはたとえば 次のように言えるかも知れません。 ★ ~~~~ ☆ ・・・曲の表題は いっぺんエポケーして音楽を聞いたほうがよいですね。〔あるいはぎゃくに表題の伝える〕そのテーマに沿って 想像をたくましくして 音楽の展開をたのしむということも ありなのでしょうけれど。 もちろん、そういう楽しみ方もございますし、詩をメインに楽しむ方法もあろうかと思われます。これは、各々の皆様が「これはいい!」とお思いになられる方法で楽しんでいただければ、と思っております。 ★ ~~~ 最初は、すべてをエポケーして、つぎには、画家の生涯および作成されたときの背景を知りながら鑑賞してみる。そして、自分の最も楽しめる、感動できる方法を選んでいただければ、と思っております。 ~~~~~~ ご参考としていただけましたこと、誠に光栄に存じます。他人がどうこう言おうと、「わたくしは、これでいい」と、自分自身に偽りがないのでしたら、その鑑賞の仕方でいいと考えております。 § 4 生活世界 > ▲ (フッサール:世界の構成) ~~~~ (4) 《客観的世界》という存在の意味は 私の原初的世界(私の自我がいわば独我論的な立場で最初に構成する世界)を基盤にして 幾つかの段階をへて構成されるのである。 *(ぶらじゅ註) ひとつに《客観的世界》を初めに持ってくると話はややこしくなるように思われる。 ゆえに 傲慢のそしりを幾万回受けてもくじけない質問者としては 順序がぎゃくであると言わなければならないと思う。すなわち《生活世界》は フッサールにおいても 自然的態度としてはじめにあったとしたら そしてもし最後にも到達したのだとすれば ま とめとしては 《生活世界》が最初にして最後のわれらが基礎であると言ってしまってよい。のではないか? いえいえ。ご質問者様のご質問に対応するのが、回答者の義務と思っておりますので、傲慢のそしり等は、愚生はまったく抱いてはおりません。 ただ、《生活世界》は、第一段階としてのエポケーされたものとして生じ、次にこの《生活世界》から、構成的根源としての超越論的主観性に還り問うという二段階に分けられていたかと記憶しております。 つまり、元来最初に用いられるはずべきものなのかもしれません。ですが、いったん、エポケーされた後得られるとされています。さらに申しますと、エポケーしなくては、ガリレイ等により、複雑な数式化された世界から、《生活世界》へ辿り着けないということかと考えております。 > (5) その第一段階としては 他我(アンデレ)もしくは他我一般 すなわち私自身の具体的存在(原初的自我としての私)から排除された〔他者の〕自我を構成する層が剔出されねばならない。 言いかえると この本質直観を得ることのできる《わたし》はすでにそのまま(自然本性において) 自己とも他者とも カカワリ(関係性)を持っている。あとは 生活世界においてマジワリ(交通)を持つのみだ。 他者と自己との区別は 時が経てば いやでもおとづれるゆえ 惑うことはないと思われる。しかもその区別からおとづれるのは《自我》ではなくて 《本質直観としてのわれ》であるはずだ。 順序をぎゃくにして述べているだけではなく 本質直観というものを分かっていないのではないか フッサールは? この問題につきましては、フッサールの思索の時系列変化に着目すべきかと考えます。まず、この言説は、他我論についてのことかと考えられます。つまり、まず、わたくしの主観に基づいた認識論があります。ですが、他者の存在の根拠はと申しますと、厳密ではない訳でございます。そこで、身体論等による”自己移入”から、”他者”とは、”わたくし”にとって客観であるのと同時に、単なる客観ではなく、”わたくし”と同様に世界に対する主観としての”他者”が理解されてきた訳でございます。そして、”生活世界”の概念が生まれてきました。 従いまして、フッサールの論脈から致しますと、そうならざるを得なかったと解してございます。 誠に申し訳ございません。以降は明日にでもご返答致したく存じます。
お礼
つづいてです。 § 10 《生活世界》についての次の箇所が 単純に言って汲み取れませんでした。 ★ ・・・さらに申しますと、エポケーしなくては、ガリレイ等により、複雑な数式化された世界から、《生活世界》へ辿り着けないということかと考えております。 ☆ ガリレイらの理論が分かって言うのではないのですが 《数式化された世界》は それ自体がすでに事象ないし世界を抽象化しエポケーして得られたところではないですか。 いまの文脈は次です。 ★ ~~~~ 《生活世界》は、第一段階としてのエポケーされたものとして生じ、次にこの《生活世界》から、構成的根源としての超越論的主観性に還り問うという二段階に分けられていたかと記憶しております。 つまり、元来最初に用いられるはずべきものなのかもしれません。ですが、いったん、エポケーされた後得られるとされています。 ~~~~~~ ☆ 頓珍漢なことを言ってみますと 《生活世界》は けっきょくつねに《わたし》にとって目の前にありますし わたし自身がそれでもあります。 けっきょくのところその目的は この世界における事象をどう見るか ですよね? 極端なことを言えば 超越論的反省をしなくても 現象学的還元を経なくても この《世界における事象》についての本質直観が得られそれを表わすことが出来ればよい。こうなるのでは? すなわち 生活世界は それほど身近でもあるということ。ヒラメキ直観は 思考を超えているというだけではなく 現象学的還元という作業――つまりは広げて一切の人為的な努力――をしなくても 得られえます。 § 11 生活世界に戻ってきたということは そういった《ヒラメキ》問題をも見直したということではないのでしょうか? ゆえに ☆☆ (§ 4 (5) ~~~~ 言いかえると この本質直観を得ることのできる《わたし》はすでにそのまま(自然本性において) 自己とも他者とも カカワリ(関係性)を持っている。あとは 生活世界においてマジワリ(交通)を持つのみだ。 他者と自己との区別は 時が経てば いやでもおとづれるゆえ 惑うことはないと思われる。しかもその区別からおとづれるのは《自我》ではなくて 《本質直観としてのわれ》であるはずだ。 順序をぎゃくにして述べているだけではなく 本質直観というものが分かっていないのではないか フッサールは? ~~~~~~~~~~ ☆ ちなみに 訪れは 《音連れ》が原義だそうです(大野晋)。 関係ないことでしたが 生活世界を推し出すということは 何もエポケーしない前の自然的態度をもそこに見て そのまま(ことさらの反省的態度がなくても)直観は得られ これが本質を射ているということは考えられるということ。このように問うてみます。 § 12 生活世界は つねに目の前にあります。 前二項よりのつづきですが: ★ ~~~~~ この問題につきましては、フッサールの思索の時系列変化に着目すべきかと考えます。まず、この言説は、他我論についてのことかと考えられます。つまり、まず、わたくしの主観に基づいた認識論があります。ですが、他者の存在の根拠はと申しますと、厳密ではない訳でございます。そこで、身体論等による”自己移入”から、”他者”とは、”わたくし”にとって客観であるのと同時に、単なる客観ではなく、”わたくし”と同様に世界に対する主観としての”他者”が理解されてきた訳でございます。そして、”生活世界”の概念が生まれてきました。 従いまして、フッサールの論脈から致しますと、そうならざるを得なかったと解してございます。 ~~~~~~~ ☆ いまの段階では すでにフッサール批判――賛同・顕揚をもふくめてです――をも並行して進めるというかたちに移っています。 煮詰めた議論としましては 目の前の生活世界において《わたし》と自称しつつ互いに意志疎通をおこなっている人として 《わたし》は それぞれ互いにとって《自己》であり《他者》であると言えます。《〈わたし〉という自称が指し示すその存在》は と言いなおしたほうがよいかも知れませんが このような社会的な《わたし》関係 これが 生活世界であるとも言えまいか? その意味は――このような言語交通という切り口から世界や事象を見ることの意義は―― 《わたし》においてすでに主観でもあり 言うとすれば客観でもあるかたちになっている。誰もがそう見止めるかたちになっている。(その基礎としての事由は おそらくことばとしての《わたし》が 何かに代わる代名詞ではなく みづからにとって固有名詞であるからではないか? 存在に固有の呼称であるからでは?) そのうえで 自分とは違う存在として《わたし》を自称する者を 他者と呼ぶことにすればよい。そのような共通項としての《わたし》をわざわざ《自我》だのと呼び変える必要は生じていない。そんなことをしたら かえってややこしくなりはすまいか? だってこのように考えることをしているのは 《わたし》なのだから。それともわたしの脳の神経細胞のどの部分かを突き止めなくては 納得しないのだろうか? むろん横着にも ★ フッサールの論脈 ☆ を離れてものを申しております。 § 13 生活世界の根拠は? フッサール自身の論脈を離れてでも総合的なまとめとして 新たな視点を覆いかぶせる(もしくは すでに得られている概念装置のそれぞれを組み替えて位置づける)議論は すでに必要かと考えます。 そのようにして生活世界を 初めにも途中にもそしておわり(本質直観の瞬間)においても取り立て言わば大前提としているというその根拠はと言えば それは ただただ《言語交通》である。 その言語交通の根拠はと問えば ない。無根拠である。(ヒラメキの根拠を問うかたちにおいて その結論を得るはずである)。 ただただそういう《人間のおかれた条件》から来ているとしか言いようがない。所与である。 無根拠は――いちいち言う必要はないであろうけれど―― 絶対的な所与である。つまりそこには 人間の条件から出発して言っているのだから 人間にとってという《人間原理》がはたらいている。 尻切れトンボにてですが。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > § 1 《わたし》とは何か? これが原点であるように思います。 今回ご回答を読み どうも根幹は 《わたし》問題ではないかと考えるようになりました。 《人間の主観に関する限りそれ以上その存在を疑いえないというときの われ》とは 何か? です。 この問いの答えが分かったと見做してそのあとの議論をしているのではないか? ともなります。 新たな視点からの考察を賜りまして、厚くお礼申し上げます。 > つまりたとえば日本語の視点から言えば 《わたし》と《自我》との使い分けは どうして起きてしまっているのか? との問いが出て来ます。 以下、goo辞書からの引用でございます。心理学や精神分析では、もはや専門用語化しているのかもしれません。 なお、哲学におきましては、非我との対照からの意味合いがあるのかもしれません。フッサールは、この非我(他者)なるものも、身体論から、各々自我(他我)を持つ存在として、位置づけたものと考えております。 1 自分。自己。 2 哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。⇔非我。 3 (1)心理学で、行動や意識の主体。自我意識。 (2)精神分析で、イド・超自我を統制して現実への適応を行わせる精神の一側面。エゴ。 > §2 言語表現の問題は 《わたし》の解明に補助的な視点を提供すると見ました。 この項目から入りますが たとえばこうです。 * なお【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4958074.html という質問をおこなっています。 《何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞である〈わたし〉の 代名詞ではないでしょうか?》などと問うています。この《わたし》問題については No.47のお礼欄におけるまとめおよびそのほかの回答者の方々とのやり取りを参照願いますが 問題は 質問者の見るところ こうです。 懐かしいお名前が出てきてしまい、思わず、おセンチな気分になってしまいました。 ですが、以下の各論点につきましては、論理的に述べていきたく存じます。 > (2) 《あやまちを侵したときのわたしは いまそれに気づいているわたしとは 違う》 こう言っているはずですし そう言っているのみではないか? こういう問いです。しかもそこに 言うとすれば 根源的な・それ以上は疑い得ないわたしがいると言えるのだと。 愚生にも、仰られる意味は理解できます。 > (3) 《もの自体》が分かり得ないというように《わたし》自身の中核も分からないし 分からなくてよいのだという意味ではありません。《あやまちに気づき われに還ったわたし》は すでに《わたし》を知っているのですし 知っていたのです。わづかに《その知っているところのわたしを 思ってはいなかった》というのみだと。 《その知っているところのわたしを 思ってはいなかった》このお言葉に関しましては、愚生も十分理解できます。ただ、《わたし》自身の中核・根源ともなりますと、愚生には分かりかねるところがございます。 > (4) ただしわたしがわたしを知るというときの《知り方》は これを問うてみなければなりません。