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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

 現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。  応用する以前のフッサールにおける概念として 詳しい説明をお願いできますか?  ほかの人からの評価についても 知りたいです。  というのも この点につきましては どうもフッサールのこの本質直観は その本質ないし純粋意識のほうへ 行きっぱなしであるかに思えます。  つまりは いま・ここなる《わたし》に還って来ないと なかなかつかみ難い概念ないし方法になるかに思われるからです。  いづれにしましても きちんとまなんでいませんので ご教授ください。

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noname#143207
noname#143207
回答No.16

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 
> ですが 前回の物言いが必ずしも勝手なそれではないと さらに証明いたしたく思います。このいま一度のダメ押しは 必要ではないかと考えました。
  了解致しました。 
> ▲ (自我の諸概念 / 《われ在り》の原理) ~~~~
  (1) 考えられる限りのあらゆるものに先立ってまず第一に存在しているのが私である。
   * そういう想定(作業仮説)において出発するのだと読む。
 (2) この《われ在り》こそ かく言う私 しかもその意味を正しく理解してかく言う私にとっては 私の世界にとっての志向的な根元的根拠である。
    * この一節がどういう文脈を承けて論じ始められたのか分からない。ただし(1)から出発すると捉える。
    そうすると 言えることは 次である。
  (あ) たぶん《根拠》と言うのなら それは《われ在り》ではなく 《〈われあり〉と思うわれあり》ではないか?  (い) 《その意味を正しく理解して》という表現は 意味を成さない。何が《正しく》なのかを説明すべき。
  (う) 《根拠》に《志向的な根元的》なる条件がつけられている。おそらく経験世界における有限で相対的なものに過ぎないという前提において《根拠》を持ち出したのであろうからその限りでは 無条件なる根拠であるはずだ。この条件付けは要らないのではないか?
  (え) 同じく《私の世界にとって》という条件規定も要らない。すべての世界にとって・つまり やはり無条件に であろうと考えられる。
  (あ)に関しましては、厳密には、そのように考えております。(い)に関しましては、デカルトの「方法序説」は既に読んでいる、という前提で話を進めている観がございます。(う)に関しましては、読者に誤解を招く恐れがあったため、あえて言及したものと考えております。(え)に関しましては、これも、”主観内”を強調したかったものと推察しております。 
> (3) しかも私はそれと同時に 《客観的》世界 すなわち《われわれすべてにとっての世界》もまた このような意味で私にとって妥当している世界として《私の》世界であることも見落としてはならない。
   * 《われわれすべてにとっての世界》と《私の世界》とをわざわざ分けるのは おそらく独我論からの影響だと思われる。ふつうの生活態度(思想)であれば 《見落とす》ことはない。そもそも初めに ふたつの世界に分けないのだから。分ける必要を見ない。 
  おそらく、これも”主観”を強調し過ぎたがために、”客観”をもここで再確認の意味で言及したかったものと思われます。 
> (5) 従って一般に《われ在り》は 私が私によく理解できる意味 ないしは私にとって妥当する意味で《存在するもの》として意識しているもの――私があるときは正当な方法で またあるときは正当でない方法で存在者であることを証明したりするもの――つまり私自身も 私の身体も思念する私の作用も これらすべてを意識する作用も含めて ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠なのである。
   * これだけでは 意味をなさない。《志向していれば その行為にとって根元的根拠があるはずだ》と推し測っている。ただそれだけのことを 言ったに過ぎない。
  この箇所は、「私自身も、また思念する私の[心的]作用も、ありとあらゆるものにとっての 志向的な根元的根拠」と解しますと、独断には陥っていないと思われるのですが・・・ 
> (6) このことが好都合であろうとなかろうと あるいはまた〔何らかの先入見に影響されて〕異様なことに思えようと思えまいと とにかくこのことは私が認めざるをえない厳然たる根元的事実であり 哲学者たる私は一瞬たりともこの事実から眼を逸らしてはならない。
   * 《わたしは何かを思って その何かを欲している。心がそれに向かって伸びている。そのように振る舞っているわたしに 〈われ在り〉という根拠がある》。こう言いたいらしい。いったいどこへ向かって議論を運ぼうというのだろう。
  おそらく、「 哲学の根本として、 私が認めざるをえない厳然たる根元的事実」を再確認しておきたい、というぐらいの意味かと存じます。 
> (7) 哲学的に幼稚な人たち(キンダー)にとっては それは独我論や あるいは心理学主義や相対主義の亡霊が出没する暗黒の隠れ家のように思えるかもしれない。
   * 独我論が いちばん当たっていると思う。
  仰られる通りかと存じます。 
> (8) しかし真の哲学者ならば それらの亡霊を怖れて逃走することなく むしろその暗黒の隠れ家を隈なく照らし出す道を選ぶであろう。(『形式論理学と超越論的論理学』FTL.209f.)
   * 先に《照らし出して》おくとよいと思われる。議論の初めに 暗黒は照らし出されましたよというメッセージをあらわすとよい。
  はい、これも、ご質問者様のご意見を入れておいた方が読者には伝わりやすいかもしれません。 
> ▲ (同上) ~~~
  (9) 世界は恒常的な経験のうちに現存している。
   * これも 先行する文脈が分からずに 読みすすめる。たぶん《経験》が《恒常的》だというのは そのままでは呑み込めないはずだ。保留しよう。 
 (10) われわれの認識の努力 われわれの心配や憂慮 われわれの行為は常に世界と そしてその中で経験される個々の出来事に関係している――この世界ほど確実なものはない。
   * そう見たいし 見たと言おうとしているようだ。けれどもその反対の命題を出しても まづはその単独の命題としては 通る。すなわち《諸行無常》と言っても 聞く人は 納得するのではないか。あるいは《関係》を――つまり《縁起》のことを―― 言いたいのだろうか。
  おそらく、「 超越論的主観性の意識は必ずある対象を伴っているが、この対象は、必ず意識の志向性に”相関的に現象している”」についての言及かと推察してございます。 
> (12) 私の現存在と私を直接把握する諸経験とを含めて この私自身もこの世界全体のうちに包含されていることは自明である。
  * 《自明である》かどうかは にわかには分からない。世界は 経験世界として相対的で有限である――もしくは 経験である限りで 無限ではない――から。
 ぎゃくに言えば 自明であるのは 経験存在が経験世界に属するという事態のことであろう。すなわちその自明というのは 相対的な認識においてという前提がついている。
 ひょっとすると わが現存在は すでに非経験のナゾの世界に拉致されてしまっているかも知れない。つまりそのような飛躍を想像においてゆるすようなアソビが この経験存在なる人間としてのわれには ある。
  仰られますように、自明ではございません。そもそも、”この世界全体”が存在すること自体の根拠が、乏しくござます。 
> (13) 従ってもしも世界が否定されたり実際に廃棄されたりすれば 私自身もそれと同時に否定されるであろう。
   * 何をばかなことを! 流れ星が地球にぶつかったならば その影響を受けるというのみ。
 《否定》とは何を言うのか? 言葉で否定すると言ったところで 何の影響もない。
  上述のことと関係しているものと考えております。つまり、存在証明が困難(不可能)な”この私自身もこの世界全体のうちに包含されていること”を逆説的に証明、もしくは、当然のこととして、読者の了解を得たい、との想いがあったものと考えております。 
> (14) 実際ごく自然なこのような熟慮がいかに明白なものに思えようと そしてまた《われ在り》が 経験される世界の実在の偶然的な一特殊部分にすぎず 何ら特権的な地位を占めるものでないと思われるとしても しかしわれわれはやはり次のような見解を しかもおそらくは〔上述した見解の場合よりも〕遥かにすぐれた幾つかの根拠によって 主張できるのである。
 すなわちそれは むしろ《われ在り》という命題こそ あらゆる原理のうちの真の原理であり あらゆる真の哲学の第一命題でなければならない という見解である。(『第一哲学』H.VIII, 41f.)
   * その第一命題を打ち立てて 何を言おうとしているのか? その問題だったのではないか。出発点の仮説を いつまでも これは確かだ 大丈夫だ やって行けるはずだ・・・と繰り返しているだけ。
     《真の原理 / 真の哲学》を早く示して欲しい。じらさないで。  フッサールに関しまして、文章構成が分かりづらいとの批判がございますが、これもその一例かと存じます。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  ここまで ひどっちさんが フッサールを読み込んでおられるとは たいへん失礼ながら知りませんでした。  表現の問題で ああだこうだ言いなさんな。エポケーとその結果得られるイデアとしての本質は 首尾一貫した哲学である。でしょうか?   そしてそのとき どこまでも《主観》を大事にするのだし 基軸としているのだ。そのことをめぐって 周りに堀を堀りめぐらせるように 何度でも説明を加えているのだ。そこを見逃すべからずと。  前回引用したくだりに続く文章を さらに取り上げます。《主観哲学》と わたしなら名づけますが そこのところが どうなっているか さらに問い求めたいと考えます。  ▼ (《われ在り》の原理) ~~~~  (1) 〔超越論的還元の方法によって新たに獲得された 私の超越論的主観性の経験領域という〕この領域が哲学を始める私にとって たちまち最も重要なものになるのは 最初に把握されたときに既に顕現する《われ在りの必当然的明証性》のゆえである。  * 《必当然的》:ほかに可能性がないと言えるほどの在り  方でしょうか。   たぶんそれでもその明証性は やはり主観的な確信まで  なのだと思われます。   もっとも そのとき普遍性や客観性が盛り込まれるとい  う可能性は 見ようとしている。   あるいは ヒラメキとしての根拠(つまり 合理思考か  らすれば 無根拠)のことを言っているだろうか。   とにもかくにも 《〈われ在り〉と思うわれがある》と  いう存在を基軸にして 理論をつくるか。  (2) 本当にあらゆるものを――すなわち私にとってこれまで妥当していたものや 妥当するかもしれないもののすべてを――破棄しようとする 思いきったラジカリズムが 必当然的‐明証的に妥当し存在するものを すなわちあの破棄されるべきすべてのものの中には含まれていなかったし また含まれえなかったものを 私に開示してくれたのである。  * この推論は あまり信用できない。《あらゆるもの /  すべて》という規定を用いて 《必当然的明証性》が得ら  れるほどの推論が成されうるとは思えない。   別様に反証するならば まったく屑や塵としか思えない  《破棄されるべきもの》の中に じつは 人間性にかかわ  って《それはわたしだ》とさえ言わねばならない契機が  潜んでいるかも知れない。   言いかえると 人間のことで そんなもの要らない 捨  ててしまえというような物事が 《われ在り》のわたしを  示していることになるかも知れない。   よって この推論は ありうる場合のひとつを言ってい  ると解する。  (3) 〔世界の存在についての超越論的問題に全く無関心な〕現世主義者にとっての存在全体(ザインアル)は真の存在全体ではない。  * 《現世主義者》を蔑んでいるように聞こえる。   それはそれとして 次へすすむ。  (4) おそらく端的に次のように言えるであろう。すなわち あらゆるものを放棄することは あらゆるものを獲得することであり 世界をラジカルに棄却することは 究極的に真なる現実を観取し それによって究極的に真なる生を生きるために必要な方途である と。(『第一哲学』H.VIII,166)  * さらに次へすすもう。別の段落だ。  ▼ (同上) ~~~~  (5) 純粋主観性へ エゴ・コギトへ立ち帰るということは 《何かを問題にし疑ってみる場合に既にその根底に前提されている それ自身は究極的に疑いようのない 究極的に確実なもの》を省察するということである。  * ここも まだその意味が定まらない。《本質》にたど  りつくはずだと言おうとしている。  (6) しかもわれわれは この純粋主観性を把握すると同時に この主観性とその純粋意識体験こそ《あらゆる意味付与の源泉》であり 《認識する自我に対して何かを意味し 存在者として妥当すべきあらゆる対象的なものが そこにおいてそれ自身の意味と妥当性を獲得する根源場》であることも覚知するであろう。(同上書 H.VII,167)  * 《主観》が――またその体験が―― 《場》であるとは考  えられようが 《あらゆる意味付与の源泉》であるかと言  うと それほど確かであるようには思えない。   《意味付与の源泉》だとすれば 相対的な経験世界が  世界のすべてであり そのほかに何もないことを意味しな  いか? この経験世界が 完全な全体であると言おうとし  ていないか。   仮りにそうだとしても 意味付与の源泉は 自然環界や  社会的自然とのわたしのかかわりであるかも知れない。   さらに次へすすみたい。  ▼ (同上) ~~~~  (7) 超越論的な問題が 《意識の能作からのみ意味と妥当性を獲得する世界》としての世界一般の存在の意味に係わるとすれば 超越論的哲学者は世界に対して真に無制約的な判断中止を行ない そして《世界がその存在の意味と存在の妥当性をそこから汲みとる意識主観性》のみを措定し 真にそれのみを保持すべきである。  * これは ヒラメキ論者から見れば 人為的にヒラメキを  起こそうという議論に見える。   ヒラメキの場合は すでにわたしが何ら意識的にも傍観的  にも判断中止を行なっていないところに(つまり 判断停止  とはかかわりのないところに) ふと 言うとすれば求めて  いた内容をみちびく直感が おとづれるものである。  (8) 私にとって世界は私の経験生活 私の思考生活などによってのみ存在しているのであるから 従ってまづ第一に必要なことは 絶対的な固有の本質をもつ私の自己に立ち帰ること すなわち私自身の純粋な生に しかも絶対的な自己経験のなかで経験されうるがままのこの純粋な生にのみ還元することである。(『百科(エンサイクロペディア・ブリタニカ)草稿』H.IX,273)  * 本質としての主観が 基軸であるという見方がつらぬか  れていることは 見て取れる。   言いかえると 周囲の堀を埋めているが 本丸にはたどり  着かない。   方法なのだから 天守閣の中身を見せることはしないのだ  とすれば その応用編で勝負となるはずだ。  ▼ (同上) ~~~  (9) 〔デカルトに倣って省察する〕私は超越論的自我によって 哲学的にいったい何を始めうるのであろうか?  * これが 読者が初めから知りたかったことだ。  (10) 確かに 超越論的自我の存在は認識の序列からみれば 私にとってすべての客観的存在に先行するものであり ある意味でその存在は あらゆる客観的認識が行なわれる根拠であり基盤である。  * おそらく《事実を見て捉えるわれ》をさらに超越論的に  捉えるわれ そのわれに求めるべき《主観》があると言おう  としていることは 見て取れる。   その《主観》に 客観的な内容があり それによって事実  認識の客観性を得ることができるというところまで言おうと  しているようだ。   それが《客観的存在に先行する》かどうかは 定かではな  い。  (11) しかしながら 単にこのように先行するということから 超越論的自我の存在が普通の意味での あらゆる客観的認識にとっての認識の根拠であるということが言えるであろうか?(『デカルト的省察』H.I,66)  * 次へすすもう。  ▼ (同上) ~~~  (12) われわれにとって存在する世界は われわれ自身の人間的生活の中で意味をもち われわれに対して常に新しい意味と そしてまた妥当性とを獲得する世界である。  * 《獲得する》の主語が 《われわれにとって存在する世  界》のことかとうたがわれるけれど 措いておく。  (13) 確かにその通りであり そしてまた認識の面から言えば われわれ人間にとってはわれわれ自身の存在の方が世界の存在に先行することも真理である。  * パス。  (14) しかし存在の現実性の面から言えばそうではない。しかし《構成する主観性の超越論的生のうちに現われる世界》と 《超越論的相互主観性の生活共同体のうちに極の理念(ポール・イデー)として絶えず予示され そして確認される世界としての世界そのもの》との間の超越論的相関関係は 世界そのもののうちに生じる謎めいた相関関係ではない。  * 次へ。(《しかし》の並列は 原文(翻訳文)のまま)。  (15) 超越論的相互主観性の具体相 すなわちその普遍的な生活結合体のうちには 世界と呼ばれる極が すなわち多数の個々の極の体系が〔なぜなら世界に属する無数の対象自身もそれぞれ一つの極であるから〕 志向的対象性として包含されているのである。  * 主観は われ一人だけではないと言いたいのであろう  か?  (16) このことは それぞれの志向のうちにその志向的対象性が その志向自身の相対的な具体相と全く不可分なものとして包含されているのと全く同じである。(『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象学』H.VI,266)  * 《間主観性ないし相互主観性》を持ち出すときには  おのおのの主観が 互いにいわば極としてあって わが  志向にとってもその《対象性》を有するというのであろ  うか?   それでもその対象性は わが主観のうちに包含されて  いるのだから 主観は 基軸でありつづけると。   他者を持って来ても 主観が主観であり 認識の基軸  であることに変わりはないと。  ~~~

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noname#143207
noname#143207
回答No.46