言葉にして説明することがむつかしいことだと誰もが知っているからです。どうもおよそそれは 主観的な確信に還元されてしまうようです。 《わたしは 自己を知らなかったわけではなく さらには自己を愛して来なかったわけではない》と気づくとき それ以上その存在を疑いえないわたしがいますが これは 思考やそれにもとづく認識の問題ではないようなのです。 はい、突き詰めますと、極めて主観的なものになろうかと推察されます。 後段の文章におきましても、思考のみの問題ではないように思われます。 > (5) むしろまったく乱暴に言ってしまえばそれは 《わたしは〈わたし〉という言葉でみづからのことを指し示して 他者と意志疎通を図っている。その社会的な〈わたしどうしの関係〉の中にあってその言わば言語生活に基づいて みづからの〈わたし〉を・しかもその中核と思われる存在を捉えたと 思っているし じっさい確信している》。という事情であって それに過ぎないとさえ言えるのではないか? 仰りたいことは、”「わたくし」とは、ある社会(集団)において、他者との意思疎通を成立させるための相対的な使用言語である。そしてそのときはじめて、この「わたくし」の確信もなされる”ということでしょうか。 > (6) 言わばむしろ《わたし》は ないのです。もしくは《わたし》の根源は どうでもよいのです。問題は 《ことばを話す動物であること(ホモ・ロケンス)》のほうにあり 《言葉は言葉でみづからの世話を焼いているし 勝手にその世界を展開している。その世界に人間は 気ままにあそんでいるというに過ぎない》と。 上述(5)とほぼ同じ内容と受けとりました。極論ではございますが、根源等はどうでもよく、社会、さらにはその社会の歴史・慣習の中において意味を成すもの、と理解させていただきました。 > (7) ただ一つ――ただひとつ―― 《あやまちについての気づき》は それとして(つまりその経験行為に関する限り) 確信をいだくことのできる内容を持ち得ているものと推し測られます。そこから人は 社会生活へと出発しているからです。 これは、紛れも無く事実かと存じます。 > (8) つまり《われに還るわれ》なるわたしは 言語生活者〔どうしである者〕として その現実性やそれの明証性やしたがって確信が保証されている。これを言いかえると 保証無しです。無根拠です。無根拠という舞台のうえで あそんでいます。《はじめに ことばがあった》。 おそらく無根拠ということばだと見られます。 おそらく、無根拠に突き当たろうかと察せられます。 > (10) その気づきにおいてということは 反省をおこなうときの思考をとおしてもうこれ以上その存在を疑いえない自分を発見したというかたちに説明することが出来ます。 思考を通しては、疑い得ない存在といえるかもしれません。 > (11) ちなみにもしそうだとしたら この《わたしがこの世界において主観するかぎりで 〈存在〉についてそれ以上は疑うことのできないものとしての自己を発見した》というときの自己は 果たしてわざわざ《自我》と言いかえる必要がありましょうか? 一般的には、ないと考えます。おそらく、意思疎通に障害がみられる事例を研究する精神医学等で、その専門用語がそのまま広まってしまっただけのかもしれません。 > (13) もし(11)でどうしても別様に《自我》なら自我という用語を作り用いなければならないとすれば そこにどのような違いが生じているのか? 自我という用語を用いるのならば 超自我やエス(無意識)は《わたし》なる存在からは排除されるというのでしょうか? いえ、それはないと考えられます。 超自我やエス、これらも精神医学の用語かと思われます(普段は、このような言葉は用いませんから)。そう致しますと、それら用語との、差異を明確化すべく用いているだけなのかもしれません。 > (14) あやまちに気づきそこで思考するわれを見つめるわれ これは《わたし》と自称してほかの《わたし》と社会生活を送るというその存在とは 別様に規定しなけれならないのでしょうか? もしそのような心理学ないし精神分析論の仕組みにもとづこうとするなら むしろ《超自我》のほうが ふさわしいのではないか? 《われに還るわれ / われに気づくわれ / われを思うわれ》として。 まず、前段につきましては、別様の基底は設ける必要性はないと考えられます。ただ、 超自我やエスとの差異が問題となる、心理学等のみの述語であり、それ以上のものではないものと考えております。 後段につきましては、慣用表現上の問題だけなのかもしれません。例えば、クロロホルム (chloroform)の言葉をお耳にしたことがあろうかと存じます。しかし、正式名称(IUPAC名)はtrichloromethaneとなります。ですが、あまりにも広く用いられているため、chloroformの使用も一応は認められているのと同じようなものなのかもしれません。 字数制限のため、以降に続きを述べさせていただきます。
お礼
ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 《自我》とは何ぞいや――焦点は その表現なんですが――をめぐってが続きます。 § 5 クロロホルム (chloroform)の正式名称( IUPAC 名)は トリクロロメタン( trichloromethane ) まづは簡単な(?)ところからです。 ■ (ウィキペ:クロロフォルム) ・・・クロロメタン、ジクロロメタン、クロロホルム、四塩化炭素という4種類のクロロメタン類・・・ ☆ とあります。だとしたら 総括名称とその一つの種類名との違いのように思えますが どうでしょう? § 6 イッヒ( ich )とダス・イッヒ( das Ich ) じつは その元の語であるエゴー( ego ;ちなみにサンスクリット語は同根で aham だそうです。子音の交替は g ∽ k ∽ kh ( ch )∽ h のごとく。母音はほとんどみな互いに交替しえます)は いわゆる自称の代名詞でそのかたちは――英語の I - my - me の格変化のごとく 《 my:われ‐の》や《 me:われ‐を》ではなく 《 I 》を特定しているのですから―― 《われ‐は / われ‐が》という意味です。日本語などのような・無格のかたちでの《われ》という意味の語はないはずです。 つまり 表題のふたつの語は 《われ‐は(‐が)》と《われなるもの・われであること》とをそれぞれ意味すると思います。 けれども《われ(あるいは わたし)》という語じたいは それら二つのあいだで変わりありません。 自称の《われ・わたし》が日本語では 学術語においてどうして《自我》という語に変わってしまうのか? こういう単純な問いです。 § 7 《 Ich denke, also bin ich. 》と《 das Ich 》 《自我考える。ゆえに自我あり》とは言わないという事由により自我という言い回しを批判しましたが たしかにその批判はまだ弱かったかも知れません。 おのれを疑っているおのれは もはや疑いえないというその《われ》を特に日本語では《自我》と呼ぶのだと いちおう言えるかと思います。 ですが 《われなるもの das Ich 》のその《われ Ich 》がそのまま《われ考える Ich denke. 》として用いられています。つまり反対の方向では《自我》が使えないのが 日本文の特徴です。なぜわざわざそういた面倒な言い回しを 《正式に》用いようとするのか? こういう問いです。 * イッヒとアイ あるいは デンケとシンク(ティンク think ) いやはや訛ったものです。ただの訛りで 全く同じ言葉なのに。 § 8 心理学ないし精神分析における《自我》は もはや相手にしません。 それゆえにも完全な批判をしておく必要があるのですが 今度にします。 ひとこと言えば 自我も超自我もエスも みんな《わたし》であるかその部分的な作用であるからです。エスが飯を食ったり 自我が仕事をしたり 超自我が相手の言い分をまづ聞くということをしたりするわけではなく すべて《わたし》がその意志のもとにおこなうものだからです。部分概念を全体の概念として用い過ぎです。 自我の芽生えではなく 人は人間としての自由意志に芽生えるのであり おのれの意志自由についての知性を得始めかたちづくろうとすることなのですから。 自我などという言い回しを作るものだから 自我を滅却したところにさとりが得られるなどという俗説が出回ります。《わたし》の消滅(ニルワ゛ーナ)とは言わず 《わたくし(その片寄りのくせの部分)》を滅却すると言いたいのだと思います。 自我の滅却が必要だと言いたい場合というのは 自我という観念に縛りつけられているおのれを われ に還らせたいということに過ぎないと思われます。 § 9 《非我)とは何ぞや? ★ (goo辞書)2 哲学で、知覚・思考・意志・行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分。⇔非我。 ☆ (あ) この主体ないし自分は ちゃんとした日本語で《わたし》と言います。 (い) 自己同一性は 《わたしはわたしである》です。そういうふうに表わす場合が――今は知りませんが―― 昔はまづなかったと思います。 (う) そのような簡単明瞭な言い回しを知らずに なんと頻繁にアイデンティティなどという言葉が飛び交っていることかと思います。 (え) たぶんそういう発言をしている人はその《わたし》なる自分のほかに どこかにあり難いお経の中から採った文句のようなものが漂っているとでも思っているのではないでしょうか? (お) もしくは 黄門様の印籠のようなものを出して見せしめにしたとでも思っていないでしょうか? (か) 嘆くに嘆かれず 憐れむに憐れまれない悲劇です。それもこれも 《自我》などという語を 《わたし》のほかにつくってしまったからではないか? (き) 《環界としての自然や環境としての社会的自然 こういった外部から区別して意識される自分》はいるでしょうが 《他者から区別する自分》というのは 一筋縄で規定することはむつかしいのではないか? (く) 《社会》と一口に言っても それは《人間関係》から成っているからには じつは《他者》を含みます。《他者から自分を区別する》とは どういうことか? (け) 安易に区別するので あとから《他我――他者の自我――》などという捉え方をも段階的にしなければならなくなるのではないか? (こ) 《類としての人間》を考えるなら そのまま《自己と他者》とは 何らかの共通することがら)自然本性)を持っている。あるいはその個体ごとの存在も たとえば《わたしがわたしである》という自同律において通底している。 (さ) つまりそのような前提が初めにあってそのあと 他者と自己とを区別する。 (し) 区別されることがらとして特には 自由意志が――自由意志として類型的に同じだと捉えられつつ―― その行使の仕方で違っており そこにおいて人は互いに社会的に独立しているということであろうと考えられる。 (す) このような踏み出しをしてからでないと 《区別》と言ってもあいまいに終わる。つまり 《非我》とは何ぞや? という問いをいつまでも問い続けなければならなくなる。のではないか? (せ) 《自我》と言ってしまったからこそ 《非我》にもその悲喜劇がおよんでいる。《わたしが考える / 仕事をする / ・・・》という表現における《わたし》に代えることはできないと分かっているのに 《自我》という用語を持ち出したことが 間違いではないだろうか。 (そ) 行為の主体つまりは人格の全体ないし存在の全体としての《わたし》について考えを及ぼすことのないように 人びとをみちびこうとして 《わたし》でよいものを《自我》という言葉にしたのであろうか? それは 支配者であるお上の謀略なのだろうか? (た) おそらく《自我》と聞いて 《わたし》の意志行為のことだと捉える人は どれだけいるだろう。もしくは捉え得ても それは《わたし》とは別世界における《自我》という名のとうとい《意志行為菩薩》のことだとでも思い込むことになるのではないか? (ち) いやいや《自我》を滅却するとか言っていたからには その自我は街中を歩いているはずだと反論されるなら その自我は むしろお上に楯突き空気を読まない《自己主張》でありただ我を張っているだけだという見方のもとに捉えられている負の遺産である。 (つ) 自我という言葉を無くしてしまおう。