 前項の続きからでございます。 > われらが心のタブラには タブラ・ラサであろうとなかろうと 根源的主観性としてのこのような所与が 霊によって・すなわちナゾでありマボロシなるものとして 書かれているのではないでしょうか?   残念ながら、これは愚生にはわかりませんが、仮設としては非常に興味深いと思われます。 > つまり根源的にして絶対的なもの・ことは 分かるか分からないかは 人間には分からないと。これは 安定ではないでしょうか。やすらぎではないでしょうか。 ただわづかに われらが理性がこれに反発を感じ 大いに理屈をこねて 人間はつねに不安を帯びる存在であると言ったほうが恰好がよいと思い そのための偉大なる哲学を築き上げてきただけなのではないか。  史実はそうかと存じます。たしかに「恰好がよい」と思ったのかもしれませんし、飽くなき人間の欲求がそれを満たそうとしたのかもしれません。そして、科学の進歩に伴い、科学をもってすれば、真理に到達できる等という妄想がうまれてきたのかもしれません。 ロックの経験主義は、知識の探究において、直観的思弁や演繹よりも感覚経験の重要性を強調する。経験主義的学説 > タブラ・ラサにつきましては 消し去ったというからには・つまり  ★ (確かに、“erased”は、事後的な印象を受けますが)。  ☆ であるからには 経験を前提にしている。つまり 生まれたままの状態として使うほうが おかしい。こう思ったところから この議論が出て来たのだと思いました。つまり 白紙還元という用語と同じように用いてもよいのではないかという議論です。  語源からしますと、アプリオリなるものとして使用するのはおかしい、とお考えになるのは、当然かと思われます。 > つまり 西欧人がおかしいと考えます。(アリストテレスの場合は 《まだ何も書かれていない書板(ピナクス・アグラフォス)》のことつまり経験以前のことを言ったのでしょうか。《消された(ラサ)》と言うと すでに経験を前提にするのではないかという物言いでした)。  タブラ・ラサというラテン語はアリストテレスの訳語だと言われています。ですが、愚生はアリストテレスには明るくございませんので、ご説明はできかねるというのが実情でございます。 誠に申し訳ございません。  ただ、アリストテレスは、ほとんどすべての知識は、観察(経験)によってえられる、としたそうでございます。その際必要なのは、注意深い“観察”なのだそうです。そう考えますなら、種々の観念が経験の結果から得られるという、“経験主義”的なものであったかと考えられます。  ただ、ここで、注意を要することがございます。観念の意味としまして、アリストテレスの時代では、”イデア”であったかと考えられます。ですが、デカルト以降では、”主観の意識内容”の意味で用いられるようになったということでございます。従いまして、アリストテレスのタブラ・ラサとは、デカルト以降、例えば、ロックのものとはずいぶんかけ離れている可能性があるやもしれません。 > ★ ただ、愚生と致しましては、《美しい数式》すらも、実は勝手に作られた虚構に過ぎない可能性があるものとして、エポケーするという意味で捉えました。  ☆ そうなんですか。内容を理解するまでには至りませんが 留意してまいります。  例えば、複雑な要素を組み入れ、スーパーコンピューターを用いて計算されたIPCCの温暖化予想モデルも、その一例かと考えております。  また、少し異なるかもしれませんが、LTCMを破綻に導き、今回の金融危機をもたらしたブラックショールズ式もその一例かと思われます(厳密には、式そのものよりも、式が成立する前提条件に錯誤が見られたものかと考えておりますが)。 > ★ 生得観念(innate ideas)  ☆ は 概念を捉える生得な精神機能として言いかえればよいのにと思うのですが。機能が 自然本性としてそなわっていると言えばよいのにと。なんで紛糾するのでしょうかねぇ。   認識の基礎を意識に置いた、これは共通かと存じます。そしてまた、認識するにあたっての概念を捉える機能がひとには備わっている、というのも共通かと考えています。  ただ、デカルトは、我々の心の中には「完全性」の概念があるとし、そしてその概念の原因となっているものがあるはずだとする訳です。つまり、神です。そして、この神を介して、自然認識の真理性を確保しようと試みた訳でございます。  一方、ロックともなりますと、無神論的となります。少なくとも認識に関しましては神の必要を認めなていない訳でございます。「完全性」の概念、そしてその概念の原因、そんなものはアプリオリには備わっておらず、ただ、経験を通してのみ、それら概念等を獲得するといったものかと考えております。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてのご回答部分です。  ★ ~~~~   > われらが心のタブラには タブラ・ラサであろうとなかろうと 根源的主観性としてのこのような所与が 霊によって・すなわちナゾでありマボロシなるものとして 書かれているのではないでしょうか?   残念ながら、これは愚生にはわかりませんが、仮設としては非常に興味深いと思われます。  ~~~~~  ☆ 哲学としてできるところまで思惟を伸ばしますと:  ○ ~~~  われらが胸板には 何も文字が刻まれているわけではなく 分かりやすいように《仏性》を持ち出すならその仏性が 霊によって書かれている。  すなわち 霊とは何ぞや? 分からない。ナゾであり マボロシである。  けれども仏性なるナゾでありマボロシなるものは ないのか? ないとは言えないのではないか? あるとも断定できないが。  ならば 神は いるともいないとも分からない。神がいるかは 分かるとも分からないとも 人間には分からない。  ゆえにこそ 絶対つまり神は 人間をして安定した位置を取らしめている。のではないか?  神がいるという言葉 神がいないという人間の言葉による表わし これらのいづれも断定表現が人間をして安定せしめ得れば それでよいかも知れないけれど ざんねんながら そうは行かない。ということを 霊が示しているということではないでしょうか?   つまり霊は何も示していないのですが・ナゾですが・それは どこまで行ってもマボロシですが そうであることにおいて 人間の・動物と天使とのあいだの浮遊するかのような位置づけにおいて安定した存在のあり方を示してくれているのではないか?  なぜなら その宇宙遊泳のような不確かな安定感こそが 人間の所与としての自由であり そこの自由意志も位置づけられるから。  蛇足として哲学を超えて神を持ち出すならば その遊泳するわれらを 神が支えてくれているはずだからです。神の手によって 魚が網に掬われるように いだかれている。ふところ深く眠っていられる。  ただしこれは 思考や認識による知識や自覚ではなく 信じるという――歴史時間を超えたかのような場ないし時における――直観なのだと思います。  ~~~~~~~~  タブラ――ないし今はタブレットという語が行き交っていますね その――板ないし画面に書かれた文字や記号をあたかも消した(ラサ)ように 世の中のしがらみをリセットしてしまうなら〔と言っても すぐさま それまでに自己によって生きられた経験は消えてしまうわけではなく〕 《〈わたしがわたしである〉わたし》にたどり着くものと思われます。  玉ねぎの皮を剥いていくような作業であるかも知れません。でも エポケーと言います。《あはっ( Ah ! Oh ! )》という言葉でしか表わせない根っこのところまで降りて行って そこで もののあはれを知る。とも言います。心は 世の中のすべてが空の空 空なるかなと嘆じて わびしくあり とうとう錆びついてしまったそのドン底において スサノヲはよみがえってくるものと思います。ワビ・サビの文化というときにさえ エポケーは活かされています。  アマテラスは――かしこいものですから―― おそらくこの作業をすべてあたまの中でやろうとするように思います。一切を思弁にて済まそうとするのではないでしょうか?  哲学者だって そうです 一般に。だから 思索し文章を書くのだと思います。〔小説家が そうでしょうか? というふうに考えていくなら 音楽家だって画家だって その自己表現は 《わたし》に纏わりついた余分なもの(しがらみ)をそぎ落として行く作業のうちに その作品を完成させていくということでしょうか? つまりは 万人がけっきょく そのような自己表現としての動態を生きているのでしょうね〕。  ★ アリストテレス / ロック / ヒューム / デカルト・・・  ☆ 留保して課題とします。デカルトもそしてかれを批判するロックも 神をイデアとしてのごとく しかも内面におけるものとして・加えて完全性として扱っているところが 難儀なように思われます。  ★ 《美しい数式》すらを エポケーする  ☆ これは 前提条件あるいは付帯条件の如何――つまりそれらを どう組み入れたか――によると理解しました。  ★ アプリオリ  ☆ この言葉を使うということは すでに《第一のロゴス(α) としての神》の問題を実際には扱っているのだと見ます。そのとき 《神》も想定としては持ち出したほうが うんとその哲学も分かりやすいくなるのだと思われます まだ今のところはです。

noname#143207
noname#143207
回答No.45

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 音楽は音を聞く第一次の鑑賞と それを認識の分野で再現させつつさまざまに分析してみせる第二次の評論があり さらには 第三次の評論もあるかも知れない。  楽器という材料・手段の違いに応じて 楽器ごとの特性にどう合わせているかなどの演奏方法が独自に問われる。ピアノ評論とバイオリン評論とは 別だという捉え方でよろしいでしょうか?  同じ時間芸術と解しますと、同じもの。一方、楽器特性からしますと、別のもの、と考えております。 > そうして 考えてみれば 絵や音楽の 視像や音の聴像じたいを白紙還元するわけには行かないでしょうから この場合の美についての現象学的還元は むつかしいですね。  はい、無理があろうかと考えられます。  ただ、その際の知覚作用につきましては、”端的考察的知覚作用”なる作用の仕方で、知覚しているとされています(「内的時間意識の現象学」の用語だそうです)。  ○ (どっち=ぶらじゅろんぬの定理    または ヒラメキの構造 もしくは ロゴスの階梯) ~~~~   スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ   インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化        :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~ > ▼ 道徳的善の象徴である。  ☆ というのは そうだとすれば このイメージ直感が 概念直観ないし本質直観のヒラメキをも下に超えて コギト・ロゴスによる合理性を帯びた規範的思惟につうじていることを言うものと見ます。それが 《道徳的》というところです。  《善》を言うのは この《ヒラメキをも成り立たせるところのロゴスの階梯》全体としての人間存在は その存在じたいもしくは生きること自体を 善と見ることからくると見ます。  仰られますように、経験世界上の《道徳的》と境界線上に位置する《善》とは峻別させたほうがよろしいのかもしれません。《善》の定義化には、ある一面、とんでもない副作用が待ち受けている可能性があるからでございます。“規範的”といいますと、ネガティブな印象を受けますが、子どもの頃(自由を謳歌できない時期)には、ある程度必要なものとも考えております。 > ▼ それと同時に我々の心は、感覚的印象による快の単なる感受を超えて或る種の酵化(* 醇化)と高揚とを意識し、 まじりけのないうつくしさ=醇美(ジュンビ)。ゆえに インスピレーションといった言葉をも当てるようだ。  また誤記がございました。 誠に申し訳ございません。 > ☆ この《ヒラメキの構造を有するロゴスの階梯》により成るその《身体=精神》の持ち主である《わたし》は ほかの人たちのそれぞれ《わたし》と その個別の主観こそ違え 主観的原理ないしその主観のやはりロゴス構造は 共通であろうと見ているのだと思われる。残念ながらその明証性は これまでの人類の科学的営為のもとにも 完全なものとしては得られていない。  はい。史実は、仰る通りかと存じます。 > ★ 《わが心にしたがう》、換言いたしますと、“自己を省み、そして自己に対して欺瞞を抱いていないかどうか”、これに尽きるかもしれません。  ☆ 明証性でなくとも 案外このへんに 直感としての根拠があるのではないかとわたしも見ます。  ご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます。 > ☆ 《きわめて複雑》――ぜひ われわれの定理を使ってみて欲しいものです。  はい、できましたならば、愚生もそう願っております。 > ☆ 《善(生きること)―→へその曲げによる善の損傷(苦悩)―→治癒・快癒=よく生きること(善)》といった過程に 審美眼がどのようにはたらくか――大雑把には 善への呼応と反善への反応とに二分されると思われる―― これについてはその探究が 端緒に着いたばかりです。(いえ ほかに研究がおこなわれているかも分かりませんが とりあえず知る範囲では)。  古くは、カントも言及しておりましたが、それでも基礎的部分といった感がぬぐえないとも思っております。 > それにしましても あちらの国ぐにの人たちは 《原理・格率・あるいは価値》などなどと 表現がおおげさであります。ロゴスなどという用語を こちらも平気で丸のみにして使っていますが。  特に、ドイツ人に多く見られるように見受けられます。原理や原則(ルール)といったものには案外神経質なのかもしれません。 > ★ 新田義弘著「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として」(講談社) 最後の思想的境位  ☆ から フッサールにとっての神について明らかにしていただきました。  ご参考の一旦を担えましたならば、幸甚に存じます。 > 厳密にいえば 《イデー》は いただけないように思います。一方で 《生得観念》の問題が生じましょうし 他方では 《神》と言うのならば むしろ堂々と《無根拠》だと言ってしまっておいたほうがよいかと考えられます。  仰られますように、無根拠もしくはナゾでよかったのかもしれません。 > 認識論としての存在論では 人間なる存在は 知り得ぬ無根拠と経験合理性において知り得た根拠とのあいだできわめて不安定なあり方をしているものと思われます。  まったく仰る通りかと存じます。 > この認識論であることを超え出たところに《本質直観》があったのではないかと思われます。ですから 認識ないし思考(コギト)だけではなく それとは別の認識の起源となりうるヒラメキを持ち出したほうが よいかと。  そうでございますね。ヒラメキの定義、そしてその原理の厳密化は、神経質なフッサールは避けたかったのかもしれません。 > この世界内存在が 超経験世界(絶対)をも想定しえて その全体世界に位置づけられるあり方は 不安定であり そこから あたかもつねに絶対的に 不安をともなうと言われます。ところが 《絶対》は それが人間にとってはナゾの無根拠であるゆえにこそ そのように《不安》がつねに今しがた残した足跡あたりから追いかけてくるような存在のあり方をせざるを得ないかたちで《不安定》そのものとして位置づけられた人間をして きよらかなおそれを抱かせしめつつ 神としても無い神としても いづれの場合にも人間を あたたかく包む。  はい。絶対・客観の存在の否定、これらがひとにとりましては、不安、不安定感の一因になりうるものと考えております。そしてその結果、下にもお示しいただいておりますように、光を指し示す信仰により、克服するものもいれば、科学万能教信者に陥るひともいるのかもしれません。    字数制限のため、次項に移らせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

  ( c-2 ) 主観的差異は 時間差のみか? そう言えるか。  人びとのあいだで世界が見えるその位相の違い これは 人の意志行為(志向性)が時間的に自己表現としておこなわれるからには 表現をめぐる読み取りつまり意志疎通としては そこにおのづから時間的な差異が起きる。マ(間・間合い)が空きすぎたり短かすぎたりして知覚および認識のズレや間違いが起きうる。  しかももしその動態においても ヒラメキ主観が《永遠の現在》を直覚するというのならば その感覚ないしイメージのもとにきわめて煮詰めた議論として言えば コミュニケーションの滞りは 時間差のみだと言えるか?  すぐさま もしくはいつかのちに 人は互いに分かり合えるか?  ( d ) ( a )から( c )までをあらためてまとめてみると:   ( d-1 ) わたしたちそれぞれの《わたし》は 互いに分かり合えるか?   ( d-2 ) その《わたし》とは 何か? どういう動態か?   ( d-3 ) おそらく簡単にその成り立ちを捉えれば 主観のうちに《考える(コギト)――信じる(インスピレーション・ヒラメキ)》の階層を持って 自己をうんうんとどこまでも推し出しつつ表現しながら そして互いに意志疎通をはかりながら 生きる存在であると言えようか。   ( d-4 ) 意志疎通にとっての障害は どこにあるか? 《考える》と《信じる》とのそれぞれの階層において扱うべきか? 後者が前者に先立つと思われるが その点はどうか?    ( d-5 ) しかもこの《信じる》とは どういうことか? これを《考える》のである 人間は 意志疎通のためには。《信仰類型論》。言いかえると 《神とは何か?》。   ( d-6 ) けっきょく《本質直観》とは この《神 もしくはつまり同じことで 無い神》と《わたし》との間柄を尋ね そこにどのような――おのおの主観内における――物語が紡がれているか これを明らかにすること。そしてさらにはそこで互いに 共有しうるものは共有しようとするいとなみであろうか?   ( d-7 ) 《神ないし無い神》を持ち出しておかないと 相対的な経験世界の果てまでたどり着こうとするような限界性・境界性あるいは究極性という概念で言いかえることになるし そのように言いかえているだけになると考えられる。   ( d-8 ) ( d-6 )で《共有しうるものを共有する》というのは こうである。意志疎通の可能性について 人びとのあいだには《共通感覚》があり これをもとにして《相互主観性》ないし《共同主観》が打ち出されて来る。これは ほとんど公理としてである。つまり 明証性は 最終的にはかなわない。得られがたい。     ( d-9 ) ただし これらのコミュニケーション作業はすでに――形而上学の問題ではなく―― 現実の《生活世界》における出来事としてある。と主張する。   ( d-10 ) 《純粋ノエシス》は 《わたし》の中核として根源的主観性をにない 《アートマン(個人としての我れ)》と呼応すると考えられる。宇宙霊魂(アニマ・ムンディ)ないし主宰神なる《ブラフマン(宇宙としての我れ)》と一体――梵我一如――と言うからには。     ( d-11 ) しかもこのアートマンの実在を否定して出たブディズムは 文字どおりアン‐アートマン(アン‐は アンインストールのアンと同じ語根)つまり《諸法無我》をとなえた。けれども 《如来蔵ないし仏性》をも説くに到って アン‐アートマン(無我)とアートマン(個人我)とが 類型的に同じものとなった。次の内容を共通とするはずだから。  ● 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。   ( d-12 ) かくして ブディズムの《空観・中観・仏性・アビダルマ(?)・アーラヤ識(?)》等々の概念装置も 純粋ノエシスないし本質直観と同じ範疇を扱うものと考えられる。  認識方法は違っているか? ただし 思考(コギト)としての認識にはもはや限らないとすれば――現象学においてさえ限らないとすれば―― それほど違っているとも思えない部分がある。     *  ☆★ 《善(生きること)―→へその曲げによる善の損傷(苦悩)―→治癒・快癒=よく生きること(善)》といった過程に 審美眼がどのようにはたらくか――大雑把には 善への呼応と反善への反応とに二分されると思われる―― これについてはその探究 とその探究をめぐってのカント  ☆ これが ( d-8 )《共通感覚 / 共同主観》や( d-9 )《現実の生活世界におけるコミュニケーションの問題であること》にかかわり あるいはつまり( c-2 )《主観的差異は 時間差のみか?》の解明に 美的知覚をとおして 大いにかかわっている。  美的判断としては それが大きくは時間差による相違に過ぎないとしても その内容としては 美と醜悪という対極のすがたが どちらも美だと見られるといった現象がすでに起きていて これの解明が俟たれる。  もし  ★ ~~~~~   > この認識論であることを超え出たところに《本質直観》があったのではないかと思われます。ですから 認識ないし思考(コギト)だけではなく それとは別の認識の起源となりうるヒラメキを持ち出したほうが よいかと。  そうでございますね。ヒラメキの定義、そしてその原理の厳密化は、神経質なフッサールは避けたかったのかもしれません。  ~~~~~~   ☆ この微妙な問題は 端的には要するに説明のために《神ないし無い神》をどこまで持ち出してよいか あるいはそれらを無しで済ますにはどう表現すればよいか? こういう問いを問うているものと捉えます。模索して行かねばならないように思います。

bragelonne
質問者

補足

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 〔* 音楽は音を聞かせるという作品として〕同じ時間芸術と解しますと、〔* 音を出す手段つまり楽器が違っていても〕同じもの。一方、楽器特性からしますと、別のもの、と考えております。  ☆ ありがとうございました。ピアノの音は バイオリンのそれとは違って 劣化するとか聞きました。すぐに消えるということでしょうか。打楽器でもあると指摘してもらいました。  ピアノは 高い音がいい音色のように感じます。バイオリンは むしろ反対で 時々低い音が入るといいように感じます。  交響曲の音から 聞きたいという欲求が少しづつ離れて行くのは―― BGM でしたら 大丈夫ですが―― なぜでしょうか。  人の声つまりうたが入ると また音楽としても別のジャンルになるような気がします。  民謡の音階の構成は 世界中どこへ行っても 同じなようですね。音楽も スサノヲ語とアマテラス語との違いがありましょうか?  ★ ”端的考察的知覚作用” / 内的時間意識の現象学  ☆ 次は この概念をめぐる研究書についての感想というだけのことですが もしそこに指摘されていることがらが的を射ているとしたなら さらなる広がりがあるかと思われ掲げます。  ● (内的時間意識の現象学) ~~~   http://fry.asablo.jp/blog/2009/01/21/4071782  フッサールは、「現象学」の創始者である。・・・  人は、「クオリア」(感覚質)を経て、現象を「意識」として認識する。その様な認識の積み重ねで、「心の志向性システム」を作り上げる。  「心の志向性システム」に適った現象が合理的であり、真理であると錯覚しているだけである。  さて、「クオリア」では、現象の存在における基本的要素である「時間」をどの様に認識しているのだろうか。それは、「内的時間意識の現象」として認識される。  アリストテレスの哲学における現象の認識は、静止した時間として捉えられがちであったが、中世のキリスト教哲学者アウグスチヌスは、(1)「想起された現在」、(2)「現在の直観」、(3)「予期された現在」として、意識時間の創始者である。これは、あたかも部派仏教がアビダルマとして体系づけられたことに比肩している。  フッサールは、実は、意識は、こうした様に断片化された時間の中に存在するのではなくて、連続性・流動性を持って存在していると考えた。全ての客観的真理されていることがらは、全て、流動性を持っており、常に変化し続けている「心の志向性システム」の一部であるに過ぎないのである。この考え方は、ある意味詭弁の様に受け取られがちであるが、仏教の中観思想に通じるところがある。  しかし、客観的真理が存在しないのならば、どうして私たちは、認識を共有・意思疎通が出来るのだろうか。  それは、言語表現(表象性)によるものである。しかし、言語には、位相があり、恣意的な性質を持っている。つまり、私たちが共通して認識している現象は、決して、同じ現象として認識されているのではない。それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。  フッサールは、表象性が一定の志向性を持っている状況をノエマ、ノエシスとなずけている。このノエマ、ノエシスは、質的な段階を持っている。最も高次なのが、「純粋ノエシス」(純粋意識の方向性)であり、これが全ての表象性の根底に存在している。  「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。この位相とは、「自我」、「他我」の区別に拠る認識の相違である。しかし、デカルトの「純粋理性」とは、異なり、純粋ノエシスでさえ、普遍の真理ではないのである.....  この本(『シリーズ・哲学のエッセンス フッサール 心は世界にどうつながっているのか』門脇俊介,2008)の惹句にある様に、「世界が私に現れ出るという謎」という言葉で仏教思想を学ばれた方は気づかれるかも知れないが、これは、「本覚」という考え方に近い。認識→心→純粋ノエシスの先にあるもの、それは、「世界」そのものなのである。  つまり、現象の世界では、様々な位相によって客観・不変の真理が存在しない様に見えても、私たち全ての存在の中で、純粋ノエシスによって位置づけられ、心の中で、共有された世界は、一つの純粋な存在に収斂されるのである。  それは、「仏性」に相通じるものがある。菩薩の修行を経て如来となった修行者には、「自我」も「他我」ももはや存在せず、あらゆる位相はなくなり、純粋な光の塊の中に不変の存在となり得るのだと思う。  私達を導く純粋ノエシスは言い換えれば、アラヤ識の様なものかも知れない。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 主題を抜き出すなら:  ( a ) ノエシスないし《純粋ノエシス》   ( a-1 ) 純粋ノエシス――それにしても 《純粋》だとか《根源的》だとかの究極概念が好きなようですねぇ――は だとしたらわたしたちのヒラメキ定理に引き寄せれば 《ヒラメキとしての 世界観なる直観あるいはイメージ直感》(そしてさらには インスピレーションとしてですが お望みなら 《天使》の概念)に呼応しているように思われます。  次の事項にも見るように インスピレーションですから 向こうからつまりナゾのほうからやって来るというところが ミソでしょう。知覚は もともと 受動的作用でしょうが。   ( a-2 ) その先に――つまりは 絶対なる隔たりを介して しかも《絶対》なるゆえにその絶対のほうから 無理なくわれわれ人間におとづれるかに思われるところの――直覚を言おうとしているとの指摘です。仏性にまで広がりつながるか。   ▲ (フッサールの最後の思想的境位) ~~~~    ★(回答No.44における 新田義弘著『現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として』よりの引用)   フッサールは、この意味における(* 《目的論的合理性の働く》という意味におけるその)根拠を神と名付け、神が生の内に働く極限イデーとして合理性を可能にしてくるのだと考えていったようである。  ~~~~~~~~~~~  ( b ) 《自我・他我》という〔わたしには〕分かりにくい用語を使っているけれども 要するに人間にとって《わたし》とは 何か? どういう成り立ちで どういう動態か?   ( b-1 ) 自我と他我とでは 世界について見える位相が違うという。それでも  ● それでも心的な現実世界の共有が出来るのは、行動の中に「言語行為の志向性」と「知覚的志向性」が包含されており、それらの方向性が共通であるから。  ☆ 知覚的志向性が 人によって違うであろうことは そのまま受け止められる。では 《言語行為の志向性》とは 何ぞいや? 同じ言葉を使っていても その意味の取り方が人によって 多少は違うことか?   多少は違っても おおむね共通の概念を持ち得て意志疎通は出来ると言えるのかどうか? 意味論一般に広がりましょうか? (わたしは言語学の中で もっとも苦手が この意味論です。以前 あまがっぱさんが 触れておられましたけれど)。   ( b-2 ) ( a )のインスピレーションとしての純粋ノエシスは:  ● 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。  ☆ というのなら その( a )で出て来たように 仏性やらさとりの問題にすでに入っている。これをどこまで哲学が扱えるものか? (質問者はすでにイエス・キリストによる心の燈心の着火なることにまで言い及んでいましたが)。  つまりこれを わたしたちそれぞれの《わたし》において扱わねばならないように思われる。  ( c ) 《わたし》の動態――自己表現の過程――にとっての《時間》論が 取り上げられましょうか?   ( c-1 ) ● あたかも部派仏教がアビダルマとして体系づけられたことに比肩している。  ☆ というときのアビダルマについては わたしはこれから学ばなくてはなりませんが そのようにたとえられたアウグスティヌスの時間論は   ● フッサールは、実は、意識は、こうした様に断片化された時間の中に存在するのではなくて、連続性・流動性を持って存在していると考えた。  ☆ と言うほどの《断片化された時間》であるとは とても思われないと ひとこと言っておきたいと思います。それは 《現在の永遠》ではなく 《永遠の現在》を言っていると思われます。つまり現在時の心理的な断片化でもなく そのそれでも――のっぺらぼうのままでも――どこまでも続くかに思われる永遠性でもなく 現在時の直観ないし自己表現が 永遠の現在で〔も〕あるというなら・言うのですから  ● 「純粋ノエシス」は、時空を越えた認識を可能にし、位相の影響を受けない。  ☆ と同じ志向性を持つと言っておかねばならないと考えます。むしろフッサールは 《あとから来た者》であるのですから 先達らに敬意を表さねばならないでしょう。《時空を超えた〈認識〉》は 《認識》が思考(コギト)を思わせるとすれば むしろやはりヒラメキ直観に限定すべきでしょうね。  人それぞれとしての《位相》の違いを超えた《永遠の現在》と直感した主観は それでもこの世界における差異を・つまり人びとのあいだで位相の違う時間的なるものをどう捉えるか? 互いにどう捉えあうか?

noname#143207
noname#143207
回答No.44

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > ★ 実を申しますと、フッサールも最晩年には、フィヒテのような有神論(凡神論)的立場に立ったとの説がございます。  ☆ 言いかえると 類型としての信仰は 誰にも当てはまるし 持たれているはずだとすでに見ているのですから その構造が その人その人においてどうなっているのか これを――その特に具体的な文章の中に――見つけ出しておけば 読み解きがよく出来るようになるかと思われます。  意見を等しく致します。  なお、形而上学的なるものを排除し続けたフッサールが、神を持ち出した等は到底考えられないと、お思いになられる方もおられるかもしれません。そこで、新田氏の著作から、引用してみたいと思います。 「この[自我機能の]原事実である目的論的合理性の根拠はいったい何であるのかが問われてくるであろう。なぜなら機能はこの目的論的合理性の働く場所であってもその根拠ではないからである。フッサールは、この意味における根拠を神と名付け、神が生の内に働く極限イデーとして合理性を可能にしてくるのだと考えていったようである。 <中略> 神がこの自己の現在の根拠としてわたくしの自由の最も内面的に働くことを推定することは困難ではなく、ヘルトの推察に見られるように、根拠としての神は共現在の仕方で働くから・・・」 新田義弘著「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として」(講談社) 最後の思想的境位 p. 221 ヘルト:1936年デュッセルドルフ生まれ。現象学者。ヴッパータール大教授。 > もっと具体的に言えば 一般に自己の信仰形態がどうであるかを自分では知らない――どうも 信仰の構造をしっかりとは捉えていない――と すでに申せば 思われますから そのようなあいまいなかたちについて 互いに交通整理をするということ。こういう作業が それは前提としての話であって生活一般としての具体的な話し合いになれば背後にしりぞく問題であるのですが 大いに必要であり また有益であろうと思われます。  仰られますように、信もしくは信仰の形態は案外、自分でも認識されていないかも知れません。 > 有神論および無神論を許容する《信仰の類型》に照らして それぞれの《わたし》の信仰形態を互いに明らかにすること。具体的な思想について議論し合う前に――あるいは その議論をしている途中においても―― この信仰の形態を互いに解きほぐしておくこと。
 こう考えが及びました。  ひとには必ずや何かに対する信が存在するはずでございます。そして、この形態もしくはその・姿勢なるものを、互いに尊重しながらも、解きほぐしていくことの意義はあろうかと考えております。 > ★ つまり、一種のヒラメキとして、現れる。もしくは、そのきっかけとなる、ということでございましょうか。  ☆ という直感そして直観は たしかに その信仰形態の把握と自覚のあとと言いましょうか またそれとは別に いつおとづれるか分からないというかたちで 起きる出来事である。  納得致しました。 > ヒラメキが起きなくても 互いに内的な思惟や表現された思想についての 《根源的な主観》における――したがって言わば起源としての――成り立ちが互いに分かり合える。こうなれば しめたものだと思います。このきっかけは 生活世界における互いの交通にあたって大きな潤滑油になろうかと考えます。  確かに、このギスギスとした、閉塞感に縛られた世界(社会)におきましては、その役割は以外とおおきいかもしれません。 > ということは もろもろの経験をどれだけ・どこまでエポケーするかの問題でしょうか? 全部を消してしまった状態が タブラ・ラサでしょうか? つまり 生まれて来たのではあるが また何も経験していないという状態なのでしょうか?  どれだけ・どこまで消したか これは エポケーという用語にも白紙還元という場合にも当てはまるのなら タブラ・ラサにも当てはめてもよいように思えて来ましたが どうでしょう?  愚生の理解では、観念論に対するアンチテーゼとして立てられたものかと考えております。つまり、ロックらの経験主義者におけます認識論では、デカルトらが言うような生得観念(innate ideas)、つまり、“認識が意識する主観の内的な問題として捉える”観念なるものは持っておらず、物そのものは観念の対応物などではなく、単に観念を引き起こす原因であると考えた、と理解しております。  そこで、タブラ・ラサでございますが、経験論的主張から、元来ひとは生まれたときには何も書いていない板のように何も知らず、後の経験によって知識を得ていくというものと理解しております(確かに、“erased”は、事後的な印象を受けますが)。 参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%BE%97%E8%AB%96  > 白紙還元と言っても それぞれの事態を特定して言っているでしょうし(だから 生得観念があって そこまで還元するとは言っていないでしょうし) そうだとすれば 消しゴム( eraser < ex-rase-er )で消した書板が どこまで白紙の状態になるかも 同じだと思えて来ます。  これは むしろ生得観念とやらの問題なのでしょうか? どうもそんなものは あってもなくても――経験を開始する前と後とに分けても分けなくても―― 構わないと思うですが 構うのでしょうか?  白紙還元、こういった用い方をお考えだったのでしょうか。定義をしていただければ、使用にあたって別段問題はないかと思われます。 > ☆ 《ただただ、(時にはエポケーをして)、事象・表象を純朴なまでに見つめる》のは ひとつに 信仰類型一般において自分はどういう具体的な信仰形態をえらんでいるかを知ることであり ひとつには そのことを表わす用語として 白紙還元と言ってもよく たぶんタブラ・ラサ作業(黒板を消す作業)と言ってもそれほど間違いではない。と思いましたがどうでしょう?  どうしましても、タブラ・ラサとは“作業”というよりも“状態”を表す感がございます。しかし、“白紙還元”という言葉を用いましても、いっこうに構わないと考えております。 > 《美しい数式》すらエポケーすることがあるとすれば どうもやはり《空観=縁起共生》にも通じると思えます。  仰られますような印象もあろうかと存じます。ただ、愚生と致しましては、《美しい数式》すらも、実は勝手に作られた虚構に過ぎない可能性がるものとして、エポケーするという意味で捉えました。  誠に申し訳ございません。音楽論等につきましては、明日にでもご回答をお寄せしたいと思っております。  それでは、失礼させていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 ひどっちさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 新田義弘著「現象学とは何か フッサールの後期思想を中心として」(講談社) 最後の思想的境位  ☆ から フッサールにとっての神について明らかにしていただきました。  ▼ [自我機能の]原事実である目的論的合理性の根拠・・・フッサールは、この意味における根拠を神と名付け、神が生の内に働く極限イデーとして合理性を可能にしてくるのだと考えていったようである。  ☆ たぶん言おうとするところとして 分かるような気がします。  厳密にいえば 《イデー》は いただけないように思います。一方で 《生得観念》の問題が生じましょうし 他方では 《神》と言うのならば むしろ堂々と《無根拠》だと言ってしまっておいたほうがよいかと考えられます。  認識論としての存在論では 人間なる存在は 知り得ぬ無根拠と経験合理性において知り得た根拠とのあいだできわめて不安定なあり方をしているものと思われます。  この認識論であることを超え出たところに《本質直観》があったのではないかと思われます。ですから 認識ないし思考(コギト)だけではなく それとは別の認識の起源となりうるヒラメキを持ち出したほうが よいかと。  人と神とのあいだの断絶とむしろそれでもまぼろしの連絡。根拠を経験合理性において知り得る存在と神のあいだの 絶対なるへだたりと むしろそれゆえなるナゾの――無根拠における――つながり。  この世界内存在が 超経験世界(絶対)をも想定しえて その全体世界に位置づけられるあり方は 不安定であり そこから あたかもつねに絶対的に 不安をともなうと言われます。ところが 《絶対》は それが人間にとってはナゾの無根拠であるゆえにこそ そのように《不安》がつねに今しがた残した足跡あたりから追いかけてくるような存在のあり方をせざるを得ないかたちで《不安定》そのものとして位置づけられた人間をして きよらかなおそれを抱かせしめつつ 神としても無い神としても いづれの場合にも人間を あたたかく包む。  この絶対の光を指し示したのは イエス・キリスト つまり殊にその十字架上の死だったのではないでしょうか。《不安定と不安の極致》からそれを突き破って 闇を照らす光を示し 無根拠を根拠とすることによるわが心の燈心への着火をもたらした。  これが 世界と人間にとっての最大の《所与》なのではないか。  イデアないし生得観念とそして経験主義とを超えると言うとすれば この無根拠のナゾにまで 本質直観はその内容として 到らなければウソではないでしょうか?  われらが心のタブラには タブラ・ラサであろうとなかろうと 根源的主観性としてのこのような所与が 霊によって・すなわちナゾでありマボロシなるものとして 書かれているのではないでしょうか? つまり根源的にして絶対的なもの・ことは 分かるか分からないかは 人間には分からないと。これは 安定ではないでしょうか。やすらぎではないでしょうか。  ただわづかに われらが理性がこれに反発を感じ 大いに理屈をこねて 人間はつねに不安を帯びる存在であると言ったほうが恰好がよいと思い そのための偉大なる哲学を築き上げてきただけなのではないか。  タブラ・ラサにつきましては 消し去ったというからには・つまり  ★ (確かに、“erased”は、事後的な印象を受けますが)。  ☆ であるからには 経験を前提にしている。つまり 生まれたままの状態として使うほうが おかしい。こう思ったところから この議論が出て来たのだと思いました。つまり 白紙還元という用語と同じように用いてもよいのではないかという議論です。  つまり 西欧人がおかしいと考えます。(アリストテレスの場合は 《まだ何も書かれていない書板(ピナクス・アグラフォス)》のことつまり経験以前のことを言ったのでしょうか。《消された(ラサ)》と言うと すでに経験を前提にするのではないかという物言いでした)。  ★ ただ、愚生と致しましては、《美しい数式》すらも、実は勝手に作られた虚構に過ぎない可能性があるものとして、エポケーするという意味で捉えました。  ☆ そうなんですか。内容を理解するまでには至りませんが 留意してまいります。  ★ 生得観念(innate ideas)  ☆ は 概念を捉える生得な精神機能として言いかえればよいのにと思うのですが。機能が 自然本性としてそなわっていると言えばよいのにと。なんで紛糾するのでしょうかねぇ。  言い放ったような恰好になってしまっていますが。