続きからでございます。 > ( h )★ ・わたくしなる固有の意識を持つ存在――☆ これは《わたし》です。《わたし》が捉えた《わたし》です。すでに現代人は これを《自我》と言うとそのまま受け容れるまでになっていると思えますが そんな言い回しをした日には 余計に分からなくなるのではないでしょうか? わたしの自我とは何か?――せいぜいが 《意志》といったことを言うのではないでしょうか? 仰られますように、使用は専門的用語、述語としての使用のみに限られるべきかもしれません。ひどっちクンはアマテラス学術用語を用いていたにすぎなかったのかもしれません。 なお、勝手ながら、以下のご質問につきましては、上記のことから類推できるものと思われましたので、省略させていただきました。ご理解の程賜れば、幸いでございます。 > (《アートマン》も 《我》と表現したから ややこしいようです。《わたしの根源》ということのようですから。つまり 仏性にまで通じる概念のようですから)。 《アートマン》:わたしの根源、意識の最も深い内側にある個の根源、という意から、学術用語としましては、それでよかったのかもしれませんが、”わたくし”でも別段構わないと考えております。 > ( n ) さとりは 哲学の主題であるか? をめぐってですが: ★ ~~~ 〔さとり―→無根拠なるもの―→これが想像力を掻き立てる―→《仮像》が得られる―→これが経験科学の発展に寄与したところも大きい。〕 そう致しますと、「経験思考を超えた直観において得られるもの」も“さとり(定義が困難ですが)”というものと、隣り合わせに生きていけるのではないか? これは、現実的生を生きるわたくしたちにとりましても、重要な知見、解釈を与えてくれるのでないのか?、これらを鑑みますと、哲学としても問い続ける価値はあろうかと考えております。 ~~~~~ まず、整理していただきまして、お礼申し上げます。どうもありがとうございました。 > ( o ) 《アートマン》と《根源的主観性》とは けっきょくほぼ同じ概念であるのではないか? 既に、触れてございますが、”意識の最も深い内側にある個の根源”でございますので、ほぼ同じ概念かと存じます。 > あるいはつまり 《アン‐アートマン(いわゆる無我)》と言っている――つまり 空観においてある――《わたし》 これも 同じではないか? 実を申しますと、愚生も調べ切れていない箇所がございます。それはナーガルジュナは大乗仏教の菩薩道を求めるにあたって、何を信仰していたのか?なのでございます。様々な説がございますが、どれも信憑性に欠けるところがあり、苦戦しているところでございます。これが判明致しますと、さたに愚見も充実した内容になろうかと考えておりますが、現時点では、わからない、というのが実情でございます。 以下、意味論についてでございます。 > ですが じつはよく分かりません。そのわけは 意味論という分野があってそれがどういう仕事をしているか という問題よりも 意味論のその仕事が どういう志向性のもとにおこなわれているか という問題でよく飲み込めません。しかも 現象学にかかわっての問題です。 誠に申し訳ございません。今回のものは、フッサールのものに限定させていただきました。 > なお 数学のほうでも意味論があるようですが それについてはよく分かりません。 形式的世界(論理式、記号等でございます)がそこには存在します。ですが、これだけでは現実世界への応用が困難となります。と申しますのも、言葉には曖昧性があり、文法に関する厳密な見解の一致もなく、このため、「意味とは何か」が定まらないからでございます(言葉の意味というものは「意味とは何か」と定義するのではなく直感されるものなのもその一因かもしれません)。 そこで、よく問題とされますのは、翻訳ソフト(プログラミング)の問題でございます。プログラミングも、コンピュータに認識してもらえるように、あえてプログラミングにより言語化したものと考えますと(原則は、0と1の二進法でございます)、数学の範疇に入るかと考えられます。 参考: https://sites.google.com/site/orderofproduct/synsem https://sites.google.com/site/orderofproduct/model https://sites.google.com/site/orderofproduct/roleofmodel > ☆ ここでの意味論は こういうことかと思います。つまり 色は赤のほかにも緑や黄色もあるのに《赤》をリンゴの概念を表わす特徴として取り上げるのは ある種の仕方でその赤で代表させている。そういった《意味》の社会的な用法だと見られると思うからです。 仰られる通りでございます。 > そうしますと 今度はそういう意味論によるそのモノの規定は 認識論とはどういうかかわりを持つのか? これが 分かりにくくなります。 ここから、間主観性なるものが導かれるかと考えております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
つづいてです。 こちらのほうは ややこしくはないようです。 ★ ~~~~~ > あるいはつまり 《アン‐アートマン(いわゆる無我)》と言っている――つまり 空観においてある――《わたし》 これも 同じではないか? 実を申しますと、愚生も調べ切れていない箇所がございます。それはナーガルジュナは大乗仏教の菩薩道を求めるにあたって、何を信仰していたのか?なのでございます。様々な説がございますが、どれも信憑性に欠けるところがあり、苦戦しているところでございます。これが判明致しますと、さたに愚見も充実した内容になろうかと考えておりますが、現時点では、わからない、というのが実情でございます。 ~~~~~~~ ☆ わたくしも同じ事情です。保留します。 ★ ~~~~~ > なお 数学のほうでも意味論があるようですが・・・ 形式的世界(論理式、記号等でございます)がそこには存在します。・・・ ~~~~~~ ☆ このように触れていただくだけでも ついて行くうちに明るくなるかも知れませんので ありがとうございます。 ★ ~~~~~ > そうしますと 今度はそういう意味論によるそのモノの規定は 認識論とはどういうかかわりを持つのか? これが 分かりにくくなります。 ここから、間主観性なるものが導かれるかと考えております。 ~~~~~~~~ ☆ 意味論は 単なる定義の領域を担うように思いますが つまりですから 現象学的還元は しているかしていないかを必ずしも問わないかたちであるように思いますが すでにそこにおいて《間主観性》を問うているようでしたら 科学的定義を得ているでしょうし そうではなく意味論のあとに間主観性が問われるようでしたら ただ言語使用の慣習においてのみ定義としているもののように受け取っています。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 要するに頭に――聴覚をはたらかせる作業のほかに―― 詩つまり言葉をつうじて何らかの観念を持ってしまっているということですね。聴覚像の世界と思考(概念像)の世界とがからみ合うことになると。 としますと 曲の表題は いっぺんエポケーして音楽を聞いたほうがよいですね。そのテーマに沿って 想像をたくましくして 音楽の展開をたのしむということも ありなのでしょうけれど。 もちろん、そういう楽しみ方もございますし、詩をメインに楽しむ方法もあろうかと思われます。これは、各々の皆様が「これはいい!」とお思いになられる方法で楽しんでいただければ、と思っております。 いろんな、楽しみ方、感動を得る方法はあろうかと思われますので(最初はタイトルなしで、二階目は歌詞を見ながら等でございます)、試していただければと思ってございます。”音楽”は”音学”ではございませんし・・・ > 考えてみれば 絵画にも言えることかも分かりません。表題はつけられていてもそれにこだわることなく――ということは 作者である画家の思わくをも一たんエポケーして・そしてあるいは 所謂る二次的な鑑賞としての・評論家の批評にも影響されることなく―― 事象に就いて見てみる。 はい。これもそういう鑑賞の仕方があろうかと存じます。最初は、すべてをエポケーして、つぎには、画家の生涯および作成されたときの背景を知りながら鑑賞してみる。そして、自分の最も楽しめる、感動できる方法を選んでいただければ、と思っております。 > さて 《自我》論争ですが: ☆ わたくしの物言いも 到ってかんたんなんです。 ( a ) 同じ《 Ich / ego / I / ・・・》なる用語を なぜ《わたし・われ》と《自我》とに分けるのか? ドイツ語では、das Ich または Ich(大文字であることが異なります)と少し、”ich”とは、異なる用い方をしているようではあります。 つまり、「自己をも対象とする認識」の意味があるようでございます。主に使用されるのは、心理学のように思われます。 ですが、これを「わたし」と致しましても、意味は通じるかと思われます。 > ( b ) 《自我考える。ゆえに自我あり》とは言わないだろうと思われます。 これだけでよいと思います。が もう少しつなぎますと あるいは: > ( c ) われわれは 他者に――実際になりと想像上でなりと――相い対するとき その人と向き合っているのであって・そしてそれをその人の《わたし》というのであって 決してその人の自我つまり他我とではないということ。そんなことをしたら ただただあたまの中で 人間を扱っているだけになります。 まず、「我思う」=「自我」かと考えております。 また、現象学という、まず、自分(意識)の存在のみが疑い得ないものであり、他の人達の存在の根拠は、この自我なる意識経験を通して、おそらく他の人達にもそれぞれの自我(他我)が存在するのではないか、との類推により、他我を用いたものと考えております。 ですが、他我という言葉は、一般的に用いる言葉ではおそらく無いと思われます。 > ( d ) 身と心から成るその人の存在全体とまじわり 対話をおこなっています。 そうでなく 自我などという用語をはやらせたから あの人は 我が強いとか 自我が発達していないとかいうことになります。 これは、問題とすべき所かもしれません。ただ、本来の意味とはかけ離れたものと思っております。使用場所を限定すべきかもしれません。 > ( e ) 我が強いは まだ《わたし》の全体を相手としてその性格ないし特徴を部分的に言ってみたまでだと考えますが 自我の成長などという概念を持ち出すなら それは存在全体としての《わたし》とはあたかも別個に――それは確かに《わたし》のであろうけれど・もしくは であろうのに 別個に――《自我》が社会の中で育って行くのだというような見方をしているように受け取られます。 「自我の成長」は確かにもちいられないかと存じます。あくまで、「わたくしの成長」かと存じます。 > ( f ) おそらく これは《わたし》の人格ないし境地にとって 不幸です。それは 《さとり》を実際の生活世界とは別の世界に求めるような傾向を 人びとのあいだにもたらしていると思われるからです。すべては 根源的所与としての超越論的主観性つまりはけっきょく《わたし》の問題だと考えられるのにです。 生活世界とは、フッサールの最後の境位とも言えようかと考えられます。 そして、その前には、”意識の一切の作業の所産に「意味の発生」を見て、すべての対象も意味の歴史を既に担っている以上は、これを逆に発生史的にもとの原初の経験まで辿り着ける”と考えたようです。つまり、「前もって与えられたもの」は、超越論的ノエマとして、それの構成に参与した一切の志向的作業も、歴史としてそこに含まれており、”顕在的”対象意味も”潜在的”志向性の指標として、歴史に沈殿した志向性も露呈させていくことが可能と考えるようになったとされています。この新たな現象学をフッサールは”発生的現象学”と呼び(または、”説明現象学”)、従来の現象学を”静的現象学(もしくは”記述的現象学”)”として、分離しました。 つまり、当初は自我を中心としてきましたが(静的現象学)、つまるところ、”(意味の)発生現象学”、さらには”生活世界”との思索的推移していった訳でございます。 上述のことを鑑みましたときに、結局はフッサールも様々な挫折に襲われながらも、”静的現象学”から、最終的には”生活世界”に行き着いたと考えております。 > ( g ) 《わたしは わたしの自我と向き合う》とか《わたしは 他者の自我すなわち他我と向かい合う》とかいうふうには言えるようですが――そのようにまで慣習が出来上がっているということだと思うのですが―― これは 厳密には間違いではないでしょうか? もし具体的に向き合う物事は何かと言えば それは人それぞれの思想(生活態度)であり その過程における自己表現の一つひとつの形であろうと思われます。 > ( h ) 先ほどの《我が強い》というときの《我(が)》を取ってみても それは 押しが強いといった意味であり これをわざわざ《自我》という必要はないと思います。特殊具体的には 《思想(生活態度》と向き合うのであり 基本的には互いに《わたし》どうしのまじわりである。と思います。 このご質問につきましては、上述の( b )、( c )、( d )をご参照していただければ、と思っております。 以降続きを述べさせていただきます。
お礼