bragelonne
質問者

補足

 覚え書きです。  ▼ (§ 超越論的哲学と現象学的観念論) ~~~~  (1) 純粋な明証性の領域で具体的に遂行される純粋な《自我の自己解明》は 根本的かつ本質的に新しい意味での超越論的観念論になる。    *(ぶらじゅろんぬ註) 《わたし》なる存在のあり方ないし    自然本性の成り立ちが 解明されると言う。  (2) ただしこの観念論は 心理学的観念論 すなわち無意味な感覚与件から有意味な世界を導出しようとする観念論でもなければ 物自体の世界の可能性を少なくとも限界概念としては保留しうると信じるカント的な観念論でもない。    * 両者とも わたしはよく分からない。いづれにしても 《わ    たし》の成り立ちを 明らかにしてくれればよい。  (3) むしろこの〔現象学的〕観念論は 体系的な自我論の形式をとって一貫して遂行される存在の意味の自己解明 すなわち自我としての私に対してまさに意味をもちうるとされる。    * 《わたし》が解明されれば そうなる。  (4) しかもこの観念論は 実在論との弁証法的論争を通して戦利品として獲得されるような 遊び半分の論証の産物ではない。    * こうまでして ほかの方法との違いを まづ先に=予告編と    して〔のみ〕 述べなければならないのだろうか? たとえ    《遊び半分》のものであっても その中身がよければ万々歳だ    という見方をも忘れないほうがよいと思われる。  (5) むしろこの観念論は (経験を介してあらかじめ自我に与えられている)自然 文化および世界一般の超越に即した実際の研究を通して遂行される 超越の意味の解明であり しかもそれは〔存在の意味を〕構成する志向性そのものの体系的な開示でもある。    * 《超越》については けっきょく《わたし》の自然本性と    経験行為の中核となっていたやはり本性とにたどり着くために    エポケーとして捨象するべきものではなかったのだろうか?      《根源的主観性》のほかの余分なもののことを わたしの    外部として《超越》と呼んでいたのではなかったか?      それとも 世界におけるものごとに対する批判的観点のこ    とを単純に言っているのか。      いま述べた《経験行為の中核となっていた本性》とは 意    志であり それとして志向性とも呼べる。それが 《存在の意味    を構成する志向性》だと思われ これが《体系的に開示される》    と言う。むろん(1)が予告して目指していたものである。  (6) すなわち現象学そのものを一貫して遂行することが そのままこの観念論の論拠を示すことになるのである。(『デカルト的省察とパリ講演』H.I,33f.)    * 《論拠》を示すことが 優先されているらしい。予告編を     つづける意味は そこにあるということか。  ▼ ~~~~~  (7) 超越論的‐現象学的観念論と 実在論がその正反対のものとして反駁する観念論との間の根本的かつ本質的な相違を明確にしておくことも必要である。    * 予告編よりも ずばりそのものを示したほうが早いとは思    われる。  (8) 何よりもまづ 現象学的観念論は実在的世界(まづ第一に自然)の現実的存在を否定するものではない。    * 《自然》は 人間の身体をも含めて 事実としてあると    言えば 済むものを。  (9) 従って世界の実在をあたかも仮象であるかのように考えて 自然的態度の思考や実証科学的な思考は それとは気づかず その仮象に欺かれているのだと主張するのでもない。    * 《唯識論》のようにまで 《意識など》の取り立てをす    るのではないということだろうか?      でも唯識論に立たずとも 空観であれば 一たんは色即    是空として事実ないし実在を《仮象》として見るようなの    だが。     けれども どうもこの主張は あやしい。  (10) 現象学的観念論の唯一の課題と成果は この世界の意味を 精確に言えば この世界がすべての人にとって正当な権利をもって真に存在するものとして妥当する場合のその意味を 解明することである。    * じれったくなる。どうもフッサールは じらしの名人で     ある。《世界》の意味とは もちろん《わたし》の成り     立ちの解明であろうと期待する。  (11) 世界が実在していること 常に普遍的 無矛盾的に統一される連続的な経験の中で 世界が《存在する統一的宇宙(ユニバース)》として与えられていることは 全く疑う余地がない。    * 《わたし》の成り立ちが 必当然的な明証性のもとに解    明され開示されたならば そのような根源的な中核におい    ては おそらく《無矛盾的な統覚》が 主観の動態という    過程の中で 捉えられるかも知れない。     ただし《世界が実在していること》という表現で言って    もよいのだろうか? それについて《全く疑う余地がない》    と。     《統一的宇宙》なる《わたし》こそが 求めるべき《所与》    だとすれば 早くその中身を明らかにして欲しい。じれった    いったら ありゃしない。  (12) しかし〔われわれの日常の〕生活とは全く別のことである。〔・・・〕    * 果たして そうだろうか? 生活世界は まだこのとき    には打ち出されていなかったのだろうか。  (13) この実在世界と およそ想定可能な実在世界一般の在り方の意味を現象学的に解明した結果 明らかになったのは 超越論的主観性のみが絶対的存在という存在の意味をもち この主観性のみが《非相対的》であり(すなわち 主観性は主観性自身に対してのみ相対的であり) それに反して実在世界は確かに存在してはいるが しかし超越論的主観性に対して本質的に相対的な存在であるということである。    * ここまで《主観性》を持ち上げるのなら あたかも唯識    論にまでなっていると見られてもおかしくない。     しかもその《超越論的主観性》とやらの内実を どこまで    すすんでも明らかにしない。のではないだろうか?     《わたし》は どのように成り立っているのか?     おそらく この《わたし》とても 《相対性の世界》に属    しており 《非相対的》などと言って取り立てる意味は ど    こにあるのかと疑いたくなる。  (14) ではなぜ実在世界は相対的な存在であるのかといえば 実在世界は存在する世界としてのその意味を 超越論的主観性によって構成された志向的な形成体としてしかもちえないからである。(『拙著《純粋現象学と現象学的哲学のための諸考察》の後記(あとがき)』H.V,152f.)      * 《天上天下唯我独尊》というところか。     このあと 《相互主観性》や《生活世界》が導入されてく     るのだろうか。かろうじてほころびを縫い合わせるという     ことだろうか。   (立松弘孝編『フッサール・セレクション』 2009 pp.147-149)  ~~~~~~~~~~~~~~~~      

noname#143207
noname#143207
回答No.43

 続きからでございます。 > なんだか過分にお褒めいただいたかと思います。  基礎の領域では 互いにその見解を共有し得ている。こう思われます。  いえいえ。率直な感想を述べさせていただいたまででございます。 > ★ これは「美はいわば道徳的(善)なるものの象徴」と主張したカントも言及しているところでもございます。  ☆ 留意します。(カントは どういうわけか その読みにおいてきわめてあいまいであり続けています わたしの中で)  以下、引用してございます。 「そこで私が言おうとするのはこういうことである、---美は道徳的善の象徴である。また美はかかる関係においてのみ我々に快いものであり、兼ねてまた他のすべての人の同意を要求するのである、それと同時に我々の心は、感覚的印象による快の単なる感受を超えて或る種の酵化と高揚とを意識し、また他の人達の価値をも、彼ら自身の判断力の格律[主観的原理]と同様の格律に従って尊重するのである、と。」 判断力批判 第二編 美的判断力の弁証論 p.337 > ★ なぜ自殺がいけないのか? という問いがこの哲学カテゴリーでも時折見かけます。その問いに対しましては、それは、「 生きること自体に意味《善》がある」、これ以外に考えようがないとも思っております。  ☆ これは 言うなれば客観的な見方ですね。主観をも交じえれば  ★ 善悪の存するのは、せいぜい、”意志”に関してかと考えております。  ☆ ということで ひとりの主観の動態としては わが心に従うか逆らうかの選択としての意志判断に 善悪の問題があるのではないかと。善と反善(=悪)と。《わが心にしたがう》ことを 存在することないし生きることの中身だと見ているのですが。  愚生よりも、深いご考察されているかと拝察いたしました。《わが心にしたがう》、換言いたしますと、“自己を省み、そして自己に対して欺瞞を抱いていないかどうか”、これに尽きるかもしれません。 > ☆ ここらあたりに 強引に 真理も そして美も からませてみていました。善悪の根拠は むしろ無根拠としての真理であり 善悪を概念として認識し判断する以前のイメージ直感において 審美がおこなわれるのであろうと。賛同いただきまして さいわいに思います。  いえいえ。こちらこそ、光栄に存じます。 > ★ ~~~  ・・・かような極端な価値相対主義の世界では、人はかえって生きづらさを感じるものと察せられます。「真善美といったものが希求される」、これは時代を超えた人類の最大の問い求めなのかもしれません。  ~~~~~  ☆ さらに精緻な理論に向けて 批判的な探究も怠ってはいけないと思いました。  ご賛同いただきまして、厚くお礼申し上げます。 > 行動や心理 あるいは 脳や神経などなど細かい分野や視点において 詳しい研究も進められているのでしょうね。  はい。現在も進められているかと思われます。ですが、問題は極めて複雑なようでございます。 > ここでは 善とその損傷そしてさらにこの損傷が癒されていく過程 こういった観点に 審美眼のあり方をからめて見ようとしています。  考えてみれば 亡羊の嘆を吐きつつも 前途洋洋といったところでしょうか。どうでしょう。  まずは、今回のご質問がその一歩となりますことを、切に望んでいる次第でございます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきまして。  ★▼ (カント) ~~~  「そこで私が言おうとするのはこういうことである、---美は道徳的善の象徴である。また美はかかる関係においてのみ我々に快いものであり、兼ねてまた他のすべての人の同意を要求するのである、それと同時に我々の心は、感覚的印象による快の単なる感受を超えて或る種の酵化と高揚とを意識し、また他の人達の価値をも、彼ら自身の判断力の格律[主観的原理]と同様の格律に従って尊重するのである、と。」   判断力批判 第二編 美的判断力の弁証論 p.337  ~~~~~~~~~~~~  ○ (ひどっち=ぶらじゅろんぬの定理    または ヒラメキの構造 もしくは ロゴスの階梯) ~~~~       スピリトゥス=ロゴス(α):クレド(非経験のナゾなる非思考の庭):神   ____【天使(α’):ロゴス(α)の使い】_________   インスピレーション=ロゴス(β):異言        :中身がまだ混沌たるヒラメキ(直感):イメージ           インスピレーション=ロゴス(γ):預言        :本質を見抜くようなヒラメキ=直観⇒人間の言葉化          :概念? 象徴(シンボル)? 世界観じたい?   ラチオ=ロゴス(δ):コギト=思考:経験合理性にもとづこうとする論理   ~~~~~~~~~~~~  ☆ 美は まさに《イメージ直感》として起きると思われます。第一次の知覚です。それが  ▼ 道徳的善の象徴である。  ☆ というのは そうだとすれば このイメージ直感が 概念直観ないし本質直観のヒラメキをも下に超えて コギト・ロゴスによる合理性を帯びた規範的思惟につうじていることを言うものと見ます。それが 《道徳的》というところです。  《善》を言うのは この《ヒラメキをも成り立たせるところのロゴスの階梯》全体としての人間存在は その存在じたいもしくは生きること自体を 善と見ることからくると見ます。  生きることのすこやかさと そのことがただ独りにおいていとなまれるものではなく 共生においてであるところから:  ▼ また美はかかる関係においてのみ我々に快いものであり、兼ねてまた他のすべての人の同意を要求するのである。  ▼ それと同時に我々の心は、感覚的印象による快の単なる感受を超えて或る種の酵化(* 醇化)と高揚とを意識し、  ☆ まじりけのないうつくしさ=醇美(ジュンビ)。ゆえに インスピレーションといった言葉をも当てるようだ。  ▼ また他の人達の価値をも、彼ら自身の判断力の格律[主観的原理]と同様の格律に従って尊重するのである、  ☆ この《ヒラメキの構造を有するロゴスの階梯》により成るその《身体=精神》の持ち主である《わたし》は ほかの人たちのそれぞれ《わたし》と その個別の主観こそ違え 主観的原理ないしその主観のやはりロゴス構造は 共通であろうと見ているのだと思われる。残念ながらその明証性は これまでの人類の科学的営為のもとにも 完全なものとしては得られていない。  それは 案外と言いましょうか  ★ 《わが心にしたがう》、換言いたしますと、“自己を省み、そして自己に対して欺瞞を抱いていないかどうか”、これに尽きるかもしれません。  ☆ 明証性でなくとも 案外このへんに 直感としての根拠があるのではないかとわたしも見ます。  それゆえにも  ★★ (回答No.41)~~~  ・・・かような極端な価値相対主義の世界では、人はかえって生きづらさを感じるものと察せられます。  「真善美といったものが希求される」、これは時代を超えた人類の最大の問い求めなのかもしれません。  ~~~~~~~~  その細かく分かれた分野としての探究については  ★ ~~~~   > 行動や心理 あるいは 脳や神経などなど細かい分野や視点において 詳しい研究も進められているのでしょうね。  はい。現在も進められているかと思われます。ですが、問題は極めて複雑なようでございます。  ~~~~~~~  ☆ 《きわめて複雑》――ぜひ われわれの定理を使ってみて欲しいものです。  ★ ~~~~   > ここでは 善とその損傷そしてさらにこの損傷が癒されていく過程 こういった観点に 審美眼のあり方をからめて見ようとしています。  考えてみれば 亡羊の嘆を吐きつつも 前途洋洋といったところでしょうか。どうでしょう。  まずは、今回のご質問がその一歩となりますことを、切に望んでいる次第でございます。  ~~~~~~~  ☆ 《善(生きること)―→へその曲げによる善の損傷(苦悩)―→治癒・快癒=よく生きること(善)》といった過程に 審美眼がどのようにはたらくか――大雑把には 善への呼応と反善への反応とに二分されると思われる―― これについてはその探究が 端緒に着いたばかりです。(いえ ほかに研究がおこなわれているかも分かりませんが とりあえず知る範囲では)。  それにしましても あちらの国ぐにの人たちは 《原理・格率・あるいは価値》などなどと 表現がおおげさであります。ロゴスなどという用語を こちらも平気で丸のみにして使っていますが。

noname#143207
noname#143207
回答No.42

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > 次のNo.41のご回答のほうでは この上ないお褒めをいただいたと言ってもよいように思うのですが こちらでは 基礎についての認識でおおむね一致し 応用編ではまだまだ 考えを練って行かねばならないと思いました。  こちらこそ、よろしくお願い申し上げます。 > 11. この単純な推理とその薄い根拠〔* つまりは イエスなるナゾの無根拠の問題〕にもとづき こう言えまいか?   うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーされ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰ることとなる。    意見を等しく致します。実を申しますと、フッサールも最晩年には、フィヒテのような有神論(凡神論)的立場に立ったとの説がございます(今回は、その詳細は省略させていただきました)。 > ☆ この話のキモは 《美を見るところに わが心があり わが心があるところには キリスト・イエスがいる》ということ つまりは 《ほんとうにわが心にかなった美であるかどうかは 初めは分からないが たとえ醜悪な対象を見て美と思っていたとしても はっきりそこにわが心が―― 一時的に――あるとすれば むしろそこで神とも出遭える。出遭えたならば 心が白紙に還元されて もし醜悪なものであったなら そのように見直すことが出来るようになる》にあります。  仰りたいことは、愚生にもじゅうぶん理解できます。 V「たとえ醜悪な対象を見て美と思っていたとしても はっきりそこにわが心が―― 一時的に――あるとすれば むしろそこで神とも出遭える。出遭えたならば 心が白紙に還元されて もし醜悪なものであったなら そのように見直すことが出来るようになる」 意見を等しく致します。 > ただ 一人のひとの能力は限られているとすれば そして出遭う相手は神でもなく仏でもなく同朋でもないとすれば ちょうどまだ湯気が立っているところの・《地平》という概念装置をおそわったように 環境における何らかの事物や事象が まだ見えていなかったのに見えて来るというかたちにおいて きっかけになるのではないか? こう考えました。  (それを ふるめかしい言い方では そこにイエスがいて ひとはかれに出遭うのだと――あぁ 抹香臭いですね―― 言っていました)。  そうでございましたか。つまり、一種のヒラメキとして、現れる。もしくは、そのきっかけとなる、ということでございましょうか。 > ★ ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。  ☆ この用語は もうあまり伸展性はありませんか? どうでしょう? エポケーとかけ離れているわけではないと思われるものですから。 「タブラ・ラサとは,本来白紙状態(なめらかな板)という意味。経験以前に生得的な観念が存在するというデカルト(生得観念の思想)を批判して,あらゆる観念の起源は経験に由来していると考えた。経験以前の人間の心は白紙状態(タブラ・ラサ)という。」 (http://note.masm.jp/%A5%A4%A5%AE%A5%EA%A5%B9%B7%D0%B8%B3%CF%C0/  からでございます)  これは愚生の理解でございますが、諸々の観念も経験を起源とし、そして、その経験なるものを遡っていくと、それは白紙状態(タブラ・ラサ)である、といったものか考えております。極論しますと、人はほぼ白紙状態(タブラ・ラサ)で生を受ける、といった考えに近いと考えております。従いまして、若干、意味合いが異なるものかと考えてございます。 > ☆ お叱りを受けました。  いえいえ、そんな恐れ多いことは・・・ > つまりもし未練があるとすれば 例のブディズムに出てくる蓮の花のたとえのように あやまち得る自由にしてむしろ自由奔放なるスサノヲ人間語の中から その根としては アマテラス科学語およびアマテラス人格語が 生じてくるのではないか? こういう見通しを持てないかというものでした。  ぎゃくに言いかえると スサノヲ人間語に根を張らないから アマテラス人格語も科学語も とんでもない陥穽が作られてしまうのではないか? (科学語は どうなのでしょう? 根を張る必要はないでしょうか?)  前段の件、了解致しました。  科学につきましては、確かに述語が多いため、一般受けはしにくいかと推察しております。ですが、ただただ、(時にはエポケーをして)、事象・表象を純朴なまでに見つめる、このことは、アマテラスのみならず、スサノヲ人言語の姿勢として、根を張っていって欲しいと思っております。そうでもしない限り、複雑もしくは美しい数式にいともたやすく騙される結果になろうかと危惧してございます。 > ☆ なるほどですね。文芸評論でしたら 評論とそれが対象とする作品と 両者とも 文芸であると思われます。音楽評論は 作品じたいの評価と 作品の再現(演奏)についての評価とに分かれるのですね。同じ曲についてピアノかバイオリンかといった楽器の違いによっても 評価が別のものになりましょうか?  はい。どうしましても、演奏者を介する必要がございますため、これは致し方のないことかと考えております。もちろん、楽器の違いにおきましても、評価が別のものになろうかと考えております。と申しますのも、両楽器に優れた技能・才能を兼ね備えた人は限られますゆえ、どちらかに、偏ってしまいます。また、ピアノは鍵盤楽器ですが、ハンマーを叩くという意味におきましては、打楽器に近いところがございます。強弱や音のメリハリには優位性がございますが、バイオリンのような美しいレガートやポルタメントと、さらにはロングトーンといったものは不可能でございます。楽器のその特性にあった評価というものがあろうかと考えております。 > 比率などについて 美と感じるアプリオリなものがあったとしたら――つまりそれが 科学によって分かったなら―― おもしろいかも知れません。  いつになるのかは、検討もつきませんが、もし解明できたというのでしたら、芸術学に、新たな進歩をもたらすことは確実かと考えております。  字数制限のため、続きを述べさせていただきます。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 実を申しますと、フッサールも最晩年には、フィヒテのような有神論(凡神論)的立場に立ったとの説がございます。  ☆ そうですか。と聞きますと ヒラメキの構造ないしロゴスの階梯の定理を目安として 人それぞれに非思考の場としての信仰が どのようであるのか これを捉えて明らかにしておくという作業も 案外 あり得るでしょうし いちどそれをしておくと その人の思惟や行動の全体が分かりやすくなるということかも知れません。  言いかえると 類型としての信仰は 誰にも当てはまるし 持たれているはずだとすでに見ているのですから その構造が その人その人においてどうなっているのか これを――その特に具体的な文章の中に――見つけ出しておけば 読み解きがよく出来るようになるかと思われます。  実際 われわれふつうの市民のあいだでも 相手の信仰形態がどのようであるかを把握し合って 話し合いを始めるなら 互いによく相手を理解することが出来るものと思います。  もっと具体的に言えば 一般に自己の信仰形態がどうであるかを自分では知らない――どうも 信仰の構造をしっかりとは捉えていない――と すでに申せば 思われますから そのようなあいまいなかたちについて 互いに交通整理をするということ。こういう作業が それは前提としての話であって生活一般としての具体的な話し合いになれば背後にしりぞく問題であるのですが 大いに必要であり また有益であろうと思われます。  有神論および無神論を許容する《信仰の類型》に照らして それぞれの《わたし》の信仰形態を互いに明らかにすること。具体的な思想について議論し合う前に――あるいは その議論をしている途中においても―― この信仰の形態を互いに解きほぐしておくこと。  こう考えが及びました。  そうすることは ただし 人それぞれにヒラメキがおとづれることとは 別であるかも知れません。ヒラメキの起きるその起き方が まづはわかるということだと思います。  ★ つまり、一種のヒラメキとして、現れる。もしくは、そのきっかけとなる、ということでございましょうか。  ☆ という直感そして直観は たしかに その信仰形態の把握と自覚のあとと言いましょうか またそれとは別に いつおとづれるか分からないというかたちで 起きる出来事である。  でも ヒラメキの成り立ちを知っておくならば やはり自己の思惟の――非経験の領域と経験世界とのかかわりのあり方をめぐる――成り立ちが 分かるようになる。  ヒラメキが起きなくても 互いに内的な思惟や表現された思想についての 《根源的な主観》における――したがって言わば起源としての――成り立ちが互いに分かり合える。こうなれば しめたものだと思います。このきっかけは 生活世界における互いの交通にあたって大きな潤滑油になろうかと考えます。  考えてみますと そういう場合にも エポケーは必要なのでしょうね。おそらく信仰――非思考の場――の成り立ちを捉えるには 白紙状態への還元が要請されます。  ★ ~~~  これは愚生の理解でございますが、諸々の観念も経験を起源とし、そして、その経験なるものを遡っていくと、それは白紙状態(タブラ・ラサ)である、といったものか考えております。  極論しますと、人はほぼ白紙状態(タブラ・ラサ)で生を受ける、といった考えに近いと考えております。  従いまして、若干、意味合いが異なるものかと考えてございます。  ~~~~~  ☆ そうでしたか。  存在は いま・ここに生き動く現存在としてあるからには 経験世界において経験行為を経て来ている主体であることは すでに条件となっている。その意味での白紙状態であり タブラ・ラサでなくてはならない。  ところが タブラ・ラサは むしろ経験を経たという時間をも取り払って 生まれたままの状態のことを言っているようだ。  いや ちょっと待ってください。ラサは たしか髭剃りのレイザーと同じ語根で 取り去るといった意味でしたよね。つまり タブラ=板(書板のことでしょうか) に書いた文字を消した状態 これが タブラ・ラサではないか。  ということは もろもろの経験をどれだけ・どこまでエポケーするかの問題でしょうか? 全部を消してしまった状態が タブラ・ラサでしょうか? つまり 生まれて来たのではあるが また何も経験していないという状態なのでしょうか?  どれだけ・どこまで消したか これは エポケーという用語にも白紙還元という場合にも当てはまるのなら タブラ・ラサにも当てはめてもよいように思えて来ましたが どうでしょう?  経験論あるいはデカルトあるいはつまり 生得観念の問題があるのでしょうか?   でもそんな議論は 意味がないのではないでしょうか?  白紙還元と言っても それぞれの事態を特定して言っているでしょうし(だから 生得観念があって そこまで還元するとは言っていないでしょうし) そうだとすれば 消しゴム( eraser < ex-rase-er )で消した書板が どこまで白紙の状態になるかも 同じだと思えて来ます。  これは むしろ生得観念とやらの問題なのでしょうか? どうもそんなものは あってもなくても――経験を開始する前と後とに分けても分けなくても―― 構わないと思うですが 構うのでしょうか?  いづれにしましても 非思考の場の成り立ちを知るには エポケーなる現象学的還元が必要である。と思われます。    次のご見解にも通じて行きます。  ★ ~~~  ですが、ただただ、(時にはエポケーをして)、事象・表象を純朴なまでに見つめる、このことは、アマテラスのみならず、スサノヲ人言語の姿勢として、根を張っていって欲しいと思っております。  そうでもしない限り、複雑もしくは美しい数式にいともたやすく騙される結果になろうかと危惧してございます。  ~~~~~  ☆ 《ただただ、(時にはエポケーをして)、事象・表象を純朴なまでに見つめる》のは ひとつに 信仰類型一般において自分はどういう具体的な信仰形態をえらんでいるかを知ることであり ひとつには そのことを表わす用語として 白紙還元と言ってもよく たぶんタブラ・ラサ作業(黒板を消す作業)と言ってもそれほど間違いではない。と思いましたがどうでしょう?  《美しい数式》すらエポケーすることがあるとすれば どうもやはり《空観=縁起共生》にも通じると思えます。  ★ ~~~~  もちろん、楽器の違いにおきましても、評価が別のものになろうかと考えております。  と申しますのも、両楽器に優れた技能・才能を兼ね備えた人は限られますゆえ、どちらかに、偏ってしまいます。  また、ピアノは鍵盤楽器ですが、ハンマーを叩くという意味におきましては、打楽器に近いところがございます。強弱や音のメリハリには優位性がございますが、バイオリンのような美しいレガートやポルタメントと、さらにはロングトーンといったものは不可能でございます。楽器のその特性にあった評価というものがあろうかと考えております。  ~~~~~~  ☆ 美に関して言えば その絵なら絵としての事物があって これをそのままそれが何であってどう知覚し認識したかという第一次の鑑賞が まづある。そこから 画家がどうだ・その時代や社会の背景はこうだと分析し思索をおよぼす第二次の評論が来る。  この絵でいえば その絵具などの材料がこうだ・筆の種類がどうだという評論は 取り立てて独自の――つまり第三次の――分野を築くことはない。  ところが 音楽は――それは必ずしも第一次二次と分かれるものでもないかも知れないのですが―― 音を聞く第一次の鑑賞と それを認識の分野で再現させつつさまざまに分析してみせる第二次の評論があり さらには 第三次の評論もあるかも知れない。  楽器という材料・手段の違いに応じて 楽器ごとの特性にどう合わせているかなどの演奏方法が独自に問われる。ピアノ評論とバイオリン評論とは 別だという捉え方でよろしいでしょうか?    そうして 考えてみれば 絵や音楽の 視像や音の聴像じたいを白紙還元するわけには行かないでしょうから この場合の美についての現象学的還元は むつかしいですね。  あぁ これは むしろ鑑賞者であるわたしたちが しかるべきところまでタブラ・ラサの状態になるということでしょうか? 音は聞いている。絵は目の前にあってよいと。

noname#143207
noname#143207
回答No.41

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 
> §1 あえて今 《真善美の一致》という主題について 
    (【Q:現代における審美の可能性】その回答No.16より)
     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html
   大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《〔社会ないし人類の〕全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。  はい。これは、以前にも少し言及させていただきましたが、赤ちゃんが美人とみなす女性には、ほぼ一致が見られる、という心理学の研究に関するものをご紹介させていただきましたが、ある程度の収斂がみられうものと思っております。 
> 人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。
  はい。これもその証左かと存じます。 
> そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。
  はい。これは「美はいわば道徳的(善)なるものの象徴」と主張したカントも言及しているところでもございます。 
> さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。
  人は虚無主義には耐えられないと考えております。必然的に、真なるものを求めていくものかと推察してございます。 
> 人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実とふたつの真実》を含むと捉えます。
  これは、愚生も常々ご賛同の意を申し上げておりますように、意見を等しく致します。 
  


> §2 美の構成力に内部変化および錯綜や倒錯が起きうるということ
  (【Q:われらが審美眼は 劣化したか】No.42お礼欄) 
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html
   生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。
 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。
 さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  善悪の存するのは、せいぜい、”意志”に関してかと考えております。  また、なぜ自殺がいけないのか? という問いがこの哲学カテゴリーでも時折見かけます。その問いに対しましては、それは、「 生きるこ自体に意味《善》がある」、これ以外に考えようがないとも思っております。 
> これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。
  前文を読んでおりますと、カントを読んでいるように思えて来ました。つまり、「我が内なる声に耳を傾けよ」ということでございます。  そして、個人内の問題をさらに集団にまで拡張した際には、フッサールのような共同主観が生じるものかと考えられます。 

> 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。
 《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞と連れ立った)動きだと考えます。
  なるほど!!。そういうことでございましたか。使徒行伝(9:18)ではございませんが、今、鱗が目から落ちるのに気づきました。 
> 実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。 

 ポストモダニズムのときは、真理の否定の方向に一気に邁進致しました。仰られますように、真理は表象しえません。ですが、さらに基準を緩めた「正しいとされるもの」、「よいとされるもの」、これらすら否定の対象となってしまった観がございます。 その反動なのでしょうか、マイケル・サンデル氏の「これからの「正義」の話をしよう」が大はやりのようでございます(別段、新しい思想が込められている訳ではないのですが)。 かような極端な価値相対主義の世界では、人はかえって生きづらさを感じるものと察せられます。「真善美といったものが希求される」、これは時代を超えた人類の最大の問い求めなのかもしれません。
 
> どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが 千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  もちろん、その生が置かれている世界での(過去を含めました)傷跡が、さらには、かつて自己がただひたすらに憧れを抱いたそのものに対しましても、美の受容は様々なものになろうかと思われます。  もちろん、癒されることはありえるかと存じます。実際、愚生も結構助けられましたし・・・

 > これが 理論です。理論どおりに行くかどうかの分かれ目を説明しています。簡単に言えば へそ の曲がり具合いによって その人の美学が そのつど おのれの姿(もしくは心)をあらわすかのように決まって来るものと考えます。
   仰られますようなことは、人により無自覚かもしれませんが、存在するものと考えております。  先程の投稿でもそうでございましたが、誤記が多くございました。この場をお借りし深くお詫び申し上げます。   最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづくご回答です。  なんだか過分にお褒めいただいたかと思います。  基礎の領域では 互いにその見解を共有し得ている。こう思われます。  ○ 事物や事象におけるかたちの成り立ちとしての比率 これを捉えるときの生得的な傾向として 人びとは互いに共通の――ある程度において幅を持った――見方がそなわっているのではないか。  ★ これは「美はいわば道徳的(善)なるものの象徴」と主張したカントも言及しているところでもございます。  ☆ 留意します。(カントは どういうわけか その読みにおいてきわめてあいまいであり続けています わたしの中で)。  ★ 人は虚無主義には耐えられないと考えております。必然的に、真なるものを求めていくものかと推察してございます。  ☆ これは これとして ひとつの主題になるかも知れません。留保しますが。  ★ なぜ自殺がいけないのか? という問いがこの哲学カテゴリーでも時折見かけます。その問いに対しましては、それは、「 生きること自体に意味《善》がある」、これ以外に考えようがないとも思っております。  ☆ これは 言うなれば客観的な見方ですね。主観をも交じえれば  ★ 善悪の存するのは、せいぜい、”意志”に関してかと考えております。  ☆ ということで ひとりの主観の動態としては わが心に従うか逆らうかの選択としての意志判断に 善悪の問題があるのではないかと。善と反善(=悪)と。《わが心にしたがう》ことを 存在することないし生きることの中身だと見ているのですが。  そこから  ★ ~~~  前文を読んでおりますと、カントを読んでいるように思えて来ました。つまり、「我が内なる声に耳を傾けよ」ということでございます。  そして、個人内の問題をさらに集団にまで拡張した際には、フッサールのような共同主観が生じるものかと考えられます。  ~~~~~  ☆ ここらあたりに 強引に 真理も そして美も からませてみていました。善悪の根拠は むしろ無根拠としての真理であり 善悪を概念として認識し判断する以前のイメージ直感において 審美がおこなわれるのであろうと。賛同いただきまして さいわいに思います。  ★ ~~~  ・・・かような極端な価値相対主義の世界では、人はかえって生きづらさを感じるものと察せられます。「真善美といったものが希求される」、これは時代を超えた人類の最大の問い求めなのかもしれません。
  ~~~~~  ☆ さらに精緻な理論に向けて 批判的な探究も怠ってはいけないと思いました。(真善美と言えば 何をとんちんかんなと返されるでしょうから 一般においては)。  行動や心理 あるいは 脳や神経などなど細かい分野や視点において 詳しい研究も進められているのでしょうね。  ここでは 善とその損傷そしてさらにこの損傷が癒されていく過程 こういった観点に 審美眼のあり方をからめて見ようとしています。  考えてみれば 亡羊の嘆を吐きつつも 前途洋洋といったところでしょうか。どうでしょう。

noname#143207
noname#143207
回答No.40

もありがとうございました。 > ★ 最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。 
 ☆ この《構成力》は 比率と表象喚起作用ということでしょうか? 《多様な直観を――統合する前にも――呼び起こす》というように。
  ★ [フィボナッチ数(1202年)]
/ [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)] / [音律]
 
  実を申しますと、愚生にはわかりません。もしかしますと、そもそも、これらの比率等は、自然に由来するもののため、人類の歴史以前から存在するものかと推察されます。従いまして、これら比率等から、安定感を感ずるというのは、アプリオリなるものなのかもしれません。 
> ★ この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。
  ☆ たぶん 美の体験について話し合うということでしょうね。うつくしいかそうでないか どこがよいかなどについて・ということは 共通感覚について 話し合うでしょうね。
  はい、一般論と致しましては、愚生もそのように考えております。自分がその美しさに魅せられたならば、他人ともその美を分かち合いたいという衝動が出てくるというのは、自然と思うからでございます。 > そこには素朴なかたちですでに審美眼の問題も始まっているように思われます。 
 ただし 審美眼についてやら あるいは審美眼をどう人ははたらかせるのかやらを すでに一つの別の――第二次としての――主題として探究するのは むろんそれは美学であるということでしょうが 例によってふたつのあり方に分かれるのでしょうか? すなわち 人生のための芸術と 芸術のための芸術とに。
  愚生は分かれるものと解してございます。  例えば、カントの言葉を借りますと、あえて、こちらからの積極的な美の探究心を持たずとも、美はやってくるのに対しまして、後者は、むしろ、積極的に、分析を試みる作業であるからでございます。 > では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?
  19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。  
> ★ 「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。
  ☆ というとき 《経験と共に》認識が始まるのは 一般であるように思います。《それ以上のものではない》という見方が どうなのかということでしょうか? 概念・イデア・観念は 抽象されて来るけれども そしてその認識は別のあらたな経験の前にすでに蓄積されて来るけれども それだけの話だということでしょうか?
  ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。
   > ○ 芸術が死んだかのように 美の感じ方が さまよっているという現象。
 についてさらに話を伸ばします。あるいは 
 ○ 構成力としての良さ。その配置されたかたちどうしの全体としての成り立ち。あるいは そこからさらに美や何か真なる求めるものの表象を喚起する力。――この美の力としての中身が まるでさ迷ったかのように ついに 一般に醜悪だと思われる(思われていた)ものにまで求められるようになった。その原因もしくは事情は どういうことか?

  ▼ (マタイによる福音 6:19-21) ~~~ 
  ~~~~~~~~~~~~~
  ☆ イエスの言葉ですが ここから類型を取り出すようにして 次の命題としてまとめます。 