ご回答をありがとうございます。ひどっちさん こんにちは。 § 1 《わたし》とは何か? これが原点であるように思います。 今回ご回答を読み どうも根幹は 《わたし》問題ではないかと考えるようになりました。 《人間の主観に関する限りそれ以上その存在を疑いえないというときの われ》とは 何か? です。 《現象学的還元を経つつ超越論的反省を加えつつ 他者との相互主観性をも加味したうえでたどり着いたところの 根源的な主観性》とは何か? です。 この問いの答えが分かったと見做してそのあとの議論をしているのではないか? ともなります。『デカルト的省察』という表題の著書があるわけですから 探究は用意周到であるかと思いますが その後の歴史においてとしても どうなのでしょう? つまりたとえば日本語の視点から言えば 《わたし》と《自我》との使い分けは どうして起きてしまっているのか? との問いが出て来ます。 そして補助的な観点としては 言語――とくには 言語表現のあり方――の問題がかかわっていることにも気づきました。(意味論などに分岐する前の 表現そのもののあり方といった基礎的な言葉の問題です)。 § 2 言語表現の問題は 《わたし》の解明に補助的な視点を提供すると見ました。 この項目から入りますが たとえばこうです。 人は 言語生活においてみづからを《わたし》と呼びます。それは 何もおのれの人間存在としての根源が何であるかが分かった上でその言葉を使っているわけではありません。しかも人は じつはこの《わたし》という自称の言葉を手掛かりにして その普遍的にして根源的な存在の核は何であるかについても問い求めて来たようです。 * なお【Q:みづからにとって 《わたし》は 固有名詞ではないか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa4958074.html という質問をおこなっています。 《何の某といういわゆる固有名詞は この実質的な固有名詞であ る〈わたし〉の 代名詞ではないでしょうか?》 などと問うています。 この《わたし》問題については No.47のお礼欄におけるまとめおよびそのほかの回答者の方々とのやり取りを参照願いますが 問題は 質問者の見るところ こうです。 (1) 《あやまちに気づいたわたしが われに還る》というときの《わたし》。これは 言葉の問題であるという見方も 出来るのではないか? むしろまったく表層における言語表現だけの問題だとさえ言えまいか? こう問題提起してみます。 (2) 《あやまちを侵したときのわたしは いまそれに気づいているわたしとは 違う》 こう言っているはずですし そう言っているのみではないか? こういう問いです。しかもそこに 言うとすれば 根源的な・それ以上は疑い得ないわたしがいると言えるのだと。 (3) 《もの自体》が分かり得ないというように《わたし》自身の中核も分からないし 分からなくてよいのだという意味ではありません。《あやまちに気づき われに還ったわたし》は すでに――あたかもどこかで《汝みづからをよく知れ》と言われてそれに応えていたかのように――《わたし》を知っているのですし 知っていたのです。わづかに《その知っているところのわたしを 思ってはいなかった》というのみだと。 (4) ただしわたしがわたしを知るというときの《知り方》は これを問うてみなければなりません。言葉にして説明することがむつかしいことだと誰もが知っているからです。どうもおよそそれは 主観的な確信に還元されてしまうようです。 《わたしは 自己を知らなかったわけではなく さらには自己を愛して来なかったわけではない》と気づくとき それ以上その存在を疑いえないわたしがいますが――そう定義しますが―― これは 思考やそれにもとづく認識の問題ではないようなのです。 (5) むしろまったく乱暴に言ってしまえばそれは 《わたしは〈わたし〉という言葉でみづからのことを指し示して 他者と意志疎通を図っている。その社会的な〈わたしどうしの関係〉――ないしその構造――の中にあってその言わば言語生活に基づいて みづからの〈わたし〉を・しかもその中核と思われる存在を捉えたと 思っているし じっさい確信している》。という事情であって それに過ぎないとさえ言えるのではないか? (6) 言わばむしろ《わたし》は ないのです。もしくは《わたし》の根源は どうでもよいのです。問題は 《ことばを話す動物であること(ホモ・ロケンス)》のほうにあり 《言葉は言葉でみづからの世話を焼いているし 勝手にその世界を展開している。その世界に人間は――つまりその言語をとおしてのまじわり(意志疎通)という所与の世界に人間は―― 気ままにあそんでいるというに過ぎない》と。 (7) ただ一つ――ただひとつ―― 《あやまちについての気づき》は それとして(つまりその経験行為に関する限り) 確信をいだくことのできる内容を持ち得ているものと推し測られます。そこから人は 社会生活へと出発しているからです。 (8) つまり《われに還るわれ》なるわたしは 〔社会にあって互いに〕言語生活者〔どうしである者〕として その現実性やそれの明証性やしたがって確信が保証されている。これを言いかえると 保証無しです。無根拠です。無根拠という舞台のうえで あそんでいます。《はじめに ことばがあった》。おそらく無根拠ということばだと見られます。 (9) 果てさて このような《あやまちに気づくわれ》は あるいはその気づきにおける反省をなすときの思考(コギト)の主体としての《わたし》でもあります。 (10) その気づきにおいてということは 反省をおこなうときの思考をとおしてもうこれ以上その存在を疑いえない自分を発見したというかたちに説明することが出来ます。 (11) ちなみにもしそうだとしたら この《わたしがこの世界において主観するかぎりで 〈存在〉についてそれ以上は疑うことのできないものとしての自己を発見した》というときの自己は 果たしてわざわざ《自我》と言いかえる必要がありましょうか? (12) 英語で この自称の語( I : もとは ego である)を 文字としては大文字で書くからといって何か質的な変化を持ったでしょうか? 独語は 書き言葉では 自称を《 ich 》と小文字で書くが これを名詞扱いするときには 大文字で《 das Ich あるいは die Ichheit (われなるもの)》と書くからと言って その基本はどう変わったというのでしょう? * I < ich < ego :つまりラテン・ギリシャ語の ego から末尾 母音の -o が落ちて 真ん中の子音 / g / が無声の / k / に変わ り さらには息の音( / h / )を帯びて イッヒという音になって いる。ッヒも落ちて イが イの折れを生じて やがて アイという 発音になった。 * イの折れ→【Q:《イ( i )の折れ》は どうして起こるのか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6451433.html (13) もし(11)でどうしても別様に《自我》なら自我という用語を作り用いなければならないとすれば そこにどのような違いが生じているのか? 自我という用語を用いるのならば 超自我やエス(無意識)は《わたし》なる存在からは排除されるというのでしょうか? (14) あやまちに気づきそこで思考するわれを見つめるわれ これは《わたし》と自称してほかの《わたし》と社会生活を送るというその存在とは 別様に規定しなけれならないのでしょうか? もしそのような心理学ないし精神分析論の仕組みにもとづこうとするなら むしろ《超自我》のほうが ふさわしいのではないか? 《われに還るわれ / われに気づくわれ / われを思うわれ》として。 (15) しかもおそらく この超自我を《根源的なわれ》として立てるときにも 生存の欲求としてのイド(エス)は――意識されざるかたちであったとしても けっきょく意識にのぼることになるというふうに見るに過ぎないその作用として―― もとから《わたし》の記憶の倉庫にはあったのだと考えられるからには 根源的な超自我というのならばその超自我は このエスをも〔そしてむしろ我を張りつつ表層における思考をおこなう〕自我をも 含み持っていると考えられなければおかしい。つまりは それは 人間の存在として・全体として 《わたし》のほかのことではない。こう考えられるのではありますまいか? (16) 自我も超自我もエスも みな《わたし》〔のそれぞれ部分的な作用〕です。《わたしの根源》に《自我》という用語を用いるのは あきらかに間違いである。のではないでしょうか? 一たんここで休みます。
補足
お礼欄よりのつづきになります。 § 3 インタメッツォ § 2からはたとえば 次のように言えるかも知れません。 ○ 人は ほかの人びととともに ことばの海に浮かんで生きている。その宙ずりの不安定さが おのおの《わたし》の中核になっているかも知れない。宙ずりというのは 《神の至上命令と動物の一義的な行動形式とのあいだの空中浮遊》です。 あたかもそのような不安定さとしての自由が 自由の度合いを深めているのかも知れません。つまりは次のようにご指摘のあった音楽や美術のたのしみ方であろうと思いました。 ★ ~~~~ ☆ ・・・曲の表題は いっぺんエポケーして音楽を聞いたほうがよいですね。〔あるいはぎゃくに表題の伝える〕そのテーマに沿って 想像をたくましくして 音楽の展開をたのしむということも ありなのでしょうけれど。 もちろん、そういう楽しみ方もございますし、詩をメインに楽しむ方法もあろうかと思われます。これは、各々の皆様が「これはいい!」とお思いになられる方法で楽しんでいただければ、と思っております。 ★ ~~~ 最初は、すべてをエポケーして、つぎには、画家の生涯および作成されたときの背景を知りながら鑑賞してみる。そして、自分の最も楽しめる、感動できる方法を選んでいただければ、と思っております。 ~~~~~~ § 4 生活世界 ★ 生活世界とは、フッサールの最後の境位とも言えようかと考えられます。 ★ ~~~~ (1) ”静的現象学(もしくは”記述的現象学”)” ・ 当初は自我を中心としてきました (2) ”発生的現象学”(または、”説明現象学”) ・ ”意識の一切の作業の所産に「意味の発生」を見て、すべての対象も意味の歴史を既に担っている以上は、これを逆に発生史的にもとの原初の経験まで辿り着ける”と考えたようです。 ・ つまり、「前もって与えられたもの」は、超越論的ノエマとして、それの構成に参与した一切の志向的作業も、歴史としてそこに含まれており、”顕在的”対象意味も”潜在的”志向性の指標として、歴史に沈殿した志向性も露呈させていくことが可能と考えるようになったとされています。 (3) さらには”生活世界”へと思索的推移をしていった訳でございます。 ~~~~~~ ▲ (フッサール:世界の構成) ~~~~ (4) 《客観的世界》という存在の意味は 私の原初的世界(私の自我がいわば独我論的な立場で最初に構成する世界)を基盤にして 幾つかの段階をへて構成されるのである。 *(ぶらじゅ註) ひとつに《客観的世界》を初めに持ってくると 話はややこしくなるように思われる。 《客観》ということ自体が ただそのように想定した概念だから。 独我論に落ち入りかねない間違った思想(意志行為)は 《原初 的》というよりも 《われあやまつ》として落ち入るエアポケット というくらいに捉えてみては どうか? そのあやまちからわれに 還るところが 自己還帰としてならむしろ原初的なわれであろう。 この《はじめのわれ》は 自然本性ということでもあるが・だか らそのままでは 《世界との和解》はあやしいのであるが それで もそのわれは 想定された客観的世界とはげしく接しているはずで ある。ヒラメキにおいては その世界が分かると言ってもよい位置 にあるはずである。 ゆえに 傲慢のそしりを幾万回受けてもくじけない質問者として は 順序がぎゃくであると言わなければならないと思う。すなわち 《生活世界》は フッサールにおいても 自然的態度としてはじめ にあったとしたら そしてもし最後にも到達したのだとすれば ま とめとしては 《生活世界》が最初にして最後のわれらが基礎であ ると言ってしまってよい。のではないか? (5) その第一段階としては 他我(アンデレ)もしくは他我一般 すなわち私自身の具体的存在(原初的自我としての私)から排除された〔他者の〕自我を構成する層が剔出されねばならない。 * 《原初的なわたし》は むしろ自然本性の中でも《本質直観》 を得ることのできる本性としてとらえておいたほうがよいと 前項 で考えた。 言いかえると この本質直観を得ることのできる《わたし》は すでにそのまま(自然本性において) 自己とも他者とも カカワ リ(関係性)を持っている。あとは 生活世界においてマジワリ (交通)を持つのみだ。 他者と自己との区別は 時が経てば いやでもおとづれるゆえ 惑うことはないと思われる。しかもその区別からおとづれるのは 《自我》ではなくて 《本質直観としてのわれ》であるはずだ。 順序をぎゃくにして述べているだけではなく 本質直観というも のを分かっていないのではないか フッサールは? (6) そしてこの層が明示されると同時に それが動機になって 私の原初的世界の上に《普遍的な意味》の上層が構築され そしてこの上層に媒介されて私の原初的世界は ある一定の客観的世界 すなわち私自身も含めた万人にとって同一の世界の現出となるのである。 * 自然のままの(生まれたままの)自然本性は たしかに母親と の一体感が特徴的であるように 一般の他者ともまだ世界が未分化 であるかも知れない。 けれども 人間の単位体としての個人すなわち《わたし》は 放 っておいても 分かれていくであろうと思われる。精神の三つの機 能のうちの意志能力が おのおのの固有の意志であるかどうかをつ ねに思っているからだと思われる。二人や三人が集まってやっと意 志を形成するということは あり得ない。 自他の分化は 自然史過程として起こる。その分化の前に・原初 的に《わたし》は 普遍的なあり方をしていたし していると考え られまいか? そうでなければ わざわざ現象学的還元をする意味 は うすれる。 