 かなり、端折りましたが、1から8までは当然のことと考えております。そして、以降の問題でございますが、

 >  9.そうなれば もし仮りに醜悪なものに美を感じるとすれば そこにナゾの無根拠であるキリスト・イエスがいるというからには そのものをやはり醜悪だと――エポケー作業をしつつ・白紙において――人は見止めることが出来る。(既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る)。
  10.これもそれも やはり 主観内の体験に属する。そして もし人びとに共通感覚があるとすれば このそれぞれの美についての主観体験は 互いに交じわることをとおして互いに練り直されて行く。現象学的・超越論的反省が行なわれる。 
 11.この単純な推理とその薄い根拠にもとづき こう言えまいか?
   うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーされ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰ることとなる。
  ~~~~~~~~~~~~~
  これらの問題につきましては、形而上学的問いが含まれておりますが、突き詰めますと、どうしましても、形而上学的なものも含まれてくるように考えております。  「既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る」、意見を等しく致します。さらに申しますと、本当に美と感ずるものは、既成概念や先入見を飛び越えて人に訴えかけてくるものと考えております。そして、これは、もちろん、主観内での受け止めでございます。10に関しましては、評論等の第二次作業もふくまれるかもしれませんが、内なる心において、さらに深化されることは当然ありうることかと考えております。 > 《わたしがわたしであること》。
 《最もわたくしなるものは おほやけに通じる》か?  普遍的”美”に至ことはないかもしれません。しかし、少し基準を緩和させ、「ほぼ美しいとされるもの」につきましては、おおやけに通じる可能性はじゅうぶんにあろうかと推察してございます。 

> つねにあやまち得るスサノヲ人間語は そのむしろ自己の中心なるところで アマテラス科学語およびアマテラス人格語に通底してゆくか?
 アマテラス普遍性は 真善美につながっていると見てよいか?
  
 アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。  もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。  そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。 
> エポケーについて 白紙還元という説明は あまりしないのでしょうか?
 タブラ・ラサという言い回しも あるようですが。  愚生が知らないだけかもしれません。ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。 
> ☆ 《美のイデアル》についておしえていただければ さいわいです。検索では 何やら数学の用語が出てくるのですが。

  実を申しますと、”美”を、フッサールのイデア視したもの、という単純なものでございました。申し訳ございませんでした。
 
> ☆ 比率のあり方が 錯綜し倒錯したかたちになるというのは 現代にまで至るそのようなひとつの傾向を言っていますが ただし美の基本は 倒錯にはならないのだということについて触れ忘れていました。
  そうでございましたか。了解致しました。 
> 《実権》というのは あらたな展開が社会的な思潮として有力になるということでしょうか?
  これは、”実験”の変換ミスによるものでございました。深くお詫び申し上げます。
  以降、続きを述べさせていただきます。  最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 次のNo.41のご回答のほうでは この上ないお褒めをいただいたと言ってもよいように思うのですが こちらでは 基礎についての認識でおおむね一致し 応用編ではまだまだ 考えを練って行かねばならないと思いました。  ひどっちさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  次の表現によくないところがあったと思います。  ☆☆(No.38補足欄) ~~~  7. たとえば 次のように命題を書き直したら どうか?           《あなたの宝(また美)があるところに わたしはいる。》      とイエスは言う。   ・・・  11. この単純な推理とその薄い根拠〔* つまりは イエスなるナゾの無根拠の問題〕にもとづき こう言えまいか?     うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が    大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知    覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向    性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーさ    れ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰るこ    ととなる。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ 人びとが《わが宝あるいは美》へとおもむくところに 《わが心》があり そこには キリスト・イエスがいるというのは そこでわれは 神に出会うという意味です。  むろん 主観内の ヒラメキとしての――マボロシのような――直感および直観においてという意味ですから 明証性はないのですが それでも 当人にしてみれば その《出遭い》によって――マボロシのうちに―― その美が わが心にかなうものだと確認できたり いや それは美でも宝でもなく むしろ醜悪であり負債であるとさとることが出来たりする。のではないか?  この話のキモは 《美を見るところに わが心があり わが心があるところには キリスト・イエスがいる》ということ つまりは 《ほんとうにわが心にかなった美であるかどうかは 初めは分からないが たとえ醜悪な対象を見て美と思っていたとしても はっきりそこにわが心が―― 一時的に――あるとすれば むしろそこで神とも出遭える。出遭えたならば 心が白紙に還元されて もし醜悪なものであったなら そのように見直すことが出来るようになる》にあります。  なにやら 同行二人のようになってしまいました。イエスに出遭えるというところを ご同朋つまり人間としてもよいようにも思えます。  おそらく 現象学プロパーとしては あくまで一人のわたしとしての主観の内部でそのような気づきや見直しや練り直しが 反省の繰り返しとしておこなわれると主張するかとは思われます。  ただ 一人のひとの能力は限られているとすれば そして出遭う相手は神でもなく仏でもなく同朋でもないとすれば ちょうどまだ湯気が立っているところの・《地平》という概念装置をおそわったように 環境における何らかの事物や事象が まだ見えていなかったのに見えて来るというかたちにおいて きっかけになるのではないか? こう考えました。  (それを ふるめかしい言い方では そこにイエスがいて ひとはかれに出遭うのだと――あぁ 抹香臭いですね―― 言っていました)。  ★ ただ、タブラ・ラサは、(観念論者とは対になります)経験主義者ロックの言だったかと記憶してございます。  ☆ この用語は もうあまり伸展性はありませんか? どうでしょう? エポケーとかけ離れているわけではないと思われるものですから。  ★ ~~~~~   アマテラス人格語は、主に第二次作業におけるものかと思われます。ただ、真善美につながる可能性は高いかもしれませんが、もちろん、とんでもない陥穽がそこに存在していることも否定できないとも考えております。  もし、善や、美が厳密に定義されてしまい、そして資格試験の好きな日本人が、”善人試験”や”美人試験”といったものを生み出してしまい、そして、その点数(スコア)のみにより、人が序列化されていく危険性も孕んでいるのでは? とも考えております。  そして、例えば、ポルポト派のように、”正義(=善)”の大義を掲げ、大量殺戮をしてきた歴史も忘れてはいけないとも、考えております。  ~~~~~~~  ☆ お叱りを受けました。  つまりもし未練があるとすれば 例のブディズムに出てくる蓮の花のたとえのように あやまち得る自由にしてむしろ自由奔放なるスサノヲ人間語の中から その根としては アマテラス科学語およびアマテラス人格語が 生じてくるのではないか? こういう見通しを持てないかというものでした。  ぎゃくに言いかえると スサノヲ人間語に根を張らないから アマテラス人格語も科学語も とんでもない陥穽が作られてしまうのではないか? (科学語は どうなのでしょう? 根を張る必要はないでしょうか?)  ★ ~~~   ラッセルではございませんが、おそらく、ヒュームの問題を克服したものは未だに存在しない、というのが事実かと考えられます。つまり、”経験”と共に始まり、また、経験がなければ、論理学は例外かもしれませんが、それ以外は存立不可能と考えております。
  ~~~~~  ☆ 確認しました。  ★ ~~~   > では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?
  19世紀頃までは、新しい曲目、および演奏会で出来不出来の評価が中心だったかと思われます(例えば、雑誌にて、シューマンがショパンを紹介した等でございます)。  ですが、20世紀後半にもなりますと、録音技術の進歩に伴い、制作されたレコード等に対する論評が中心となっていった観がございます。  そして、この分野の特徴としましては、優れた演奏家が引退後に、評論家になることはほとんどない、という傾向がございます。つまり、今日では、録音された音楽に対する、解説および説明そして、曲自体よりもその演奏評価というのが主流になっていると思われます。このように考えますと、”第三次の探求”と言った方が近いのかもしれません。  ~~~~~  ☆ なるほどですね。文芸評論でしたら 評論とそれが対象とする作品と 両者とも 文芸であると思われます。音楽評論は 作品じたいの評価と 作品の再現(演奏)についての評価とに分かれるのですね。同じ曲についてピアノかバイオリンかといった楽器の違いによっても 評価が別のものになりましょうか?  比率などについて 美と感じるアプリオリなものがあったとしたら――つまりそれが 科学によって分かったなら―― おもしろいかも知れません。

noname#143207
noname#143207
回答No.39

 続きからでございます。 > 1.○ 概念・イデア・観念は 前提とするかしないかと言っても すでに美的体験を経ていれば そのような過去の経験の蓄積――その知覚像の認識としての――はあるわけですから そこに《概念は 自然とふつうに 前提されている》かたちになっている。 
  はい。意見を等しく致します。 
> 2.この体験をつうじて獲得された美についての諸概念は 確乎とした――天上の世界におけるイデアとしてのような――《一定の概念》というよりは やはり《構成力》にかかわるその個々の要素をめぐる把握形式のようなものではないか?
  これも、仰る通りかと存じます。 
> 3.これを《不定の概念》と見るかどうか? 
  カントにとりましては、正命題、反対命題を克服すべく、かろうじて得られたものと考えております。”一定”であっても困りますし、”概念が存在しない”とも考えたくはなかったのかもしれません。もちろん、そこには、「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性が前提となります。  少なくともカントにおきましては、フッサール風に申しますと、「美のイデアル」といったものかもしれません。 
> 4.少なくとも 《構成力》というのは その美的事象が その中のいくつかの要素のあいだの比率を言うのではないか?
  比率も含まれますが、もっと単純に、表象喚起能力といった広義のものも含まれるかと考えております。 
> 5.それだと ある程度一定しますが それは比率もしくは位置関係やその色やかたちなどをめぐる配置具合いを言うのですから おそらくそれ自体が 天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか?
  原則、形而上学的なものを排除しようとしたカントにとりましては、直接の関わりを持たせたいとは考えていなかったと思われます。 
> 6.わたくしは むしろ真善美の一致という見方をしていますので 《天界のイデア》かどうかを別として 構成力の秘密としての美は 真理や善とかかわりを持つとは推し測ります。(ひどっち=ぶらじゅろんぬのヒラメキの構造(ロゴスの階梯)に関する定理》に立って)。

  カントもそのように考えていたかと推察しております。この判断力批判も純粋理性批判と実践理性批判(発表順序は異なりますが)の架け橋の役割を持たせたかったというのもその理由かと考えております。 

> ☆ 《構成力》によって魅惑されるのなら 《快不快》を超えているのではないでしょうか? いえ それは快感という範疇に入ることに違いはないのですが。
  はい。もし、《構成力》によって魅惑されるというのでしたら、《快不快》を超えていると考えます。ただ、これが万人に当てはまるかどうかの確信はございませんが・・・ 

> ☆ 通史的に見れば どうなりましょうか? 《構成力》の中身が――つまりは 一般に比率のあり方が―― 逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないでしょうか? それは 一般に意志行為における意志の挫折体験をつうじて 持たれて来るのではないか? と見ますが どうでしょうか?
 だとすれば カントの理論としての《構成力》や《不定の概念》について その幅が広がりこそすれ 基本は揺るがない。とも思われます。
  上述の黄金比率や、昔の純正律(現代のバッハ演奏では主軸となっております)が今日までも、魅力を保っているのを鑑みますと・・・  ただ、比率のあり方が逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないのか? という問いにつきましては、根本的には、挫折(停滞) → 新たな展開(実権)といった経緯で進んできtものと考えております。 
> すなわち 遠く遥かかなたには真善美の一致の見方を望んでいる広いかたちの美的判断にあっては 
 ★ 「醜いものの中にも美が存在する」 
 ☆ という言い方で捉えるというよりは 《醜悪としての美》の仮説は 大きな概念としての《美》の中で 転倒・倒錯が起きているそのひとつの状態であるのではないか? と見る見方です。
 広義の美は 個別の美醜を包含すると。
  仰られますように、転倒・倒錯が起きている、と思われます。また、音楽では、和音の美しさは、その楽曲に含まれている不協和音に依存しているところもございます。  従いまして、一理あろうかと考えております。  ですが、そんなややこしいところ(不協和音の嵐等)から、わざわざ美を持って来なくても・・・というのが愚見でございます。 
> いささか予定調和の紋切型になってきましたが そうだとすれば 《共通感覚ないし共同主観》の問題にも すんなりと通底している。こう思われます。
  ☆ つねに我が田に水を引くという質問者のわるいくせが 出っ放しですが でも どうでしょう?   いえいえ。何なりと仰っていただければと思ってございます。  フッサールはF. ブレンターノにより、カントの手ほどきを受けたとされております。その影響は強かったものと思われます。従いまして、共通点は見出せる、というのは事実かと考えております(共通感覚も、美学のみに限定されるものではないと考えております)。  誠に申し訳ございません。今週は出張、会議等で疲れておりまして、以下の語彙についてご説明させていただくのみで、本日はお許しくださいませ。 地平(後期フッサールの概念;”受動の現象学”の一面が伺われるかと存じます)  例えば、目の前のリンゴを見ていても、背面では蛇口からぽたぽたと水が漏れており、 台所の窓を通して私は遊んでいる子供達の声を聞く。リンゴにかかわるとき、 私は多かれ少なかれその周りにあるものについても共に意識しており、 現実に知覚されているものと、共に意識されている周りのものの両方が、 漠然とした未規定の地平に関係することによって貫かれている。 われわれはここで無尽蔵の、 けっして完全には主題化することができない世界地平に直面しているのである。」  フッサールは、最初は現前しているリンゴにかなり偏って論じようとしたのですが (『イデーン』『デカルト的省察』の頃のフッサール)、 しかしもっと後になると、 レモンを見ている時にもレモン以外のものが同時に意識に入り込んでいるという、 その部分を問題にし始めました。 簡単に言えば、これが<地平>です。  後は、レアレルゲン様のご批判を仰ぎたいと、そう願ってございます。  お役に立つことがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 つづいてです。  ★ 少なくともカントにおきましては、フッサール風に申しますと、「美のイデアル」といったものかもしれません。  ☆ 《美のイデアル》についておしえていただければ さいわいです。検索では 何やら数学の用語が出てくるのですが。  ★ ~~~~~   ☆ ・・・天界において知っていたイデアの想起と直接にかかわるのかどうか?
  原則、形而上学的なものを排除しようとしたカントにとりましては、直接の関わりを持たせたいとは考えていなかったと思われます。  ~~~~~~~  ☆ 確認しました。  ★ ~~~~~    ☆ 真善美の一致という見方・・・  カントもそのように考えていたかと推察しております。この判断力批判も純粋理性批判と実践理性批判(発表順序は異なりますが)の架け橋の役割を持たせたかったというのもその理由かと考えております。  ~~~~~~~  ☆ これは ただし れあれるげんさんから異見が出されるかも分かりません。  ★ ~~~~  上述の黄金比率や、昔の純正律(現代のバッハ演奏では主軸となっております)が今日までも、魅力を保っているのを鑑みますと・・・  ただ、比率のあり方が逆転し倒錯といったかたちにまで向かって行かないのか? という問いにつきましては、根本的には、挫折(停滞) → 新たな展開(実権)といった経緯で進んできたものと考えております。  ~~~~~~  ☆ 比率のあり方が 錯綜し倒錯したかたちになるというのは 現代にまで至るそのようなひとつの傾向を言っていますが ただし美の基本は 倒錯にはならないのだということについて触れ忘れていました。  ★ ですが、そんなややこしいところ(不協和音の嵐等)から、わざわざ美を持って来なくても・・・というのが愚見でございます。  ☆ というようにです。  《実権》というのは あらたな展開が社会的な思潮として有力になるということでしょうか?  ★ 地平(後期フッサールの概念;”受動の現象学”の一面が伺われるかと存じます)  ☆ その説明内容の引用を省きましたが そういう内実ですか。超越論的反省をくわえて本質へと練り上げていくという作業と似ているように思いました。《地平》の場合は むしろ広がっていきますが。  ありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないます。  §1 真善美は一致しているという見解にひとつの説明を与えます。   §2 その基本的な考えのもとに それらの一致するところの言わば《わたし〔の自然本性における記憶なる秩序作用〕》の中で 特には美的経験の内容が 人によって逆転し対極にさえなってしまっているといった現象――醜悪にも美があるといったひとつの見方が現われていること―― これについて その事情を説明します。  §1 あえて今 《真善美の一致》という主題について     (【Q:現代における審美の可能性】その回答No.16より)     http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html  大きく申せばわたくしの場合 主観を基礎および原点に据えるのですから 一方で 審美の基準は人それぞれであるというのは そのまま含みとしてそのとおりです。しかももう一方で 人の共通感覚なる仮説にもとづくなら 傾向として美は《〔社会ないし人類の〕全体の問題として》或る程度まとまるのではないかとも考えます。  人気投票として決まる美人がいくつかの類型を擁する幅をもって決まるのと同じように 美も幅をもってながら或る程度は収れんすると考えます。  その程度ですが そのように傾向として決まったと思われるような美(美群)は その美をめぐる個人の志向性として・またはその美じたいが指向するその先の何ものかとして おそらく人びとの黙契としてはたらくような善悪判断にかかる善と一致すると見ます。  そしてこれらの美と善とは その時代時代にそれなりの内容説明をつけられるであろうと思われますから それが人間の真実としての(相対的な)真だと思います。  さらにこれら経験的な美と善と真とは おそらく非経験の(したがって人間にとっては 非思考の)真理を志向しているものと思います。  人間にとっての《現実》は 経験世界における《事実》とそれをめぐる人間の事実認識としての《真実》と そしてこれらの経験世界を超えたところをも想定しておくというその《非思考》としての真実――認識しえないことの真実―― これらの《事実とふたつの真実》を含むと捉えます。  《美》は 見た目ということであればそれとしてのほんの一片の知覚であり しかもヒラメキとしてなら認識し得ない真実として非思考の庭がわが心に成るという意味での真理(したがって ほとんど まぼろし)に近い直感であるとも見ています。  このことをも――ただしこれは ほとんど論証のむつかしいことだと思いますが――いま述べて進めることとしました。  §2 美の構成力に内部変化および錯綜や倒錯が起きうるということ  (【Q:われらが審美眼は 劣化したか】No.42お礼欄)    http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6404077.html   生きることは それ自体に意味があるといういみで《善》です。何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・ひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけます。  さてひとの感性には 善も悪もありません。感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  われわれは記憶の中からあれこれを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときむしろ精神の秩序作用としての記憶に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりすると われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔を赤らめ 言葉もしどろもどろになります。  これが 第一次的なかたちにおける善かそうでない悪かの分かれ目だと捉えます。この感性を知性として(つまり 言葉にして表わし認識して)その主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 共同主観として認められ この限りで 人間にとっての《善もしくは悪》が決まります。  人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。しかも 基本的なかたちで 《うそ・いつわりを言わない》が善であり《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。  《審美眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて 真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞と連れ立った)動きだと考えます。  実際には 真理は 想定上のなぞですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて問い求めているのではないだろうか。ひとの世界にウソがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その規範を超えてうつくしきものを見たいという美の渇きは必然的なことだと見ます。  けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか?  それは 生きた過程としてのその人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてなぞの美ないし真理〕を求めているかが違って来ます。審美眼は その人の生きた歴史によってあらたに形作られ その人の美学もその過程に沿ってあらたに作られていくと見ます。  一般的には かたちのととのったものをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  そして どう生きたかで善の損傷のあり方が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに――それをつうじて 善の損傷の癒しとして――美を感じるかが 千差万別になると思われます。かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  これが 理論です。理論どおりに行くかどうかの分かれ目を説明しています。簡単に言えば へその曲がり具合いによって その人の美学が そのつど おのれの姿(もしくは心)をあらわすかのように決まって来るものと考えます。  ~~~~~~~~~~~~

noname#143207
noname#143207
回答No.38

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 > その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。
  これは、愚生の文筆能力の欠如によるものでございました。従いまして、これは、愚生に非があろうかと思っております。申し訳ございませんでした。 > すなわち 次のご見解について 上のように捉え
 ☆ じつはこの論点については すでに述べたことがありました。
  ☆☆ (美の第一次把握と第二次把握) ~~~ 
   【Q:現代における審美の可能性】その回答No.6です。
   http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa6622229.html

  1. ふつうの人が鑑賞者として 作品を見る。=すなわち美の知覚行為。
  2. 作品の全体を見る。その知覚ないし得た視像をつうじて・その感性を超えて 認識にも到る。
  3. それは ことば・概念・観念をとおして認識するという意味でなら《イデア》と言ってもかまわない。
    * イデアとは ことばであり その概念内容であり ときに頭にこびりつくような観念であると考えます
  4. 個々の要素についての知覚もむろん得ている。また成るものならばそれらの認識も成る。
  5. これら知覚および認識の全体を 全体としての作品と照らし合わせて その美を推し測る。
  6. その審美の作業には 直感および直観なるヒラメキ〔が得られたならばそれら〕と概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解が過程されている。
  7. なぜならそれが 最初に(α)の命題として仮定している中身そのことだから。
   * (α)《ものごとに関する一般にことばをつうじての概念としての認識については その潜在的な能力を先験的にひとはそなえている》
   ~~~~~~
 ☆ これらほとんど全部が 第一次の把握だとしてよいと考えます。
 そのあと第二次が来ます。なかで (6)の《概念によって筋道立てて把握しようとして得られた論理的な理解》 ここから言わばそのことの練り直しにおいて 第二次の把握――分析・検証・認識の整理・そして推論 およびそこからさらに取捨選択をつうじておのれの意志決定をともなう判断を成す――が来ると考えます。
  はい。そもそも、(5)以下までにおきましては、”感性”とそれに対する”知覚・認識”を 厳密に区分することは実際上不可能かとも考えております。極論ではございますが、目の前に表象されるものが、「絵画である」という知覚すらも無ければ、楽しむことは不可能と考えられるからでございます。  なお、(6)以下でございますが、言語による作藩解釈等の論理的言語化は次にくるものと考えております。 
> さらにここで 注目しうるのは カントが美には《構成力》があると見ているところです。
  ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し(この意味では二次的でございます)、 
 ☆ まづこれまでのように見て来たからには この過程は 知覚につづく《第二次》ですが おそらく大きく第一次把握のうちの段階的な二つ目の作業だと見てよいのではないでしょうか?
  はい。愚生はあえて分離した形で示させていただきましたが、協調的・協同的に作動するものかと考えておりますし、カント自身もそのようにかんがえていたかと推察しております。 > ★ 多用な直観を統合する能力である「構成力」が”悟性”を喚起し
  ☆ というようにカントは すでにその美としての事象のうちに《多用な直観を統合する能力である「構成力」》を見て取っているようなのですね。黄金比だかどうなのかはよく分かりませんが 《構成力ないし その美の事象を構成する諸要素のかたち・いろ あるいはそれぞれの配置関係やら互いのに対照されあうといったそのあり方などなど》として 美はその事象じたいにおいて人の目にうったえる力をそなえていると見ていましょうか?
 たぶん 自然のものであれ人為的につくられたものであれ そこには一般に要素ごとの比率とそのつり合い具合いがあるということでしょうか?
  以下、愚見を述べさせていただきます。   このため、最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。 [フィボナッチ数(1202年)]
・フィボナッチ数は自然界の現象に数多く出現する。 ・花びらの数はフィボナッチ数であることが多い。 [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)] ・パルテノン神殿やピラミッドといった歴史的建造物、美術品の中に見出すことができる。 ・また、自然界にも現れ、植物の葉の並び方や巻き貝の中にも見付けることができるといった主張がある。 [音律] ・元来、その和声の美しさのより、音階が定められた。 ・現在は平均律を用いているが、これは、転調等のしやすさのためであり、バッハの時にはまだ存在していなかった。 
> さてこの一次二次の議論は そこに《イデア》の問題もからんでいます。かくして カントの言い分としては:
  ★ ~~~~
 そこで、カントは結局、この対立について、趣味判断は「一定の概念」には基づかないが、「不定の概念」には基づくのだという形で解消を試みました。そこで、この「不定の概念」を、「美的理念=美的イデア」のことだとしています。
 つまり、カントは、美を、「美的理念=美的イデア」の表現と捉えていたわけです。
 私たちが何かを美しいと感受しているときには、単なる科学的認識・対象認識以上の、「理念(イデア)」の表出に接し、私たちは快を感受するのだというわけです。
 いかがなものでしょうか。
 ~~~~~~
  ☆ そこですでに大胆(無謀)になって近道を通りますが 次のように考えますので 添削をお願いいたします。
  まず、カントは、趣味のアンチノミーにて、”反対命題”と致しまして、「”趣味判断は概念に基づくものである。”さもないと、他の人達が我々の判断に同意することを要求できなくなるからです。」と述べさせていただきました。そこでなのですが、この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。もし、そんな必要性等はない、とお考えでしたら、この反対命題は却下され、「正命題:”趣味判断は概念に基づくものでない。”のみが残ることとなります。  一方、なぜ、イデアといったものが出てきたのかを考えてみますと、もちろん、プラトンの影響もあろうかと推察できますが、「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。科学者でもあり、科学の進歩を期待したカントには衝撃的であった訳でございます。そして、カントは”経験”に頼らずとも認識可能なアプリオリなものの探求に力を注いでいくことになります。カントとヒュームは敵対者だった等言う方もおられますが、実際は、「カントにとってヒュームとは、むしろ、カントの思索を晩年にいたるまで背後からつき動かす原動力となった存在である」というのが正しと考えております。そこで、観念的なものに根源を求めっていたものと推察しております。なお、今日では、「カントはヒュームを打ち負かした」という説は疑問視されております。  上述の点を踏まえまして、以下ご返答致したく存じます。  字数制限のため、後述致しております。

bragelonne
質問者

お礼

 お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ > ☆その視像などを悟性で認識することまでは 含まれる。こう見るべきでした。  ☆ これは こうでした。  たとえば 絵画に魅了されているとき それを見ているという意識よりほかには意識はなく あとは意識と言えばわづかにうつくしいと思っている状態であるかと思います。でも このときも ひととおり絵が何を描いていて色や形がどうであるかなどをやはり悟性によっても捉えている。そのあと 一瞬は――おそらく快不快の感覚をも忘れて―― 美に浸る。  このイメージを持って 知覚だけだと書いてしまったものと思います。そういう間違いだったと思います。  ★ 極論ではございますが、目の前に表象されるものが、「絵画である」という知覚すらも無ければ、楽しむことは不可能と考えられるからでございます。  ★ 最も安定し美しい比率とされ、意図的に創作した芸術家も数多いことからも、何かしらのアプリオリな知覚作用なるものが作用しているのかもしれません。  ☆ この《構成力》は 比率と表象喚起作用ということでしょうか? 《多様な直観を――統合する前にも――呼び起こす》というように。  ★ [フィボナッチ数(1202年)]
/ [黄金比(フィボナッチ数よりも歴史はさらに遡ります)] / [音律]    ★ この「他の人達が我々の判断に同意することを要求」の必要性の有無が問題となってきます。  ☆ たぶん 美の体験について話し合うということでしょうね。うつくしいかそうでないか どこがよいかなどについて・ということは 共通感覚について 話し合うでしょうね。  そこには素朴なかたちですでに審美眼の問題も始まっているように思われます。  ただし 審美眼についてやら あるいは審美眼をどう人ははたらかせるのかやらを すでに一つの別の――第二次としての――主題として探究するのは むろんそれは美学であるということでしょうが 例によってふたつのあり方に分かれるのでしょうか? すなわち 人生のための芸術と 芸術のための芸術とに。  前者は 第一次の美の体験のために資すると思われる材料を・つまりは鑑賞のための補助資料を用意するということでしょうか。後者は むしろすでに美の事象から一たん離れて けっきょく思想を形成し述べていくものだというように思われます。美術評論は むしろ思想の問題であると。  こうは言いましたが では 音楽評論などは どういう位置づけになりましょうか?  ★ カントとヒュームは敵対者だったと言う方もおられますが、実際は、「カントにとってヒュームとは、むしろ、カントの思索を晩年にいたるまで背後からつき動かす原動力となった存在である」というのが正しいと考えております。そこで、観念的なものに根源を求めていったものと推察しております。  ☆ そういう事情でしたか。   しかし考えてみますと   ★ 「すべての認識は”経験と共に”始まり、それ以上のものではない」というヒュームの経験論に対する抵抗があったと考えております。  ☆ というとき 《経験と共に》認識が始まるのは 一般であるように思います。《それ以上のものではない》という見方が どうなのかということでしょうか? 概念・イデア・観念は 抽象されて来るけれども そしてその認識は別のあらたな経験の前にすでに蓄積されて来るけれども それだけの話だということでしょうか?  どうなんでしょう 《ことば(人は ことばを持ちそれで話し合う)》の問題でしょうか? つまりは この言語能力が 潜在的にしろ 経験に先立つゆえに その言葉としての概念を捉え用いるということでしょうから。  言語能力も 《〈経験と共に〉始まり それ以上のものではない》と言われれば もうそれまでのようですが。  次に移ります。

bragelonne
質問者

補足

 おぎないです。  ○ 芸術が死んだかのように 美の感じ方が さまよっているという現象。  についてさらに話を伸ばします。あるいは  ○ 構成力としての良さ。その配置されたかたちどうしの全体としての成り立ち。あるいは そこからさらに美や何か真なる求めるものの表象を喚起する力。――この美の力としての中身が まるでさ迷ったかのように ついに 一般に醜悪だと思われる(思われていた)ものにまで求められるようになった。その原因もしくは事情は どういうことか?  です。いささか抹香くさい話を交じえます。  ▼ (マタイによる福音 6:19-21) ~~~  19: 「あなたがたは地上に富を積んではならない。そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。  20: 富は、天に積みなさい。そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。  21: あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。」  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ イエスの言葉ですが ここから類型を取り出すようにして 次の命題としてまとめます。  § 美のありかは 人によって変わるか。 ~~~~~~  1. あなたが美と思うところに あなたの心もある。  2. 事実ないし現象を超えたところに美があると思うなら その――まぼろしとしてのような であってもその――主観真実のうちに あなたの心とそれが思う美がある。(超越論的主観性に 美なら美がある)。  3. 事実ないし現象の中に美があると思うなら その現象のうちにあなたの美とともに心もある。この場合は 《本質直観》は もうどうでもよいと見做されたことを意味する。  4. おそらくこの(3)なる心的現象は おのれが良しとして問い求めた宝を得ることが出来ず その意志行為の挫折をつうじて この現象世界に心が引きとどめられたような結果である。  5. ただし そうは言うものの じつはこの現象世界ないし《生活世界》にこそ (2)で問い求めたその意味での宝があるのだし 心もあるという見方も ひるがえって 提出されている。(煩悩即菩提。娑婆即浄土)。  6. さすれば いかに吾人は考えるのがよいであろうか?  7. たとえば 次のように命題を書き直したら どうか?           《あなたの宝(また美)があるところに わたしはいる。》      とイエスは言う。  8. イエスとは 道であり生命であり真理である。  9. そうなれば もし仮りに醜悪なものに美を感じるとすれば そこにナゾの無根拠であるキリスト・イエスがいるというからには そのものをやはり醜悪だと――エポケー作業をしつつ・白紙において――人は見止めることが出来る。(既成概念や先入見にまどわされず ものに到り もののあはれを知るに至る)。  10. これもそれも やはり 主観内の体験に属する。そして もし人びとに共通感覚があるとすれば このそれぞれの美についての主観体験は 互いに交じわることをとおして互いに練り直されて行く。現象学的・超越論的反省が行なわれる。  11. この単純な推理とその薄い根拠にもとづき こう言えまいか?     うつくしさは 人によって違い移り変わりゆくが その対象が    大きく美と醜に二分されたとしても どちらの場合にも その知    覚や認識がたどり着いた先(つまり 対象)において わが志向    性が底に打ち当たったかのように人は 跳ね返され エポケーさ    れ 心は白紙に還元され わが《主観の中の主観》に立ち帰るこ    ととなる。  ~~~~~~~~~~~~~  《わたしがわたしであること》。    《最もわたくしなるものは おほやけに通じる》か?  つねにあやまち得るスサノヲ人間語は そのむしろ自己の中心なるところで アマテラス科学語およびアマテラス人格語に通底してゆくか?  アマテラス普遍性は 真善美につながっていると見てよいか?      エポケーについて 白紙還元という説明は あまりしないのでしょうか?  タブラ・ラサという言い回しも あるようですが。

noname#143207
noname#143207
回答No.37

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきまして、どうもありがとうございました。 


> ★ 生活世界
   ☆ わたしなどは 横着ですから この概念が ふつうに言う生活の場のことだと知って ひと安心です。
 フッサールの奮闘努力もなんのその 結論を得て その地点に立ちます。
  概念上のものも大切ではございますが、”生”と向き合った哲学も、もっと活発になってもらいたいと願っております。 
> ★ 「地球における熱収支の哲学的考察」
  ☆ 《自然変動》による影響は もうすでに観測されてきているということでしょうか?  炭酸ガスの影響による温度上昇は ICPP などの示すような急速なものには成っていないと。
  でしたら でっち上げに近い資料操作のうたがいがかけられ 温暖化阻止への動きは その何割の部分においてか分かりませんが けっきょく陰謀のような動きによって影響を受けたとなるのでしょうか?
   まず、温暖化問題を外させていただきますが、そもそも数式を用いたシミュレーションなるものが、嘘っぱちであったというものと考えております。つまり、温暖化が大前提のまま、それに合致するように作成されてしまった可能性があろうかと推察しております。実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・  そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。    最後まで、お読みいただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 つづくご回答をありがとうございます。  ★ 実際問題と致しまして、数式による予言は不可能と思っております。もちろん、誤差範囲を±5℃等にしてしまえば、当たるかもしれせんが・・・  ☆ そういう問題でしたか。《誤差範囲を±5℃等にしてしまえば》 予測とは言わないということですね。  ★ そもそも、温暖化論は、欧州におきましては、排出権取引のような投機と関わりが持たれています。日本は、 おそらくこの温暖化論を用いて、新たな産業開発、もしくはプチ・バブルを作りたいものと考えております(あくまで愚見でございますが)。  ☆ あらためて留意してまいります。  さてフッサールについてしばらく放ったらかしにしていました。  原文を翻訳で読んでみたいと思います。  ▼ (世界の構成) ~~~~  1. (最も広い意味での しかし純粋に生活世界的な意味での)世界の意識と事物ないし客観の意識とは一面において不可分な統一をなしていながら しかも両者の意識の仕方には根本的な相違がある。   ☆(ぶらじゅろんぬ) ふむふむ。世界と事物ないし客観との比較ですか。同じようなものに映ります。事物は事象としてその全体が 世界であるように見えますし それらについての客観ということになりましょうし。  2. 諸事物ないし諸客観(常に純粋に生活世界的な意味に理解されたこれら)は われわれにとってそのつど(何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして《与えられている》のであり しかもそれらは原理的に 世界地平のうちにある諸事物 諸客観としてのみ意識されているのである。   ☆ 特に何かが言われたという感覚が起きない。   ▼ 《与えられている》   ☆ これは 受動性を言うのだろうか? すなわち 能動性は その所与のものごと〔の意識〕にもとづき そのあとまさに生活として一歩を踏み出すというかたちなのだろうか?   ▼ (何らかの様態の存在の確実性において)妥当するものとして   ☆ この表現がよく分からない。明証性があるものとして という意味だろうか?   ▼ 世界地平   ☆ これも分かるようで 必ずしもはっきりしない。《わが視野》といった意味だろうか? だがそれだと視覚に限られてしまう。心の・概念世界の視野もふくめればよいのだろうか?  3. それぞれの事物は何ものかであり しかも常に地平としてわれわれに意識されている世界《に属する何ものか》なのである。   ☆ そりゃあそうだろうと反応してはいけないのだろうと思われる。が・・・。  4. 他方この地平もまた存在する諸客観に対する地平としてのみ意識されているのであり 従って特別に意識されている諸客観がなければ 地平もまた顕在的には存在しえない。(『危機』H.VI,146)   ☆ 《事物の意識》は すでに早いうちから 《客観の意識・客観としての意識》であるのだろうか? つまりむろん この客観は 主観のうちにおさめられているのだと思われるのだが よく分からない。  ▼ (同主題) ~~~~  5. 意識は これを純粋に考察すれば それ自身に完結した存在関連 すなわち何ものの侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連であると見做さなければならない。(・・・)   ☆ 必要がないと思うのだけれど。   (あ) 《純粋》の度合いが 定まるとも思えない。   (い) 《意識自身に完結した存在関連》・・・何とも奇妙なもののように感じる。   (う) すなわち《何者の侵入も また何ものの逸脱も許さぬ絶対的存在の関連》・・・同じく分からない。侵入や逸脱を許しても もし存在の核としての《わたし》――その意識――であるならば ほぼ絶対的な存在の動態であるように推し測られるというのに。  6.他方 人間や人間としての自我を従属的な個別的実在者(レアリテーテン)として包含する空間‐時間的世界の全体は それ自身の意味からみて 単なる志向的存在であり 従って《意識に対しての存在》という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない。(『イデーン』H.III,117)   ☆ 《世界》が 《〈意識に対しての存在〉という単に二次的な相対的意味をもつにすぎない》とは どういうことか? 《それ自身の意味からみて》なら むしろ志向性なる意味関係として 一次も二次もないと思われるのだが。  主観が 第一次ないし基本だというとしても だから世界は二次だというのだろうか? そんなことを言っても どうなるものでもないように思われるのだが。  ▼ (〃) ~~~~  7. しかし世界はやはりわれわれ全員の世界であり その固有の意味での客観的世界としての世界は 単に私に対してだけではなく 誰に対しても《常に真に存在する世界》という範疇的形式を備えているのである。〔・・・〕   ☆ こうなると 主観は その基本的要素としての《わたし》において 互いに共通である(あるいは 通底している)ということになる。のではないか?  8. 構成的な経験としての世界の経験というのは ただ単に私の全く個人的な経験のことではなく 共同体的経験 Gemeinschaftserfahrung のことであり 世界それ自身は意味的には 《原理的にわれわれの経験を〈交換〉することによって すなわちわれわれの経験を共同化することによって それについての相互理解を獲得できるような同一の世界》である。   ☆ 主観の共同化 共同主観であるにほかならない。ではないか? これは 感性の次元における共通感覚を基礎とすると言ってよいと思われる。  ただし 主観の共同化は なかなかむつかしいはず。ひとつには おそらく時代や地域による制約が まだまだ まだまだまだまだ 大きくのしかかる。  ひとつには 共同化を果たす前に そもそも人びとの意思疎通が成り立つと言えるのかの問題がある。  ひとつに 意志疎通が成ったとすれば 確かにそのあと細かいところまでを共通の認識および判断形式としなくてもよいかも知れない。  ひとつに それにしても まだまだ いわゆるふるい共同観念ないし共同幻想が あたかも観念の共有として共同主観と同じであるかのごとく錯覚する壁がある。  共同観念とは 地縁および血縁によって仲間となるそのかたちを言う。早く言えば ナショナリズムである。《何々人》あるいは《どこどこの人》を 言わば《生活世界の客観》と見做しそれを言わば人びとのきづなとするかたちである。この共同化に従うならば けっきょく一人ひとりの主観が生かされるのではなく 主観は 誰か一人(あるいは上層の人びと)の主観糾合とその空気によって どこかへみちびかれる。ことになる。  9. 《客観的》な証明とはまさに相互の賛同と批判によって成り立つものだからである。(『論理学』FTL.209)   ☆ 共同観念の壁を突き破り 互いに主観を共同化してゆかねばならない。それは 一人ひとりの主観を大事にするという意味での民主制において つねにどこまでもつづく道のりだと考えられる。  ~~~~~~~~~~~~~  