言いかえると 超越論的反省を繰り返してたどり着いた超越論的 主観性に 相互主観性をも捉えてそこでやっと 普遍的な共同主観 を得るというわけ(その順序)ではなかろう。 もしその順序での作業じたいはあり得るとすれば そのときにも むしろ《自然的態度の混沌としたわれ》は それでも《他者との対 等にして自由な関係を結びあえるわれ》のことを 直感的に知って いて それゆえにこそ その還元という作業を繰り返すことを欲す るのだと思われる。 (7) 従って本来第一の他者(フレムデ)(最初の非‐自我)は他の自我であり そしてこの他我が他者(=私以外のすべてのもの)の新しい無限の領域 すなわちすべての他者と私自身を含む客観的自然と客観的世界一般の構成を可能にするのである。 * おそらく世界の構成は はじめからそう成っているものと考え られる。もしそうでないとすれば 人の自由意志という命題は 消 えてしまう。 《人は 社会にあってほかの人とともに 言葉の海に浮かんでい る。不安定ながらもそこに――すなわち神の至上命令と動物の本能と しての一義的な行動とのあいだに位置づけられて 不安的ながらも その位置関係にあって―― 自由意志の発揮されうる世界を 互いに 同等の立ち場で捉えている》 この自由意志の世界は 消えてなく なる。 フレムデというように普遍的な原初の《わたし》から疎外されて いくわれもしくは他者をこの世界において見なければならなくなる のは ほかでもなく自由意志そのものによっている。原初のわたし から 人は自由意志そのものの行使によって へそを曲げ自分から 逸れてしまうからである。 この《発生的現象学》は どうなっているか? (8) 純粋な(まだ世界の意味をもたない)他者から出発して上昇するこのような構成の本質には 次のことが含まれている。すなわち 私にとっての他者はいつまでも孤立した状態にあるのではなく むしろ(もちろん私自身の固有の領域においてではあるが)私自身を含む自我の共同体が 相互扶助的に共存する多数の自我の共同体として構成され 最終的にはモナド共同体が構成されるということ しかもこのモナド共同体が (その共同化された構成的志向性によって)一つの同じ共通世界を構成するのだということ が含まれているのである。(『デカルト的省察』H.I,137) * モナドを持ち出すのなら 《立ち帰るべきわれ》であったりある いは《アートマン》であったりしてもよいはず。 でもモナドは ややこしい定義があるようで 措いておきます。 言いかえると 個体としてのわたしに モナドを見るだけではなく 社会ないし共同体にも 《モナド共同体》が構成されると言おうとし ているようだ。定義によっては そう言えるのかも知れない。むつか しい。 質問者の立ち場は 《純粋な(まだ世界の意味を知らない)》むし ろ《われ》において 自由意志があるのならば 最初で最終の《世界 の構成のあり方》は潜在しているであろうということ。そこに亀裂を 生むのは やはりその自由意志の自由な行使によるということ。この きわめて単純な世界観であり そこに存在する《わたし》を推し出す ことです。 ~~~~~~~~~~
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > どうも あとは 虚無主義と科学万能教との二方面作戦であるようにも思われます。 確かに仰るとおリかもしれません。 > ☆ コロンブスが出遭わなかった(発見しなかった)としても ほかにも誰かによって アメリカ大陸は見い出され得た。というような見方なのでしょうか? それが 音楽の分野では そうは行かないと。 まさしく、そのとおりでございます。 > ★ ですが、バッハが無伴奏バイオリンソナタを書かなかったら、恐らく誰もが永遠にそれを耳にし得なかったかと考えております。 ☆ すんなりと分かり得たならば どれだけうれしいことでしょう? と告白しつつ お礼を申し述べます。その視点をありがとうございました。 ご参考としていただきましたこと、光栄に存じます。 > ○ 《テーマなるものが含まれる》とは どういうことでしょう? それによって音楽の種類ないし特性が異なるものに感じるということですね? いわゆる表題音楽という意味でございます。歌曲を聴く際には、音と同時に詩の内容をも耳にしている(聞き入っている)ということでございます。 > ★ [端的考察的知覚] ☆ これは 音の知覚なる現象を詳しく分析して捉えたものと受け取りました。それとして過不足がないように受け留めました。 ご一助となりえましたこと、幸甚に存じます。 > ☆ 《自我》とそして上記の《わたし》とを ひどっちさんには是非対照させていただきたいと思いますが どうでしょう? 愚生の「自我」はそんなに、複雑なものではございません。列記させていただきますと、以下のものでございます。 ・わたくしなる固有の意識を持つ存在 ・外部の表象を捉える存在 ・このわたくしなる存在(厳密には意識ではございますが)が疑い得ないものとしての存在 ・そして、他者および世界の存在を認めた上で、それらの中で生を享受する存在 ・さらに、わたくし自身に対する意識をも持つ存在 ・従いまして、わたくしの存在がなくなろうと、現前する世界は消失しない これは、以下のご質問( b )との関連性があろうかと推察致しましたので、( b-1 )にも少しだけ触れておきたく存じます。 ( b ) 《自我・他我》という〔わたしには〕分かりにくい用語を使っているけれども 要するに人間にとって《わたし》とは 何か? どういう成り立ちで どういう動態か? > ( b-1 ) 自我と他我とでは 世界について見える位相が違うという。 ● それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。 ☆ 知覚的志向性が 人によって違うであろうことは そのまま受け止められる。では 《言語行為の志向性》とは 何ぞいや? 同じ言葉を使っていても その意味の取り方が人によって 多少は違うことか? 多少は違っても おおむね共通の概念を持ち得て意志疎通は出来ると言えるのかどうか? 例えば、リンゴを見た際、「赤い」、「まるい」などは、リンゴという物の様々な知覚された面のみならず、リンゴの様々な概念、意味としての面もあろうかと考えられます。 さらに、わたくしはリンゴが「赤く」、「まるいもの」だと考えることができ、言葉(人によってたとえ多少の意味の取り方が異なりましても)によって誰かに説明も可能でございます。つまり、「物の知覚には必ず様々な概念が含まれており、それは言語によって表わされる」ことを意味します。 この言語によって表される概念や知は、その物の意味としての側面を担っている訳でもあります。そうしますと、リンゴの赤さを知覚する場合、リンゴの「赤い」像が知覚として直観されると同時に、「赤い」という言語そして、その意味(本質)も直観(認識)されていることになろうかと考えられます。そして、この直観が、タイトルにてお示しになられました「本質直観」になろうかと存じます。 言語には、位相(特定の場所を意識させるもの)があり、恣意的(わたくし固有のもの・主観的なもの)な性質を持っている。 > 意味論一般に広がりましょうか? いえ。そこまでは及ばないと考えております。 > ★ 意志疎通にとっての障害は、おそらく、各々が、まず自己を知らないこと(見つめないこと)、そして、他の人たちにおけます善性(仏性)を否定しまうことかと考えております。 ☆ これは 美の感受において 一般に醜悪とされるものにも美を感じるというその現象の解明と 相い携えてすすめるとよいように思いますが どうでしょう? はい、全く異論はございません。 ただ、純粋に「醜悪とされるものにも美を感じる」のでしたら、問題はないかとも考えております。ですが、(現代)音楽評論を聞きましても、同じ内容のことばかりです。そのままコピーペーストしたかの文章のようでございます。純粋にそこから美を感じ取れたのなら、もう少しぐらいは気の利かせた作文はできないのかと、不思議に思っております。 > 善性の否定としての自由意志の行使 これは たとえばこれまで考えたところでは おのれの目指し求めた意志行為の挫折をきっかけにしてではないかでした。――今後に課題としたいと思います。 了解致しました。 > しかも哲学として 経験思考を超えた直観において得られるような 次のような命題を提出し得るだろうか? ★ ~~~~~ ▲ 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。 大乗仏教におきましては、そのようになった、と解してございます。 ~~~~~~~ ☆ 《永遠の現在》を《生けるわれ》は――つまりは さとりは―― 哲学の主題であり得ましょうか? 回答になっていないかもしれませんが、愚見を述べたく存じます。 (おそらく)わたくしたちは生なるものを授かっている以上は、この経験世界と直面しているわけでございます。そして、この経験世界の原因・根拠を遡っていきますと、結局は“無根拠”にたどり着いてしまいます(当然、科学もそうであります)。では、根拠がなければ、生を享受できないかと問われようとも、生の営みは可能と言えるかと思われます。つまり、無根拠と隣り合わせにわたくしたちは生を営んでいるかと。そして、一方ではこの無根拠なるものも、わたくしたちの想像力を掻き立ててくれます。たとえ、それが“仮像”とも呼ばれようともでございます。 少し歴史を振り返りますれば、この“仮像”なるものも、案外役に立ってくれるものとも考えております。物質の最小単位は何か?、宇宙の果てとは? ほとんど答えようのないこれらの問題につきましても(カントはこれをアンチノミーにて、認識不可能としておりますが)、わたくしたちは想いをめぐらすことができますし、多少なりとも、実際科学なるものの発展に寄与してきたものと考えております。 そう致しますと、「経験思考を超えた直観において得られるもの」も“さとり(定義が困難ですが)”というものと、隣り合わせに生きていけるのではないか? これは、現実的生を生きるわたくしたちにとりましても、重要な知見、解釈を与えてくれるのでないのか?、これらを鑑みますと、哲学としても問い続ける価値はあろうかと考えております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~ > ○ 《テーマなるものが含まれる》とは どういうことでしょう? いわゆる表題音楽という意味でございます。歌曲を聴く際には、音と同時に詩の内容をも耳にしている(聞き入っている)ということでございます。 ~~~~~~ ☆ あぁ そういうことでしたら もう少しおつむをめぐらしていれば・・・という悔いの残る思考でした。 要するに頭に――聴覚をはたらかせる作業のほかに―― 詩つまり言葉をつうじて何らかの観念を持ってしまっているということですね。聴覚像の世界と思考(概念像)の世界とがからみ合うことになると。 としますと 曲の表題は いっぺんエポケーして音楽を聞いたほうがよいですね。そのテーマに沿って 想像をたくましくして 音楽の展開をたのしむということも ありなのでしょうけれど。 考えてみれば 絵画にも言えることかも分かりません。表題はつけられていてもそれにこだわることなく――ということは 作者である画家の思わくをも一たんエポケーして・そしてあるいは 所謂る二次的な鑑賞としての・評論家の批評にも影響されることなく―― 事象に就いて見てみる。 おそらく直観は 思考をも包み込む(もしくはその導き手となる)ことが出来ても 思考が 直観の源泉であるとは あまり思えません。両者は互いに 《わたし》の中で――身体と共なる精神の旋回にも似た動きとしてのハタラキにおいて―― 入り組んでおりからみ合っているでしょうが 直観が思考に先行する。すでに繰り返して述べていますが こう考えます。 さて 《自我》論争ですが: ★ ~~~~ 愚生の「自我」はそんなに、複雑なものではございません。列記させていただきますと、以下のものでございます。 ・わたくしなる固有の意識を持つ存在 ・・・ ~~~~~~~ ☆ わたくしの物言いも 到ってかんたんなんです。 ( a ) 同じ《 Ich / ego / I / ・・・》なる用語を なぜ《わたし・われ》と《自我》とに分けるのか? ( b ) 《自我考える。ゆえに自我あり》とは言わないだろうと思われます。 これだけでよいと思います。が もう少しつなぎますと あるいは: ( c ) われわれは 他者に――実際になりと想像上でなりと――相い対するとき その人と向き合っているのであって・そしてそれをその人の《わたし》というのであって 決してその人の自我つまり他我とではないということ。そんなことをしたら ただただあたまの中で 人間を扱っているだけになります。 ( d ) 身と心から成るその人の存在全体とまじわり 対話をおこなっています。 そうでなく 自我などという用語をはやらせたから あの人は 我が強いとか 自我が発達していないとかいうことになります。 ( e ) 我が強いは まだ《わたし》の全体を相手としてその性格ないし特徴を部分的に言ってみたまでだと考えますが 自我の成長などという概念を持ち出すなら それは存在全体としての《わたし》とはあたかも別個に――それは確かに《わたし》のであろうけれど・もしくは であろうのに 別個に――《自我》が社会の中で育って行くのだというような見方をしているように受け取られます。 ( f ) おそらく これは《わたし》の人格ないし境地にとって 不幸です。それは 《さとり》を実際の生活世界とは別の世界に求めるような傾向を 人びとのあいだにもたらしていると思われるからです。すべては 根源的所与としての超越論的主観性つまりはけっきょく《わたし》の問題だと考えられるのにです。 ( g ) 《わたしは わたしの自我と向き合う》とか《わたしは 他者の自我すなわち他我と向かい合う》とかいうふうには言えるようですが――そのようにまで慣習が出来上がっているということだと思うのですが―― これは 厳密には間違いではないでしょうか? もし具体的に向き合う物事は何かと言えば それは人それぞれの思想(生活態度)であり その過程における自己表現の一つひとつの形であろうと思われます。 ( h ) 先ほどの《我が強い》というときの《我(が)》を取ってみても それは 押しが強いといった意味であり これをわざわざ《自我》という必要はないと思います。特殊具体的には 《思想(生活態度》と向き合うのであり 基本的には互いに《わたし》どうしのまじわりである。と思います。 ( h )★ ・わたくしなる固有の意識を持つ存在――☆ これは《わたし》です。《わたし》が捉えた《わたし》です。すでに現代人は これを《自我》と言うとそのまま受け容れるまでになっていると思えますが そんな言い回しをした日には 余計に分からなくなるのではないでしょうか? わたしの自我とは何か?――せいぜいが 《意志》といったことを言うのではないでしょうか? ( i ) ★ ・外部の表象を捉える存在――☆ 《わたし》ですよね? わたしがわたしの感性において・もしくは意志において 世界を知覚し認識します。《わたし》の感性や意志のほかにそれとは別個に《自我》があるわけではありません。 ( j ) ★ ・このわたくしなる存在(厳密には意識ではございますが)が疑い得ないものとしての存在――☆ 根源的主観性ですが それも《わたし》の問題でありその範疇に入っているはずです。 部分的な見方になってしまうものとして 知解力としての理性を言う場合があるかも知れません。が この理性とて《わたし》です。わたしの知解という――精神にとっての第二の――行為能力です。これは明らかに《自我》ではありません。言いたい気がするだけだと思います。これまで作られて来た慣習からの洗脳ではないでしょうか? ( k ) ★ ・そして、他者および世界の存在を認めた上で、それらの中で生を享受する存在――☆ これも《わたし》とは別個に《自我》がいるという見方にはならないと考えます。 ( l ) ★ ・さらに、わたくし自身に対する意識をも持つ存在――☆ 《わたし》とは別個の《自我》が 《わたし》に対して意識を持つという方向へ どういうわけか 持って行こうとしているだけだと考えます。自己意識とは 《わたし》です。分けるゆえに 世界がこんがらがります。 ( m ) ★ ・従いまして、わたくしの存在がなくなろうと、現前する世界は消失しない――☆ これは どうなのでしょう? 別様に議論があるかと思う主題を含むようですが 世界を知覚し認識するそのわたしの存在がなくなれば そのわたしとしての世界は 消失しているとも見られます。 あるいは 違う見方として すでにこの今 いま・ここにおいて 《わたし》の動態は その自己到来において 時間的な行為であるところの自己表現としてもすでに《源泉としてのわたし》を打ち出している。ゆえにそれは《永遠の現在》である。このわたしの《永遠の現在》はすでに 時空を超えて世界と宇宙に行き渡っている。 これは《自我》とは言わないほうが 美的に見ても よいと思われます。 (《アートマン》も 《我》と表現したから ややこしいようです。《わたしの根源》ということのようですから。つまり 仏性にまで通じる概念のようですから)。 ( n ) さとりは 哲学の主題であるか? をめぐってですが: ★ ~~~ 〔さとり―→無根拠なるもの―→これが想像力を掻き立てる―→《仮像》が得られる―→これが経験科学の発展に寄与したところも大きい。〕 そう致しますと、「経験思考を超えた直観において得られるもの」も“さとり(定義が困難ですが)”というものと、隣り合わせに生きていけるのではないか? これは、現実的生を生きるわたくしたちにとりましても、重要な知見、解釈を与えてくれるのでないのか?、これらを鑑みますと、哲学としても問い続ける価値はあろうかと考えております。 ~~~~~ ☆ だとしますと ここで提案のようなものですが(項をあらためまして): ( o ) 《アートマン》と《根源的主観性》とは けっきょくほぼ同じ概念であるのではないか? あるいはつまり 《アン‐アートマン(いわゆる無我)》と言っている――つまり 空観においてある――《わたし》 これも 同じではないか? そのほか・そのほか 人間存在の《主観ないしその主体》を表わす言葉は すべて 広義の概念として 同じでありそれは《わたし》であるのではないか? * 意味論をめぐっては 少し勉強して考えを述べたいと思います。(補足欄にて)。
補足
意味論についてです。 ですが じつはよく分かりません。そのわけは 意味論という分野があってそれがどういう仕事をしているか という問題よりも 意味論のその仕事が どういう志向性のもとにおこなわれているか という問題でよく飲み込めません。しかも 現象学にかかわっての問題です。 わたしに分かるのは たとえば今回のご回答の文章に即して考えるなら 次のようです。 (なお 数学のほうでも意味論があるようですが それについてはよく分かりません)。 ★ ~~~~~ 例えば、リンゴを見た際、「赤い」、「まるい」などは、リンゴという物の様々な知覚された面のみならず、リンゴの様々な概念、意味としての面もあろうかと考えられます。 さらに、わたくしはリンゴが「赤く」、「まるいもの」だと考えることができ、言葉(人によってたとえ多少の意味の取り方が異なりましても)によって誰かに説明も可能でございます。つまり、「物の知覚には必ず様々な概念が含まれており、それは言語によって表わされる」ことを意味します。 ~~~~~~~ ☆ ここでの意味論は こういうことかと思います。つまり 色は赤のほかにも緑や黄色もあるのに《赤》をリンゴの概念を表わす特徴として取り上げるのは ある種の仕方でその赤で代表させている。そういった《意味》の社会的な用法だと見られると思うからです。 そうしますと 今度はそういう意味論によるそのモノの規定は 認識論とはどういうかかわりを持つのか? これが 分かりにくくなります。 ★ 言語には、位相(特定の場所を意識させるもの)があり、恣意的(わたくし固有のもの・主観的なもの)な性質を持っている。 ☆ 言葉は だいたい人びとに共通の一般的な意味があり しかも実際の用法においては使用する人の主観がそこに込められ 或る程度意味が広がる(または ちぢまる・ゆがむ)といった慣用があります。つまり そういう意味論もあると思います。 この意味論は 質問者つまりこのわたしが持ち出した論点なのですが 的を射た指摘ではなかったかも知れません。 あとは ご指摘のあるのを俟ちます。なければ 保留としておきます。
以下、続きでございます。 > ( d-12 ) かくして ブディズムの《空観・中観・仏性・アビダルマ(?)・アーラヤ識(?)》等々の概念装置も 純粋ノエシスないし本質直観と同じ範疇を扱うものと考えられる。 認識方法は違っているか? ただし 思考(コギト)としての認識にはもはや限らないとすれば――現象学においてさえ限らないとすれば―― それほど違っているとも思えない部分がある。 アビダルマ、つまりこれを論じている“倶舎論”は、元来説一切有部のものとされていますが(世親が大乗仏教に帰依する前に書かれたとされています)、ただこの倶舎論は、多様な解釈が可能である(それゆえ困難)とも言われております(中村元の説)。ただ、認識論的には通じるものがあるのかもしれません(未読ですので何とも申し上げられないというのが実情ですが)。 その他の、空観・中観・アーラヤ識は、ほぼ合致するものと考えております。 > ☆ これが ( d-8 )《共通感覚 / 共同主観》や( d-9 )《現実の生活世界におけるコミュニケーションの問題であること》にかかわり あるいはつまり( c-2 )《主観的差異は 時間差のみか?》の解明に 美的知覚をとおして 大いにかかわっている。 美的判断としては それが大きくは時間差による相違に過ぎないとしても その内容としては 美と醜悪という対極のすがたが どちらも美だと見られるといった現象がすでに起きていて これの解明が俟たれる。 はい。意見を等しく致します。 > この認識論であることを超え出たところに《本質直観》があったのではないかと思われます。ですから 認識ないし思考(コギト)だけではなく それとは別の認識の起源となりうるヒラメキを持ち出したほうが よいかと。 誠に申し訳ございません。これは愚生にはわかりません。 > ☆ この微妙な問題は 端的には要するに説明のために《神ないし無い神》をどこまで持ち出してよいか あるいはそれらを無しで済ますにはどう表現すればよいか? こういう問いを問うているものと捉えます。模索して行かねばならないように思います。 観念論であろうと、また経験論と致しましても、結局は“ナゾ”にたどり着いてしまったというのが史実と考えております。つまり、「それらを無しで済ますにはどう表現すればよいか?」 とのご質問につきましては、さらなる研究が必要かと考えております。 > われらが胸板には 何も文字が刻まれているわけではなく 分かりやすいように《仏性》を持ち出すならその仏性が 霊によって書かれている。 <中略> ならば 神は いるともいないとも分からない。神がいるかは 分かるとも分からないとも 人間には分からない。 ゆえにこそ 絶対つまり神は 人間をして安定した位置を取らしめている。のではないか? ただ、確実に申し上げられることは、突き詰めますと、神の存在もしくは、信仰が、人間を安定した位置に立たせているものと考えております。 ただし、科学万能教も含まれているかもしれませんが・・・ > 神がいるという言葉 神がいないという人間の言葉による表わし これらのいづれも断定表現が人間をして安定せしめ得れば それでよいかも知れないけれど ざんねんながら そうは行かない。ということを 霊が示しているということではないでしょうか? 「霊が示している」とは断定致しかねますが、少なくとも、約10億人以上のキリスト、イスラム、仏教徒がいるわけでございます。また一方では、頑なまでの無心論者もおられます。つまり、これらの実情は、断定しかねるという状況を示唆しているものと考えておいります。 > つまり霊は何も示していないのですが・ナゾですが・それは どこまで行ってもマボロシですが そうであることにおいて 人間の・動物と天使とのあいだの浮遊するかのような位置づけにおいて安定した存在のあり方を示してくれているのではないか? なぜなら その宇宙遊泳のような不確かな安定感こそが 人間の所与としての自由であり そこの自由意志も位置づけられるから。 とても、興味深い解釈かと存じます。わたくしたちがそれとは気づかない間に、安定したあり方のヒントを与えてくれているのかもしれません。 > 蛇足として哲学を超えて神を持ち出すならば その遊泳するわれらを 神が支えてくれているはずだからです。神の手によって 魚が網に掬われるように いだかれている。ふところ深く眠っていられる。 ただしこれは 思考や認識による知識や自覚ではなく 信じるという――歴史時間を超えたかのような場ないし時における――直観なのだと思います。 はい。全く意見を等しくするものでございます。 > 玉ねぎの皮を剥いていくような作業であるかも知れません。でも エポケーと言います。《あはっ( Ah ! Oh ! )》という言葉でしか表わせない根っこのところまで降りて行って そこで もののあはれを知る。とも言います。心は 世の中のすべてが空の空 空なるかなと嘆じて わびしくあり とうとう錆びついてしまったそのドン底において スサノヲはよみがえってくるものと思います。ワビ・サビの文化というときにさえ エポケーは活かされています。 はい。わたくしたちの大先輩の方達の英知には、ただただ驚かされるばかりでございます。 > アマテラスは――かしこいものですから―― おそらくこの作業をすべてあたまの中でやろうとするように思います。一切を思弁にて済まそうとするのではないでしょうか? はい。その傾向はあろうかと考えております。適当に評論家をきどり、説教をタレルだけで生活ができるのですから。 > 哲学者だって そうです 一般に。だから 思索し文章を書くのだと思います。〔小説家が そうでしょうか? というふうに考えていくなら 音楽家だって画家だって その自己表現は 《わたし》に纏わりついた余分なもの(しがらみ)をそぎ落として行く作業のうちに その作品を完成させていくということでしょうか? つまりは 万人がけっきょく そのような自己表現としての動態を生きているのでしょうね〕。 ただ、新しい何かを産むという点では異なるものと考えております。 例えば、アインシュタインがもしあの時代に生まれてこなかったとしましても、物理学の進歩は10年遅れたかもしれませんが、いずれかは誰かによって同様の仕事が達成できたと考えられています。ですが、バッハが無伴奏バイオリンソナタを書かなかったら、恐らく誰もが永遠にそれを耳にし得なかったかと考えております。 最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。