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    現象学という言葉をカントの同時代のランベルトが言い始めたことは中島義道がすでに言っていますが、その現象学というのをヘーゲルが用い、フッサールが用いたからといって、どちらの現象学も同じでないのは、蝦夷富士や伯耆富士があるからといって同じ富士山といえないのと同じ、またカント哲学とヘーゲル哲学といって、同じ哲学と称するから同じではないように、同じ現象学でないのは、いわば当然で、質問するまでもありません。 ヘーゲルにとって現象学とは、意識の経験の学、とみずから言っているように精神が自覚的に感覚できる個別的なものから、その対立を克服して概念の階段を上昇し、最後に絶対知に至り、その絶対知にすべてを包括し、世界を絶対精神の発出として理解するもの。 これは古代ギリシャのプラトンの「実在論・リアリズム」の近代の復刻版であり、プラトンは天に永遠の「イデア」があり、それこそが真の実在であり、地上の諸々の存在、個物は真の実在ではなく、仮象だと言いましたが、ヘーゲルにとって個物だとか個人は実在ではなく抽象的なものであり、真の実在であり、具体的なものといったら、全体的なもの、精神でした。 ヘーゲルは言います、 「理性的なものこそ現実的なものであり、現実的なものは理性的なものである」と。 つまり概念こそが真の実在であり、現実的なものであり、感覚されるものは仮象であり、抽象的なものであるということ。 こうしてヘーゲルは私たちのいう具体的なものと抽象的なものの関係をひっくり返しました。 ヘーゲルにとって個人よりも国家の方が実在で、個人はその国家のための、国家を導くための否定的媒介に過ぎない。 これがヘーゲルのいう現象学です。 それに対してフッサールは意識を自然的意識と現象学的意識に分け、現象学をやるためにはその自然的意識を棚上げにして現象学的意識に転換しなければならないという。 それが「現象学的還元」で、現象学は外的世界の存在に「カッコ」を施し、それが存在するという判断を停止します。 つまり、外的世界が存在するという私たちの信念を「宙づり」にします。 もしかしたら外的世界なんて存在しないかもしれない。 また、同じく「現象学的還元」で、私の存在についても「カッコ」を施します。 もしかしたら、私なんて存在しないかもしれない。 フッサールはデカルトと同じように普遍的懐疑で、世界の存在、そして私の存在に対する私たちの信念を停止します。 これをフッサールは「中和性変様」といっています。 何を中和するかといえば、私たちの世界が存在する、という信念、また私が私が存在するという信念、それをプラスの信念とすれば、それにマイナスの信念を対抗させて、中和することです。 マイナスの信念というのは世界が存在しない、私が存在しないという信念。 こうして、フッサールに言わせれば、純粋意識が最後に残るという。 これはデカルトの「コギト」です。 意識といっても、普通の意識ではなく、いわば作用だけの意識。 そしてフッサールに言わせれば意識の本質は「志向性」にあり、意識は何ものかの意識であると言われる。 現象学とは、この純粋意識の「志向性」によって、世界を再構成しようというもののこと。 ヘーゲルにとって意識とは自然的意識でしたが、フッサールにとって同じ意識という言葉でも、中身がまったく異なり、現象学的還元を経た現象学的な意識でした。 ヘーゲルにとって意識とは人間が有するものでしたが、フッサールにとって、人間以前にあるもの、むしろ人間はその意識によって構成されるものでした。 ヘーゲルにとって現象とはカントと同じ意味で、時間・空間の中にある物の現象であり、現われでしたが、フッサールにとって現象とは物に限らず、霊でも魂でも、神でもいい、単に私の意識に現われるものならば、時間空間の中にあっても無くてもいい、すべてを含みました。 ヘーゲルにとって精神を除くものが意識の対象である現象で、精神そのものは現象ではありませんでしたが、フッサールにとっては精神だろうと神だろうと、私の意識に与えられるもの、現われるものはすべて現象でした。 ヘーゲルは世界と私の存在を疑いませんでしたが、フッサールはデカルトと同じようにすべてを疑いました。 「コギト」という、世界がそこから開けてくる視点の存在しか認めませんでした。 ところが初期のフッサールは純粋意識による世界の構成ということを唱えていましたが、後期になると、その初期のデカルトの道を放棄するようになります。 例えばゲシュタルト心理学で、地と図ということが言われますが、大きな地図があったとして意識というのはその地図の小さな点でしかないのを知り、地図というもっと広大な世界があることを発見しました。 つまり意識は氷山のほんの一角に過ぎない、その下には意識されたない広大な世界があることに気が付いたのです。 それをフッサールは「生活世界」といいました。 私たちは意識的に世界を構成する前に、その広大な「生活世界」があり、それを受動的に受容し、その上で、自発的に考えたり、行動しているのに気が付いたのです。 この世界の存在に気が付いたこと、このことは古代ギリシャ以来、中世を経て忘れ去られていたコスモスとしての世界を2500年ぶりに再発見したことを意味します。 フッサールの現象学の最大の功績は、世界の存在、「生活世界」が私たちの人生の根底にあって、私たちがそれに生かされていることを発見したことにあります。 フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の付録として付け加えられた「幾何学の起源」において、17世紀の科学革命のガリレオによって数学的自然科学が創始されて以来、世界は数学の「理念の衣」によって、おおわれてしまい、人生を、物事を数学によって考えるようになり、その人生の基盤にある「生活世界」が見えなくなってしまったと言います。 フッサールに言わせれば、ガリレオは発見の天才かもしれないが、同時に隠蔽の天才でもある、といいます。 こうしてフッサールの現象学は最終的に私たちの目から見えなくなってしまった「生活世界」を現象学によって再発見し、存在の、生の、生き生きとした活力を再び取り戻すことに目標が、テロスが据えられました。 フッサールはデカルトからカントを経て、ヘーゲルまでの近代哲学の自我中心・意識中心・主体性を中心とする世界観を転換し、戦後フランスのポスト・モダンとハイデガーの存在論にいたる道を切り開いた哲学者だということができます。 どうですか、同じ現象学でも、フッサールのいう現象学と、ヘーゲルのいう現象学が、月とすっぽんのように違うのが分かると思います。 皆さんの感想と忌憚のない批判を募ります。

  • 現象学と最後の観察など

    お世話になります。 現象学について、いま一つ理解できません、質問も整理が出来ないようです。 個々に感じる疑問を羅列してみますが、誤解している点を指摘していただけると幸いです。 1)現象学は、感覚が絶対的なものではなく、したがって、認識を放棄して、現象を本質直観により現象学的還元を行い、人間にとっての有用性を、考察することとすると、 これは、遠回りして、物質と表象を分ける以前の、素朴な直観に、戻ったことになるのでしょうか。 2)個別諸科学も、最後の観察によって(コンピュータで解読された数値を読み、二重螺旋を顕微鏡・あるいは模型で確認する)その絶対性に、疑問が表れます、経験によらない知覚が無い以上、フッサールの言う「生活世界」の境界が、どのような意味を持つのか、理解できません。 3)我々の知覚が相対的で、生きるために与えられた器官だと言う事は、理解できるのですが、それでも私は尋ねてみたいものです「光は有るのかと」 不出来の質問で、ご迷惑をおかけしますが、宜しくお願いします。

  • フッサールは《純粋意識》に もののあはれを知ったか

     《あは!》という思いを感じるときに到るキッカケを フッサールというドイツ人は 《エポケー》と称しました。わたしは 判断中断と訳すとよいと思います。  ▲ (ヰキぺ:エポケー) ~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9D%E3%82%B1%E3%83%BC  エポケー(古代ギリシア語: ἐποχή  epokhế)は、原義において「停止、中止、中断」を意味し、哲学においてこの語はいくつもの意味をもっている。  ▲ フッサールおよび現象学においては、  エポケーは 世界の自然命題を「カッコに入れる」ことを意味する。  すなわち世界の外的現実についての信念をカッコに入れるのである。  ただしこれは世界の実在を疑うという意味ではまったくない。世界の現象を起こるに任せ、純粋な現れとし、そこで現れているものの実在についてはもはや断言しないということである。  世界の中で生きられたものが意味している一切を捨象し、生きられたものをそのものとして研究するという点において、エポケーは意識の普遍的構造を考えるための第一歩なのである(フッサールによれば、エポケーの次の段階が「現象学的還元」である)。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 分かったような分からないような感じですが ひとつにギリシャ語を引っ張り出して来ているので 古代人に関係あるかも分かりません。  もうひとつに 基本的なこととして このエポケーのあとに得られる結果が 《もののあはれ》だということだと解釈します。  これをフッサールとしては 《純粋意識( reines Bewußtsein )》が得られると言っているようです。  ▲ (ヰキぺ:現象) ~~~~~~   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8F%BE%E8%B1%A1  フッサールは、  哲学や諸々の学問に確実な基礎を与えることをもくろみ、  意識に直接的に現れている現象を直観し、その本質を記述する方法を追及した。  そのために彼は、外界の実在性について判断を中止し(=エポケー)、それでもそのあとに残る純粋意識を分析し記述する、という方法を採用した。  この場合、フッサールは現象について、本体などの背後にあるものとの相関については想定しない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あるいは 《本質直観 / 本質観取 / 本質看取 ( Wesensschau )》と言うのだそうです。  《もののあはれを知る》のほうが 理屈づけではなく全人的であると思われ その点 推奨されます。  《 Wesensschau 》は英語では Being's show と言っているのですから さしづめ《もののあらはれ》でしょうか。日本語とは 一字違いですね。  フッサールのほうは――わたし自身もおそるおそる言っているところがありますが―― 純粋意識を得て ようやく《生活世界( Lebenswelt )》に戻って来るという恰好にもなっているようです。くわしくは たとえば次のサイトをご覧ください。  ▼ (フッサールの方法とその諸問題)   http://mrmts.com/jp/docs/husserl.html  この現実に帰って来たときにも・そしてエポケーの状態であはれを感じたそのときにも 《おそれ》をひとは覚えるのでしょうね。《きよらかなおそれ》。  しかもこれは ものごころが着く前の幼児のときの《聖なるあまえ》と同じ筋の状態だと確認できるのではないでしょうか。  おそらくこのことを 《ハカラヒ》を《義》と言いかえて 親鸞は 《義無きをもって義とす》と言った。  一般にヨーロッパ人は ものごとを分析しすぎます。要素に還元しようとします。もっと全体論として捉える視点をも推し進めるのがよいと思われます。それには 日本人は――《ふつうの人》が――生活としてすでに実践している現実があるはずなのであり その生活の歴史の中からさらに哲学のあたらしい展開のために 見直すのがよい。歴史を洗い直すのがよいと考えます。  俳句や短歌は それだけでは 文学としてもまだ練れていないと考えますが その生活感覚の中に 哲学の鍵語が得られるかも分かりません。  当否を問います。

  • 本質の意味についてご教示お願いいたします。

     本質という言葉の意味がいまいちよくわかりません。 辞書を引くと以下のような解説が出てきました。  (1)あるものをそのものとして成り立たせているそれ独自の性質    (2)変化常ない現象的存在に対し、その背後または内奥に潜む恒常的  な   もの。  (3)実在に対する語として、なんらかのものが現に存在しているとい  う事実から離れて、そのものが「何」であるかという定義によって   いわれているもの。     あまりにも抽象的すぎてわかりません。    (1)~(3)までの本質の意味を具体例を交えてご教示いただけまし   たら幸いです。     又、僕なりに(1)と(3)の意味を考えて、具体例を交えて書くの    で、    それが正しいかそうでないかの判断もお願いします。     (1)は、ある物事の定義されている性質の事でしょうか?哲学    の本質を言うならば、「前提や問題点の明確化、概念の厳密     化、命題間の関係の整理などの理性的な思考を通じて、様々な    主題について論じて研究を進める学問」がその本質なのでしょ    うか?(WIKIPEDIAを元にして本質を定義しました。     (3)は、例えば1+1はいくつか?という問題があったとした    らその問題の本質は「足し算」。    

  • 電気の本質を理解したいのです

    私、一応機械工学を修めたエンジニアです。 電気の電流や電圧は現象を説明する上で便利な「概念」と理解しています。 さて、電気を使って何らかの仕事をさせたとします。このとき消費されたエネルギーの正体はなんなのでしょう。電子が消費されたわけではない、負荷の前後で電流値は変わらない。電圧が消費されるわけでもない。電子が持っている何が消費されるの? (水力機械にたとえた説明は本質なの?)

  • 「現象」ってなんでしょうか?

    最近、ふとした事で認識学とか科学哲学としての「現象」という言葉を聞きました。 面白いな、と思って調べてみようと思ったのですが現象学という本は見つかっても 「現象」そのものについての本は見つからず現象学というのが「現象」についての 学問なのかも良く分かりません。 (人にとって)見えるもの、つまり(外面的な)<<現れ>>のこと。出来事を、それが存在するかどうか、本当かどうか、といった、その見える<<現れ>>の背後にあるものは問題にせずに、その観察された<<現れ>>として扱うとき、それを「現象」と呼ぶ。対義語は本質。(ウィキペディア2012/02/02) 私は特に上記のようなものがすごく面白いと思うのですが、人に説明をするほど理解することが出来ません。 もし良ければ分かりやすく教えていただけないでしょうか?

  • 物事の本質を“ズバッと”言い当てている本

    23歳女です。物事の本質を言い得ている本を探しています。 以前人間関係を見直そうと思い、 カーネギーの「人を動かす」を読みました。 なんというか…深さ、潔さを感じさせる内容で 言葉がスーッと心に染み入るような感覚がありました。 そして読後とても爽快な気分になりました。 以来実用書を選ぶ時には、 本質を突いているかどうか?という点を意識するようにしています。 ちなみに最近気になっている本は ・藤原 正彦 「国家の品格」 ・M・バフェット「億万長者をめざすバフェットの銘柄選択術 」 ・ボブ・ディラン「ボブ・ディラン自伝」 です。 ジャンルは問いません。 “ホンモノ”な本を教えてください。

  • 宗教の本質

    宗教の本質 哲学について考えるとき必ず付いてまわる宗教とは何か「宗教の本質」について考えた結果、以下の結論に至りました。 1.宗教の発生時期   宗教は人類の誕生とともに自然発生的に生まれました。   どのような原始社会においても宗教は発生しています。   宗教の生まれていない地域、社会は皆無といってよい。 2.宗教の種類と数   宗教は全世界に溢れています。   その数は分類のしかたにより数千とも数万とも数百万ともいわれています。   また宗教は人の数だけ存在するという人も多数います。 3.宗教を構成するもの   宗教は神、天国、地獄の3つの概念により構成されます。   この3つの概念を備えない宗教は存在しません。 4.宗教の宇宙観   全ての宗教は有限宇宙観に支配されるものです。   すなわち宇宙はある一時期をもって開始し、その広がりは有限であると。 5.宗教を動かすもの   宗教は心地良いものです。   修行と名のつく様々な宗教的所業も結局心地良さの追求です。   酒を飲むと心地よくなるのと同様の現象です。   もちろん酔いが醒めると辛いものが待ち受けておりますが、宗教も同様であることに説明の必要はありません。 6.宗教の目的   宗教はもともとは人間社会の統治の道具として生まれました。   これは古代エジプト王国などをみればよく分かることです。   大勢の奴隷を効率よく統治管理するための道具として有効利用されたのです。   この状況は根っこの部分においては現在でも全く変わっていないと言ってよいでしょう。   国が宗教を擁護するのもこのためです。 7.宗教の未来   統治の道具としての宗教の力は既に失われています。   これは近代科学、近代文明が発達した結果としての自然の成り行きなのです。   それと同時に宗教を支配した神、天国、地獄の3概念もそのイメージが次第に弱まってきました。   つまり宗教の役目は失われつつあり、既に宗教の時代は終わったといってよいでしょう。 8.宗教の次にくるもの   それは真理の探究であり、思想と哲学の時代です。 御意見ください  

  • 本質直観について

    こんにちは。 現象学の本質直観について、 具体的なやり方が 詳しく載っている本があったら教えてください。

  • 哲学。結局、「他者」とはどのように理解できますか?

    社会学系の大学院で課題のレポートを書いています。 講義でフッサールの現象学においては、「世界」は意識の志向性とそれに応じた現われである、ということを学びました。その場合、物質的なものに対してはなんとなく理解は可能な気もしますが、他者(他我)についてはどのように理解すればよいのでしょうか?なぜ、他者と概念的な共有可能で関係性の構築が可能となるのでしょうか?(言語の意味はなぜ他者と共有可能(のように感じる)のでしょうか?  いろいろ見てみたのですが、議論が膨大すぎてどこから手を付けていいかわかりません。もし詳しい方がいらっしゃいましたら、フッサールの時代から現代にいたるまでどのような議論がなされてきたのか簡単な流れについて教えていただければ幸いです。(記号論?等についても)