お礼
直前のご回答からのつづきになります。 ★ ~~~ ( d-12 ) かくして ブディズムの《空観・中観・仏性・アビダルマ(?)・アーラヤ識(?)》等々の概念装置も 純粋ノエシスないし本質直観と同じ範疇を扱うものと考えられる。 空観・中観・アーラヤ識は、ほぼ合致するものと考えております。 ~~~~~ ☆ なかで《アーラヤ識》は 扱うのに厄介なように思っていますが いまは保留します。 ★ ~~~~ >・・・なぜなら その宇宙遊泳のような不確かな安定感こそが 人間の所与としての自由であり そこの自由意志も位置づけられるから。 とても、興味深い解釈かと存じます。わたくしたちがそれとは気づかない間に、安定したあり方のヒントを与えてくれているのかもしれません。 ~~~~~~ ☆ ほかにも賛同いただいた事項やまだ理解がむつかしいと言っていただいた項目がありますが この点などは さらに深めてまいりたいと思います。そのあとにいくらか 賛同いただいた説明をしてはいますが。 どうも あとは 虚無主義と科学万能教との二方面作戦であるようにも思われます。 《わたし》に染みついたしがらみを落としつつ 自己表現をしていくという文体の歩みについて 次のような興味深いご指摘をいただきました。 ★ ~~~~ ただ、新しい何かを産むという点では異なるものと考えております。 例えば、アインシュタインがもしあの時代に生まれてこなかったとしましても、物理学の進歩は10年遅れたかもしれませんが、いずれかは誰かによって同様の仕事が達成できたと考えられています。ですが、バッハが無伴奏バイオリンソナタを書かなかったら、恐らく誰もが永遠にそれを耳にし得なかったかと考えております。 ~~~~~~ ☆ コロンブスが出遭わなかった(発見しなかった)としても ほかにも誰かによって アメリカ大陸は見い出され得た。というような見方なのでしょうか? それが 音楽の分野では そうは行かないと。 ★ ですが、バッハが無伴奏バイオリンソナタを書かなかったら、恐らく誰もが永遠にそれを耳にし得なかったかと考えております。 ☆ すんなりと分かり得たならば どれだけうれしいことでしょう? と告白しつつ お礼を申し述べます。その視点をありがとうございました。
こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ☆ ありがとうございました。ピアノの音は バイオリンのそれとは違って 劣化するとか聞きました。すぐに消えるということでしょうか。打楽器でもあると指摘してもらいました。 ピアノは 高い音がいい音色のように感じます。バイオリンは むしろ反対で 時々低い音が入るといいように感じます。 はい、愚生もそのように感じております。ペダリングである程度、音を伸ばすことは可能かもしれませんが、バイオリンのようにはいかないと考えられます。ただ、リストにように、ベートーベンの交響曲がピアノ編曲されて、一般のご家庭でも楽しめるよう工夫されたものもございます。ですが、バイオリンではこのようには、いかないと考えております(せいぜい同時に音を出すのが3つが限界かと)。 > 交響曲の音から 聞きたいという欲求が少しづつ離れて行くのは―― BGM でしたら 大丈夫ですが―― なぜでしょうか。 人の声つまりうたが入ると また音楽としても別のジャンルになるような気がします。 民謡の音階の構成は 世界中どこへ行っても 同じなようですね。音楽も スサノヲ語とアマテラス語との違いがありましょうか? 前段につきましては、愚生も小品に傾くようになりました。以前のように、ワーグナー全曲を通して聴くということはなくなりました。理由は分かりませんが、少なくとも愚生には、それだけの集中力がなくなってしまったのかもしれません。もしくは、よりアコースティックな響きのものを求めるようになったのかもしれません。 はい。民謡の音階はほぼ共通でございます。ただ、例えば、“ラ(A)”の音が何Hzになるのかにつきましては、地域、時代によって若干異なるかもしれません。 人の声が入りますと、どうしましてもテーマなるものが含まれてしまいます(ヴォカリーズは例外でございます)ため、異なるように思われるのは事実かと存じます。 > ★ ”端的考察的知覚作用” / 内的時間意識の現象学 ☆ 次は この概念をめぐる研究書についての感想というだけのことですが もしそこに指摘されていることがらが的を射ているとしたなら さらなる広がりがあるかと思われ掲げます。 ● (内的時間意識の現象学) ~~~ http://fry.asablo.jp/blog/2009/01/21/4071782 フッサールは、「現象学」の創始者である。・・・ ご紹介賜りまして、厚くお礼申し上げます。 以下に、フッサールの時間論について言及したいと思います。 [端的考察的知覚] フッサールは持続して鳴り響く鐘の音を例にして説明しています。音は、「今」の時点および、一方に連続的な「過去」の地平、また他方では「未来」地平を持つ具体的現在の中で現れるが、この「現在」はたえまない流動というのです。 つまり、位相は連続的に刻々と変化してはいますが、この把握作用はこの変化に対する「現在」を通して、統一としての音に向かっていきます。さらに申しますと、「現在」の連続する位相を通して、音に向かっている訳です。過ぎ去っていく能動性とやがておとずれる能動性とを、「今」働く能動性とともに働かせながら、一つの同じ対象へと向かい、恒常的に自己合致を行いつつ能動性の統一性を形成するのは、この「なお捉えて保つ」という一種の受動性の働きであるとしています。かような能動的-受動的な「なお捉えて保つ」現象に基づき、知覚対象は持続する対象として把握されることになる、というのだそうです。なお、この受動性は作用の中に働く(保持的)受動性であり、自我が対象を捉えて離さないときに、作用そのものに対してこの(保持的)受動性が作用して、そこに経験の連関性が形成されるという訳でございます。 [生ける現在] デカルト的な「わたしは在る」の瞬間的点的明証は、結局、時間位置としての「今」の位相における自我を表しています。流れ去り消え去っていく今の位相に対して、「わたしは機能する」の自我は。恒常的に現れるものとして、いつも立ち止まりつつ流れるという点で、時間化された自我との区別が必要となります。このため、「徹底化された反省」は、時間位置的自我、そして時間位置の系列そのものをエポケーし、生ける現在を先-時間的表象として露呈化しようとしました。 しかし、この方法も挫折をむかえるとされています。 > ( d ) ( a )から( c )までをあらためてまとめてみると: ( d-1 ) わたしたちそれぞれの《わたし》は 互いに分かり合えるか? 分かり合える可能性は秘めていると思われます。ですが、その必要(十分)条件は愚生にはわかりません。 > ( d-2 ) その《わたし》とは 何か? どういう動態か? 上記の問題から鑑みますと、自我なるものを持った存在。そして、自分以外の人たちにも各々に自我(他我)を持った存在として、受け入れている存在、ぐらいでしょうか。 > ( d-3 ) おそらく簡単にその成り立ちを捉えれば 主観のうちに《考える(コギト)――信じる(インスピレーション・ヒラメキ)》の階層を持って 自己をうんうんとどこまでも推し出しつつ表現しながら そして互いに意志疎通をはかりながら 生きる存在であると言えようか。 残念ながら、意志疎通に困難をきたしてしてしまう方も実際におられます。 ですが、「主観のうちに《考える(コギト)と信じる(インスピレーション・ヒラメキ)》を持って生きる存在である」とは断じることができようかと考えてはおります。 > ( d-4 ) 意志疎通にとっての障害は どこにあるか? 《考える》と《信じる》とのそれぞれの階層において扱うべきか? 後者が前者に先立つと思われるが その点はどうか? 意志疎通にとっての障害は、おそらく、各々が、まず自己を知らないこと(見つめないこと)、そして、他の人たちにおけます善性(仏性)を否定しまうことかと考えております。 そしてまた、愚生も後者が前者に先立つと考えております。感覚的なものが先か、それともそれを言語化(論理化)することが先なのか?と問われますと、感覚的なものが先と考えられるからでございます。 > ( d-5 ) しかもこの《信じる》とは どういうことか? これを《考える》のである 人間は 意志疎通のためには。《信仰類型論》。言いかえると 《神とは何か?》。 たとえ幾ばくかの疑念を持ちつつも、わたくしなるものを委ねられる、ということかと考えております。 > ( d-6 ) けっきょく《本質直観》とは この《神 もしくはつまり同じことで 無い神》と《わたし》との間柄を尋ね そこにどのような――おのおの主観内における――物語が紡がれているか これを明らかにすること。そしてさらにはそこで互いに 共有しうるものは共有しようとするいとなみであろうか? 神=絶対的 or 確信に至るものと定義致しますと、仰られるとおりかと存じます。 > ( d-7 ) 《神ないし無い神》を持ち出しておかないと 相対的な経験世界の果てまでたどり着こうとするような限界性・境界性あるいは究極性という概念で言いかえることになるし そのように言いかえているだけになると考えられる。 持ち出さなければ、最終的には、虚無主義に至ってしまうものかと推察しております。 > ( d-8 ) ( d-6 )で《共有しうるものを共有する》というのは こうである。意志疎通の可能性について 人びとのあいだには《共通感覚》があり これをもとにして《相互主観性》ないし《共同主観》が打ち出されて来る。これは ほとんど公理としてである。つまり 明証性は 最終的にはかなわない。得られがたい。 まったく、仰るとおりかと存じます。 > ( d-9 ) ただし これらのコミュニケーション作業はすでに――形而上学の問題ではなく―― 現実の《生活世界》における出来事としてある。と主張する。 もちろん、上述の公理は、この生活世界において成立するものと考えております。 > ( d-11 ) しかもこのアートマンの実在を否定して出たブディズムは 文字どおりアン‐アートマン、つまり《諸法無我》をとなえた。けれども 《如来蔵ないし仏性》をも説くに到って アン‐アートマン(無我)とアートマン(個人我)とが 類型的に同じものとなった。次の内容を共通とするはずだから。 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。 大乗仏教におきましては、そのようになった、と解してございます。 字数制限のため、次項に移らせて頂きます。
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 〔* ピアノは〕ペダリングである程度、音を伸ばすことは可能かもしれませんが、バイオリンのようにはいかないと考えられます。ただ、リストにように、ベートーベンの交響曲がピアノ編曲されて、一般のご家庭でも楽しめるよう工夫されたものもございます。ですが、バイオリンではこのようには、いかないと考えております(せいぜい同時に音を出すのが3つが限界かと)。 ★ はい。民謡の音階はほぼ共通でございます。ただ、例えば、“ラ(A)”の音が何Hzになるのかにつきましては、地域、時代によって若干異なるかもしれません。 ★ 人の声が入りますと、どうしましてもテーマなるものが含まれてしまいます(ヴォカリーズは例外でございます)ため、異なるように思われるのは事実かと存じます。 ☆ ほかのご指摘は どうお尋ねしてよいか分かりませんので飲み込みまして ここについてお尋ねします。 ○ 《テーマなるものが含まれる》とは どういうことでしょう? それによって音楽の種類ないし特性が異なるものに感じるということですね? ★ フッサールの時間論について言及したいと思います。 ☆ ありがとうございます。 ★ [端的考察的知覚] ☆ これは 音の知覚なる現象を詳しく分析して捉えたものと受け取りました。それとして過不足がないように受け留めました。 ★ [生ける現在] ~~~~~~ ( a ) デカルト的な「わたしは在る」の瞬間的点的明証: a-1: 今の位相における自我 a-2: 時間位置的自我 a-3: 流れ去り消え去っていく a-4: 時間化された自我 ( b ) 「わたしは機能する」の自我: b-1: 恒常的に現れるものとして b-2: いつも立ち止まりつつ流れる ( c ) 「徹底化された反省」は、 c-1: 時間位置的自我(= a )そして 時間位置の系列そのもの〔=( b )?〕をエポケーし、 c-2: 生ける現在〔=( c )自身のことか?〕を 先-時間的表象として露呈化しようとしました。 ( d ) しかし、この方法も挫折をむかえるとされています。 ~~~~~~~~~~~~ ☆ いつもいぢわる評言をあたえているさすがの質問者も これについては まだよくつかみ切れません。 (1) 《〈わたしはある。〉 それがわたしだ。》(出エジプト記3:14) ヘブル文:Ehweh asher ehweh. 英逐語訳: I-am who I-am. 新共同訳(1987):「わたしはある。わたしはあるという者だ」 口語訳(1955):「わたしは、有って有る者」 (2) ヤフヱフ Yahweh:一例訳:《かれは あらしめる》He makes be. cf. エフヱフ Ehweh: 《わたしはある》 I am. cf. 三つの子音から語をつくる。子音 H-W-H (または H-Y-H )が 《ある。存在する》の語基。Ya- や E- は 人称を表わしている。 (3) 《われあやまつならば われあり。》(アウグスティヌス:三位一体論) Si fallor, sum. ( If I err, I am. ) (4) 《われ考える。ゆえにわれあり。》 Je pense, donc je suis. Cogito ergo sum. (5) 《わたしとは 他者なり。》(A.ランボ) Je est un autre. ( "I” is another. ) (6) 《われ われを思う。ゆえにわれあり。》(P.ワ゛レり) Je ME pense. donc je suis. I think of myself, therefore I am. * 《わたしはわたしである》 1=1 :自己同一性・自同律 * 《〈わたしはわたしである〉わたしが わたしする》 1^n=1:冪 人生としての・自己の連乗積なる動態。 なぜ掛け算かと言うと 《われあやまつ》に気づいたとき わたしは われに還るその立ち帰りを示している。 何度自乗しても つねにわたしは 一である。全体でもある。 この動態としての《わたし》において 《永遠の現在》を言いたい 気持ち。《立ち帰り》は ヒラメキないし信仰のなせるわざなるゆえ。 ★ ~~~~ ( d-1 ) わたしたちそれぞれの《わたし》は 互いに分かり合えるか? 分かり合える可能性は秘めていると思われます。ですが、その必要(十分)条件は愚生にはわかりません。 ~~~~~~ ☆ 主題であり課題であるとしたいと思います。 ★ ~~~ > ( d-2 ) その《わたし》とは 何か? どういう動態か? 上記の問題から鑑みますと、自我なるものを持った存在。そして、自分以外の人たちにも各々に自我(他我)を持った存在として、受け入れている存在、ぐらいでしょうか。 ~~~~~~ ☆ 《自我》とそして上記の《わたし》とを ひどっちさんには是非対照させていただきたいと思いますが どうでしょう? ★ 意志疎通にとっての障害は、おそらく、各々が、まず自己を知らないこと(見つめないこと)、そして、他の人たちにおけます善性(仏性)を否定しまうことかと考えております。 ☆ これは 美の感受において 一般に醜悪とされるものにも美を感じるというその現象の解明と 相い携えてすすめるとよいように思いますが どうでしょう? 善性の否定としての自由意志の行使 これは たとえばこれまで考えたところでは おのれの目指し求めた意志行為の挫折をきっかけにしてではないかでした。――今後に課題としたいと思います。 ★ ~~~ ( d-5 ) しかもこの《信じる》とは どういうことか? たとえ幾ばくかの疑念を持ちつつも、わたくしなるものを委ねられる、ということかと考えております。 ~~~~~ ☆ この非思考のナゾにかかわる人間の信じるという行為 これもしくはヒラメキがおそらく 《分かり合えるか》や《意志行為の挫折》や《醜悪美の出現》などに かかわっているのではないか? 癒すちからとして かかわっていると見る一般論(明証性)はありうるか? ところがつまり ★ ~~~~ ( d-8 )・・・つまり 明証性は 最終的にはかなわない。得られがたい。 まったく、仰るとおりかと存じます。 ~~~~~~ ☆ という情況にある。もしくはそもそも明証性の得られ得ないという・根源的所与としての人間の条件のうえにわれわれは 存在している。のかも知れない。 しかも哲学として 経験思考を超えた直観において得られるような 次のような命題を提出し得るだろうか? ★ ~~~~~ ▲ 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。 大乗仏教におきましては、そのようになった、と解してございます。 ~~~~~~~ ☆ 《永遠の現在》を《生けるわれ》は――つまりは さとりは―― 哲学の主題であり得ましょうか?
お礼
ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。 表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか? そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。 前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。 ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~ (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。 * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り 方でしょうか。 たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで なのだと思われます。 もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい う可能性は 見ようとしている。 あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。 とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と いう存在を基軸にして 理論をつくるか。 (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。 * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの / すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら れるほどの推論が成されうるとは思えない。 別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない 《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が 潜んでいるかも知れない。 言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨 ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを 示していることになるかも知れない。 よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい ると解する。 (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。 * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。 それはそれとして 次へすすむ。 (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166) * さらに次へすすもう。別の段落だ。 ▼ (同上) ~~~~ (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。 * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど りつくはずだと言おうとしている。 (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167) * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考 えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言 うと それほど確かであるようには思えない。 《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が 世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし ていないか。 仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や 社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。 さらに次へすすみたい。 ▼ (同上) ~~~~ (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。 * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを 起こそうという議論に見える。 ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的 にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止 とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。 (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273) * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか れていることは 見て取れる。 言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり 着かない。 方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ とすれば その応用編で勝負となるはずだ。 ▼ (同上) ~~~ (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか? * これが 読者が初めから知りたかったことだ。 (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。 * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に 捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう としていることは 見て取れる。 その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実 認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと しているようだ。 それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな い。 (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66) * 次へすすもう。 ▼ (同上) ~~~ (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。 * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世 界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。 (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。 * パス。 (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。 * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。 (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。 * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう か? (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266) * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが 志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ うか? それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。 他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸 であることに変わりはないと。 ~~~